本連載では、組織に所属せず、軽やかに領域を横断して活動する個人をマージナルな存在として位置づけ、今の働き方に至った経緯と現在の活動を伺っていく。インタビューは、その人が日頃活動の拠点としている場所で行う。
Vol.5に登場するのは、東京・福島・インドと、3つの拠点を中心に活動する建築家の佐藤研吾さん。東京大学建築学科を卒業してから早稲田大学大学院へ移籍したあと、インドや福島へと実践の場を広げてきた新進の建築家だ。現在は東京大学の博士課程に在籍しながら、昨年末にはギャラリーで個展を開くなど、従来の建築という枠組みにとらわれない多様な活動を展開している。
そんな稀有なキャリアを経てきた彼に、現在のスタイルに至るまでの変遷や、複数の拠点を持つことの狙い、そして今後の展望について、拠点の1つである東京・北千住の「BUoY」にて話を聞いた。
Text:Haruya Nakajima
Photo:Natsuki Kuroda
Edit:Shun Takeda
都市の中の「荒れ地」を描き直す
Q1. あなたの肩書は?
建築家です。今は東京と福島、そしてインドを拠点として活動しています。
まだ人を雇用したりしていないから、生活も仕事も自由にできているのですが、人を雇用して組織化していった時にどう自由さを担保できるかというのは課題ですね。
Q2. 今の肩書を使うに至った経緯は?
建築家・石山修武さんの元で学んだことです。石山さんの研究室に入るために、東大から早稲田の大学院に移りました。実際に入ってみて改めて分かったことは、石山さんはかなり現場を中心に考えたモノ作りを展開していたということ。その傍らで学んだので、ある場所や人に対する関わりを強くしていかないとそこでモノを作ることはできない、ということを痛感したんです。
普通、建築の設計監理の仕事は週一くらいで現場に行ったり、定例会議に出たりする程度で、大きい現場でもせいぜいスタッフが現場に1人か2人常駐する程度なんですが、僕が石山さん主宰のSTUDIO GAYAに所属していた時は、毎日石山さんと一緒に現場に行っていました。
現場で毎朝ミーティングして、現場の職人さんの仕事に口も出すし、細かいデザインもそこで考える。そういう進め方によって作られる建築の質や、身の置き方も含めたデザインプロセスの作り方に影響を受けました。
Q3. そもそも石山修武さんに師事しようと思ったのは?
石山さんの書く文章に惹かれたからですね。一般論ではなく、自分なりの実感で社会を見つめ言葉にしていく独自の社会・文化批評と、作るモノや実践とを、限りなく近づけて語るんです。一方で、作っているモノは自分には訳が分からなかった(笑)。これは学ぶことが多々ありそうだ、と。
それ以前には東大で都市史の伊藤毅さんの研究室に入っていました。歴史を扱ったり文章を書いたりすることと、建築やモノを作ること、それらを両輪にして活動できないかと思ったんです。
Q4. 都市史では何を研究していた?
「荒れ地」論です。特に明治の東京について、空き地や原っぱ、廃墟のような、いわゆる都市の形成過程から抜け落ちてしまっている場所を扱っていました。
江戸時代には、誰かが使っているけれど誰の所有物とも規定されていない場所がかなりありました。そういう土地は、明治に入ってまず地租改正で官有地に指定され、その後だんだん民間に払い下げられて誰かに所有され、開発が進んでいった。結局、そのまま官有地になっている(東京で言えば都有地あるいは国有地に当たる)場所は、土手や川の近辺といった扱いずらい場所でした。
一方で、関東大震災や東京大空襲によって東京は幾たびか焼け野原にもなってきた。その度に計画の論理に基づく復興を遂げてきたのですが、そういった都市の発展、開発と「荒れ地」は表裏一体の関係にあるんです。
研究では、従来、開発史として描かれがちな都市の歴史を、「荒れ地」の明滅によって描き直せないかということを試みました。けれども、その研究はまだまだうまくいっておらず、未だ自分自身の課題です。
Q5. 「荒れ地」の明滅は具体的にどういう過程を辿った?
例えば、江戸から明治にかけては所有者不明の土地を官有地とした後に、公園というパブリック・スペースとして制度上転換する。あるいは震災で焼け野原になったところが、帝都復興計画のもと整地され、まっすぐな道を引かれることによって無くなっていく。
また一方では、不動産の投機として、土地を持っていれば値段が上がるという論理が制度上普及した時代あたりから、上に建物が建たずにそのまま空き地として温存される土地も増えていく。東京はそうした空き地をめぐるいくつかの力学が交錯していました。
戦後の話ですが、6、70年代の新聞を見ると、空き地で死体が転がっていたり、誰かが殺されたりとという記事が結構掲載されています。「草が茫々と生い茂り、人気のつかない場所であった」というような描写もあり、確かに殺人事件を起こすには格好の場所だったのかもしれません。
空き地はある種の文化的な側面として、そういう都市の暗部=闇みたいなものを受け止めるインフラストラクチャーになっていたんじゃないか。都市はいわゆる発展や開発によって整備された環境だけで成り立つのではなく、「荒れ地」のような開発の外に存在した場所も必要だったのではないか、と。都市における野生性と言うか、人間社会の膿を受け止める強さを、都市の中の「荒れ地」は持っていたと思うんです。
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