酒場は町のオアシスであり、文化の集積地だ。だがある日を境に酒が一切飲めなくなったのなら、そこはどんな場所になるのだろうか。
町の酒場をこよなく愛しながらもアルコール依存症と診断され、人工的な下戸となったアーティスト・中島晴矢が、シラフで愛した酒場を訪ねる業深き連載。その名も「中島晴矢の断酒酒場」、今宵開店!
Text:Haruya Nakajima
Photo:Mai Shinoda
Edit:Chika Goto
松戸ブロンクスに移り住んで
断酒を始めてから1年半ほど経った2022年の初頭、千葉県の松戸に引っ越した。
15年ぶりくらいに東京を出たことになる。生まれは横浜だから、人生初の千葉県民だ。とはいえ、松戸は葛飾から江戸川をまたいですぐ。ほとんど東京近郊の一部と言っていいのだと思う。
この連載をしている媒体「M.E.A.R.L.」は、株式会社まちづクリエイティブのオウンドメディアなのだが、その本拠地が松戸である。まちづ社は松戸で、「MAD City」というクリエイターやアーティストが集う仮想の自治区をつくっている。もちろん、「Matsudo」と「MAD」を掛けてるわけだ。
そんな松戸に取材仕事で通っているうち、どこか惹かれるようになって、ついに移住してしまった。あとは、諸事情でアトリエがなくなったので、家賃を抑えつつ間取りを広くしたかったということもあるし、ウィズコロナ、ポスト五輪の東京から、少しだけ距離を置きたかった部分もある。
ちなみに、僕が引っ越したのはまちづ社の取り扱う物件ではない。アパートとマンションの中間みたいな、普通の住宅だ。立地は常磐線の線路の真横。窓からは、ひっきりなしに電車が行き来する線路と、自動車の走る立体道路、そして江戸川の支流が眺められる。道路を支える柱にはグラフィティが描かれていて、高架下には不法投棄のゴミが溜まり、見たところ路上生活者の姿もある。なかなかサグい景色じゃないか。
というわけで、僕はここを勝手にブロンクスと見立ててみる。治安が悪めな、鉄道とグラフィティのある風景。松戸ブロンクス、すなわち「MAD Bronx」である。依存症をブレイクスルーするため、ここから僕は再びブレイクダンシュを踊っていく必要がある。アルコール度数ゼロ、マッド・ブロンクスから始める断酒生活だ。
本寸法の飲み屋横丁
とはいえ松戸の町に馴染めているとはまだ言えない。DIGの真っ最中である。飲食店を中心に、引っ越した町を探訪するのは何より楽しい。
前に住んでいた荒川区の町屋は、断酒的に言えばきわめて危険な町だった。しかし、松戸も負けず劣らずの危険地帯のようだ。なにせ郊外都市だから、チェーン店が勢ぞろいしている。ないチェーンはないのではないかと錯覚するくらい、なんでもある。ここにきて、チェーン系居酒屋のクオリティを再評価する機運が高まっているのかもしれない。
もちろん、老舗の酒場も多そうだ。駅西口を出て少し行ったところに、小さな飲み屋の密集した、なかなかの横丁がある。しょんべん横丁、飲み屋横丁などと呼ばれているようだが、正式な名称はないらしい。新宿・歌舞伎町の路地裏にある「思い出の抜け道」のサイズ感に近いだろうか。とにかく、バラックと路地の趣は本寸法だ。やはり断酒酒場・松戸編の一発目は、その横丁に行ってみようということに相成った。
僕の家は東口側にあるので、道中、西口側に渡る必要がある。引っ越して来てわかったのだが、松戸は東西で大きく分断されている。南北を貫く幅広な線路がベルリンの壁なのだ。東西を行き来するには、ポイントポイントにある、大がかりな歩道橋を利用しなければならない。これがかなり面倒で、もはや東松戸、西松戸といった風なのである。
で、ある平日の夕方、家から歩道橋で西側へ横断し、駅前にある横丁へ到着。すぐ裏手にはパチンコ屋「楽園」があって、その上階は、かつてのラブホテルをそのまま使ったアーティスト・イン・レジデンスの施設「PARADISE AIR(パラダイス・エア)」になっている。「楽園」の上にあることから取られたネーミングがおもしろい。ここもすこぶる実験的なアートスペースだ。
横丁にひしめいている酒場は、見たところ10軒くらいだろうか。スナックやバーのような雰囲気の店もあるが、さすがに一見では入りにくい。だいたい、僕は飲まないのである。そこで、高砂通りに面した比較的入りやすそうな店に決めた。なにしろ名前が「松戸酒場」である。松戸をレペゼンする酒場だと自ら謳っているようなものじゃないか。ここしかない、「松戸酒場」の暖簾をくぐることにしよう。
大衆酒場の真骨頂は平日夜にあり──「松戸酒場」
店に入ってみると、思ったよりも広かった。それに、建物の外観は言ってしまえばボロボロだが、店内は明るくて清潔。カウンターと少しのテーブル席が並び、狭すぎず広すぎず、ちょうどいい塩梅である。常連さんで混み合っていて、ご夫婦が切り盛りしているようだ。無事、テーブル席に通された。
メニューを見やると、なんとソフトドリンク欄がない。これは困った、ちょっと珍しいパターンだ。飲酒しない者など客として想定しておらん、というメッセージ? 僕は招かれざる客なのだろうか。このピンチを切り抜けるには、素直に大将に聞いてみるしかない。
「すみません、ソフトドリンクって何かありますか……?」
「え? あ、うーんと、ウーロン茶ならあるよ」
大将は「酒を飲まない人間がウチに来るのか?」という訝しげな表情をしている。驚かせてしまったのなら申し訳ない。僕はただ一介の断酒者(ダンシャー)なのです。
レモンハイボールのグラスに注がれたウーロン茶が運ばれてくる。どうやらお通しはないようだ。卓上のメニューと、店内に散らばるホワイトボードを睨む。ひとまず、ホタルイカ(富山)(600円)と、もつ煮 豆腐入り(460円)を頼んでみた。
店内ではタバコも吸える。条例的な意味で、ここが東京ではなく千葉だからだろうか。川を越えればルールも変わってくる。飲食店内において東京で吸えないタバコが千葉で吸えること。それはアメリカで大麻が吸える州と吸えない州があることに近いはずだ……いや、どうだろう、冷静に全然違う気もしてきた。
後ろの席の常連らしきおじいちゃんおばあちゃんグループは、「あれはバカ女だよ!」「いや、あいつがバカ男なんだ」などと言ってガハハと笑い合っている。ううむ、やはり高齢者もサグい。MAD Cityの風格を見せつけられる思いだ。いや、今はそんなことより、もつ焼きも頼もう。タン(130円)、レバー(130円)、そして豚バラたまねぎ(250円)を注文。
ホタルイカともつ煮が到着する。可愛げのあるホタルイカは皮がぷちっと、中のワタがぐにゅっとして、その食感が楽しい。もつ煮は七味をたっぷりかけていただく。白味噌ベースでこんにゃくの入ったクラシカルなスタイル。もつ煮は酒場の基本である。間違いない、がぜん当たりの店だ。
もつ焼きもしっかりと分厚い。タンは歯ごたえがあり、醤油ダレのレバーはミディアムレア。豚バラたまねぎは迫力のあるサイズだ。塩コショウがまぶされていて、さながらBBQのテンション。たまねぎはすごく甘いから、春の新たまねぎだろうか。どの料理も美味しいし、なにしろ盛り付けが美しい。バラックの中の丁寧な仕事がここにはある。
さらに、若鶏の唐揚げ(600円)を追加。後ろの席のおばあちゃんはベロベロになって、呂律が回らなくなりつつある。そうこうしているうちに、お店の人やお客さんも含めた店にいる全員に心配されながら、ひとり先に帰っていった。なんともアットホームな店だ、平日夜の横丁には濃厚なコミュニティがある。
ジュ〜ッと唐揚げを揚げる小気味いい音が聞こえてくる。どうしても唐揚げにはレモンサワー的なものをあわせたい。でも、ソフトドリンクはウーロン茶しかなかった。ただ、各種酎ハイは揃っている。ということは、割り物をソフトドリンクとして出してもらえるかもしれない。頼んでみる価値はある。そこで「炭酸水にレモン入れたもの、もらえますか?」と聞くと、「シロップ? 果汁?」と返ってきたので、とっさに「どちらでも!」と答えた。よし、これで大丈夫だ。
すぐに唐揚げと、レモンの浮かぶ炭酸水が運ばれてきた。アルコールは入っていないとはいえ、この組み合わせに勝るものは少ない。唐揚げは手作りの優しい味わい。ザクザクと人工的ではない、ちょっと柔らか目のサクサク感が抜群だ。それをレモン炭酸水で胃に流し込めば、これはもうほとんどアウトだ。断酒者にとって、脱法ハーブのようなものである。
さて、横丁の様子が気になるから、居心地のよさに呑まれる前に店を出ることにする。裏口が路地に直結しているようだ。「松戸酒場」、その名に恥じぬ堂々たる酒場だった。ごちそうさまでした。
バーリ・トゥード・ソフトドリンク──「上州屋」
路地に居並ぶ店によっては、客が外に溢れている。すごい活気だ。横丁で共同のトイレを出ると、まだお腹に空きがあることに気づいた。だいたい、ここは飲み屋の連なった横丁である。これはもう一軒行くしかないのではないか? そう、梯子酒だ。いや、酒は飲まないのだから、梯子ソフドリか。いくらなんでも語呂が悪いな。断酒状態での梯子酒……よし、梯子断酒でどうだ。うん、そのまんまだけど悪くない。
とにかく、シラフで酒場を梯子してみることにしよう。横丁の中から潔く、すぐ隣の店「上州屋」を選んでみた。こちらもカウンターと少しのテーブル席が置かれた、雰囲気のある店だ。カウンターに通されると、隣のおっちゃんが席を一つずれてくれた。引き戸と背中がくっつきそうなほど狭い、その狭さがいい。
厚揚げの煮浸しがスッとお通しで出る。おばあちゃんと、その息子夫婦でやっている印象。壁面の黄色いメニュー短冊にソフトドリンクはない。やはりこの横丁は断酒者の来訪を想定していないようだ。のぞむところじゃないか。さっそく店員さんに聞いてみると、「酎ハイのメニューにある割り物であれば、焼酎抜きで何でもお出しできますよ」とのこと。そうなってくると、酎ハイのメニュー全てをノンアル化することができるわけで、逆にバーリ・トゥード=何でもありということになる。
目に止まったアセロラサワー(420円)の焼酎抜きを頼む。ウィスキーのジョッキに注がれたこちらも、泡感から何から、ほぼアウト。アルコール混入を勘繰るほどの脱法ぶりである。しかもピンクの色合いがいい。そういえば、今は桜の季節だった。だとすれば、肴も春物で攻めたくなる。
ツマミは全て黒板にチョーク。そこから菜の花辛子あえ(480円)、ほうぼうとたこ(550円)、桜ぶり刺(680円)をチョイスする。この店も常連でいっぱいだ。みんな仲がよさそうで、かと思えば隣のサラリーマン風の男性はひとりスマホをいじりながら静かに飲んでいる。いろんなくつろぎ方があると、酒を飲まないこっちまで、そこに居やすい気分になる。
ゴマがふりかけられ、小鉢にたっぷり盛られた菜の花の、その苦味がたまらない。菜の花って、なんでこんなに美味しいのだろうか。さらに出てきたほうぼうとタコは、淡いピンク色の不思議なタッグだ。そもそもほうぼうって何だと思って食べてみると、むっちり、もちもちとしていて、タイを柔らかくした感じと言えばいいのか、とにかく美味しい。
脂の乗った、きれいな桜色のぶり刺は厚切りで、有無を言わせぬ迫力がある。気づけばアセロラドリンクも含め、卓上の桜が満開だ。ちょうど去年も十条の「斎藤酒場」でインドアな花見酒をやったが、ネタが被ることを恐れてはいけない。酒場の魅力の一端は、発酵するほどのマンネリズムにあるからだ。ラジカルである必要など全くない。地に足のついた日常の延長線上にあること、それが大衆酒場の絶対的な条件なのである……と、自分に言い聞かせる。
まだ肌寒いから、〆におでん(500円)を頼んでみた。いやはや、美しい。絵に描いたようなおでんである。具は大根、ごぼう巻き、こんにゃく、練り物、卵、ちくわ。別皿で和辛子がたっぷり盛られているのもありがたい。もっと食べておけばよかった、おでん。早く暖かくなってほしいと思いつつ、ゲンキンにも冬の終わりを名残惜しんで平らげる。ごちそうさまでした。
「上州屋」を出ると、完全にお腹いっぱいだった。なにしろシラフである。アルコールによって満腹中枢が麻痺していないにもかかわらず、酒場を梯子したわけで、要するにただの大食らいということになる。
ある町を知るには、その町の酒場に来るのが一番だということを改めて実感する日だった。横丁にはまだ人が溢れている。MAD City、恐ろしいようでいて、どこか温かい町である。
中島晴矢(なかじま はるや)
1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。現在、美学校「現代アートの勝手口」講師。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM)、キュレーションに「SURVIBIA!!」(NEWTOWN)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING)、アルバムに「From Insect Cage」(Stag Beat)、著書に『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社)など。
http://haruyanakajima.com