中島晴矢の断酒酒場 #4 上野「たる松」の赤ウィンナーと冷抹茶

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1週間働いたあとの金曜に、のれんをくぐる行きつけの酒場。出先での夕暮れ時、ふと入った老舗の赤ちょうちん。1杯の酒は緊張を解し、客同士の何でもない会話がその町の佇まいを伝えてくれる。

酒場は町のオアシスであり、文化の集積地だ。だがある日を境に酒が一切飲めなくなったのなら、そこはどんな場所になるのだろうか。

町の酒場をこよなく愛しながらもアルコール依存症と診断され、人工的な下戸となったアーティスト・中島晴矢が、シラフで愛した酒場を訪ねる業深き連載。その名も「中島晴矢の断酒酒場」、今宵開店!

Text:Haruya Nakajima
Photo:Mai Shinoda
Edit:Chika Goto

スリップの恐怖

断酒して丸一年が経過した。

記念すべきかどうかはわからないが、とにかく一年である。365日間、全く飲酒していないことになるわけだ。

と言いつつ、実はこの一年で一度だけアルコールを口にしている。町屋のホルモン屋でトマトジュースを頼んだ際、間違って運ばれて来たトマトハイを一口飲んでしまったのだ。喉を通した瞬間アルコールの風味に気づき、すぐ店員を呼んで取り替えてもらった。幸い、すでに抗酒剤を服用していなかったから助かったが、そうでなければその場でひっくり返っていた可能性もある。

思い出すのは、通院していた断酒クリニックで出会ったある患者さんのエピソードだ。30代半ばの気さくな兄さんで、何度もスリップ(再飲酒)と入退院を繰り返しているというその人は、もう一年以上酒を口にしていないと言っていた。

彼が依存症になったきっかけは連続飲酒である。毎晩ブラックアウトするまで酒を浴び、朝起きたら真っ先に冷蔵庫を開けて缶ビールを飲むような生活を続けているうちに、まず固形物が喉を通らなくなり、やがて飲み物すら身体が受けつけなくなって、強制入院。入院するとすぐ、幻覚や幻聴といった禁断症状が起きたらしい。病院の人がみんな知り合いに見えてきて、羞恥心で消え入りたくなる。夜中、お祭りなんてやっているはずないのに、祭囃子や太鼓の音がピーヒャラドンドンと聞こえてくる……。

そんな彼が退院後、一度目のスリップを経験した時の話。朝起きて抗酒剤を服用したにもかかわらず、心ここにあらずの状態で勝手に身体が動き、気づいたらコンビニ前で缶チューハイをグビグビと呷っていたそうだ。「大丈夫だったんですか?」と尋ねると、彼は笑ってこう答えた。

「抗酒剤の副作用を、アルコールの酔いで上回ったんだ」

結局、そのままぶっ倒れるまで酒を飲み続け、再入院と相成ったということだった。これも一種の「アル中あるある」なのだろうか。シラフでも赤ら顔の抜けないあの兄さんが、今でも断酒を継続できていることを切に願う。

一方で、僕のトマトハイの一舐めは、そこから精神的にも身体的にもスリップへと転がってしまいかねない、ある意味で危険な瞬間だったのだと思い、改めて背筋を冷たくする。が、今宵も僕は「断酒酒場」へと繰り出すのだ。だって一周年だもの。

2021年晩夏、アメ横の雑踏

京成線で小雨の降る上野にやって来た。

祝い事と言えば盛り場であり、東東京の盛り場と言えば上野に決まりだろう。お祝いに一杯、というわけにはいかないのが断酒者の難儀なところだが。

駅舎も駅前もずいぶん増改築が進み、真新しくなっている。あまり変わらないのはアメヤ横丁、通称アメ横だ。名前の由来は、露店の“飴屋”がたくさんあったからという説と、かつて憧れの“アメリカ製品”であふれていたからという説の、二通りある。どちらにしろ、戦後の闇市で発展した通りだ。

足を運ぶと、時節柄さすがに人通りは少ない。つい2年前までのすし詰めの大晦日を懐かしく思い出すが、それでも商店の人たちの活気ある呼び込みは健在だ。いい意味でゴミゴミとしたアメ横の姿には、いつもどこか雑踏の安心感が漂っている。

もちろん居酒屋は軒を連ねている。閉まっている店も多いが、客でごった返しているところもあった。僕は営業に関する価値判断はしたくない。それぞれの店舗の選択や決断に、それぞれの意思や筋があるのだろうと思っている。平時であろうとなかろうと、これはあくまで酒場の主観的なレポートの一つなのだ。

そんなことをぼんやり考えながら、カフェインを体に入れるべく、ひとまず喫茶店を探す。アメ横には「ギャラン」「丘」などのいい喫茶がいくつもあるが、せっかくだから入ったことのない店に行ってみたい。高架下を潜ってマルイ裏の辺りで見つけたのが、「珈琲王城」。その名の通り、レンガ張りで格調高い店構えだ。

すぐ近くのカフェ「マドンナー」と迷ったが、ええい、と「王城」へ入ってみれば、そこは昔ながらの純喫茶。でも、ずいぶんキレイでオシャレだ。人気店なのだろう、店内は若い女性客でいっぱいである。ベッチンのソファに石製のテーブルで、BGMはクラシック。一輪の花のようなシャンデリアが目立っている。

まだランチタイムなので食事を頼むことにした。喫茶店のフードメニューと言えば、やはりナポリタンである。ナポリタンとアイスコーヒーのセット(1000円)を注文。と、アイスコーヒーが先に来る。コースターのヒマワリ柄が可愛い。老舗の喫茶店らしい、苦味の強い深煎りだ。

ナポリタンがケチャップの香りを伴って運ばれて来た。四角いベーコンが2、3枚ドーンと乗っかっている。それにピーマンとマッシュルーム。粉チーズも付いてきた。食べてみると、野暮ったくなくて洗練されている。これぞ純喫茶の王道の味、さすが「王城」だ。

今宵の酒場へ

コーヒーを飲み終えると雨は上がっていた。そこから上野公園へ足を伸ばし蝉時雨を浴びる。東京都美術館で友人のアーティストの展示を見るためだ。そういえば、上野公園は明治時代に日本で初めて出来た公園らしい。それまでの日本には「公園」という概念がなかったわけか。

じっくり作品を鑑賞し、作家とも会って話せた。美術館を出ると5時の鐘が鳴る。時節柄どの店も早く閉まってしまうから、もう酒場へ向かうことにした。再びアメ横に戻り、路地を散策していると、大きな看板に出会う。「全国銘酒たる松」。紅白のカラーリングに、太筆でざっくり書かれたようなフォントが渋くて格好いい。二階席もあって広そうだし、混雑もしていなさそうだ。よし、ここにしてみよう。

このところ、いよいよ店を嗅ぎわけられるようになってきたと思う。この間、別の連載の打ち合わせのあとに編集者と恵比寿で突発的に断酒酒場をやってみた。その時も、外観の雰囲気を頼りに「栃木屋」という良店に出会えたのだ。焼き鳥が抜群で、編集者は焼酎と日本酒をグイグイやっていたから、僕はカルピスソーダで応戦したのだった。

話が逸れた、ここは上野「たる松」である。一階はカウンターとテーブル席で、二階へ通される。久しぶりに掘りごたつ式の座敷席だ。どっしりと構えた大店で、BGMがなく無音なのもありがたい。ビールで乾杯というわけにはいかないので、まずはコーラ(320円)を注文。断酒一年目を祝うと言っても、ソフトドリンクだから中学生の文化祭の打ち上げみたいなものだ。

最近、K-POPアイドルのTWICEが「Alcohol-Free」という曲を出した。「お酒なんか飲まなくても愛に酔うことができるでしょ、という歌」(チェヨン)である。愛に酔えるかはさておき、僕もアルコール・フリーで酒場の雰囲気に酔いながら、1年間のあれこれを大人しく労うことにする。

黒板に「本日の刺身」とあるから、やはりこの店のオススメは海鮮系だろうか。魚介で組み立ててみよう。刺身からはひらめ(680円)、乾物であなご丸干(390円)。あとは酸っぱいものがほしかったから、はも皮酢(390円)を頼んでみた。

ひらめとはも皮酢が来る。器の陶器がいなたい。ひらめは弾力があって、プリプリと肉厚で贅沢。全然ひらたくないじゃないか。はも皮酢は頼んでみたものの、食べたことがない。フグ皮ポン酢は好きだが、はもはお吸い物などの高級なイメージがある。食べてみると、皮に身が残っていて、しっかりした味わいだ。

エイヒレみたいなあなご丸干は、マヨネーズをつけてしがむ。日本酒を合わせたらさぞ美味かろう。いや、いま合わせるのはあくまでソフトドリンクだ。どれも全体的に味が濃い目で、まさにおつまみといった風である。コーラの甘さと肴のしょっぱさのマリアージュが、駄菓子感覚で楽しい。

なんだがこの店、駄菓子っぽい定番の居酒屋メニューを選ぶのがベストな気がしてきた。道筋が立って、品書きを見ながら小躍りしたくなってくる。脳内ではダンサーの気分、ここは軽快にいきたい。だいたい「断酒者(だんしゅもの)」という言い方は、やっぱりどこかいかめしい。カジュアルに言えば、これは「ダンシャー」ということではないか。うん、しっくりきた。「断酒者(ダンシャー)」でいこう。

「酒場らしい酒場」の矜持

肩書きも定まったところで、パーティの続きである。子供っぽくなってきた舌に捧げるべく、赤ウインナー(480円)塩らっきょ(320円)、そしてドリンクに冷抹茶(320円)を追加。我ながら悪くないチョイスだ。「赤」「塩」「冷」と、どれも接頭語が素晴らしいじゃないか。

赤ウィンナー、その名の通り赤い。これに赤いケチャップをつけて食べれば、いよいよ子供のおやつ味だ。塩らっきょうもたまらない、サッパリとして口内が涼しくなる。どちらもなんとも言えず懐かしい、素朴な味わい。冷抹茶は濃いグリーンで、甘味みたいな見た目だが、ちゃんと苦い。炭酸やジュースもいいが、冷静にツマミのアテは苦い飲み物に限る。そう、ツマミに対して受け身が取れるからだ。

さっきから少し混み出していたが、みんな静かに飲んでいる。全然騒がしくない。改めていい店だ。特別、何かに特化していたり、強いコンセプトがあるわけではない。でも、酒も肴も何でもあって、どれもまんべんなく美味しい。断酒一年目でそういう酒場らしい酒場に当たったことを、心から嬉しく思う。

最後、やっぱり刺身に戻りたくなったので、たこぶつ(540円)を頼む。たっぷりとした量で、すごく柔らかい。美味いに決まっている、当然のようにすぐ平らげてしまった。冷酒ならぬお冷やを頼んで〆る。ごちそうさまでした。

そして断酒の日々は続く

とにかくこの一年を「Alcohol-Free」で過ごしたが、いまだに酒を飲みたいかと聞かれれば、正直飲みたい。テレビからビールやサワーの扇情的なCMが流れるたび、見ないよう、考えないようにしているくらいだ。アルコールによる心身への強烈なキック。あの刺激を、脳は卑しくもしっかりと記憶して忘れない。酒は安価で合法だが、ハードなドラッグだということを改めて思う。

断酒とは不思議な営みだ。何とか飲まないでいられるのは、いちおう欲望を理性で抑えられているということなのだろうが、それも単なる結果論に過ぎない。一つ言えるのは、一年経っても何の区切りでもないということだ。不全感を抱えたまま、また飲まない日々が淡々と続いていくだけである。

いわば断酒者は、赤提灯の点らぬ闇の中を彷徨っているようなものだ。これを英語にすれば、すなわち「ダンシャー・イン・ザ・ダーク」ということになる。

店を出るとアメ横の灯りはまばらだった。夜道は上野駅の方へと伸びている。

PROFILE
中島晴矢(なかじま はるや)
アーティスト。1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。美学校「現代アートの勝手口」講師、HIPHOPユニット「Stag Beat」MC、プロジェクトチーム「野ざらし」メンバー。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM/東京 2019-2020)、「バーリ・トゥード in ニュータウン」(TAV GALLERY/東京 2019)、グループ展に「芸術競技」(FL田SH/東京 2020)、連載に「オイル・オン・タウンスケープ」(論創社)など。
http://haruyanakajima.com
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