求めなくても、次から次へと情報が提供される時代。オンラインで数えきれないほどの人と繋がり、わかりやすく心地の良い情報はやがて消費されながら、「いいね!」の数で価値が競われ、規定されていく。コミュニティは最大公約数の価値観や思想によって保たれ、異質な価値観は無意識のうちに忘れ去られていく。
あらゆる物事が凄まじいスピードで生成・消滅していく昨今、数多のオンラインメディアが存在する世の中で『M.E.A.R.L.』の役割とは何なのか。
まちの最小単位である「個人」の視点から、今まさに変化の只中にある「場」や「メディア」の概念を拡張し思考+追求+観察+実験+活動してきたバーティカルリサーチメディア『M.E.A.R.L.』で、この度編集長が交代する。本記事では、前編集長・武田俊と後任・西山萌が「個人」のルーツに立ち返り、「人」「まち」「メディア」について考察。3時間に及ぶ対談をお届けする。
Photo:Kei Murata
Text+Edit:Moe Nishiyama
まちづくりの最小単位に注目する
西山:『M.E.A.R.L.』ではまちづくりの最小単位である「個人」に注目したバーティカルリサーチメディアというコンセプトを掲げています。今回あらためて『M.E.A.R.L.』の姿勢について考えるとき、編集者である武田俊、西山萌という個人のルーツや思想を紐解きつつ、お話しできればと。
武田:思い返してみると、発端は寺井元一さんと小田雄太さん率いるまちづクリエイティブ(以下、まちづ社)にお声がけいただき、彼らの活動に編集者として参画する形で徐々にまちづ社のパートナーとして働くようになった2016年ごろに遡ります。
武田:まちづ社の事業の根幹にあるのは、「個人」が街場でどう動けるかということ。表向きの業態は不動産のサブリースという形でありながらも、その物件をどう新しく使えるのか、どんな人がマッチするのか、多様な人を呼び込むことでまちの様相自体を変化させる。ボトムアップ型のまちのつくり替えをしているところが面白いところだと思います。以前まちづ社の代表・寺井さんとの鼎談(「M.E.A.R.L.が提唱する、個の戦術からひもとくまちづくり」)でもお話ししていますが、今必要とされているまちづくりは、いわゆる大手のゼネコンによる都市開発戦略みたいなことではないでしょうと。価値観も多様化している中で、個別具体的に地場で動き回る人たち、ローカルのプレイヤーたちの戦術の方がよりクリティカルだろうし、その先にある未来を見たいよねと話していて。
そこでまちづ社の活動拠点である松戸の「MAD City」とは別に、「個人」にフィーチャーしながら彼らの街場での戦術を紐解いていく「場所」(=メディア)を作ろうというところから今に至るメディアの外郭が出来ていきました。軸足はエディットとリサーチ。短期的に本数を打ってバズるよりも、バーティカル(縦軸)に掘り下げることで思想や姿勢を伝えるというコンセプトのもと、その在り方自体を表すようにと『M.E.A.R.L.』(MAD City Edit And Research Lab.)として発足しました。
西山:2016年の時点でそういったお話しがあがっているというのは相当早いですよね。
武田:そうですね、まちづ社のアクションはいつもどんな話題でも早いと思います。スクウォッティングカルチャーに未来を見たり、反骨精神を持ったパンクチュアルなふたりなので、そこがかっこいいなというのもありましたし、ぼく自身、学生時代は学生運動や、学生自治にどっぷり浸かっていた人間なので、「自治意識」は自分の中でも重要なエネルギーになっていて。気に入らないのであればそれを変えるための何かをつくる。そのために仲間を集める。そういったエンジンで動いてきたので、小田さんや寺井さんの感じている問題意識や考えにはとても共感する部分がありました。
「世界」と「個人」の間に生まれる対話の形
西山:武田さんご自身『M.E.A.R.L.』のみならずたくさんのメディアに関わられてきた中で、「編集」についてどのように捉えていますか?大きすぎるテーマなのですが、今考えていることがあれば教えてください。
武田:ぼくのざっくりとしたキャリアを振り返ると、学生時代は文学部だったのですが、映画を撮ったり音楽をしたり寄り道をしてく中で、やっぱりやりたいことは文学、テクストだったんですね。今でこそ五大文芸誌を中心に純文学のシーンが盛り上がっていますが、当時は文芸誌の実売が2000部、3000部と言われていて。自分たちで作ってもそれくらいは売れるのでは?と思い、若い世代から届ける新たな文芸誌として、『界遊』という雑誌を作ったんです。学生時代に制作をはじめ、最終的には5000部を直販で全国100店舗くらいに置いてもらえて。そこからキャリアをスタートさせました。出版不況や電子書籍元年などと言われていた2011年、メディアが更新されるとても可能性のある時代の転換期にいることを追い風にしながら、『界遊』の仲間たちで会社をはじめ、以後3年でその会社をチームに託し、いろいろなWebメディアの立ち上げに関わっていき、今に至るという感じです。
今、大学で教鞭を取る中でそうした10年間を振り返って「編集」についても再定義してみたんです。「メディア」は「世界と個人の間に生まれる対話の場所」。その形態はさまざまですが「編集」というのはあくまでその「場所」のための交通整理係であり、「コンテンツをメディアの特性に合わせて最適化する技術のこと」と定義してみたんです。そうした時に、あらためてまちづ社が面白いと思うのは、自分が想定していなかったやり方でまちを「編集」しているところ。ぼくにはまちづ社の活動が、とても編集的に見えたです。考えが近しいけれど、まったく異なる方法で編集をしている兄さんがふたりいる、面白いぞと。
西山さんが編集に携わりたいと思うようになったきっかけも気になります。大学は多摩美術大学の統合デザイン学科でしたっけ?
西山:はい、統合デザイン学科の一期生です。ただ、私は元々美術が好きで美大に進んだというよりも、言語を超えたコミュニケーションに興味があったんですね。原体験として記憶しているのが、2007年に東京都現代美術館で開催されていた展示「SPACE FOR YOUR FUTURE-アートとデザインの遺伝子を組み替える」。当時まだ小学生だったと思うのですが、エルネスト・ネトの「ヒューマノイド」や石上純也の「四角いふうせん」、SANAAの「フラワーハウス」、オラファー・エリアソンの「気象プロジェクト」などが展示されていたのをみたときに衝撃を受けて。世界中の人がこの美術館という場に作品を介して集まり、言語はわからないけれど説明されずとも伝わっている。一人ひとり問題提起があり、何かを訴えかけるような形になっている。現代美術というものをわからないなりに、強く惹かれたのだと思います。
価値観の変容を促すアクションとして
西山:その後進むべき道を決定的にしたのが高校時代。通称「変人の森」こと国際基督教大学高校(ICUHS)に通っていたのですが、帰国子女が生徒の2/3を占めている中で「純ジャパ」(「帰国子女」の対義語としての愛称、「純粋ジャパニーズ」の略)だった自分は少数派。周りに合わせて過ごすことが苦手だった公立の小中学校時代は、どちらかといえば浮いているようなタイプだったと思うのですが、個性的な人しかいないようなICUHSに入った途端、逆に黙っている方が目立ってしまう。たとえばこの場を盛り上げるのが得意な子もいれば、ディスカッションをリードするのが得意な子、運動が得意な子がいれば、歌が得意な子がいるように、一人ひとりいろいろな能力がある中で、真剣に私にしかできないことってなんだろうと考えざるを得なくなったんですね。当時3.11直後だったこともあり、政治経済、環境問題に対して今のままではまずいという危機感が学内でも当然のようにあり、周りの友人たちには法学や宗教学、社会学に関わりのある学科に進学する人が多かった中、私自身、社会との接点を探っていた折、あるデザイナーの方が書いていた本に出会いました。そこには「広告やデザインは政治経済、世の中のハードの仕組みを変えることはできないけれど、人の価値観を変えることはできる」と書かれていて。世の中のハードな面、政治や経済を動かしているのは、もとを辿れば人の価値観なのではないだろうかと。そこでこれだ!価値観だ!と。美大に行くことになり、今に至ります。極端な話、おそらく方法は何でもよかったのかもしれません。
武田:価値観の変容を促すアクションであればジャンルは問わなかったけれど、それを知ったのがデザイナーの本だったから「デザインだ!」と。それが小学生の自分のみた景色に繋がって美大に行くんだと繋がったわけですね。最初の発端としては、ノンバーバルなコミュニケーションが可能であるということへのときめき、そして人の価値観を変容させるアクションとしての「デザイン」というからスタートしたものの、卒業後には非常にバーバルの世界である「編集」を軸としたテキストメディア、出版業界といったところに向かっていったわけじゃないですか。何がターニングポイントだったのでしょう。
西山:思考や方針の転換点はいくつかあり、話すととても長くなってしまうのですが……。割愛して話します(笑)大きく分けると3つのフェーズがありました。一つ目は大学入学直後に訪れた東京オリンピックのロゴ事件*1。佐野研二郎さんは自分の所属学科の教授のひとり。当時はじめは「国のため」のロゴとしてふさわしいと選出され、一度は絶賛していた人たちも、手のひらを返したように盗作であると批判、インターネット上で炎上している様子をみて、あのロゴは一体誰のためにデザインされたものだったのだろうと。顔の見えない誰か、ここで言えば「国」や「大衆、国民」のためのイメージを制作する、広告やデザインの仕事に対して疑念を持つようになりました。
注釈1*:2020年東京オリンピックのロゴマークとして選ばれた佐野研二郎氏のデザインが、ベルギーのリエージュ劇場のロゴマークに酷似しているとして、同劇場とそのロゴマークをデザインしたオリビエ・ドビ氏が、佐野氏のデザインしたロゴマークの使用の差し止めを求めてIOC(国際オリンピック協会)を提訴した。
無知の知の訪れ。一枚の「海の写真」から
西山:二つ目の転機は、成人式で地元の友人が見せてくれた海の写真。もちろんそれまでに何度となく海の写真を見たことはありました。ただ、その子が見せてくれたのは彼自身がダイビングして潜ったときに撮影した、彼の体験した景色だった。自分の目で見て「海の中はね、こういうことがあってね」とそのとき感じたことを語ってくれるのを聞きながら、返す言葉が見つからなかったんです。それまで写真集でしか見たことのなかったような美しい写真を目前に、自分の言葉で語っている友人を見て、「私は何も知らない」と心の底から絶望にも似た感覚を覚えました。大学に進学して毎日本を読み、リサーチや制作、プレゼンテーションを重ねて前進しているつもりだったけれど、私がしていたのはすべて机上の空論だったのではないかと。本で読んだ知識も、語っていた言葉も誰かの受け売りでしかない。私は何も知らないんだと。どん底まで落ちましたね。
武田:アグレッシブな無知の知みたいなのが訪れたんですね。まさかその子は、そんなふうになると思っていなかったでしょうね。綺麗!行ってみたーい!という会話が来るって思ってたら、私は何も知らないって虚脱されるっていう。
西山:そこから、大学に行かない不良になりました(笑)不良というか、大学の外にリアリティを求めるようになったんですね。自分の体験した言葉で語る人に出会いたかったというのもあると思います。そのときに出会ったのが、当時マガジンハウスの雑誌『& Premium』のディレクターを務めていた編集者の柴田隆寛さん。当時進路についても悩んでいたとき、なぜ編集者になったのかという原体験について話してくれて。大学時代に訪れたスペインのバルセロナの広場では、おじいちゃんからおばあちゃん、女の子も男の子も家族連れも、老若男女、絵を描いている人もいれば、歌を歌っている人もいて、おしゃべりしている人もいればスポーツしている人、ベンチで眠っている人もいる。年齢も性別も人種も様々な人たちが、思い思いに自分達の時間を楽しそうに過ごしている、その広場の光景を作ることこそ、自分にとっての「編集」なんだと。ただかっこいいと思いましたし、柴田さんの言葉は自分の体験からきた言葉だったからこそ、とてつもなく説得力を感じたんですね。そこで私も編集者になりたいと決心したのだと思います。
武田:そこから今の道に入っていくわけですね。いいなぁ。自分の場合どうだったかなと思い出しながら聞いていました。学生時代はカトリック系の中高一貫校に通いながら野球部に所属していて。ずっと体育会系だったんですが本がとにかく好きだったので、丸坊主でマルクスとか読んでいるのが気持ち悪いって周りからはとてもいじられてましたね。だからこそ東京に出たら、そういう友達をいっぱい作るぞという思いで来て、議論できる仲間が生まれて、映画撮ったり音楽やったり寄り道をして。
編集者というよりも、本当はものを書く人間になりたいという思いを抱きながら、けれどその前にその環境のことが気になってしまったんですね。出版不況と言われる中、勝手に終わらせてくれるな!と。環境がないなら自分でやりますという気持ちで、その環境を作るために編集者になるという選択をした。そこから資金を集めて会社を作り、本格的に編集者として仕事をし始めたのは2000年代後半。ちょうど自分たちの本を作り始めたタイミングはTwitterが日本に上陸した時期。「Web2.0」と呼ばれる転換期にキャリアをスタートしたので、オルタナティブな言論空間としてのインターネットにとても希望を感じていました。
「雑」という概念の必要性。排除するシステムへの抵抗
武田:その後、メディア界で潮目が変わったなと感じたタイミングが2度訪れます。ひとつが3.11の震災のとき。電話が繋がらない中でTwitterでのやり取りを通じて安否確認をする人たちがいたり、新しい形のケアが生まれてたり、インターネットを通じた双方向の通信、対話モデルには何かできることがあるのではと感じました。ふたつめが2016年の「WELQ」事件に端を発する、執筆をクラウドワーカーに一任し、エビデンスのない情報をもとに作成された大量の記事でPV数を伸ばしていくような、いわゆる「キュレーションメディア」の問題。自称編集者のような人たちがそういうものを手がけ、編集長を名乗る。大量の編集長が生まれていったの見てて、こうじゃないはずなんだよみたいな。ぼくたちが見た夢はこうじゃなかったはずだという違和感をその時代ぐらいから感じ始めてたんですよ。もちろん数値化ができることは素晴らしいし、それを観測してPDCAを回せるのは素晴らしいけれど、Webメディアが目指していたのって、本当にその方向で合っていたのだっけ?と。
ちょうど『M.E.A.R.L.』を立ち上げたのもそれくらいの時期になります。編集者やメディアは後期資本主義的なものの嫌な部分、あるいは加速主義的なものとどう戦えるのか。そういった気持ちで走っていたのが2016年くらい。メディアの数はとても増えたし、生存戦略もさまざまであるべきなんだけれども、観測する戦闘能力としてのKPIが、ページビューとユニークユーザー、あとアクティブユーザー数ぐらい。広告モデルで運営していくには、クライアントにも理解しやすい指標は必要ですが、それだけでは深堀りしていく記事は打ち出しにくくもなる。西山さんは今のWebメディアの現状についてどう思いますか?
西山:肌感覚として感じているのは、PV数を稼ぐためのわかりやすさや読みやすさに重点を置いたもの、もしくは価値観を誘導、先導するようなツールとしてのコンテンツメディアが増えているなということです。要するに「雑」な誌である「雑誌」に対して、Webメディアには「雑」なものは求められない場合が多いなと。私自身はもともと雑誌を作る出版社に勤めていましたが、紙のメディアにこだわるというよりも、「雑誌」という概念に可能性を感じていて。雑であること、雑多であるというのは完成形ではない、少し解けたところがあるという状態。かつ様々な視点が交差するように編まれていて、価値観が一本化されずによくも悪くも余白がある。オンライン上に上がってる情報は、インターネットが立ち上がった歴史を考えてみても、ここ20-30年の人たちがアップロードしたものしかないので、情報の総量で考えて、圧倒的に少ないのは当然。なのですが、削ぎ落とされてるように見えて、どんどん情報の消費を加速させているのではと。
武田:共感ポイントが多い!ぼくも何か「雑」であることには可能性を感じていて、社会の中に入り込みながらもいかに風穴を少しずつ空けて新しい風を送り込めるか。その一発の穴は小さかったとしても、それを無数にジャンル横断的に開けていけば、それはいつかひとつの風になるのではと。最近お亡くなりになってしまいましたが、劇作家で演出家の宮沢章夫さんがかつて東大駒場キャンパスで『80年代地下文化論』と『ノイズ文化論』という講義を行なっていて。都市空間から、隠蔽されたもの、消えてしまうもの、排除されたものから目をそらさず、あらためてそれを眺めてみる。都市や社会が要請するコードを乱すもの、あるいは排除されるものとしての「ノイズ」を考察し、いかに有機的な都市を作っていくことが可能なのかというお話に惹かれました。きれいで快適なものだけでなく、なにか引っかかりを残された空間。それこそ、そのまち独自の魅力になるとも思うんです。メディアに引き寄せてみると、ぼくは雑誌少年ではなく文学青年でしたが、手法として「ノイズ」の混じった雑誌的知性は絶対必要だなと感じていたので、教養としての雑誌文化みたいなものに、後から触れていった感じですね。そういうことをWebメディアでどうやったらできるかなというのを『M.E.A.R.L.』でもトライしていました。
[後編につづきます]
武田俊
文筆家・メディアリサーチャー
大学在学中にインディペンデントマガジン『界遊』を創刊。編集者・ライターとして活動を始める。2011年、メディアプロダクション・KAI-YOU,LLC.を設立。その後「TOweb」、「ROOMIE」、「lute」、「M.E.A.R.L.」などアート・カルチャー領域のWebマガジンにて編集長を歴任。2019年より法政大学文学部にて「情報メディア演習」を担当。また、podcast番組「MOTIONGALLERY CROSSING」などでパーソナリティも担当。デジタル、紙、物理空間など多様なメディアを横断し、ナラティブで繋ぎ合わせる手法を探究中。右投右打。
https://takedashun.com/
西山萌
編集者・遊歩者・粘菌
多摩美術大学卒業後、出版社を経て独立。雑誌「TOKION」のリニューアル創刊に携わるほか、本と編集の総合企業SPBSでは「SPBS THE SCHOOL」の立ち上げに参画。編集を基点にリサーチや企画立案、キュレーションや場所作り、メディアディレクションなど。アート、デザイン、音楽、ファッション、都市、街などを中心にメディアを横断し、雑誌的な編集を行う。編集を手掛けた書籍に『A DCADE TO DOWNLOAD — Internet Yami-Ichi 2012–2021』(2022)、『来るべきデザイナー現代グラフィックデザインの方法と態度』(グラフィック社、2022)、『アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き』(Tokyo Art Research Lab、2023)『小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社、2023)など。2023年5月より「M.E.A.R.L.」の編集長に。
https://lit.link/en/moenishiyama
村田啓
1990年生まれ。現在東京を拠点に活動。
2016年、東京藝術大学大学院美術研究科絵画油画専攻修了。視覚やスケールの変容への興味を基とした写真や映像を用いた作品制作のほか、ミュージシャンやファッションブランドとの協働などを行っている。近年の展示に、「between / of」 The 5th Floor 東京、「VOCA展2022」(上野の森美術館、東京、2022)、「So long so far」 People 東京、「5 holes are sunlit」(Token art center、東京、2021)など。
keimurata.com
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