神奈川県の南端に位置する海沿いの町、三浦市。京急線の終点でもある三崎口駅からバスで数十分ほど離れた港町の三崎にある、蔵書室「本と屯」。古びた一軒家は大量の蔵書で埋まり、地元民と観光客を結び付けるコミュニティスペースとしても機能していて、にぎやかな様子だ。
この店のオーナーは、編集者のミネシンゴさん。美容師から編集者に転職し、夫婦で出版社「アタシ社」を立ち上げ、髪の毛にまつわるカルチャー誌、美容文藝誌『髪とアタシ』をはじめ様々な書籍を刊行している。東京を離れて鎌倉や逗子で活動を始めた後、行き着いたここ三崎で、もともと地元民ではない余所者の彼に、オルタナティブな移住生活に至るまでの実情を伺った。
Text:Kentaro Takaoka
Photo:Yutaro Yamaguchi
Edit:Shun Takeda
港町への移住のきっかけは格安物件
──まずはミネさんが「本と屯」を立ち上げるまでをお伺いしたいのですが、どういうきっかけで三崎に来たんですか?
以前は、逗子に8年間いて、そこでアタシ社を立ち上げ活動していました。鎌倉や逗子の地域にもコミットしていて、例えばみなとみらいのシェアスペース・BUKATSUDOでは「近い将来、鎌倉・逗子で暮らしたい/働きたい学」という講座を企画をしたんです。4期生までつくって、のべ50人ほど受講者の方がいたんですが、そのうち15人ほどが移住されたんですよ。ほかにも鎌倉市長と逗子市長に横浜で対談してもらったり、色んな企画をしていました。鎌倉逗子はもともと東京からアクセスもいいし、街の文化も住心地もちょうどいいところにメディアも盛り上がってきて人がたくさん増えてきた。元来自分は天の邪鬼な性格なので、8年住んだ家も家賃が高いし、しょっちゅう東京に行く機会も減ってきたので、ちょっと離れたいなと思ったんですよね。
当時は住まいとして逗子駅の近くに一軒家を借りていて、部屋が自社の刊行物の在庫で埋まってしまい、家と事務所が同一化していたのが嫌だなと思っていて。家賃を13万円払って住む必要性も考え直して、神奈川県内の違う地域を探し始めたんです。二宮、小田原、くらいまでは、東京からも通えるんですが全然安くなかった。

そんなある日、横須賀のとあるトークイベントで、三浦に住んでいる人と出会って。後日、三崎にドライブに連れて行ってもらったとき、この港町をとても気に入ったんです。ちょっと田舎で港があって、一次産業者がいて、これで家賃が安かったら最高だなと思いました。観光地でもあるし、町で働くひとたちがとても楽しそうに見えました。
そうしたら、その人がのちに「本と屯」になる物件を仲間たちと持っていたんです。「ここ使って三崎で面白いことをやろうって言ってるんだけど、何もやっていない。酒飲んで卓球してるくらい」と言っていて(笑)。しかも商店街の中で目の前が書店ということもあって、ぼくは出版社だから運命だと思いました。それで、その日に「借りたい!」とお願いをしました。

しかも、ここは家賃が一棟で逗子の家の半分以下なんですよ。在庫管理ができて、事務所機能もあって、町に開けているスペースができる。これはもうほかを探すこともなく決まりました。この物件はめちゃくちゃキーでしたね。ちなみに、三浦市は人口が4万2000人(令和2年1月)いる中で、新刊書店が2軒しかないんです。

──逗子で課題になっていた在庫も置けるようになった。借りた段階で用途は決めていましたか?
僕は店舗とオフィスが繋がっている「SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS」さんのような空間に憧れていて、いつかそんな場所を自分でもやってみたいと思っていました。本屋にお客さんが入って来る中、奥がスケルトンのオフィスになっていて、そこで仕事をしている雰囲気が格好いいなと思っていて。
最初はカウンターもキッチンもない状況だったんです。ここで仕事をしていて、本がたくさん並ぶ空間にしてたら、いろいろな人が入ってくるようになってきたんです。お店です、と書いてあるわけでもないのに、ふらふらと中に入ってくる人たちが多くて。長居してくれる人や、余っている本をくれる人たちが現れたり。そんなことをしていたら、もっとちゃんと読書ができる空間や、人が集まる場所にしようと思ってカフェ営業もはじめました。
そもそも僕はアサダワタルさんの著書『住み開き―家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)や、オルタナティブな活動に興味があったんです。でも、最初から目的を持った空間を作ると、町になじまなかったらやりづらくなるし、何屋なのかよくわからない業態で始めてみました。
地域にとって何者かわからない移住者
──最初から商売をしようと思って始めたわけではないんですね。商店街の人との関わりはいかがでした?
そもそも事務所として借りてるから、店舗としての売上が0円だったとしても問題ないんです。すると「よくわかんないけれど、店(?)が開いていて、子どもたちが騒いでて観光客も入ってくつろいでいる。でもカフェでもないし、あの兄ちゃんはあの店でどうやって飯食ってんだ?」と町の人がいい意味で誤解してくれて(笑)。なんかよくわからないけど、悪いやつじゃなさそうだ、と思ってくれたのかもしれません。
──稼ぎに来た余所者ではなく、気のいいあんちゃんなのかな?と(笑)。
僕が引っ越して半年後に、三浦の人たちを撮影したポートレートの写真集『南端』(著者:有高唯之)を作ったんですね。その写真集には、三浦のキーマンたちがいっぱい写っていて、それを出版した人という認識も広まり町に溶け込みやすくなった気がします。

──町の人にとってはサードプレイスであり、ミネさんにとっては仕事場兼倉庫でありつついろんな人と関わるきっかけの場でもある。そうなると、商売の場にしたくなる気もするんですけど、いかがでしょう?
結局、土日ですら開けられない時もあり、わざわざいらっしゃるお客さんにも申し訳ない気持ちもあるので、ある意味「適当」な運営しかできないから商売に足を突っ込まないようにしました。それに僕が毎日店に立っていたら多分生活できない。本来、飲食店だけを経営していたら覚悟を決めて場の売上を立てないといけない。しかし、あえて「余剰」で運営することで息苦しさがぼくも場所にもなくて、それが店の雰囲気を作っていると思うんです。ガツガツしてない、お金を払わなくてもいい、本を好きな人たちが自然と集まってくる場所。本がある公園みたいなものです。
「売上が立たなくてもいい、どうでもいい場所」が世の中にあまりなくて、カフェでもどこに行ってもお金がかかる。そういうビジネスとして隙のない場所が世の中にあまりにも多くて。もちろん家賃払って人件費払って商売しているわけですから、遊びでやるわけにはいかないですよね。「余剰」がある人は、別でなにか食い扶持があったり、適当にできる理由があると思うんです。
──ここがあったことで生まれたお仕事、縁、企画で象徴的なものはありますか?
生まれた仕事はたくさんあります。ロケーション提供として、ドラマやPV、MVで使われたりしています。つい最近の例だと、昔から何かと縁のある生活芸人の田中佑典くんと福井県大野市で「商店街の再生」をテーマにトークゲストで行ったりもしました。

本と屯を始めてよかったなと感じるのは、ここが存在することで地元民と観光客が交流するきっかけが生まれ、共生的な交流空間となっていると実感できたことですね。
──入ったらみんなアウェイの茶室のような。地元の人やイベントで来る人もいて、独特の空気感ですね。
騒いでる子供やおじいちゃんとかいろんな人が来て、みんな「良い場所だなあ」と言ってくれるんですよ。その良さは、だらしなさや隙なのかなと解釈してます。この感じは、これからトレンドになるんじゃないかな。それをどうマネタイズするかはまた別の話しなんですけど。たぶん儲からないんですけど。
消滅可能性都市でもある、三浦市の当初の印象
──住み開きならぬ「働き開き」的な空間で仕事をしていて、この町はどう映っていますか?当初と印象は変わりました?
三浦市は消滅可能性都市(編集部注|少子化や人口流出のため存続できない可能性を孕んだ自治体。「2010年〜2040年の期間で、20〜39歳の女性人口が 50%以下に減少する市区町村」という要件を満たす自治体のことをいう)に指定されている町です。三崎は三浦市の最南端に位置する漁師町。。
三崎に来る前までは、逗子よりも閉鎖的で、漁師のヒエラルキーが強くて、不良やヤンキーも多い閉ざされた場所なのかなと、当初は勝手に思っていたんです。地元が横浜市の端っこなのですが、神奈川県民でもなかなか三崎に行くことってなかった。鎌倉や逗子は東京にも近いですし、シティ感があって開かれた雰囲気がある。東京から移住してきた人たちもたくさんいるので。
だけど、三崎に実際に住んでみると、港町は海に開かれていて他の港の人とも交流する漁業者たちが作ってきた歴史があるから、まったく閉鎖的な雰囲気ではなかったんです。僕が思っていたより地形も文化的にもはるかに開けていて、外の人たちを受け入れる空気が流れていました。なにより住んでいる人や働いている人たちが明るくて悲壮感がなくて最高な人たちばっかりだった。
──地域に密着して三浦のことを考えながら生活しつつ、一方で自分たちの出版物を作ってますが、ミネさんの中で土地に根ざしながら仕事をしたいという思いはありましたか?
ありましたね。まず、地域におけるメディアがとても必要だと思いました。どの市町村区でも、観光協会などがサイトを作っているけれど、毎日見るような良質なサイトがあまりない。行政の人と話をしていて感じるのは、町のプロモーションがうまく機能していないということ。内製化出来ないから外注したり、いろいろなことしてると思うんだけど、そういうシティプロモーションは市民レベルでもできるようになれれば良いわけです。
特定の地域が自発的なメディアを持っていることに、僕はとても価値を感じています。だからこそ、メディア制作をしている自分たちが率先してやるべきだと思う。アタシ社で制作した、『みさきっちょ』『南端』など、三浦三崎の本を出版することにも意義を感じています。そういった思いが芽生えたことで、ただ地域メディアをつくりたいという気持ち以上に、使命感が生まれてきましたね。

求められていないけど、そういうのをガシガシやりたいという気運は三崎に来てから自分の中で高まっています。鎌倉逗子にいた頃は、余所の人やメディアがどんどんプロモーションしてくれるから、あまり必要に思わなかった。でも、三浦はそうしていかないとどんどん取り残されていく感覚があるから……。
──まったく縁がない商店街というコミュニティの中に、ある種余所者として入っていったわけですよね。そこでの町の人との関わり合い方で気をつけたことや大事にしたことはありますか?
三浦三崎で育ってきた、彼らには彼らのユートピアみたいなものがあって、この町の面白いところや好きな部分は守ってきたと思うんですよね。それはどの土地に行っても同じで、その土地のユートピアを余所者が絶対に壊してはいけない。
この場所を借りた時も、真っ白にリノベーションして、わかりやすい「格好いいお店」を作ろうとは思わなかったし、以前のお店の「米山船具店」という文字も剥がさないでそのままにしておこうとか、どうやったら商店街の中に溶け込めるを考えてましたね。そのためにはいきなりいろいろな事をしない。なるべくベースを保ったままちょっとずつ何かを始めたり、ズラしてみたり。でもまあ、お酒が好きで毎日のように商店街の人たちや町の人たちと飲み歩いていたので、自然に仲良くさせていただくようになりました。
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