東京オルタナティブ百景|第十一景(特別編) 東京都墨田区吾妻橋「喫茶野ざらし」

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東京の様々なオルタナティブスペースを巡る、アーティスト・中島晴矢による町歩き型連載コラム「東京オルタナティブ百景」が、Bug-magazineより引っ越してM.E.A.R.Lにてリスタート。
近年、アートを中心としたカルチャーシーンにおいて、既存の美術館やギャラリーとは異なる、アーティストを主体とした場の設立や運営が活発だ。それは立地する都市や地域とも不可分の関係にある。そういったオルタナティブな動向の最先端を実地に赴いて辿っていく。そこから見える新しい東京は、一体どのような景色なのだろうか。

第十一景は東京都墨田区吾妻橋「喫茶野ざらし」。
本連載の書き手である中島自身が運営に携わる、2020年1月にオープンしたばかりのスペースだ。浅草から隅田川を渡り、金色のオブジェが目をひくアサヒビール本社のすぐ裏手、吾妻橋エリアに位置している。
中島に加え、共同ディレクターを務めるのはインディペンデント・キュレーターの青木彬と、建築家の佐藤研吾。佐藤が設計と内装を手がけた1階の空間は、実際にコーヒーや軽食を出す喫茶店として営業し、2階は種々のイベント開催やシェアスタジオ的に利用できる、文化交流の拠点として運営していくという。
そんな墨田の新たなスペースは、どのようなコンセプトで立ち上がり、今後いかなる展開を見せていくのだろうか。今回は「東京オルタナティブ百景」特別編として、2020年1月19日(日)に行われた「喫茶野ざらし」オープニングイベントでの、青木、佐藤、中島によるディレクターズトークの模様をお届けする。

Text:Haruya Nakajima
Photo:Mai Shinoda
Edit:Shun Takeda

「FOOD」と「荒れ地」

オープニングイベントにはNHK福島のテレビクルーによる取材も入った。
オープニングイベントにはNHK福島のテレビクルーによる取材も入った

青木:キュレーターの青木彬、アーティストの中島晴矢、建築家の佐藤研吾という異分野の3人が共同ディレクターという形をとって立ち上げたのがこの「喫茶野ざらし」です。2018年の年末から1年以上かけて準備を進めてきて、本日のオープニングを迎えました。

3人で場所をつくる上で、まず参照したのは「FOOD」です。「FOOD」とは、ゴードン・マッタ=クラークという現代美術のアーティストが、1971年にニューヨークで立ち上げたプロジェクト。文字通り「食」を意味する、アーティストたちが自ら運営するレストランです。アーティストが生活を経済的に自立させたり、その活動自体を作品化していくようなスペースでした。

3人に共通する関心として、一つの軸となるのは「東京とは何か?」という問い。同時に、東京以外の様々な地域とつながる方法を探っていく場所でもあります。

青木彬(あおき あきら) 1989年東京生まれ。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」企画・制作。まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター。「喫茶野ざらし」ディレクター。
青木彬(あおき あきら)
1989年東京生まれ。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」企画・制作。まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター。「喫茶野ざらし」ディレクター。

中島:もともと墨田区には、たくさんのオルタナティブスペースがありますよね。僕自身、美術作家としてそれらに関わったり、ライターとして取材をして回ったりしてきた経験から、まずはそうした場をつくることが前提にありました。

そもそもオルタナティブスペースという美術用語は、ギャラリーや美術館といった既存の制度とは異なる、独自の文化圏・経済圏を持ったスペースを指します。そこから自由な表現を生み出していく。

すでに青木くんは京島で「spiid(スピード)」という場を持っていたし、佐藤くんは北千住の「BUoY(ブイ)」をリノベーションしています。僕も渋谷のクリエイターズ・シェアハウス「渋家(シブハウス)」の立ち上げに関わっていたこともあり、この3人の座組みで何をやるか考えたら、必然的に新しいスペースをつくるプロジェクトになりました。

中島晴矢(なかじま はるや) アーティスト。1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。美学校「現代アートの勝手口」講師、「喫茶野ざらし」ディレクター。美術、音楽からパフォーマンス、批評まで、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING)、アルバムにStag Beat「From Insect Cage」など。
中島晴矢(なかじま はるや)
アーティスト。1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。美学校「現代アートの勝手口」講師、「喫茶野ざらし」ディレクター。美術、音楽からパフォーマンス、批評まで、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING)、アルバムにStag Beat「From Insect Cage」など。

佐藤:僕は福島県の大玉村というところを活動拠点の一つとしていて、東京と行ったり来たりの生活を送っています。なので、今回は東京の外側の要素を持ち込んできて、デザインを加え、配置していくという考えで設計しました。

「オルタナティブスペース」という言葉、発音からしてすごく言いにくよね(笑)。それは僕なりの言葉で言うと、「荒れ地」だと思うんです。社会生活のメインフィールドである都市や農村の外側に膨大に広がっている土地。そういう「荒れ地」こそ開拓しがいがあります。これから耕せる場所をつくっていきたいんです。

「荒れ地」というのは、農村においては農作物に還元できない土地です。生産性を持たないという意味で価値がない。すると、都市も土地としては生産をしていないから、「荒れ地」と言えるのではないか。そこで中心と周縁がぐるっと反転するような関係が生まれる。それは僕の関心だと、東京という都市と福島という地方の関係性にもつながります。

佐藤研吾(さとう けんご) 建築家。1989年神奈川県生まれ。インドにてデザインワークショップ「荒れ地のなかスタジオ / In-Field Studio」を主宰。 福島県大玉村で藍染めをきっかけにしたものづくりをおこなう「歓藍社」に所属。同村教育委員会の地域おこし協力隊。 東京都墨田区の「喫茶野ざらし」ディレクター。 インド、福島、東京という複数の拠点を行き来しながら、創作活動に取り組んでいる。
佐藤研吾(さとう けんご)
建築家。1989年神奈川県生まれ。インドにてデザインワークショップ「荒れ地のなかスタジオ / In-Field Studio」を主宰。 福島県大玉村で藍染めをきっかけにしたものづくりをおこなう「歓藍社」に所属。同村教育委員会の地域おこし協力隊。 東京都墨田区の「喫茶野ざらし」ディレクター。 インド、福島、東京という複数の拠点を行き来しながら、創作活動に取り組んでいる。

中島:都市に生産性がないとはいえ、特に東京は経済原理によってどんどんリビルドされてますよね。その中で都市のあり方を考える時に、僕は今和次郎の「考現学」や赤瀬川原平らの「路上観察学」を参考にしています。市街の「隙間」を発見する眼差しに、都市とアートの接点があるのではないか。都市の中で「隙間=荒れ地」を見出していくスタンスは、「喫茶野ざらし」というネーミングにも直結する話だと思います。

東京イーストサイドの地域性

青木:僕自身も京都の山奥で活動しているアーティストと接点を持ったりしたことで、最近は農業や生産について興味を抱いています。ディレクターの3人には各々の関心領域があるけれど、ブレストを重ねていく中で「荒れ地」というキーワードには3人とも共感するところがあった。そこで出てきたのが「野ざらし」という言葉です。

店頭には「喫茶野ざらし」のロゴがシルクスクリーンで刷られた旗が掲げられている。ロゴデザインはグラフィックデザイナーの植田正。
店頭には「喫茶野ざらし」のロゴがシルクスクリーンで刷られた旗が掲げられている。ロゴデザインはグラフィックデザイナーの植田正。

青木:名前の由来は落語の演目です。ちょうど墨田区の向島が舞台の落語に「野ざらし」があります。その軽妙な滑稽さと、「荒れ地」が持つ都市の余白のような性質が結びついて、自分たちの活動をリラックスして展開できる言葉に思えました。ただ、「野ざらし」だけだとかなりニュアンスが強い。

中島:「野ざらし」と聞いてコーヒーを飲みに行こうという人はあまりいない気がして(笑)。それで「喫茶」をつけて、「喫茶野ざらし」。

佐藤:「屋根あるんだ」っていう反応があるかもしれない(笑)。

青木:「喫茶」と名乗ってはいますが、僕らは飲食店を立ち上げたり運営したりした経験はありません。ただ、単に展覧会などを行う多目的なスペースというよりは、自分たちが経済的にも文化的にも自立して生活を送りながら「耕せる」場所をつくりたかったんです。この3人で喫茶店をやれば、どうあがいても普通のカフェのようにはならないだろうという変な自信もありました。

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中島:落語「野ざらし」は隅田川沿いで骨釣りをする噺です。髑髏がゴロゴロと転がっていたような江戸時代の川原の風景は、まさに「荒れ地」的ですよね。しかもそれが艶噺である。艶噺というのは要するに下ネタ落語で、くだらないんですね。そのエロスとタナトスの振り幅みたいなものが気になりました。

ここから吾妻橋を渡ればすぐ浅草です。つい最近、川端康成の『浅草紅団』という1930年の浅草を舞台にした都市小説を読んだんですが、その頃の浅草ってカオティックで滅茶苦茶なんですよ。浮浪者、売春婦、芸人、不良少年少女が入り乱れている。ヒロインは弓子という不良少女ですが、まだ浅草公園や瓢箪池があった当時の浅草は、とにかくアナーキーな力に満ちていて、町の熱気がすごかった。

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中島:それは昭和初期という時代と関係します。1921年の関東大震災で浅草は、「浅草一二階」の異名でも知られ、当時のシンボルでもあった凌雲閣が折れたことに象徴されるような致命的なダメージを負いました。さらに昭和恐慌が重なって経済的にも貧しかった時期。しかし同時に、喜劇王として知られるエノケンがいたカジノ・フォーリーに代表される「レヴュー」などの雑多なエンターテインメントが次々と出現して、ある文化的なグルーヴが生まれてもいました。

一方で、現代の都市にはそうした猥雑とも言えるエネルギーが薄れているように感じます。そこで、町全体の熱気を生み出すことはできないかもしれないけれども、こういう変なお店をつくることで、ちょっとでも冷めた都市をズラす一端を担えるのではないか、と。

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佐藤:そうした熱気を帯びた場所は、東京で言えば東側にはまだ残っているし、再び盛り上がってもいますよね。墨田区や浅草は東側の下町でもあり、また水戸や、日光街道を通して北の方にもつながっている、「外」への入口のような土地でもある。

中島:僕は数年前から荒川区に住んでますが、下町には「町の身体性」のようなものがあって、暮らしているとすごく楽しい。先述した1930年ですら浅草は廃れだしていて、新しい盛り場として渋谷や新宿が出てきた頃です。その後、戦後の高度成長を経て東京は西へ西へと拡大していくから、東側は置き去りにされてしまう。でも、だからこそ保存されている雰囲気があります。また、オルタナティブスペースの歴史を振り返れば、1980年代あたりから東側は見直されてきました。そうした文脈の上にこのスペースもある。

青木:まさに2、30年前から、墨田区は草の根的に文化が盛り上がってきた地域です。古い物件を自主的にアトリエに改装したり、海外のアーティストを呼んで滞在してもらったり。ずっと民間の地道な活動が続けられてきて、そのネットワークはかなり強固に耕されています。吾妻橋という土地も、「吾妻橋ダンスクロッシング」や「アサヒ・アートスクエア」などを通じて、アートプロジェクトに関わっている人たちには馴染み深いエリアでもある。

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青木:特にここ数年は、押上や八広、京島の方で、地域に住む若い人たちが長屋を改装して、ギャラリーなどの新しいスペースを立ち上げる活動が頻繁に起こっています。それはアートのみならず、カフェやショップなど、広く文化というものを通じて各々の多様な生き方が具体化していく町になっている。僕らの東京の東側への関心には関東大震災や大正期の芸術運動などが含まれますが、それこそ道幅や町並みといったこの辺りの雰囲気が、何より身体的にしっくりくるんです。物件選びは苦労しましたが、この場所を見て直感的に「ここだ!」と思えました。

佐藤:結果的に、浅草寺とスカイツリーのちょうど中間に位置する場所になりましたよね。その二つの観光地を目指してぞろぞろ歩いている観光客がスルーするエリアとして吾妻橋がある、という大きな発見があった。でも、外部の人に対するアプローチを考えるといい立地でもありますよね。ポケモンで言えば、マサラタウンからニビシティに行く途中の草むらというか(笑)。

中島:草むらから「喫茶野ざらし」が飛び出してきた!(笑)

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