どのように都市を描くか? 評論家・マンガ家・アーティストが語る、まち歩きから見える風景【後編】

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2023年の上半期、都市を舞台とした刺激的な書籍が二冊上梓された。美術編集者/評論家の楠見清氏による『無言板アート入門』(ちくま文庫)と、マンガ家/イラストレーターのかつしかけいた氏による『東東京区区』1巻(路草コミックス)だ。

『無言板アート入門』は、雨風や紫外線によって文字が消えてしまった”もの言わぬ看板”を、一種のアート作品として鑑賞する路上観察の書。一方『東東京区区』は、年齢も性別もルーツも”まちまち”な三人が、東東京の様々なまちを散策して新たな魅力を発見していくマンガだ。どちらもまちそのものが背景というより主役になっていると言っていい。

そこで同じくまちを主題とした著書『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社, 2022)があるアーティストの中島晴矢を加え、プロジェクトチーム「野ざらし」が主催するイベント「さなぶり」の一環として、墨田区の東向島に位置するスペース「藝とスタジオ」にて、「How to draw a city ? ──まち歩きの描く風景」と題するトークイベントが開催された。

それぞれの著作について深掘りしながら、評論家、マンガ家、アーティストという三者三様の都市の捉え方、またそれらを落とし込む表現をめぐる鼎談をお届けしたい。

Text:Haruya Nakajima
Photo:Yuki Maniwa
Edit:Yoko Masuda

[前編はこちら

非合理なことに接近。まちと関係を結ぶ方法

中島:楠見さんの無言板は背景のまちについて掘り下げるというより、そこにあるオブジェの方に注目していますよね。もちろん「近代化無言遺産」などまちの歴史がポイントとなる物件も紹介されていますが、楠見さんにとって無言板とはどのようなものなのでしょう?

楠見:僕はたぶん意味のないものに接近したいんですよ。日頃、本を読んだりつくったりして文字をずっと見ているので、文字がない白無地のものに対して、ある種の強迫観念と同時に憧れがあります。目の前から言葉とか意味とかなくなってしまったらどんなに清々するだろう、みたいに。むしろ意味とかでは計れない部分に真実があるんじゃないかとか考えてて、意味がないもの、無価値なもの、役に立たないものに接近していくために、自分なりのルールとして無言板を設定したようなものです。

まちの中には意味が強いものや弱いものといった様々な力関係があるわけですが、それらを全て無効化してしまうようなものをファインダーの中心に据えて写真を撮った時に、まちの風景がガラリと変わって新鮮に見えてくるというのは自分なりの発見でした。

中島:少し話を飛躍させると、僕は本質的にアートも無言板と同様、無意味なものへ接近する運動だと思っています。一方、美術館やギャラリーに並ぶ美術作品は大量の情報が詰まっていることで高い価値を生み出している。もちろんコンセプトや文脈を読み解くおもしろさは現代美術ならではですが、その代わり無意味の中心みたいなものからどんどん離れていきますよね。その時、純粋に無意味なファインアートを路上の看板に見出すというのは、むしろ必然的な態度にすら思えます。

楠見:僕らにとってはね(笑)。例えば中島さんって、映像作品を通じてまちに介入してぶつかっていくじゃないですか。それこそある種のコンプレックスを持っていたニュータウンでプロレスをする、長尺の映像(《バーリ・トゥード in ニュータウン》)がありますよね。あれが何とも言えず感動的なんですよ。レスラーたちが風景の中に小さく映っていたりする。あの作品もまた、まちやストリートとの関わり方を提示していると思います。

あと『オイル・オン・タウンスケープ』を読んでおもしろかったのは、ニュータウンと和解するという表現。「父親と長年の遺恨を解消した志賀直哉ではないが、私はニュータウンと少しずつ「和解」していったのである」。まさにこういうことなんじゃないかと思ったんですよ。おそらく僕もまちなかの意味のない、みんなが無視して通り過ぎている白い看板に目を向けることによって、何かと「和解」しているんです。

日頃、ホワイトキューブの美術館やギャラリーですごい値段がついたりしている現代美術とやらに奉仕している人間の一人でありながら、まちのワイルドなものに触れることによって和解する……一種の罪滅ぼしなのかな(笑)

中島:無言板を通して現代美術と和解している。

楠見:ちなみにワイルドということで言えば、植物学者の牧野富太郎が「雑草という草はない、どんな草にも名前がある」と言ったそうですね。でも僕は「雑草」でいいと思うんです。雑誌や雑貨みたいに雑の字にはバラエティー豊かという多様性がある。むしろ雑草だからいいんですよ。「wild flower」のままでいいんです。

無言板もいわば雑草ですね。美術の施設内に展示されるものがアート作品だとしたら、まちかどにある何かというのは、いわば「雑美術」。僕はそれらに向かい合っているわけです。その上で学術的な名称とかではなく、一つひとつ勝手に命名するというのが自分なりのアナーキーな方法かなと。

中島:グラフィティのようにタギングするわけじゃないですが、勝手に名前をつけることで自身の痕跡を残している。

楠見:自分のものにしている。それはちょっとしたエゴなのかもしれないけど、たしかにタギングに近い感覚はありますね。そういう関係性を通してまちと結ばれている。

中島:先ほど触れていただいた《バーリ・トゥード in ニュータウン》のシリーズは、まさにまちとの関係を探る作品です。均質で入れ替え可能だとされるニュータウンは、合理的に設計されていて引っかかりなく過ごせるので普段は意識しませんが、そこでプロレスをやろうとすると全く違った風景が立ち上がります。例えば、その辺の出っ張りや公園の遊具が有効な凶器に見えてくる(笑)。プロレスを通してニュータウンそれぞれの差異や凹凸、個性に気づいたんですね。

楠見:現代のまちや街路は合理的かつ機能的に設計されていますが、それとは異なる時空を見つけていくというのが、おそらくまち歩きの本質です。本来の目的とは違うところにおもしろさを見出すもの。

中島:異化するというか。ストリートカルチャーで言えば、グラフィティが描けるスポットやスケートボードができる通りなど、プレイヤーごとに都市空間の見え方が異なるはずですし。

かつしか:まち歩きということで言えば、僕が描いてるのは正にまち歩きをテーマとしたマンガなので、実際にそのまちに行って取材をしますが、そこで悩ましいのが繁華街の描写です。もともと僕自身が体質的に下戸なので、普段あんまり酒場に行かないんですね。ただ、そういうゴチャゴチャした町並みって東東京の一つの魅力じゃないですか。

もちろん、お店に入らなくても夜の繁華街を歩いたりはできます。僕自身のような中年男性を主人公にすれば、吉原や錦糸町駅南口といった歓楽街をキャラクターに歩かせることもできるかもしれません。でも、『東東京区区』の登場人物は未成年やムスリムの女性。やっぱり自分と属性の異なるキャラクターたちにまちを歩かせようとすると、「そうか、こういう場所はこの子たちにとってちょっと行きづらいよな」とか「あんまり歩かせたくないな」と思ってしまうんです。

つまり擬似的な他者を想像することで、立場や年齢など様々な属性による見え方の違い、あるいは歩きやすいまち/歩きにくいまちが出てきたりするんだな、と描きながら実感した部分はありますね。

中島:マンガ家ならではの視点ですね! キャラクターの属性を人格的に尊重しているのが素晴らしいです。

楠見:その意味で『東東京区区』は、「東東京」という言葉と主要キャラクターを通じて、これまで下町的とされてきたイメージを刷新していますね。新しいオルタナティブな視点をまちに与えている。主人公の3人は、ムスリムの大学生・サラ、エチオピア人の両親を持つ小学生のセラム、そして不登校の中学生・春太。この3人が出会うという第1話で、僕はもうグッときちゃって。

かつしか:ありがとうございます。

中島:感動的ですよね。世代も人種も性別も違う。

楠見:僕もすごく共感しました。『無言板アート入門』の前書きでは、無言板のような役に立たないものや忘れられているものに接することが、社会のなかで弱者や少数派や異端とされる人や事物との関係性や共生に重なるはずだと書いたんですけど、やっぱり何でもかんでも有効で、機能的で、合理的でという測り方とは違うまちへの視点があるはずだし、それこそがまち歩きという行為を生み出している。

そもそも散歩って役に立たない行為なんですよね。普段どこかに行くとき、A地点からB地点までどれだけ早く安く行くことができるか検索しちゃうじゃないですか。一方、散歩は家から出て家に帰ってくる。移動という点で考えたら無意味なんです。でも、そこがいいんですよ。

コロナ禍のまち歩きから。個の実践の先に垣間見るもの

中島:かつしかさんから酒場の話題も出ましたが、僕がいま一番力を入れているまち歩きコラムが「断酒酒場」です。アルコール依存症になってしまって、3年1ヶ月前から断酒しています。それでお酒を一滴も飲めない状態であえて酒場に行くという連載なんですが……(笑)

かつしか:アルコールを一切頼まないんですもんね。

楠見:ジンジャーエールとかになるの?

中島:ジンジャーエールとかレモン炭酸水とか、最近はノンアルコールビールなんかもOKにしてます。それでこの間、記念すべき断酒3年目ということで「せんべろの聖地」「酒都」と呼ばれる葛飾区の立石に出向いてきました(笑)。立石の有名な「呑んべ横丁」じゃないですが、呑んべだった人間が酒をやめた状態で下町を歩くと、ノンアルでも入りやすいお店とか、入った老舗が意外に酒を飲まなくても大丈夫そうな雰囲気だったりとか、いろんな発見があるんです。

いま、体質的に飲めるし依存症でもないけれどあえてお酒を飲まない「ソバーキュリアス」と呼ばれるスタイルが流行っているそうです。コロナ禍からの流れもあって、ノンアルコールドリンクを楽しむ人が増えているらしい。

楠見:そういえば、コロナ禍では飲食店がお酒を提供しちゃいけないということになってましたよね。まるで禁酒法時代みたいに。いわば全員が「断酒酒場」状態になってしまった(笑)

中島:そうなんです!(笑) 当時から由々しき事態だと思ってました。僕は個人的な事情で勝手に断酒しているだけだからいいけど、みんなが半強制的に断酒しなければならない社会は絶対に間違っている。しかも法的な根拠のない「要請」として、市民相互の同調圧力に依存する形で……その気持ちは今でも変わりませんね。

その意味で、コロナ禍におけるまち歩きはすごくコンシャスな営みだったのかもしれません。コロナ禍の時ってまちの見え方がまるで違ったじゃないですか。その空気感はコロナ禍に連載した『オイル・オン・タウンスケープ』でも書きました。それと同時に、まちをブラブラすること自体が禁止されることで、それがどんなに豊かな行為だったのかを逆説的に思い出すきっかけになったとも感じます。

かつしか:旅行もあまりできなくなったじゃないですか。だから『散歩の達人』とかでも、近場や地元のまちを楽しみましょうといった特集が増えましたよね。

中島:星野リゾートは「マイクロツーリズム」を提唱していましたね。

かつしか:僕もコロナ禍をはさんで、もともと出不精だったのに外に出るのがより億劫になってしまって。ただ、そのぶん地元に近いエリアでなるべく楽しもうという、ある種ポジティブな側面もありました。マンガではマスクを描いたりはしていませんが、連載が始まった時期はコロナ禍。葛飾区だけでもまだまだ行ったことのない場所があったし、山手線の西側にある繁華街に出なくても十分満足できましたからね。

中島:『東東京区区』に描いてあるように、例えば立石という地名の由来は「立石様」という実在の石。僕も見に行ってきたんですが、住宅街の中の小さい公園に先端がちょこっとだけ出ている石がある。このおもしろさというのはすごい。近場でも深掘りすればいくらでも楽しめるわけです。

かつしか:マンガを描きながら、本当にローカルな地名しか出てこないので、こんなの全国的に発売して大丈夫なのかという不安がありました。いちおう柴又とかスカイツリーといった有名どころも出てきますが、観光的な視点で描いているまちは少ない。小岩とか枝川とか、東京都内でも西側の人は聞いたこともないんじゃないか、と。ところがSNSなんかで感想を見ていると、「東京の東側ってこういうところだったんだ」「初めて知った」「今度行ってみようかな」など、そのまちを知らない人でも楽しめていることがわかって安堵しました。

僕としては別に「東東京あるある」を言いたいわけではなくて、どんな地元であっても、あなたの住んでいるまちの周辺を調べたり、歩いたりしてみると発見がありますよ、と言いたいんです。読んでくれた人が自分の地元で実践してほしいというか、そのための方法論のように読んでもらえたら嬉しいですね。

中島:僕も近いことをエッセイを書きながら意識していました。地名や親類、友人など固有名詞がたくさん出てくるんですが、そうした個別具体的なものを経由しないと伝えられない普遍性があるんじゃないかと。そもそも僕にとって文学とはそういうものです。一言で言えば近代小説って「誰かがどこかのまちで何かをした話」じゃないですか(笑)。それでも近代文学が国民的たり得るのは、個人的なものを突き詰めることでむしろ公的なものに至るからじゃないかな。それはまちを描く際にも言えることなんだと思います。

会場では登壇者それぞれが用意したまち歩き写真の鑑賞会も行われた

変化する風景のなかで。これからの都市のあり方とは

中島:最後にお二人に聞いておきたかったことがあります。さっきから話している立石ですが、僕が訪れたのは2023年8月末で、9月からは本格的に駅北口の再開発がスタートしています。呑んべ横丁の看板も撤去されたようです。解体される直前の飲み屋街や商店街を目にすると、そこまで深く関わってきたまちとは言い難いんだけど、どうしてもグッと寂しい気持ちになりますよね。

とはいえ建物や商店街が老朽化しているのも事実だろうし、再開発は避けられないのかもしれない。また、ここ10年で東京の人口はますます増えており、地価も上がり続けてるから、東京に新しくタワマンや複合商業施設を建てていく流れは否定しがたく進んでいくんだろうとも思うんですね。こうした状況において、東京や東東京をはじめとするこれからの都市はどうなっていくのか、あるいはどうなっていってほしいでしょうか?

かつしか:いまから立石の再開発について語り出すとあと2時間くらいかかってしまいそうですが……(笑)。ただ、本当に難しいんですよね。中島さんがおっしゃったように京成立石駅北口一帯の再開発が行われていますが、主導している再開発組合の中心にいるのは古くからの地主さんだったりするわけです。つまり、デベロッパーやゼネコン、あるいは行政が古き良き町並みを壊そうとしており、それに対して住民が反対している、みたいな単純な構図でもないんですよ。

中島:勧善懲悪ではなく、現実的で複雑な利害がからまっている。

かつしか:ここ10年〜15年くらいで、立石は酒飲みのまちとして知られるようになりました。とはいえ地域のほとんどは住宅街であって、いわば生活者のまちですよね。外部から酔っ払いの人たちが来ることは、正直、地元住民にあんまりメリットがない。そのため酒飲みのまちとして喧伝されることを、そんなによく思っていない地元の人たちもいます。こういう一概に言えない難しさがあるんです。

かつしか:最近僕が再開発について思うのは、地域を守ろとする人たちからすると、タワマンはこれまでの街並みや景観を大幅に変えてしまう、招かれざるもののように語られる一方で開発を望む側は新しい住民も増えてまちが賑わうと歓迎する。つまり賛成か反対にくっきり分かれてしまっているんですね。

最初に言ったように、僕も葛飾区のマンションで育ちました。そこはもともと工場があった場所だったそうです。かつてあったものがなくなり、新しく建設された環境で育った。立石にタワマンが建つことに関しては、立石の規模に見合っているとは思わないし、「そこまでして建てなくてもいいじゃないか」とも思います。ただ、だからといってタワマンで生まれ育った子どもたちが地元の公立小学校に通った時に、「お前タワマンから来てるだろ」なんてからかわれてほしくはない。

中島:それはイヤですね。僕もニュータウンの新住民だったので共感できます。

かつしか:日暮里駅前のタワマン下にちょっとした広場があって、そこで遊んでいる子どもたちを見るとすごく楽しそうなんですよ。僕も子どもの頃にマンションの敷地にある狭い駐車場で遊んでいたことを思い出したりして。タワマンを建てる/建てないの是非というのはあるんだけど、建った後そこに根を張った子どもたちや新住民の生活について、こちらが否定する権利なんてないと思うんです。

これまでタワマンは臨海エリアや港区なんかで成功者が住むものというイメージでしたが、立石もそうだし、平井とか新小岩の駅前にこれから建つということになってくると、やがて自分の地元にもありふれた光景になります。そうなれば、ちゃんとタワマンと向き合わなければいけなくなる。タワマン住人との間に新しい関係性を築くこともできるはずですし、今までのまちがなくなってしまうという否定的なニュアンスだけではなく、もっとポジティブに状況を楽しむことができるんじゃないか……最近はそんなことをぐるぐる考えてますね。

楠見:いや、本当に難しい問題です。ただ僕が言えるのは、まちは変わっていくしかないということ。そういった矛盾や無常を含んだものこそが、まちのリアリティだと思います。

楠見:まちをそのまま保存しようとすれば、それにはまた違う力が必要になってくる。もちろん保存すべき文化的な価値を有するまちはありますが、しかしそれが完成されてしまえば日常の生活から遠のいてしまう部分もあるわけです。これは例えば京都が抱えている問題で、京都大学の立て看板を規制する条例が今を生きる学生たちの文化を価値のないものとして排除してしまう。

やっぱり大事なのは、自らの生活圏に対してどれだけ誠実でいられるかだと思います。まちの変化を自分ごとにしていくしかないし、おそらくそうした葛藤の中から、日本近代文学が生まれたり、下町を舞台にした名作映画がつくられたり、ストリートアートが広がったりしたんじゃないかな。

僕がやってみたいのは、それらを何らかの文脈でつなげることです。そうすれば、いままでのように文学/音楽/美術といったメディアや手法によるジャンル分けではなくて、もっと広い意味でのストリート芸術というか、ストリート派みたいなものが見えてくるんじゃないか……いまここにいる3人は、多分それぞれがそんなことをやる係なんですよ。

中島:楠見さんがおっしゃるように、まちはいろんな矛盾を孕みつつ変化していかざるを得ないのでしょう。以前『美術手帖』でストリートアート特集のライターをやりましたが、例えばグラフィティの人たちに話を聞くと、「まちがどう変わったって、目の前にある環境でどう描くかを考えるだけ」という人が多い。つまり、現状を乗りこなしサバイブする思想です。

その姿勢から学ぶことは多々あると感じます。シティサーフィンじゃないけど、まちの変化の波にライドしつつ介入するというか。もちろん僕の中には永井荷風的な「挽歌」のマインド、失われゆくものへのセンチメンタリズムが根強くあります。僕だけじゃなく、3人ともそれがなければわざわざこんな本を書かないはずです。

でも、そうしたジレンマを抱えながら、これからもまちを描くことやこうした対話を通じて、実践的に都市にコミットしていければと思います。本日はありがとうございました!

[収録=2023年9月10日]

 

登壇者プロフィール

楠見清(くすみ・きよし)
1963年生まれ。美術編集者/評論家。『コミッカーズ』創刊編集長、『美術手帖』編集長を経て現在東京都立大学准教授。共著『もにゅキャラ巡礼──銅像になったマンガ&アニメキャラたち』で公共彫刻の調査のために全国各地をまわりながら、いつのまにかまち歩き愛好家に。そのユニークな路上観察の成果は今年『無言板アート入門』(ちくま文庫)にまとめられた。

かつしかけいた
マンガ家・イラストレーター。葛飾区出身、在住。2010年頃より地元葛飾周辺の風景を描いたマンガ作品を発表、イラストレーターとして雑誌や書籍の挿画なども手がける。WEBコミックメディア「路草」にてマンガ『東東京区区』を連載中。7月に単行本第1巻が発売された。

中島晴矢(なかじま・はるや)
1989年神奈川県生まれ。アーティスト。美学校「現代アートの勝手口」講師。現代美術、文筆、ラップなど、インディペンデントとして領域横断的な活動を展開。主な個展に「東京を鼻から吸って踊れ」(gallery αM, 2019)、グループ展に「RE:FACTORY」(寺田倉庫, 2023)、著書に『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社, 2022)など。現在「中島晴矢の断酒酒場」(M.E.A.R.L.)を連載中。

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