MAD STUDIES

中山英之が語る「個人の時代」が生み出すこれからのまちづくり

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風景の連動性 / 現象の因果関係

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もう一つ大事なのは、現象に因果関係が感じられることです。例えば僕は渋谷区に住んでいますが、朝、顔を洗った時に、多摩川水系の奥の方にあるダムの水がひとすくい減った、なんて思いませんよね。そこには風景の連動性がない。最近のニュースで、東京オリンピックのトライアスロンを港湾でやる時に、水が臭くてやってられないという話がありましたよね。

僕は10年くらいずっと、神田川、日本橋川、隅田川を船で回るツアーに年に一回乗っているのですが、実感として水はどんどん綺麗になっていたんです。それが先日、たまたま大雨の直後に乗って目を覆いました。東京の水を浄化する機能はどんどん上がってきているんですが、最近は気候変動でゲリラ豪雨のような現象が多発しているので、単位時間あたりに降る雨量が極端に増えています。すると下水施設の処理能力を一時的に超えてしまって、住居への逆流を防ぐために未処理のまま下水を河川放流せざるを得ない事態が頻発してるんです。

なぜそうなるかというと、それらの川を流れる水のほとんどが、東京の自然な水系とは別の場所から運ばれたものだからです。それが私たちの生活する建築を通って、下水道を伝って浄水場で処理されて、最終的に放流されたのが東京の都市河川の現実です。けれども、家でシャワーを浴びているその水が、巡り巡って神田川を流れているなんて、とても実感できませんよね。

もちろん何もしていないわけではありません。東京の地下には、ゲリラ豪雨のピークカットのために、巨大な神殿みたいな放水路が多く作られています。地下の伽藍堂ですね。でも、その存在は誰にも見えない。大雨のあと、まさか地下でそんな水のスペクタクルが展開されているなんて、見ることも想像することもできない。現象の因果関係を頭の中でイメージできないんです。ゲリラ豪雨だったからしばらくシャワーやめとこう、なんて、なかなか思えませんよね。でも、それだけで東京の川は本当は綺麗になります。

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風景に連動性を感じるって、生きていることの素晴らしさやおもしろさを実感することでもある思うのですが、残念ながらその連動性を感じられるようには、都市はデザインされていません。でも、「煙突都市」では発電をがんばっていると森から風が吹いてくる(笑)。関係が実感できるんです。

風が吹いていれば、今晩はちょっと夜更かしできるかなとか、あるいはしばらく風が吹いてない時期が続けば、朝日といっしょに早起きしよう、なんていう、たぶんなんとなく晴耕雨読的な生活に、この都市はきっとなっていく。それはけっこうたのしいことじゃないか、と。

現状、こういった現象の因果関係を実感できる機会は、悲しいかな災害の時ですよね。災害があってはじめて、「ああ、電気や水はあそこから来ていたんだ」って、やっと実感する。でも、そんな時に「風景の連動性を楽しむ」なんて気持ちには、とってもなれませんよね。でも、実はその連動性を僕たちはもっと楽しんでいいし、それはデザインできるものなのではないかという気がしているんです。

夜でも昼みたいな生活ができるようになるというのが20世紀的なテクノロジーと環境の発展なんだとしたら、21世紀の未来像は、もしかするとシーザーのような人が現れて、意外と太陽の運行なんかと共に生活がリズムを刻んでいくというちょっとクラシカルな価値観の上に、僕たちの大好きなネットワークやテクノロジーがレイヤーしたような環境が、しかもクラウドファンディングみたいな、どこかギリシャ時代の直接民主制っぽいシステムで叶えられていく。それは要するに「個人の夢が動かす世界の時代」ということです。一人の人間が何をか思うことほど大きなことはない、というのが、もう一度問われている時代なのかもしれません。

「実物」とイメージ / ライフサイズとスケールサイズ

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なんだか怪しいユートピア思想みたいになってきちゃったので、ここからは開き直っていっそ宇宙の話です。僕は美大で建築を勉強して、今は東京藝大で教えてもいるんですが、最大のイベントは何と言っても毎年の卒業制作展です。でも、建築コーナーって正直、あんまり人気がないんですよ。学生時代に忘れもしない、会場を横切った彫刻科の学生が「建築コーナーには実物がないからなあ」って言うのが聞こえちゃったんです。まあ、言っていることは分かります。彫刻や絵画のことを「実物」と言っていて、つまり模型や図面は「実物ではない」。でも、なんかこうムカ〜ッとして、以来これにどうすれば反論できるかが僕の隠れたテーマです(笑)。

ひとつ考えてみた反論はこうです。例えばここに、A3の紙に書かれたちいさな二つの丸があります。これはなんでしょう? 「実物」という意味ではこれは丸が書かれた紙ですね。でも、建築家は特別な魔法を知っている。紙の片隅に10億分の1って書くんです。するとただの白い紙に10億倍の宇宙がひろがって、二つの丸は地球と月になる。すごくないですか? 縮尺という魔法の数字を書くだけで、誰でも紙の上に地球と月の関係を描くことができるなんて。言うまでもなく地球と月の実物を美術館に展示することはできませんよね(笑)。でも、建築家はその紙の上に、まだ誰も見たことがない構想を描き込むことだってできるんです。

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もっと単純な例で考えてみます。金環日蝕って神秘的ですよね。「実物」っていう意味では、空にある光のリングがそれです。でも、僕らの頭の中には、音のない広大な空間に大きさの違う3つの球体がちゃんと浮かんでいます。太陽と月の大きさの比が距離の比の逆数になっている、っていう、神様のいたずらのような偶然によって、今ここに光のリングが見えている。そのことを知識として知っている頭の中では、私たちはその中の球のひとつに立っていることを確かに感じています。

なぜか。それは、小さい頃から繰り返し天体図や天体模型を見ているからです。

僕らの生は、金環日蝕という「実物」の宇宙と、頭の中にある知識の宇宙、その両方を同時に生きています。あの学生たちは前者だけを作品と呼んだわけですが、図面や模型や、縮尺の世界を考え、描くことで頭の中に広がる空間に、現実世界が重なる。それが私たちの「体験」を作っているのだと思うのです。

だから、どちらかというと建築家というのは、縮尺や図の世界を通じて頭の中に働きかけることで、「実物」の世界の見え方を変える仕事をしている、ということもできるかもしれません。「ライフサイズ」と「スケールサイズ」。実物大と縮尺の世界ですね。僕たちの創造性は、このふたつを行き来する場所はあるんだよ、と、あの時悔しく思った自分にそっと耳打ちしに行きたいですね(笑)。

「草原の大きな扉」

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中山:今「サイズ」についての話をしましたが、実は自然界には、基本的に大きさという概念はありません。「大きさ」って、私たち人間が作るものなんですよ。釣った魚の大きさって、タバコの箱とかを隣に置かないと自慢できませんよね。あるいは北海道に行くと、見渡す限り人工物が何もない場所ってあります。そうすると、距離感やスケールをうまくつかめません。道路やサイロなんかがあって初めて、ああ、あの丘はあれくらいの遠さにあるのか、と分かる。「大きさ」という感覚って、実はそんなふうに、僕ら人間が作るものが決めているんです。建築は、人が作るものでもかなり大きい部類のものです。だから裏を返すと、建築の仕事は、風景の中に「大きさ」を決める物差しを置いてしまうことでもあるんです。これはおもしろくも罪深いことだと思う。惧れを感じます。

そんなことを深く考えたのは、北海道でとある設計コンペに参加した時です。帯広の郊外にある有名なお菓子屋さんの工場の裏手に、広大な自然を上手に手入れした森と草原がありました。春から夏にかけて、天気の良い日にはピクニックでにぎわう。その場所に、ちょっとしたランチを出せるようなティーハウスを設計せよ、という実施を前提としたコンペでした。

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今は本当に少なくなってしまった、まだこれといった実作のない設計者でも応募できるオープンなコンペで、僕も張り切って挑んだのですが、案を考え始めてすぐに行き詰ってしまった。そもそもピクニックって、建築家はいりません。たとえば大事なガールフレンドや家族を連れて草原に出掛けたら、誰だって真剣に、それこそ建築家のように環境を観察して、ここぞと言う場所にピクニックシートを敷きますよね。ここが最高と思った場所に先客がいたら、今度は彼らとの間合いを測って、っていうふうに、誰が指示するわけでもなく、だんだんと風景ができあがっていきます。ひとりひとりが「ここが最高」って思っているその風景って、たぶん素晴らしい。

そこに建築家が現れて「カフェをつくってさしあげました」と言うと、何が起こるか。「トイレはどこですか」とか「ゴミ箱はどこですか」とか、ついさっきまで建築家のようだった彼氏やお父さんが、急にただのお客さんになってしまうんです。僕はそんな役いやです。それで、悩みに悩んだ挙句に作った案が「草原の大きな扉」でした。

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よく考えてみると、雨や風の日には、そもそも誰もピクニックには来ませんよね。それで、屋根のある客席のあるティーハウスを設計するのはやめてしまうことにしました。しかも二つに別れていて、それらが草原の端と端にうんと離れて建っている。片側のノッポの方はキオスクのような売店で、手ぶらで来た人もお弁当などを買えます。もう一つのずんぐりした方は、ピクニックシートやガーデンファニチャーを収納する納屋。両方とも、中で何かをするというものではありません。そして、開けると建物全体を隠してしまうくらい大きな扉がついています。

天気のいい日に訪れると、空間にぽっかりと空いた四角い扉に挟まれた、空の下のリビングルームのような風景がある、という案です。リビングの配置は、ピクニックに訪れた人々によって、毎回変わります。

パース

さっき魚とタバコの箱の話をしましたが、もしもミニチュアの箱を作って魚の横に置いたら、ズルできますよね。ここではその逆をやりました。普通の部屋にあるようなドアを、うんと拡大して置いた。人工物が何もない風景に、嘘の物差しを置いたんです。そうすると、毎日平面図が描き替えられる、かわいらしいリビングルームのような場所が、北海道の広大な風景の中に生まれる。そういう提案をしました。

俯瞰

なんだかずいぶん長く話してしまいましたね。唯一話した自分の建築も、「誰かが毎日描き換える」なんて説明で、これで終わっていいのか分かりませんが、お付き合い頂きありがとうございます。

質疑応答|カーシェアの意外な使われ方から見る「おしゃれな視点」

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様々な視点から展開される中山さんのトークが終わると、質疑応答の時間に。地域の事業者やクリエイター、松戸市職員などの参加者に感想や質問をいただき、中山さんが丁寧にそれに答えていく。

会場:「おしゃれな街」がひとつキーワードになっているんですが、中山さんにとって「おしゃれ」ってどういった概念でしょうか?

シェアリングエコノミーっていう言葉が注目されていますよね。タイムシェアと呼ばれるような、同じ商業施設内で二毛作的なビジネスを行う事例も増えています。生涯のほとんどを駐車場で待機しているクルマなんて、シェアにうってつけです。都心にもTIMESなどの駐車場にシェアカーが並んでいるのをよく見かけるようになりました。あのカーシェアなんですが、利用のされ方で1番多いものってなんだと思います?

会場:近場の買い物とかですか?

実は、営業マンの仮眠だそうです。え? と思うかもしれませんが、考えてみるとエアコンは自由に効かせられるしラジオは聴けるし個室だし。そんなこんなで1ミリも動かないシェアカーというのが相当数あるのだそうです。これって、ある種の建築ですよね。疲れた営業マンには、シェアカーは車ではなくバッテリーのついたカプセルに見えている。これはおしゃれだと思うんですよ。

会場:どういうことです?

ええ!自分だけのカプセル建築なんて、憧れませんか(笑)? だって、そもそも提供されたサービスを言われるがまま受容するって、あんまりおしゃれじゃなくないですか。人とは違う使い方を発見したり、自分なりに編集したり、おしゃれってそういうものだと思います。シェアカーから出てきた仮眠明けの営業マンは、まあ、確かに見た目的にはおしゃれとは言い難いかもしれない。でも、街にあるいろいろな既存の場を自分なりに編集して、そうやって一日をデザインしている。僕はそんな視点がおしゃれだね、と思います。

個人のふるまいが、世界の意味を変えていく

今日はシーザーにはじまって営業マンで終わりました。どちらが偉いとかそういうことではなくて、これからはそういう一人一人が重要な意味を持ってくる時代にきっとなる。それが今日お話したかったことです。フォトジェニックなインテリアやかっこいい建物もおしゃれかもしれませんが、そこに来た人がどう振る舞うのかの方が、もっと大事なことです。一人の人間が何を考えるのかということが、新しい意味を問われている。私たちはそんな時代に投げ出されようとしています。その先にワクワクするような未来があるんじゃないかと、僕は楽しみにしています。

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PROFILE

中山英之 / Hideyuki Nakayama

1972年福岡県生まれ。1998年東京藝術大学建築学科卒業。2000年同大学院修士課程修了。伊東豊雄建築設計事務所勤務を経て、2007年に中山英之建築設計事務所を設立。2014年より東京藝術大学准教授。主な作品に「2004」、「O 邸」、「Yビル」、「Y邸」、「石の島の石」、「弦と弧」、「mitosaya薬草園蒸留所」など。著書に『中山英之/スケッチング』、『中山英之|1/1000000000』などがある。

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