酒場は町のオアシスであり、文化の集積地だ。だがある日を境に酒が一切飲めなくなったのなら、そこはどんな場所になるのだろうか。
町の酒場をこよなく愛しながらもアルコール依存症と診断され、人工的な下戸となったアーティスト・中島晴矢が、シラフで愛した酒場を訪ねる業深き連載。その名も「中島晴矢の断酒酒場」、今宵開店!
Text:Haruya Nakajima
Photo:Mai Shinoda
Edit:Chika Goto
2年目の貫禄
断酒生活も、気づけば2年目に突入した。
趣味みたく考えてみると、もう初心者とは言えないはずだ。もちろん、まだ決して上級者ではないだろうが、中級者くらいの領域に足を踏み入れた感はある。
現に近頃、「酒を飲みたい」と強烈には思わなくなってきた。クリニックにも通っていないし、抗酒剤も服用していない。基本的には自由の身だ。自由の身であるのに飲酒していないわけで、「断酒者(ダンシャー)」として諸々整ってきたと言える。ダンシャー2年目の貫禄である。
ただ、中級者が特に危険だというのは肝に銘じたい。スキーや車の運転ではないが、怪我や事故のリスクが高まるのは「慣れてきた中級者」だろう。それこそ「スリップ(再飲酒)」に注意しなければならないのだ。
もう少し掘り下げると、この連載自体がスリップに対する安全弁として働いていると感じるようになった。酒席に参加しても何とか飲まないでいられるのは、周囲の人たちが僕の断酒という実践を知ってくれているからだ。公表しているから後に引けないという部分もあるし、何より「読んでるよ」「おもしろい」といった言葉が断酒継続のモチベーションになっている。
逆に言えば、依存症に孤立は禁物だ。依存症の克服においては、「AA(アルコホーリクス・アノニマス)」や「断酒会」といった自助グループの存在が重視される。要するにコミュニティが必要不可欠なのである。その意味で僕にとってこの連載は、一種のコミュニティの役割を果たしているのだと思う。
「オムピラ」でまずは一服
東京から2時間ほど常磐線に揺られ、水戸駅にやってきた。
水戸に馴染みは薄いものの、水戸芸術館、通称「ミトゲー」があるので学生時代から何度か訪れている。若干遠いので毎回来られるわけではないが、やはりここぞという企画展の時には足を運ぶ。今回も目当てはミトゲーだから、ちょっとしたアートツーリズムだ。
駅前には水戸黄門の銅像と、藁巻き納豆の記念碑が鎮座している。後者は猥褻物に見えなくもなく、ううむ、などと思いながらペデストリアンデッキを降り、ブルーが印象的な壁画を横目に大通りを進む。HITOTZUKIのグラフィティは水戸にもあるのか。
美術館の前にランチとカフェインを摂取したかったので、途中の路地で見つけた『トロピカル』という喫茶店に入ってみることにした。看板の文字が落ちて「コーヒーハウ」になっている。脱字の看板は路上に展示されたアート作品だ。
店内は渋い中にもキュートさが漂う内装で、棚や壁に様々な物品が所狭しと並んでいる。アンティークという点で統一されてはいるが、ジャンルにこだわっていないらしいのがいい。分裂気味の堆積物が、この店の歴史を可視化しているように思える。
ランチには喫茶店らしいメニューが一通り揃っていた。その中に、「オムピラ」という蠱惑的なネームが見受けられる。オムライス×ピラフか……いや、いくでしょう、ここは。アイスコーヒーが付いて980円也。
ありがたいことにタバコが吸える。小さな店でもタバコが吸えるのは地方都市ならではだろう。タバコの値上げが止まらないので、一箱500円を超えたあたりでハイライトから手巻きタバコに変更した。たしかに手間だが、自分で巻くタバコの味わいは捨てたものじゃない。
酒は飲まなくなったが、タバコはいまでも馬鹿みたいに吸っている。むしろ断酒前より増えたくらいだ。これも依存の一種だろうが、しかしそれでいいとも思っている。断酒だって、別に「健康」になりたくてやっているわけではないからだ。酒をやめたことで結果的に健康に近づいてはいるのだろうが、昨今の世間の「不健康」に対する神経症的な敵意には、正直に言って違和感を抱いてしまう。
そんなことを考えながらタバコを吹かしていると、オムピラがやってきた。薄焼きの卵が乗ったシンプルな形式、これで充分だ。刃を入れて開くトロトロのタイプは、何と言うか、あざといのである。スプーンですくったピラフはケチャップ味で、そうなると普通のオムライスと何が違うのか判然としないが、それもまたよし。お腹も減っていたので、粉チーズやタバスコを使うのも忘れてペロリと完食してしまった。
銅色のカップに満ちたすっきりした苦味のアイスコーヒーを啜る。隣の席の女性客にロイヤルミルクティが運ばれてきた。何だか羨ましくなって、こちらも負けじと銀色の小さなポットに入ったミルクとガムシロップを注ぐと、カップの中でマーブル状に溶けていく。
北関東、都市のスキマに
店を出て水戸城跡地からまっすぐ進むと、やがて磯崎新設計の幾何学的なタワーが見えてくる。その麓にあるのがミトゲーで、今回はスイス人の女性アーティストであるピピロッティ・リストの個展を鑑賞した。
とにかくビデオ・インスタレーションが巧いのだが、特に作家自身の出演する初期の映像作品がいい。後期はどうしても、その巧みさゆえにスペクタクルなエンターテインメントに接近してしまい、ヒリヒリとした皮膚感覚が薄れているように感じた。それでも、彼女が車の窓ガラスを叩き割っていく代表作《Ever is Over All》を見られて満足する。さて、ミトゲーを後にして今宵の断酒酒場を探しに行こう。
過密な東京と異なり、水戸の市街地には都市のスキマが散見される。メインストリート「黄門さん通り」を歩いていると、いわゆるトマソンや看板建築がいくつも見つかった。そこから路地を抜けて桜川にかかる橋を渡る。千波湖という小さな湖と隣り合っているが、水戸にこんな湖があるとは知らなかった。
駅南通りを行くとラブホテルや飲み屋の点在する繁華街に入る。その猥雑さにテンションが上がるものの、どうしても惹かれる酒場に出会えない。ちょうど日も暮れてきた。町外れへ向かうにつれて周囲は暗がりが優ってくる。
そんな折、いい具合に古びたマンションとぶつかった。植木鉢がはみ出したようなベランダが愛らしい。目を落とすと一階部がいろいろな店舗になっている。その右端に、ひときわ鈍い輝きを放つ居酒屋を発見した。『居酒屋 八丁』、いい店構えだ。やや入りづらそうだけど、もうこの先に店はないだろう。よし、ここに決めた。
店内はカウンターと座敷席からなっていて、思ったよりも広い。緊急事態宣言が明けてすぐだったから、常連さんがポツポツいるくらいだ。いい酒場は誰かの家の居間に上がり込んでしまったかのような錯覚を与えるが、この店はまさにそれである。カウンターのイスがスナック風で、店全体の雰囲気とチグハグなのもおもしろい。
靴を脱いで座敷に着くとさっそく飲み物を聞かれるが、ダンシャーはここで待ったをかけてソフトドリンク欄をにらむ。うん、とりあえずジンジャーエール(350円)からいこう。
まずお通しが2皿で嬉しい。ナスとパプリカの味噌和えに、キュウリの浅漬け。ナスには味噌ダレがよく染み込んでいて、キュウリはピリ辛だ。パプリカの彩りもきれいだし、こういうお通しに当たるとありがたい気分になる。
お通しの印象そのままに、店を切り盛りするご夫婦も丁寧で愛想がいい。何でもありそうだが、ひとまず今夜の柱となる一皿が要る。そこで、本日の刺身盛六品(1,320円)を注文。かなり安いからどんなものだろう、と勘繰っていると、刺身がたっぷり盛られた大皿が来た。タコ、ホタテ、中トロ、アジ、カツオ、タイ……最高じゃないか。
ご主人が大洗直送のアジだと教えてくれた。やはり茨城県産の食材を推しているようだ。表の看板にも「常陸銘酒」とあったが、恥ずかしながら「常陸」で「ひたち」と読むことを知らなかった。遠出した先でその土地のものを味わうのは何にも替えがたい喜びがある。北関東にはまだまだ僕の知らないモノゴトが詰まっているのだ。
運転者ではないのだけれど
常陸の恵みをもっと享受するべく料理を追加していく。真鯛のフライ(830円)と山芋の磯辺揚げ(720円)。タルタルソースをふんだんにつけてフライをかじると、ずっしり存在感のある白身。タイのむっちり感が閉じ込められたフライだ。磯辺揚げは海苔と衣がサクサクで中の山芋が熱々ふわふわ。『八丁』、どれも料理が素晴らしく、間違いない酒場だと確信する。
ご主人はフレンドリーで、「旅行で来たの?」と話を振ってくれる。その流れで酒を飲まないのかと聞かれたので、「ちょっと運転が……」とあたかも自動車で来たかのような雰囲気を醸し出した。いや、別に酒を飲まずに居酒屋にいたっていいはずだ。「下戸なんです」と言えば終わる話でもあるし、そもそもごまかす必要はない。でも、「断酒してます」だと世間話としては重くなってしまう。「僕、ダンシャーなんです」などと言えば、途端におかしな奴だと思われてしまうだろう。だから、「本当は酒を飲みたいけれど車の運転があるから飲めない人」を演じるのが手っ取り早い。「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」である。
そんな誰の知るよしもない内面の葛藤を経てから、烏龍茶(350円)を頼む。さらに納豆たまご焼(700円)を追加。水戸に来たからには納豆を食べておきたいのが人情というものだ。運ばれてきたのはスクランブルエッグのようなビジュアルで、納豆と刻みネギが混ぜ込まれていた。その上にカツオ節が踊り、皿の脇ではマヨネーズがたたずんでいる。スプーンですくって口に入れると、ネバトロでさすがに美味い。
突然、ご主人が頼んだ覚えのない肴を持ってきた。「これ、日立の方で獲れたメヒカリの唐揚げなんだけど、ガソリン代が高いだろうから、サービスだよ」。何という心遣いだろうか。丸揚げされた4尾の立派なメヒカリを、レモンと塩でありがたく頂戴する。もちろんガソリン代はかからないし、だいたい僕は1年前に免許を取ったばかりで、ろくに運転もできないのだけれど。
メヒカリは初めて食べたと思うが、これが抜群で、ご主人に美味しいと伝えると、今度は常陸太田産だという落花生まで持ってきてくれた。ちょっとサービスが過ぎるんじゃないのか。テーブルに御馳走がズラッと並んでしまった。
最後に、レモン入り炭酸水(350円)をオーダー。メニューには書いてないが、だいたいの居酒屋ならこの注文には乗ってくれると経験則で知っている。こちとらダテに断酒中級者ではないのだ。出された炭酸水を口に含み、こいつが断酒酒場における一番の親友だと再確認する。卓上の料理を平らげ、タバコを巻いて一服。ごちそうさまでした。
会計を済ませると、ご主人が「また寄ってね」と笑顔で見送ってくれる。が、店前の駐車場が空なのを見て、「あれ、車は?」とツッコまれた。ギクリとしながら「駅の方に停めてあります!」と返す。結局、最後まで運転手で押し通してしまった。
何とも言えない気恥ずかしさを満腹の腹に押し込み、北関東の夜風に吹かれて水戸駅へ急ぐ。ご主人すいません、電車で帰ります! 常陸料理めちゃくちゃ美味しかったので、また寄らせてください!
中島晴矢(なかじま はるや)
アーティスト。1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。美学校「現代アートの勝手口」講師、HIPHOPユニット「Stag Beat」MC、プロジェクトチーム「野ざらし」メンバー。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM/東京 2019-2020)、「バーリ・トゥード in ニュータウン」(TAV GALLERY/東京 2019)、グループ展に「芸術競技」(FL田SH/東京 2020)、連載に「オイル・オン・タウンスケープ」(論創社)など。
http://haruyanakajima.com