この記事を読んでいるあなたは、〈6okken(ロッケン)〉という名前を聞いたことがあるかもしれない。
「EASTEAST_」や「ATAMI ART GRANT 2023 巡」でその名前を見かけたか、または6okkenが企画するイベントやワークショップに、メンバーないしその友人から誘われたか。それとも、「河口湖の近くでAIR(アーティスト・イン・レジデンス)的な場所を運営している20代くらいの集まりがいるらしい」という風の噂を聞いたことがあるか。
6okkenの存在を耳にしたことがあっても、おそらく、それがなんであるのかをうまく説明できる人は少ないだろう。なぜなら、「6okkenとは?」という問いに対しての回答は、活動体で、生活で、アーティスト・ラン・レジデンスで、創作の前段階で、集まり方で、聴き方で触れ方で、みんなが遊べる庭で……、とメンバーたち自身でもバラバラで、さらに同じ個人の中でも、時間とともに(現在進行形で)その答えは変わっていっているからだ。
そんな“わかりにくさ満点”の6okkenが、初となる芸術祭を開催している。「ダイロッカン」と名付けられたそれは、“創作前夜”にフォーカスした一ヶ月間の芸術祭だ。
本記事では、6okkenという存在の輪郭を掴むべく、メンバーにアンケートを行った。かれらの紡ぎ出す言葉から見えてきたのは、「ダイロッカン」が象徴する“創作前夜”というキーワードがいかに6okkenを表しているか、ということだった。そして6okkenという集まり方を、かれらがいかに模索してきたかということだった。
「ダイロッカン」が終わる前に、2024年3月時点での6okkenの形をここに留めよう。おそらく来年の同じ時期には、もっと早ければ「ダイロッカン」が終わった頃には、それはまた違う形になっているから。
Text+Edit:Sara Hosokawa
Photo:Hee-Hee / 青木成美 / takahakai
筆者(細川)は、6okkenのメンバーである。「山梨県・河口湖に六軒の家を借りられることになった。」──2022年の夏にそんな話を聞いたとき、「え?」と聞き返してしまった記憶がある。“言い出しっぺ”のメンバーから(6okkenには「代表」という概念がない)、「そこにアーティストが集まる場を作るのだ」という嘘のような本当の話を持ちかけられてからというもの、十数名ほどの仲間と、六軒の家を拠点とした活動がはじまった。
仲間と言っても、最初は「初めまして」の関係だった人がほとんどだ。その活動はスタートアップでもNPOでも、何かを一緒に作り上げていくコレクティブやチームでもなく、お互いの文脈を共有していない他者同士の“集まり”だった(もちろん、中には元々友人関係だったメンバーもいるが)。
また、メンバーの多くは東京に生活と仕事がある。〈6okken〉は河口湖の六軒の家を指しながらも、その“集まり”に共感する人々の活動体でもあるのだ。
多かれ少なかれ「共に生活する」、6okkenという場。
場としての6okkenは、アーティスト・ラン・レジデンスとして機能している。「ラン」という言葉には、アーティストが自ら場を運営しながら生活・制作を行う、という思想が込められている。実際に住みながら制作する6okkenメンバーもいれば、一時的に滞在するアーティストもやってくる。また、そこでイベントやワークショップ企画をする人や、それに参加する人も出入りするが、いずれも多かれ少なかれ「共に生活する」ことを体験する(イベントやワークショップも合宿型であることがほとんどだ)。
なぜ6okkenは、「生活」に重きを置いているのか。メンバーのひとりは、こう答える。
ものづくりという、とてつもなく面白い悪魔に取り憑かれてしまった以上、生涯ものづくりと自分は切り離すことはできない。生活と分離してものづくりがあるのではなく、生活との一体として存在する。
生活と創作は切り離せない。むしろ、生活があるからこそ創作があるのだ。“言い出しっぺ”が筆者を6okkenという活動に誘ってくれたとき(そのときは“名前はまだない”状態だったけれど)、彼は脳内を巡る構想を次々と聴かせてくれた。その壮大さゆえ、全てを理解することはできなかったが、「アートというのは、作品のことではないと思う。創作以前にある、その人がその人であることそれ自体だと思う。」という言葉に共感したことを今でもはっきりと憶えている。
「あなたにとって『生活』とは?」という質問を投げかけて返ってきたメンバーの言葉たち。「生活」とは、自分自身の軸を持つことなのかもしれない。
社会や、常識、あるいは何かの集合体から発生してくる「ノリ」に呑まれず、自分の時間軸を探り当て、心地よいリズムで生きていくこと、食べること、寝ること、場合によっては金銭を稼ぐこと。それは画一的な行動ではなく、その人自身がそれぞれに見つけ出していく、「やっとどうにか」の道筋だと思うのです。
6okkenのメンバーには、大手企業で日々激務をこなす人もいる。そんな個人が発する言葉は、あまりにリアルだ。“生活のための”多忙な毎日。ではその「生活」とは何を指すのか──。6okkenは、社会のスピードで歩む足を一旦止め、思考をほぐしていける場であり、集まりなのかもしれない。
自分も含めて誰もがちゃんと生活に向き合いたい、なんならその意識すら浮上することもないままに忙しなく過ごしている。そんな中で、生活を標榜する6okken自身が“生活”を実践できるのか、そこは大事な部分になるだろうなと思っています。
6okkenというバラバラな個の集まり。他者と生きることは、自分と生きること。
6okkenに集まる人は、さまざまだ。アートはもちろん、デザイン、写真、音楽、言葉、場づくり、演劇、食、建築など(中にはジャンルすら不明の人まで)、領域の垣根を超えて多様な人が出入りする。
以前、メンバーのひとりが発した印象的な言葉がある。「6okkenが意味する“アーティスト”は、その人自身が守らなければこの世から消滅してしまう視点や興味に向き合い続ける人だ」。まだ見ぬどこかを目指し続けるために、自分自身に向き合う。そしてそれは、他者と向き合うことと同義である。ここは、そんな姿勢を持つ全ての人に開かれている空港のような場所なのだろうか。
ただ、集まることは容易ではない。多様だからこそ、大切にしていることも、考え方もまちまちだ。
その上で、殴り合いにならないように、互いにリスペクトを持った関係性を保つこと。
6okkenは会社でもチームでもない。しかし一緒になにかを作り出そうとする以上、決定し進めていくことが必要になる。バラバラな個の意見を丁寧にまとめあげ推進するというヘビーな仕事は結果的に、マネジメント能力の高いメンバーが抱えることになってしまう。
そしていくら丁寧に進めようと思っても、やはりそこには取りこぼされてしまう意見や感情がある。実際にこれまでも、誰かが大切にしていることに気づくことができずその人を傷つけてしまったり、思考や言語化が早い人の意見でものごとが進んでしまい、誰かがアンセーフだと感じたり、といったことは何度も起きてきた。
ままならない他者と生きることはまた、ままならない自分と生きることでもある。6okkenは集まることで、他者への“聴き方”や“触れ方”を見つめ続け、自分自身への“聴き方”や“触れ方”をも更新し続ける連帯なのだ。
「生活」は積み上げること。では、「創作」は?
創作以前にある「生活」を営み続けることが6okkenの核であるとするならば、そこに集まる人たちにとって、「創作」とはどんなものなのだろうか。
創作する行為が自分にとってどのくらい重要性を帯びているのか、やめたことがないからわからないし、これからも続けてみようと思っている。
メンバーの答えは眼差しのように鋭く、「なぜ作るのか」を自分自身に問い続けながら創作していることが伺える。
人間になること。なり続けること。言葉になること、言葉を発し続けること。
人間は一つの要素で完結するものではありません。常に何かが入れ替わり、影響され、影響し、これが自分かもしれない、と思ったものが次の瞬間には組み替えられさえするものです。
表現をする、あるいは創作・制作をする、ということは、その嵐の只中で航海することなのだと思います。こんな言葉があります。a smooth sea never made a skilled sailor. 穏やかな海は良い船乗りを育てない。ウォーキングデッド、シーズン4で登場する言葉です。ともすれば、ゾンビになりかねない世の中で、(あるいは同時に、ゾンビの方が幸せかもしれないとさえ思う環境で)、それでも表現し続ける覚悟を持つこと。「それでも」と言い続けること。表現は私たちをケアするものではないです。むしろ逆とさえ言えて、自分の傷をひらき、自分で自分をケアさせていくのです。自分をそう仕向けるのです。その過程で誰かを巻き込み、ともに未来を予感することができるにすぎません。
人はたびたび、表現者に向けてこんなことを言います。「なんでわざわざ辛い方へ行くの?」「売れないことをやるなんて」「もっといい道があるのに」。
私たちは(あるいは私は)、その苦しみのなかで生きることを選んだ以上、それより最良も最悪もないのです。
6okkenをひとことであらわすと。
ここまで、かなり遠回りをしながら言葉を連ね、6okkenの輪郭を浮き上がらせようとしてきた。回り道の終着点として「6okkenをひとことであらわすと?」という質問を投げかけてみると、やはりそこに並ぶ「ひとこと」は、面白いくらいにさまざまであった。
東京を活動の拠点にしているメンバーが多い中で、山梨にあつまる場所と記憶が蓄積されていくこと。山梨でしかありえないアウトプットを出すこと。雪の日に明日の山梨での雪かきに想いをはせること。人格がひとつでなくともよいけれども、人生のリソースは限られるという事実にのみ、引き裂かれたり、報われたりするうちに、私だけの私をつくりあげることがあると思うから。
ほどよい距離感のまま、あなたのことを知らないけれど、信用したいと思うこと。
たぶん一般的なコレクティブほど目的的ではないけど統一された空気感もあり、人がいっぱい集まった時にとても価値が発揮される場所(コレクティブ)な気がする。
話には聞いていた不確実性の時代にいつの間にか放り込まれ、熱病のように過ぎ去っていく日々ですが、これは私だけでない時代の感覚だと思っています。その中でも確かに爪は伸びていて、久しぶりに帰った実家のカレンダーは今日の日付になっている。私が生きてきたことを自分自身で確かめるため、どこで誰とどんな日々を送っていこうか。そんな素朴な問いを大真面目に考える機会を与えてくれるのが「6okken」だと思います。
「ダイロッカン」とその後。6okkenの未来はなにでできていると思う?
「ダイロッカン」は2024年3月、約一ヶ月間にわたって開催されている芸術祭だ。6okkenに集まるアーティストたちは、創作が生まれる3つのフェーズ「Program-01.観察する」「Program-02.生活する」「Program-03.共有する」を共に過ごす。
「Program-01.観察する」では、アートにまつわる関係者や、文化人類学者の藤田周氏、デリダ研究者の森脇透青氏を招聘し、「省略」の技法──何を言わないことにするのか/鑑賞者をどう信頼するのか──について、考えを持ち寄り、議論する場を開く。
「Program-02.生活する」では、国内外から集まった18人のアーティストが自分たちの表現行為を取り巻く環境(生活、家族、経済活動)について話し合ったり、手や身体を動かして実践したりしながら、二週間共に暮らす。
そして観察と生活から生まれた創作を発露するのが「Program-03.共有する」だ。3月30日〜31日の二日間、フェスティバルのような形で18人による展示やパフォーマンスがひらかれる。それらは二週間の間にかれらが何を交換し、感じ取ったか──つまり何を積み上げたか、によって表現が決まる。どんなもの・ことがそこに出現するのか、そのときになってみないと誰にもわからないのだ。
メンバーを含めたアーティストたちはいま、自分たちの手でゼロから芸術祭を作り上げようとしている。創作の前段階にある「生活」にフォーカスした「ダイロッカン」は、これまでまとまらなさを抱きながら、複雑さを愛しながら活動してきた6okkenの一旦の集大成となりそうだ。
うまく作ろうとしてはむしろ作れないような、バラバラな個の集まりだからこそ表出することができるダイナミックなリアリティが、私たちが知っている感覚ではもはや形容しがたい「ダイロッカン」なるものが、そこにはあるのだろう。
最後に、「6okkenの未来はなにでできていると思う?」という質問に対して答えてくれた言葉をならべ、2024年3月時点での6okkenの形をここに留めよう。
未来に描く景色:老若男女、地元と他所の人、の交流が常にありその中心にアートがある。
形作る為にやるべきこと:理想を実現する為の実務。
もちろん、金銭的なマネジメントや、諸々の課題は多くありますが、それは目的ではなく、6okkenが6okkenであり続けることによって補足的に突き動かされていくものだと思います。東京事変の「一服」の歌詞を引いておきましょう。「いいんじゃんやっぱ律儀なまんまで行こう」
INFORMATION
6okken 芸術祭「ダイロッカン」
主催 |一般社団法人 6okken(ロッケン)
後援 |富士五湖自然首都圏フォーラム
会場1 |6okken – 山梨県南都留郡富士河口湖町大石1073
会場2 |森と湖の楽園 – 山梨県南都留郡富士河口湖町小立5606
観覧料 |Day1 ¥ 4,000/Day2 ¥ 4,000/Audio Bus ¥ 1,500/宿泊 ¥ 7,000(仮)
出展作家|安齋 励應、Astrid Braide Eriksson、Adam Gustafsson、今宿 未悠、大上 巧真、太田 遥月、加藤 昌美、Gabi Schillig、 川島 大輔、後藤 宙、小宮りさ麻吏奈、ソー・ソウエン、豊島 彩花、中尾 一平、二藤 建人、花形 槙、三好 彼流、 Hyejeong Yun
特別参加| Friday Night Plans
6okken WEBサイト| https://6okken-org.studio.site/