1週間働いたあとの金曜に、のれんをくぐる行きつけの酒場。出先での夕暮れ時、ふと入った老舗の赤ちょうちん。1杯の酒は緊張を解し、客同士の何でもない会話がその町の佇まいを伝えてくれる。
酒場は町のオアシスであり、文化の集積地だ。だがある日を境に酒が一切飲めなくなったのなら、そこはどんな場所になるのだろうか。
町の酒場をこよなく愛しながらもアルコール依存症と診断され、人工的な下戸となったアーティスト・中島晴矢が、シラフで愛した酒場を訪ねる業深き連載。その名も「中島晴矢の断酒酒場」、今宵でいよいよ最終話! 特大号で締め括る。
Text:Haruya Nakajima
Photo:Mai Shinoda
Edit:Yoko Masuda
酒を飲まずに3年。年の瀬は「芝浜」の地へ
都営地下鉄の三田駅を出ると、障害者福祉会館はすぐ目の前にあった。
いかにも公共施設という感じの大きな建物だ。正面口には「すすめよう障害者の社会への完全参加と平等を」と書かれた横断幕が掲げられている。裏には都営アパートが連なっていた。住所は港区の芝。かつてはこの辺りまで海だったらしい。明治以降に埋め立てられて、いまや海岸線はだいぶ先まで延びている。
僕が福祉会館に来たのは、断酒会に参加するためだ。
アルコール依存症の治療で有効とされているのが、自助グループである。そうした互助会には主に2つの組織が存在している。AA(アルコホーリクス・アノニマス)と断酒会がそれだ。
AAは、キリスト教をベースとした世界的な組織。飲酒をやめたいと願うアルコール依存症者であれば、誰でも参加することができる。一方、断酒会はAAの取り組みを参考に独自の発展を遂げた、同じく酒害者のための自助組織だ。どちらも別に難しいことをやるわけではない。ミーティングに出席して一人ひとりが酒害体験を語り、そして聴く。基本的にはそれだけである。
もちろん、自助グループを絶対視するつもりはない。現に僕は、それらに通うことなく断酒を続けてきた。ただ、有効な治療法の一つであることは間違いない。というのも、飲まない自分が全人格的に包摂される共同体が、断酒には必要なのだと思うからだ。以前にも書いたが、僕にとってこの連載は、そういう役割を果たしてきた部分がある。
断酒会に参加したことはないが、断酒して1ヶ月くらいのペーペーの断酒者(ダンシャー)の頃、一度だけAAに出席したことがある。
当時、僕は定期的にクリニックに通っており、そこのケースワーカーさんが自助グループの存在を教えてくれたのだ。まだコロナ禍だったから、会自体を閉じていたり、オンラインだったりするところが目立つ中、王子の公民館で開かれているAAの見学に行ってみたのである。
会場では、各自がホーリーネームを名乗り、それぞれの体験談が語られる。初めての場にへどもどしながら、僕も自分のことを喋った。ただ、それはクリニックで行われているプログラムとほとんど同じだったので、一度の見学でやめてしまった。
それ以来、互助会の類には参加していない。
福祉会館の受付で、断酒会が開かれる部屋を訊く。
市役所みたく係の人が丁寧に教えてくれた。案内された一室の扉には旗が架かっている。描かれているのは「酒」という漢字の中に「断」という文字が白く抜かれた、断酒会のシンボルだ。このマーク、やたらと格好いい。
定期的に開かれている集い、いわゆる断酒例会は、見学が自由で、特に予約もいらないから、飛び込みで参加できる。やや緊張した面持ちで入室すると、口の字に置かれたテーブルに、すでに5、6人の断酒者がいた。年齢層は高めで、ちょっと場違いな気もするが、当たり前のように温かく迎えてくれる。
僕の断酒歴は3年4ヶ月だが、周りの人たちはきっと黒帯の断酒者だろう。中央には、赤ら顔の抜けないおじいさんが座っている。髭もじゃで恰幅がよく、貫禄がすごい。
「どこから来たの?」と訊かれたので、簡単にいきさつを答える。いま住んでいる地元の定例会には日程的に参加が難しい。ただ断酒例会は、日夜いろんな町で催されている。そこで職場が近いここにしたのだ、と。
でも、本当は少し違う。地元の定例会に行けないのは嘘じゃないが、フリーランスの僕に決まった職場などない。むろん断じて冷やかしではないのだが、どうせ地元以外になるのならば、行ってみたいところにしようと考えたのだ。
それで選んだのが芝だった。なぜなら、落語「芝浜」の舞台だからである。
僕はこの連載を、初回から「芝浜」で振ってきた。「芝浜」は三遊亭圓朝の作とされる人情噺だが、僕からすればアルコール依存症とその克服をめぐる夫婦の噺である。
芝の魚市場で働く主人公の魚屋は、腕はいいのに飲んだくれで、うだつの上がらない典型的なアル中。今日飲ませてくれたら明日は仕事に行くと言うが、翌日になると家を出ずにまた酒を飲み、同じことを繰り返す。一方、このままじゃ釜の蓋が開かないと嘆く女房もまた、なんだかんだ亭主の飲酒環境を整備してしまう、いわばイネイブラー(本人に自覚がないまま、アルコール依存症者が飲み続けることを助長する人)だ。
しかし、いよいよ業を煮やした女房は、道具をお膳立てして亭主を朝から仕事に遣る。
魚屋が市場に着くと、時を違えていた。女房に起こされた時刻が1時間早かったのだ。そこで愚痴を垂れながら芝の浜でタバコを吸っていると、四十二両という大金が入った革財布を拾う。男は喜び勇んでそれを持ち帰り、もう仕事をしないでいいと友人たちと飲み明かして、その晩は寝てしまった。
翌朝早く亭主を起こすと、女房は再び仕事に行ってと懇願する。魚屋は金ならあるじゃねぇかと強弁するが、女房は「何言ってるの? あんた夢でも見たんじゃないの」としらばっくれる。要するに、大金を拾ったことを夢にしてしまう。
ガックリきた魚屋は、ついに酒をやめて真面目に働くことを誓う。言ってしまえば、この顛末が彼にとっての底つき(依存症の現実を受け入れはじめる引き金となる体験)だったのである。
その後、実際に酒を飲まずに働くようになった魚屋は、何とか商売を立て直す。
そして3年後の大晦日、女房は財布を拾ったことが夢ではなかったと亭主に打ち明ける。魚屋はその事実に驚くが、怒りを飲み込んで、女房の一世一代の嘘を受け入れる。
さらに女房は、「あんた、飲んで」と一杯の酒を差し出す。断酒者のスリップを誘引する、危険なイネイブリングである。だが、亭主はそれを拒むのだ。その言わずと知れた断酒宣誓の文言が、この噺のサゲとなる。
「よそう、また夢になるといけねぇ」
僕もまた夫婦の諍いをきっかけにクリニックへ赴き、アルコール依存症と診断されて断酒に踏み切った。その上で「芝浜」に倣い、3年、さしあたり3年飲まずにおこうと決める。その3年経った年の瀬が今なのだ。
芝で断酒会に参加しよう。
そして、芝で断酒酒場をやろう。
それからのことは、またその後で考えればいい。そうすれば、ひとまず僕なりの「芝浜」が出来上がるはずなのだ、きっと。
眺めて観て歩く。高輪ゲートウェイから「芝の浜」へ
断酒会の数日前、山手線に揺られ高輪ゲートウェイ駅に降り立った。
思えば、2020年に開業してから初めて来る駅だ。空港みたいに高い天井で、ところどころ木目のイメージがあてがわれている。わかりやすく隈研吾である。
大きなガラス張りの壁面から周囲を眺めれば、何本もの線路が並び、そこら中が工事中で、奥には高層ビルが立ち並ぶ。東京の中枢であり、かつバックヤードといった感じか。用事がなければ降りようとはちょっと思えない。平たく言えばオフィス街であり、町全体が巨大なる職場といった風だ。
駅を出てもなお、そこかしこが絶賛普請中。建設中のビルで重機が働き、ダンプや生コン車がひっきりなしに往来している。これはこれでスペクタクルなアトラクションみたいだ。仮設壁に貼られた建築計画には「品川開発プロジェクト」とある。いったい何ができるのだろう。
現場ゾーンを抜け出すと泉岳寺駅の出口があった。閉店したと思しき蔦まみれの蕎麦屋の隣で、随分とささやかな佇まいである。だが、これでようやく土地勘がつかめてきた。海まで至る線路側の埋立地は圧倒的な再開発エリア。その反対が白金台や高輪台に至る丘陵地だ。よし、丘を通って三田方面に向かうルートで行こう。
国道沿いに見えるこんもりとした石垣は、どうやら「高輪大木戸跡」という史跡で、東海道から江戸へ出入りする簡易的な関所だったらしい。当時は品川宿に至る名所で、海岸もすぐそこまで迫っていたそうだ。
そんな交通遺跡を横目にゆるやかな坂道を登っていく。昔ながらの酒屋があったりして、途端に静かな街並みだ。ぶつかった三叉路を右に折れると、伊皿子坂(いさらござか)につながった。港区には坂の名称が書かれた棒杭がある。坂名の由来は、中国人・伊皿子(いんべいす)が住んでいたからということだが、正直「それ誰なんだ」という話だ。行政が名付けるのではなく、近隣住民のつけた俗称が一般的だから、坂の名はいつも自由でアナーキーである。
伊皿子坂を登り切ると、十字路の角にいい具合の三角州を発見する。冬の陽を浴びて佇むパイロンの姿が美しい。京の石庭も顔負けの無常感である。さっきもブロック塀とトタンのブリコラージュがあった。封鎖されたコインパーキングのインスタレーションも捨てがたい。言うまでもなく、路傍の美術鑑賞は散歩の醍醐味だ。
そこから魚藍坂を下れば白金高輪、聖坂を登って降りれば三田に着く。魚藍坂は坂の中腹にある寺からつけられた名だそうだが、耳で聞けばウニやイクラのことしかイメージできない。ううむ、小腹が減ってきた。脳内に海鮮の伏線が張られる。
などと考えながら、かつてこの地にたくさん住んでいた高野聖が開いたという聖坂を行く。聖坂から枝に伸びた幽霊坂には寺院が密集していて、たしかにものさびしいところだ。と、こんな調子で三田界隈ならではの坂めぐりは感興がそそられる。
この辺りは建築も秀逸だ。聖坂の下りに入ると見えてくる在日クウェート大使館は、丹下健三によるもの。なんだかドンキーコングの面みたいだ。その少し先にある普連土学園は、大江宏が建てた地中海風の名建築。黒い格子状の窓枠が、同じく大江の設計であり、僕の母校でもある法政大学の校舎を思い出させる。さらにその真向かいにあるのが、蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)である。
蟻鱒鳶ルは、「三田のガウディ」こと建築家の岡啓輔さんが、18年に渡ってセルフビルドしている異形の建造物。僕の勤める美学校で岡さんが講師をしているのもあり、何度も中を見学させてもらっているが、この建築はイルでドープだ。現在は全体がシートで覆われている。サグラダ・ファミリアよろしく永遠に完成しないかと思われた蟻鱒鳶ルも、ちょうど今年の秋にいったんの竣工を迎えるそうで、お披露目が今から待ち遠しい。
聖坂を下り切って大通りに出れば、ようやく三田の駅前エリア。もうほとんど芝でもある。通りの先には東京タワーが根本から大きく見えた。東京らしい東京の風景だ。
そのまま慶応仲通り商店街に入っていく。慶應大学の三田キャンパスはすぐそこ。慶應とはこれといった縁のない人生を送ってきたが、やはり学生街は活気がある。細い路地に、居酒屋、喫茶店、中華屋、カラオケ、ラーメン屋、定食屋、焼肉屋などが、チェーン、個人店を問わず軒を連ねる。が、今宵の酒場の下見を済ませ、店には入らず商店街を抜けた。もう一箇所、実は行きたいところがある。
芝税務署を横切って、件の福祉会館を越えると、オープンしたばかりの田町タワー足元に江戸開城の石碑があった。西郷隆盛と勝海舟というビッグネームが並んでいる。歴史の教科書で見た、かの有名な会談が催されたのがこの地で、かつては薩摩藩の蔵屋敷だったらしい。すぐ裏が海に面した砂浜だったというから、江戸時代の海岸線はこの辺だったわけだ。
さらにその奥に進むと、本芝公園に入る。どこにでもあるような公園だが、かねてから訪れてみたかった。説明板には、魚が水揚げされたため雑魚場と呼ばれたと書かれている。そう、「芝浜」で魚屋が革財布を拾った砂浜は、まさにここなのだ。
念のため、革財布が落ちていないか辺りを見回してみる。
もちろん財布なんて落ちていやしない。僕は何も拾うことなく芝の浜だった公園を後にした。
Part2ではいよいよ断酒会へ!
PROFILE
中島晴矢(なかじま・はるや)
1989年神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、美学校修了。現在、美学校「現代アートの勝手口」講師。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM)、キュレーションに「SURVIBIA!!」(NEWTOWN)、グループ展に「TOKYO2021」(TODA BUILDING)、アルバムに「From Insect Cage」(Stag Beat)、著書に『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社)など。