Belong to ME #08|陶芸家・宇城飛翔

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企業や組織に所属せず、活動する人の数が増えている。テクノロジーの発展や価値観の多様化など、様々な理由が可能にしたこの「可能性」はしかし、「自由に稼げる」点ばかりが強調されていないか。現代における個人の持つ“強さ”とは、果たしてその1点で語れるようなものなのか?

本連載では、組織に所属せず、軽やかに領域を横断して活動する個人をマージナルな存在として位置づけ、今の働き方に至った経緯と現在の活動を伺っていく。インタビューは、その人が日頃活動の拠点としている場所で行う。

Vol.7に登場するのは、栃木県の焼き物の町「益子」を拠点とする陶芸家・宇城飛翔。消防士から陶芸家へと転身した異色のキャリアを持つ宇城は、何より「火」を見つめながら独自の活動を展開してきた。また、宿泊施設を備えた陶芸教室「益子陶芸倶楽部」のスタッフとして、コミュニティ運営にも深く関わっている。精神分析や神秘思想、占いなどにも造詣の深い宇城の作り出す「陶芸」とは、一体どのようなものなのだろうか? 消防士時代のエピソードから、陶芸家としてのこだわり、そして益子での活動について、火を囲みながら話を聞いた。

Text:Haruya Nakajima
Photo:Yuta Oda, Kenta Umeda
Edit:Shun Takeda

ダンス→消防士→陶芸家という異色のキャリア

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Q1. もともとどのような幼少期を過ごしていた?

宇城 千葉の四街道で育ちました。習い事もたくさんしていたし、実家がクリスチャンの家庭だったのもあって、いろんなコミュニティを行き来する幼少期を過ごしました。

というのも、クリスチャン的なものの考え方と義務教育的なものの考え方は全く違っていて、その両方で過ごしていくために、並列したリアリティを自分の中に持たないと、うまく立ち振る舞えなかったからですね。その場その場で周りに合わせてきた人生だったな、という印象です。たくさんの「正しさ」みたいなものにさらされていた気がします。

当時、陶芸やアートといったモノづくりには、むしろ苦手意識がありました。うまく作らないといけないというプレッシャーがあって。未だにちょっと苦手だなぁと思う部分があるくらいですね。そういったものを鑑賞するのはすごく好きでしたけど、まさか自分が作家になるとは考えてもいませんでした。

Q2. 思春期にはどのようなものに影響を受けた?

宇城 中学生くらいの時に反抗期のようなものがあって、宗教的な枠組みから逸脱したいと思いましたね。両親はモルモン教という少数派のクリスチャンで、かなり特殊な環境でしたから。このままじゃまずいという気持ちがあって、意識的にキリスト教的な考え方から外れていきました。いわゆるヤンキーになったりしたわけではないんですが、そのタイミングでヒップホップダンスを始めたんです。

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宇城 高校に上がってからはヒップホップダンスに傾倒していきました。15歳ぐらいから横須賀のクラブに出入りするようになって、高2の時に留年しました(笑)。

でも横須賀のクラブには本当にカルチャーショックを受けて、「自分に必要だったのはこの野蛮なブラックカルチャーだ!」と当時は思ってました。横須賀には米軍基地があるので、黒人しか来ないクラブが当時はいくつかあって、クラブでしか会えない友人ができて。最近調べたらほとんど潰れていて少し寂しい気持ちがしました。もちろん、普通の高校生がやってないことをやってる、と悦に入ってる部分もありました。バンドをやるような感覚で、いくつかのクラブに通っていたんじゃないでしょうか。

Q3. その後は消防士になられたわけですが、転機は?

宇城 一番お世話になっていたダンスの先生が、横浜の消防局に勤務していたんです。ダンスをやりながら消防士をやるという、二つのものを両立させている身近なケースだったので、自分でもそういうのができるんじゃないだろうかと考えました。そこで公務員試験を受けてみたら受かってしまって。19歳から地元の千葉市消防局に勤務して、結局7年間やりましたね。

消防士の仕事には充実感がありました。明確に感謝されることがまず大きいです。あと、3年目からレスキュー隊(特別救助隊)に配属されたんですけど、スペシャリスト的な役割だったので、自尊心みたいなものはそこで満たされていました。

かなり専門的にトレーニングして、ヘリコプターに乗って救助したり、『海猿』みたいに潜水して救助したりとか。でも、24歳ぐらいから具合が悪くなってきて、「本当にこれを続けていていいのか?」という疑問が湧いてきた。

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Q4. なぜ消防士に疑問を抱くようになった?

宇城 一つには、僕は本を読むのが好きで、その当時も精神分析とか神秘思想といった厄介な本を、年間100冊くらいのペースでガンガン読んでいたことがあります。レスキュー隊は最前線に行くので、目の前で人の死を見る機会が多かったんです。胸ぐらをつかまれながらグッと目をみられてそのままガクッと亡くなられたりとか、そういうことが度々あって。

だいたいは帰りの消防車の中で冗談交じりで現場について話し合ったりごまかしたりしてトラウマを回避する方法を取るんですが、さっき言ったような本を読んでたこともあって、かなり深刻に捉えたり、センシティブになったりして、それまで割と流せていたものが大きな出来事として自分の内面に入ってくるようになっていきました。今考えると、それまで抑圧してきた体験が表面化してきたのかもしれません。

「人は死ぬ」というリアリティが強烈だったから、「いつか自分も死ぬ」という感覚が当然強くなりました。レスキュー隊に残れば数十年間で幾人かの人を助けることができるかもしれない、でも自分の人生として本当にこのまま続けていていいのか、と。

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宇城 そうした時に、自分は外の世界をあまり見ていないという思いがあったので、できる範囲で海外に行ったり、外の世界に関わるようになりました。でも、最終的に完全にうつ状態になったんです。仕事はやりがいがある、現場に出ればアクセル全開で行くんですけど、体と心は止めたがっているのでブレーキも全開で踏んでいる、みたいな状態。

最後には毎朝決まった時間に鼻血が出てくるようになって、これはいよいよだな、と。真剣に考えに考えて、辞めるという方に舵を取りました。ラスト1年はかなりしんどかったですね。

Q5. そこから陶芸の道に進んだ経緯は?

宇城 消防士を辞める少し前から趣味として陶芸教室に通い出したんですが、消防士を辞めてすぐ、ちょうどその教室の企画でここ「益子陶芸倶楽部」に窯焚きに来たんです。そうしたら、自分の作品がほとんど燃えてなくなっちゃったんですよ。

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宇城 窯の温度が高すぎて作品が溶けて液体のようになってしまうことがあるんですが、この時は窯で焚く温度に対して土が弱すぎたので文字通り消えてなくなってしまった。その体験が妙に刺さって、陶芸というより「焼き物をやろう」と思いました。初めの頃は器を仕上げることよりも焼くことがおもしろくて、焼くために作ってる感覚でしたね。

焼くことがおもしろいって、元消防士としてどうなんだと言われることも正直あります(笑)。でも消防の時にも、デカすぎて消せない火に強烈なエクスタシーを感じたことがありました。圧倒的なものに対する恍惚感とでも言うんでしょうか。

堀田善衛さんが『方丈記私記』で、空襲で家を焼かれた人々が「焼けてこれであたしもサッパリしました。」とよく言ったと書いていて。火事の現場でも家が焼けてしまった人はなんとも言えない表情で、悲しんでいるだけではないように見えましたし、自分も含めてそうした圧倒的な焼却力に対する人間の反応がおもしろいと思いました。「火」というもののイメージは、消防士をやる中で、窯を炊いていく中で自分の内部で育ってきた一貫したテーマかもしれません。

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Q6. なぜ陶芸を続けていこうと思った?

宇城 教室に通い始めた当時、具合が悪くなりつつあった自分にとって、粘土という素材が持つ魅力を強く感じました。というのは、「自分の人生はもう変えられないんだ」くらいに思っていたところが、粘土は押すと形が変わるのがものすごく新鮮だったからです。自分の手によって何かが変えられるという気づきが、身体感覚を通じてダイレクトに伝わってきた。粘土は可塑性が高いメディアなので、曲げたら曲がったまま残ってくれるとか、ちぎったらちぎれるけどまた元に戻せるとか、その自由度の高さが重要でした。

しかも、器って凹みさえあれば用途として成り立つので、敷居がかなり低いんです。うまくできる必要がないという点も当時の自分には良かったですね。それなのに、焼きすぎるとなくなってしまったりする。時間をかけたものが一瞬でなくなる……それが逆に気持ちよかったのかもしれません。そんな風にして、どんどん陶芸の世界にのめり込んでいきました。

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