赤羽に住みはじめた当初の理由はなくなった
赤羽に住み始めて半年ほどで校正の仕事は辞めて高崎に行くことはなくなった。なので、赤羽に住みはじめた当初の理由はなくなった。なんで自分はここに住んでいるのだろうと思うこともよくあったが、住んでいるうちに自然と愛着はわいてきた。これは赤羽に限ったことではなくて、これまでも住んでいるうちに自然に愛着というのはわいてきたので、住んでいる場所というのはそういうものなのだろう。
校正の仕事を辞めて私はフリーのカメラマンになった。それまでカメラマンの仕事は数回したやったことがなく、誰かのアシスタントについていたりしたわけでもなかったので、収入の目途は立っていなかったが、写真を撮るということをもう10年以上も続けていて、写真集も出したりしたので、やっぱり仕事も写真に関わることをしたほうがいいんじゃないかと思ったのだった。お金を稼ぐことにおける自分のキャリアということや、仕事における自己実現みたいなことを、今さらながら考えるようになったのだと思う。フリーのカメラマンにはなろうと思えば誰でもその日からなれるので、なったというよりなることにした。
フリーになったものの仕事がないので、昼間にも赤羽によくいるようになった。昼間の赤羽は基本的に老人の街だった。若者よりも老人の姿が目についた。でもこれは、老人以外は仕事に行っているから目にしないだけで、赤羽に限ったことではないのかもしれないが。平日の昼間から街中を歩いてる自分は何者なのだろうと思うこともあったが、赤羽で住んでいるうちにそういう自分に慣れてきたのか、そういう自分が自分なのだと思うようになった。
「美声堂」というCDショップでは演歌歌手の店頭ライブが頻繁におこなわれ、店内におさまらずに店先にまで老人が溢れていることがよくあった。老人たちは手拍子するでもなく微動だにせずにただじっとしていた。老人たちの肩越しに店内をのぞくと、そこではいつも演歌歌手たちの熱のこもった歌と踊りが繰り広げられていた。老人たちが動けないのは歌手に見惚れ、聞き惚れているからなのだった。
私が住んでいたマンションの地下にはカラオケスナックが入っていて、そこも年配の方々の憩いの場所になっていた。マンションの玄関では昼間から老人たちの歌声がよく響いていて、郵便受けの前で抱き合っている御爺さんと御婆さんに遭遇したこともあった。80歳は過ぎているにちがいないお洒落なマスターと年齢不詳の素敵なママがいて、昼間は1000円で歌い放題飲み放題だった。
店内は薄暗く、お酒はどれも異様に濃かった。はじめて飲んだときには、これは気を失わすほど酔わしてぼったくる気なんじゃないかと思ったが、当然そんなことはなかった。平日昼間でもお客は数人はいた。一人で来ている老人男性が多かった。そういう老人男性の姿を見ていると、ふっと自分の父親の姿と重なることがあり、と同時にそれはそう遠くない自分の姿なのだと思うことがあった。
フリーになったことで収入は激減し、赤羽の部屋の家賃を払うのが大変になった。なんとかしないとと思いながら、とくに何もせずに1年が経ち、貯金もだいぶなくなった。そんなときに、ルームシェアの誘いを受け、それだと家賃も今よりもずっと安くなるし、何よりも人と一緒に住むということをやってみたいと思い赤羽の部屋を出ることにした。
赤羽にはそれなりに愛着をもっていたつもりだったが、もうあの部屋に帰らなくていいかと思うとほっとする。赤羽にいたときはその前に住んでいた本蓮沼に、本蓮沼にいたときはその前の上石神井に、上石神井にいたときはその前の京都市南区に、帰らなくていいかと思うとほっとしていた。かつて住んでいた街というのはそういうものなのだと思う。
喫煙所で出会ったジョーさん
今回の企画のためにひさしぶりに赤羽に行った。駅前の広場は喫煙所とそうでないところの境界線が曖昧で、広場全体が喫煙所だという解釈をしている人たちがいた。私は吸えない煙草を吸おうとコンビニで買ってみたがライターをもっていなかった。煙草をくわえて広場をうろうろしていると、黒人の男性がライターを貸してくれた。男性は缶ビールを飲んでいた。私もすでに飲んでいた。男性はジョーさんという名前だった。ジョーさんはエチオピア出身で、日本人の奥さんがいて双子の息子もいて印刷関係の仕事をしていると言った。
ジョーさんと一緒に缶酎ハイを飲んでいる人が他に二人いたのだが、そのうちの一人を仕事場の社長なのだと言って私に紹介してくれた。社長として紹介された人は、トレーナーにハーフパンツ、足元はサンダル、手首にビニール製のバッグをかけていて、社長という風貌には見えなかった。「印刷会社をされているんですか」と尋ねると、社長はいやいやいやと言って手をふった。
社長は私とまったく目を合わそうとしなかったが、フィリピンで銃の組み立てをした話やハワイに行ったら絶対にTボーンステーキを食べろというアドバイスを熱心にしてくれた。毎日夕方ここで飲んでるからぜひまた遊びに来たらいいとジョーさんは何度も言った。数日後、赤羽を再度訪れたがジョーさんたちはいなかったが、その日は祝日だったから仕事が休みだっただけで、平日に行けばまた会えるのかもしれない。
金川晋吾 / Shingo Kanagawa
1981年京都府生まれ。神戸大学卒業。東京藝術大学大学院博士後期課程修了。2016年青幻舎より「father」刊行 。最近の主な展覧会、2019年「同じ別の生き物」アンスティチュ・フランセ、2018年「長い間」横浜市民ギャラリーあざみ野、など。
晶文社のウェブサイトでの連載「写真のあいだ」|
http://s-scrap.com/category/kanagawashingo
詩人の大崎清夏との往復書簡〈不安なことば〉|
https://note.mu/osakisayaka/m/m8b34e0a6a5db