求めなくても、次から次へと情報が提供される時代。オンラインで数えきれないほどの人と繋がり、わかりやすく心地の良い情報はやがて消費されながら、「いいね!」の数で価値が競われ、規定されていく。コミュニティは最大公約数の価値観や思想によって保たれ、異質な価値観は無意識のうちに忘れ去られていく。
あらゆる物事が凄まじいスピードで生成・消滅していく昨今、数多のオンラインメディアが存在する世の中で『M.E.A.R.L.』の役割とは何なのか。
まちの最小単位である「個人」の視点から、今まさに変化の只中にある「場」や「メディア」の概念を拡張し思考+追求+観察+実験+活動してきたバーティカルリサーチメディア『M.E.A.R.L.』で、この度編集長が交代する。本記事では、前編集長・武田俊と後任・西山萌が「個人」のルーツに立ち返り、「人」「まち」「メディア」について考察。3時間に及ぶ対談をお届けする。
Photo:Kei Murata
Text+Edit:Moe Nishiyama
「島宇宙」の輪郭を横断する。メディアの役割とは?
武田:雑誌『WIRED』の前編集長・若林恵さんが、僕たちは編集者であってディストリビューターではない、要するに流通の専門家ではないということを以前話されていました。ぼくもすごくそうあるべきと思いつつ、Webメディアの世界って、編集者がディストリビューションを任されていることが多いんですよね。たとえばWebメディアに特化したカンパニーで、編集会議に編集者とグロースハッカー、Webディレクターも参加して、コンテンツ部分でアーキテクチャレベルでのグロースがどう描けるかという議論がなされているようなメディアは素晴らしいと思うんだけれど、そうではない現場が非常に多い。編集者自身がWebディレクターでありグロースハッカーであるみたいな。そうなるとコンテンツの文脈よりも、仕掛けとギミックの方にばかり思考が向いてしまう。いかに刺激的な見出しを付け、扇情的な見出し、扇情的な写真、SEOに最適化されたコンテンツ量と本文量、リンク数、Googleのクロールbotをいかに上手く引き付けるかというような全体のコーディネーションの仕方を考えるわけです。でもぼくはそれを理想的な「編集」ではないと思う。
少なくとも「コンテンツをメディアの特性に合わせて最適化する技術」という点で「編集」ではあるんですが、ぼくがしていきたい「編集」は、文脈依存しているものを、どうほどいて見せてあげられるか、あるいは文脈依存の高いもの、複雑なものを複雑なまま、けれどその入り口をどう少しだけ開いてあげられるか。そういう技術としての「編集」には惹かれていて。でも、多くのWebメディアに要請されている「編集」って、いまだに「より低いコストでより多くの人にクリックしてもらうための工夫」のままに見える。そして、それは我々の仕事ではないとぼくは思っている。テクニカルディレクターやグロースハッカーの人との対話でつくり上げていくならまだしも、それを編集者が全部担わざるをえない現場の先に何があるのかと考えたとき、ゾワっととしてしまうというか。それで現状食べていけても、先細りするだけだし、編集者としてあるいはメディア人として生きてる心地がしないとどうしても思ってしまう。
現在って、2000年代に多くの人が夢見たWebの言論空間、メディアに期待されてたものが実現してこなかったという結果が出ている時期なんだと思っていて。ただまだやりようはあるだろうと。この数年でオンラインにおけるコミュニティをつくり方も変わったし、C to Cマーケットの拡充や、NFTなど、新しいメディアのあり方を占う土壌が出来上がってるような気はするんですよね。
西山:ここ2,3年でポジティブな変化だと感じるのは、コロナ禍以降、SNSやPodcast、Youtubeなどを通じて個人で情報発信をする人が圧倒的に増えたこと。その分、情報量は増えているのですが、以前よりもコンテンツを見る目は肥えているので、与えられた情報に目を通すというよりも、信頼できる、もしくは自分のフォローする人の発信する情報を、読者の方が選んで読むようになってきていると思います。一方で、「フィルターバブル」という言葉でも取り上げられていましたが、個々人の思想が明確に表現されるようになり、同じ思想を持つ人同士は集まりやすくなっている。コミュニティも形成されるのですが、同質な人たちの集まりでしかないのである意味とても脆いコミュニティなのではと。では異なる思想を持つコミュティどうし、どう接点を作ることが可能なのかを考えるところに中間地点で繋ぎ合わせるような編集的なポジション、メディウム的存在が求められているのではと感じています。
武田:大学のときに『界遊』という雑誌を始めたとき、構想していたモデルもまさにそれです。当時はまだ「フィルターバブル」という言葉はなかったのですが、ポストモダン以降の社会でそれぞれのトライブの中で閉じこもった言論空間が点在している状態を「島宇宙」と呼んでいて、その島宇宙をいかに変容させられるのかという議論がありました。編集部のぼくたちはアマチュアリズムとジェネラリストであることをうまく逆手にとって、その島宇宙の輪郭を横断したいと思っていた。その中でみんなで集まれる言論空間として雑誌やイベントを位置づけて、どう風穴を開けていくかを考えていた。アニメ、音楽、文芸といったジャンルを横断しながら、有機的な結合を生むことはできないかと。と。
ただ、ジャンルを横断していくには、実はバーティカルな知性が必要だったんだ、と今は考えているんです。個々人の知を深めることが、コミュニティ間の分断を溶かすことにつながるのではないかなと。これ、勝手に知性の鳥居モデルって呼んでるんです(笑)。説明しますね。ふたりの人が、それぞれ詳しい分野を持っているとします。例えばぼくは文学について、西山さんはデザインについて知っているとする。その2点が並んでいます。横軸が知識の広さ、縦軸が深さです。横に並ぶと分野を横断することになって知が線的に広がります。でもそれぞれ深い知識を持っている場合、各自が得意な分野を掘り下げているので、、2人が向き合うことで生まれる知識が線から面になる。横に並べる人が増えるほど、そして個々人の掘り下げが深いほど、知識の総面積は広がっていく。つまり自分の強みとする土壌でのバーティカルな知を持っていれば、向かい合った人たちとの間でより広く深く知が増殖していける。その時にコミュニティの分断は融解し、繋がることが可能なのではないかなと。西山さんはどう思いますか?
世の中の複雑性に触れる。「趣味」という領域
西山:メディアの形を構想する上で、一番に考えていることが、そもそも全く知らない領域にいる人、タッチすらできていない人とどう接点を持てるのかどうかということです。例えば選挙の投票率についても、同じことを考えていました。自分の周りの友人や多くのメディアが「選挙に行こう」と発信をする中で、私自身を含め、友人たちもみんな今回こそは投票率が上がると思っていたけれど、結果は過去2番目に低い投票率だったんですよね。届いているつもりでも、届いていない。自分が見ているのがいかに狭い世界での出来事なのかを実感しました。それをメディアに置き換えて考えると、ある種の自己満足になってしまう。内側の人にとっては心地が良いけれど、外からしたら居心地の悪い場所になっているかもしれない。そこで、自分が無関心かつ距離を感じる分野に対してコミットできるとしたら、そのきっかけとなるのはなんだろうと考えた時、今のところ、そのひとつの鍵は「問い、クエスチョン」なのではないかという仮説を立てています。人から与えられたものではなく、些細なことでも自ら疑問を持てるかどうか。言葉が通じないような閉じられた扉を前にしたとき、無理矢理コミュニケーションを取ろうとするのではなく、疑問の種を持ってもらう仕組み、きっかけさえ作れたら、自然と扉も開けてもらえるのではないかなと。そのためにはおそらく、わからないことをわからないままに受け入れるという状況を作ることが必要になります。わからないことをお互いに受け入れられる、相容れないものも許容できるという人が増えたら、コミュニケーションを遮断したり、知らないから見ない、関係ないと線引きすることも減っていくのではないかなと。
武田:それ重要ですね。わからないけれど、見えていない何かしらの領域がそこにあると認識できるということ。だから何をすべきかとか、すごく意識的に考えていかないといけないなと強く思います。自覚的にならないといけないのは、我々はマイノリティであるということなんですよね。ぼくたちのような仕事を東京でしていると「リベラルの壁」に囲まれがちですよね。でも、世の中を見渡してみたり、選挙結果を見たりしていると、そうではない価値観だと思われるケースのほうが多い。じゃあこの壁をどう乗り越えられるのか。普段出会わない人と、どう関わりうるんだろうか。近年実践しているのは仕事と生活との射程では出会えない人に出会うための楽しみを、どれだけ自分にインストールできるのかということ。直近だと去年からブラジリアン柔術という組み技主体の格闘技を始めたんですけれど、面白いのはふだん絶対に会わない人と、誰よりも近い距離で組み合うことができるところ。仕事仲間や家族でもありえないくらいの至近距離で、リアルに肌を合わせる。その中で生まれてくる友情というのはまた違う趣があるんですよね。プロを目指してる人もそうではない人もいるし、趣味でやっているおじさんもいる中で、これまでの空間にはなかった熱と連帯が生まれている。そうした中で、「次5分お願いできますか」っておっかなびっくり声をかけ組み合ったときのなんとも言えない嬉しさといったらない。
武田:実は20代、毎日忙しくしていた自分にとって嫌いな単語がいくつかあって、そのひとつが「趣味」だったんですよ。趣味なんて、時間とお金に余裕のある人の消費活動でしかないのではと思っていたんですよね。けれど最近になって、ようやく「趣味」は仕事とは別に、世の中の多様さや美しさを知り、測るための定規なのではと気がついたんですね。端的にこの世の中には、見ていただけではわからないことがたくさんある。格闘技でも一つの技がわかると、その横にある技術体系や知識というものが見えてきて、そこに育まれてきた技術向上の歴史が自分ごととして体感できる。今まで日曜評論家のように見るだけだった格闘技が、実は途方もない試行錯誤の上に作り上げられてきたものなのだと、そのたどり着けなさに圧倒されると共に、リスペクトを持てるようになる。趣味って、経済的な生産性が重視されるのとは別のしかたで、世の中の複雑性に触れることができるんですよね。学歴も経歴も関係なく、ただそれが好きというだけで場を共有できるポジティブなコミュニティ。趣味の世界のマッピングを考えると、リベラルの壁を越える手段としても有効かもしれないと可能性を感じたりもしています。
西山:新たな尺度を見つけるというお話でいうと、やはり今あらためて「まち」が面白いのはなないかと感じています。印象的だったのが、先日、渋谷区の区政70周年のお仕事で伺った渋谷区消防団への取材での出来事。消防署と違い、本業とは別に、18歳以上の有志、全400名ほどからなる11分団で構成されているのですが、年齢も性別も職業もさまざまな方が団員として自治的に活動していて、まるでファミリーのように仲が良いんですよね。パッと見たらどんな繋がりでこの人たちがここに集まっているのかわからない謎なグループ感がある。そこで今は70歳を迎えて退任された前消防団長が仰っていたことがとても印象的で。「親方気質の職人さんみたいな人や、絶対気が合わない人、仲良くなれない人や理解できない人がたくさんいる。若い頃はその人の言ってることをなんとか理解しなきゃとか、頑張って仲良くしなきゃとか思っていたんだけれど、続けていくとね、違いは違いのままでいいなと意識が変わってくるんだよね。消防団はそれでも許されるのが面白い。何か困ったときは、誰が言うまでもなく、勝手に助け合ったりするし、あの人来ないねとなったら誰かが心配する。たまに会うだけなんだけれど。でもそういう緩い繋がりがスッゴく楽しくてさ、25歳に入ってから、抜けられなくなっちゃったんだよ、この歳まで」と。こんな繋がりが渋谷区にあったとは!と驚きましたね。
時間軸と空間軸から。文脈に依存しない方法で人と向き合うために
武田:やはりそれぞれが違うまま一緒にいるということが重要で、それが成立しやすい条件として「ローカル」や「フィジカル」という要素があるのかもしれないということ。消防団の話も柔術や趣味の話も同じ「場」で向き合ってるからこそ越えられる壁がある。一方でインターネット上はどうかというと、本来ひとりの人が一生に関わりきれないほどの人数の人間の内面と向き合うことができている。そんな機会が増大し、同時に地球の裏側にいる人とでさえノリを共感できることになっている。それはとても良いことでもある一方で、反面、すぐ隣に絶対に許せない邪悪な価値観を持った人がいたみたいなことも同時に見えてきてしまうわけですよね。関わることがなくて済んでいた邪悪さみたいなものまで、認知することで関わってしまっている。それがデジタルだから余計に加速して僕らは絶望したりしてるんだと思うんです。どっちが生きるべき世界かといっても、なかなか選ぶのは難しい。ぼくらはフィジカルな存在として生きてるけれど、一方でスマートフォンやPCといったデバイスを通してしか作れないリレーションを持ってしまっている以上、もう既にどちらも手放せない。そこで我々編集者の話に戻ると、それぞれのメディアに最適なコミュニケーションの形を実装していくべきなのではないかと。「ローカル」や「フィジカル」と、デジタルそれぞれの要素をうまく使い分けたりハイブリッドに構成しながら、共有できる要素を見つけていく。それがうまく噛み合った時、人が対面することの価値っていうのは何倍にも増大します。場と時間を共有し有限なものとして向き合う誠実さが、おそらくあるんじゃないかな。『M.E.A.R.L』のメディアとしての役割やこれから企画していくイベント、コミュニティについて考えていく際のヒントになりそうですね。
西山:「ローカル」と「フィジカル」というキーワードと関連して、自分が人にどうアクセスしていくかを考えたとき、今ホロスコープにヒントがあるような気がしています。占星術的な用途ではなく、成り立ちが面白いなと。ホロスコープを書こうとすると、まず必要になるのが何年何月何日何時何分に生まれたのかという時間軸の座標。そして緯度経度何度の地点に生まれたのかという空間軸の座標です。時間軸と空間軸を掛け合わせた時に、その人仕様の地図が引かれます。これらの星がこういった角度で関係しているというような構造が図面化される。化学でいうところの組織図の概念に近いかもしれません。そうすると共感でも調和でもない、意味を伴わないけれど繋がり得る接点が発生するのかなと。そう考えていくと、やはり空間と時間を共有している状態はとても強力な状態なのかなと。それは例えば、オンラインだったとしてもオンライン視聴イベントであれば、同じ時間をオンラインで共有していることになりますし、まちであれば同じ地域に住んでるという共通項になる。
武田:時間軸と空間軸。この交点で、編集を使って何が起こせるか。空間と時間が共有できていれば、文脈依存度が減らせるし、同時にそれぞれが別の存在のまま共に過ごせる可能性も生まれる。そもそも人間は、本来そうしてきてたはずですしね。。一方で「村社会」のように、二つの軸がずっと重なったままだと息が詰まるよねという瞬間もきっとある。空間軸で言うと自分の場合はひとつのまちに住み続けられないんですよ。生きているあいだ、常に寄る辺ない気持ちがかたわらにある。ずっと同じまちで家業をやっている人や家族もそこで養ってきた人にすごく憧れるけど、やっぱり自分にはできそうもないってときに、じゃあ自分はどういう存在かなって考えると、民俗学上でいう「客人(まれびと)」的な存在としてやってくしかないだろうと。流浪の民みたいなものとして、さまよい続けるのだろうと。そして行った先々で何かに感動して、地元の人だと忘れてるような目線から、これが素晴らしいよって伝えてまたいなくなっていく。アーキタイプとしてはそういう人種。だからこそきっと「ローカル」なもの、「フィジカル」なものに惹かれるし、ならばいろんなところでいろんなそういうものを見ていくのがいいのだろうなって最近再確認しはじめました。西山さんはどうですか?旅人型?
西山:自分もいわゆる「同じ」空間には居続けることができないので、そうだと思います。一方で、旅をしているのではなく、自分のいる土地や空間そのものが変容している状況をつくっている、あるいは空間そのものが変化しているという気もしていて。例えば川の流れもそうですが、同じ地点であっても、川は流れ続けているので、その表層は変化し続けています。そんな感じで、自分が今ここにいる、と認識している場所や訪れたことのある空間そのものも絶えず変化していて、その表情の違いを楽しんでいるという気もしています。メディアもメディウムからきている言葉ですが、空気であり媒介であり、媒体。あまりに不思議で不確実なことに満たされている世の中だからこそ、変容する媒介を通じて、自分がどう振る舞い、作用していくのかを考えることで少しづつ真理に近づいていくのではないかという感覚があるんですよね。
武田:確かに移動しないから見えるサインみたいなものもあると思うし、視線を変えてあげるだけで見え方が変わりますよね。そういう流れの中で、今ぼくたちふたりが有効に使えかつ興味があるツール、技術が編集とメディアなんじゃないかな。その上でぼくが一貫して惹かれているのは「ナラティブ」と言われるような物語や語り。ここにはなかったり存在しないものについて、多くの人が語り、味わってきたという事実にやはりずっと関心があるんです。現代はとりわけお金の話が先行してしまうけれど、人類史を遡ればお金よりも先に物語を発明しているわけですよね。だからなのかな、「物語」の反逆みたいなことをとても心待ちにしている自分がいる。ストーリーマーケティングみたいなそういう技法ではなくて、もっと根本的な人が「ものを語る」という行為自体に、アクチュアルなことが起こりえないかなとずっと待ってる気がするんですよね。すごい謎飲み会みたいな話になってしまいましたが(笑)『M.E.A.R.L.』も西山イズムでアップデートしていってほしいですし、ぜひスクラップアンドビルドしてください。ぼく自身も個人として、まだこれからのメディアについて考えていきたいと思います。
[前編はこちら]
武田俊
文筆家・メディアリサーチャー
大学在学中にインディペンデントマガジン『界遊』を創刊。編集者・ライターとして活動を始める。2011年、メディアプロダクション・KAI-YOU,LLC.を設立。その後「TOweb」、「ROOMIE」、「lute」、「M.E.A.R.L.」などアート・カルチャー領域のWebマガジンにて編集長を歴任。2019年より法政大学文学部にて「情報メディア演習」を担当。また、podcast番組「MOTIONGALLERY CROSSING」などでパーソナリティも担当。デジタル、紙、物理空間など多様なメディアを横断し、ナラティブで繋ぎ合わせる手法を探究中。右投右打。
https://takedashun.com/
西山萌
編集者・遊歩者・粘菌
多摩美術大学卒業後、出版社を経て独立。雑誌「TOKION」のリニューアル創刊に携わるほか、本と編集の総合企業SPBSでは「SPBS THE SCHOOL」の立ち上げに参画。編集を基点にリサーチや企画立案、キュレーションや場所作り、メディアディレクションなど。アート、デザイン、音楽、ファッション、都市、街などを中心にメディアを横断し、雑誌的な編集を行う。編集を手掛けた書籍に『A DCADE TO DOWNLOAD — Internet Yami-Ichi 2012–2021』(2022)、『来るべきデザイナー現代グラフィックデザインの方法と態度』(グラフィック社、2022)、『アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き』(Tokyo Art Research Lab、2023)『小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社、2023)など。2023年5月より「M.E.A.R.L.」の編集長に。
https://lit.link/en/moenishiyama
村田啓
1990年生まれ。現在東京を拠点に活動。
2016年、東京藝術大学大学院美術研究科絵画油画専攻修了。視覚やスケールの変容への興味を基とした写真や映像を用いた作品制作のほか、ミュージシャンやファッションブランドとの協働などを行っている。近年の展示に、「between / of」 The 5th Floor 東京、「VOCA展2022」(上野の森美術館、東京、2022)、「So long so far」 People 東京、「5 holes are sunlit」(Token art center、東京、2021)など。
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