千葉県松戸市。かつて「松戸の原住民」と称された男がいた。彼の名は稲葉八朗(いなばはちろう)。蕎麦屋として始まった家業の和食屋を4代目として継ぎ、その和食屋を蕎麦屋・天丼屋・寿司屋・うどん屋・鰻屋へと独立展開させたグループの経営者である。一方で、豪快かつ破天荒な性格でまちに数々の悪名高き伝説を残した男としても知られる。時に道路を占拠し、市役所を言い負かし、さらには江戸時代の祭りを復活させたという。雪駄でまちを徘徊し、ワンブロック先にいてもその気配を感じさせる存在感を醸し出す。そして複雑なものにこそ熱中する気質で、飛行機にサイドカー、パソコン、歴史、絵画、写真、茶など数々の趣味をもち、独自に極め続けた結果、その域は趣味のレベルを逸脱する。
一度お会いしてみたいところだが、残念ながら稲葉氏は2020年12月に79歳で亡くなった。もう会うことができないが故に、真偽を疑うような数々の偉業(?)や噂を耳にすればするほど、より謎が深まる未知なる人物・稲葉八朗。そこで、彼と以前から親交があったというまちづクリエイティブ代表・寺井元一に話を聞いた。寺井氏は、彼の起こした騒ぎにはなにかしらの意味があり、それを1つずつ紐解くと、まちづくりにおいて重要なヒントを残してくれていたようにも捉えることができると語る。本記事では、稲葉氏のご家族から資料をお預かりしたうえで、前編に引き続き寺井氏視点の「稲葉八朗」についてお届けする。
Text: Yoko Masuda
Edit: Moe Nishiyama
〈前編はこちら〉
・凝りすぎて内装を持ち込んだ笹で埋め尽くし、人魂を燃やそうとして火事になりそうになった
・陳情のために病気で入院している市長のところ(北海道)まで行って押しかけて直談判した
◎捕まっても本望。国会議事堂に向けてレーザー光線を放つ
「松戸まちづくり会議」を立ち上げた結果、2012年度の1年間でアーティストによる数々のイベントや企画が住民も巻き込んで行われました。例えば暗さの課題が上がっていた東口の公園では聖徳大学の学生とともにライトドローイングを行うプロジェクトが行われ、広報チームは瓦版を作成。防犯チームは泥棒のことを知ることで防犯が強化できるのではという仮説のもと泥棒になりきるワークショップを実施。道路活用として、道路に畳を敷きつめ、プラ皿を買ってもらうと、飲み屋街の名物料理を一品皿に盛ってもらえる大宴会。江戸川の河川敷を結婚式場に変えるプロジェクトも行われ、実際に1組結婚式を挙げたり、公園ではその中心に高所作業車を置いて地上20mほどのところから四方にすずらんテープが公園を覆うオブジェ化をしたところその下で飲み会が行われたり、複数の町内会の合同で盆踊りが復活したり。今でも松戸には当時の名残があるまちの活用方法やイベントが残っていると思います。アーティスト主体の企画以外にも豊嶋秀樹さんのプロジェクトでは映像のアーカイブ映像「松戸ライフアルバム」を制作しました。映像のなかに稲葉さんも登場します。
城一裕さんとDJぷりぷりさんの取り組みでは、伊勢丹(現:松戸ビル「KITE MITE MATSUDO(キテミテマツド)」)の最上階で空き家になっている旧回転レストランを使い、そこで発電しレーザー光線を飛ばす計画が進んでいました。円形レストランの中心軸に横から長い丸太の棒を刺し、その棒を人力で回して発電する。その電力を使い、レーザー光線を飛ばそうと。このアイデアは、ニューヨークにニューヨークのアーティストYvette Mattern(イヴェット・マターン)が、2012年ニューヨーク市に大規模な被害をもたらした「ハリケーン・サンディ」を忘れないように、レーザー光線の虹を空に出現させた作品がもとになっています。彼を日本に招いて、そのときもっとも松戸と関わっている場所とつながろうと。それはどこかというと、東日本大震災以来ホットスポットになってしまった松戸にとって、福島第一原子力発電所だったんです。そこで、市役所が自衛隊に連絡を取ってくれ高度等の問題はクリアできてレーザーを飛ばせることがわかり、また僕が東京電力に電話をし、エリアの町会長の連名の書面を送って、レーザー光線を福島第一に向けて放つにあたり事前に話し合いをしたいと申し入れたんですね。その回転レストランの跡地に東電のマネージャーが来訪し、稲葉さんや町内会長らも含めた会談が行われました。そこで両者で意見を交わすのですが、結論は、真の悪は東電に非ず、日本国政府や政治家の問題だ……となったんですね。その日以来、レーザー光線は永田町の国会議事堂に向けることになりました。
少し後だったか、稲葉さんと一緒にご飯を食べたのを覚えているんですが、そこで「国会議事堂にレーザーが飛んだら大変なことだ、まるで犯罪だ」「しかしそんなものは上等だし本望だ」と。その時のことを思い出すと、やっぱり稲葉さんは僕が自治区をつくることについて、なにかの本質を理解してくれていたと思うんです。その時に話していた、捕まっても本望だという言葉は記憶に残っています。まあ酔っ払って放った一言かもしれませんが。残念ながら最終的にこの案はアベノミクスによる急激な円安の影響で、当初200万円足りないくらいの想定で話が進んでいたものが400万円以上足りないことになり、時間が過ぎて、結果実現していないままです。
1つ思い出すのは、僕がお会いする前の稲葉さんの逸話です。以前に「I・CITYまつど(あいしてまつど)」という、要は自治体のICT推進に松戸市が取り組んでいて、稲葉さんも大いに賛同していたらしいんです。その時期に小泉純一郎さんが首相になり、初の総理大臣メールマガジンがはじまった。週1回配信されるんですね。それでメールマガジンを登録した稲葉さんが、受信したら即、自治会のウェブサイトに勝手に全文転載しはじめた。そうしたら内閣府から松戸市に、勝手に転載されたらメルマガ登録者が増えないという苦情がきた。それを聞いた稲葉さんは「国民の重要な情報をメルマガを読めない人にも伝えるためにやってあげるんだ、バックナンバーが1週間もかかるなんておかしい、間違っているのはお前たちだ」と怒ったらしい。結論として全文転載はやめて見出しだけ転載する、一方でバックナンバーが数日後にアップされるようになったと。稲葉さんのせいで内閣府が動いたなんて、真偽はわからず都市伝説ですが、信じてしまうぐらい、稲葉さんは国だって忖度なしに相手取るような誇り高き地域の原住民だった。だから、レーザーが飛んでしまっても良いんだ、という稲葉さんの意見は本心からだったと今も信じているんです。
・一番大きな神輿を買ったために重くなった
・商店会長だが、自主自立主義者だったため、周りの補助金を使いたい人と衝突した
・赤軍派の時期に、関係者だと思われて公安からマークされていたらしい
◎商店会は解散! 自治会は独立!
稲葉さんは商店会と町内会の会長を担っていました。しかし稲葉さんのいる商店会はあんまりイベントとかが行われないんですよ。なぜならすぐに稲葉さんが辞めさせるから。「自分の店が1人で立つこともできないならば、群れてもいいことはない。みんな個々で磨け、力がつくまで解散だ」と。誰かの力を借りるのではなく、個々が自分の力で立たない限り意味がない。なので補助金に頼って商売することに警鐘を鳴らしていました。商店会には国や県、市町村に補助金の仕組みがあるんですが、補助金を取ってクリスマスイベントをしましょうとか、そういうことをすべて破壊しようとしていましたね。
また、「自治会で稼いで自立する!」とよく稲葉さんは言っていました。稲葉さんの方針は2つありました。まず町内会館に高度な機能を持たせる。具体的には管理人が住んで24時間体制にするというもので、これは他の地域でも意欲的な町会では見られなくはないです。そのうえ2つ目はなんと、町内会館を冠婚葬祭の拠点にして稼ごうとしていたんです。結婚式場としても1回だけ実現したらしいですが、それ以上に葬儀場として貸し出しを多々行うようになっていました。3.11当日、僕は電車が動かず帰宅できなかったのですが、稲葉さんに町内会館に泊まれと言ってもらいました。普段お通夜の対応をしているから、確かにけっこう良い環境で一晩過ごせた。寝るだけどころか町内会のメンバーが、自宅の冷蔵庫からビールを持ち寄り町内会館にわーっと集まり飲み会が始まるわけです。稲葉さんは「これから日本がガタガタになるから、自治会の葬儀場はもっと活用されることになるぞ、これはビックチャンスが到来するかもしれない」とそこでも叫んでいた。不謹慎は申し訳ないし東北の心配もみんなでもちろんしていたのですが、その一方で床暖房のあるあたたかい場所で、電車が通るまでベロベロに飲みまくって事業を企画していた。それが稲葉さんが倒れ、僕が彼に会えなくなる1年前のことなんです。
・茶道の研究、しかしその結論は「茶道は本当に頭がおかしい」だった、稲葉さん的には褒めていた
・祭礼と絡む宇宙への関心
・もとは神幸祭で、四神(朱雀玄武白虎青龍)が神社から出てきたから
・中国星座や方位などを調べ始めて、会社をつくり、山崎直子氏にグッズを持たせて実際に宇宙にいった
◎四神の祭りを復活させた偉人
松戸神社には「神幸祭」という祭りがあります。これは東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の四神を伴った祭りで、もともと中国から伝わった「四神」が江戸で祭礼慣習となり、松戸宿にも伝わったと言われています。実はこの「神幸祭」は1941年を最後に約60年のあいだ途絶えていましたが、1988年の松戸神社改修時に四神像が神輿蔵の奥深くから発見されたことを皮切りに、祭りが復活することになります。その復活の中心人物となったのが稲葉さんです。
一般的に「まつり」には2種類あります。漢字で表記される「祭」は祭礼であり、神事なんです。神が新しく生まれることはほとんどないので新しい祭礼はほとんど生まれず、伝統的なものばかりです。一方、ひらがなで表記される「まつり」は戦後にできた商業的なマーケットとしてのイベント。例えば、商工会議所が主導で行っている「松戸まつり」は、みんなで稼ぐことを狙いとした企画です。伝統的な神事を現代において作る人はおそらくほぼいないと思いますし、神がいる祭礼である「神幸祭」も稲葉さんが作ったわけではなく復活させた祭。でも、僕らには稲葉さんはこの祭を作った偉人のようにも思えるんです。
稲葉さんは「四神」について文献資料などをもとに調査・研究を重ね、祭りが確かに行われていたという事実を突き止め、復活に向けて動き出します。祭りは復活するのですが、そこで研究が止まることなく、興味は四神とはなにかに移っていきます。西洋の天文学はギリシャ星座をもとにしていますが、東洋の天文学は中国にあります。四神は中国の天文学から生まれている。つまり、四神とは宇宙の話と紐づくのだとおそらく解釈をし、その後宇宙に関する事業を始めるまでに至るんです。四神舎という会社をつくって、四神グッズ、たとえばお守りやステッカー、手ぬぐい、マグカップなどを作り、神社で売っていました。松戸出身の宇宙飛行士・山崎直子さんが宇宙に行く時には四神のお守りを持たせてましたね。
・C言語をあやつる爺さん、ハンドルネーム「淫多熱人(いんたーねっと)」
・林雄司氏の「東京トイレマップ」の影響を受けたといっていた
・町内会のウェブがすごかった https://web.archive.org/web/20100830035707/http://honcho-matsudo.com/
・重要な知見はスキャンしたり文字起こしをしてすぐに町内会のウェブに掲載する
◎稲葉さんが取り組んでいたことは何だったのか。ポートランドとクリスチャニアの事例から考える
稲葉さんが残した数々のエピソードを耳にしながら、稲葉さんに松戸まちづくり会議の代表になってもらい共にまちづくりをしていきたいと思ったのは、単純に一緒にいて面白かったという理由ももちろんありますが、海外であたりまえのように存在する事例と稲葉さんの行動が結びつくような気がしていたから。
例えばアメリカ・オレゴン州のポートランドに「シティ・リペア」というまちづくりのNPO団体があります。彼らの代表的な活動は「交差点ペインティング(Intersection Paintings / Street Paintings)」。交差点付近に住む人たちに声をかけ、自らの手で交差点に絵を描きまくるんです。絵が描かれるだけではなく、ペイントした交差点の周りにお茶飲み場やベンチ、掲示板やライブラリーなど住民が共有し使える場が配置されていたり、ときには住民の手で建築されていることもあります。ペイント後の交差点では、行き交う車の速度が確実に遅くなり、さらに周辺住民の連帯感も増し、まちがより安全に、綺麗になる結果が出ました。この取り組みをきっかけに行政は「交差点を住民の手でいかようにもクリエイティブにできる」条例を制定することになるんです。草の根のボトムアップ、日常だが非公式の活動が成果を生み、行政を動かして公式のものになってるんですね。
僕にとって、このポートランドの事例は、稲葉さんがやっている行動ととても近しいように思えました。道路でのキャッチボール、配電盤のペイント、花壇に枝豆や唐辛子を植えたこと。道路とは本来自分たちの道なのでその場所に暮らす人たちの意志を反映していく。稲葉さんは海外の事例は知らずに、自身が感じている違和感に対して正直に実践している人だったのではないかと思うのです。僕自身も文化やライフスタイル、ローカルルールを変えたいと思っていました。本当に稲葉さんと一緒にいれば全部できるような気もしていましたね。ローカルルールは行政のルールを変える可能性があります。上で述べたポートランドの法律改正も同様ですが、例えば京都の祇園祭は神輿の衝突を避けるために信号機が折りたたみ式になったそうです。稲葉さんも祭りを作り、ローカルルールを変え、結果文化を生む人なんだろうと思っていましたね。
僕がまちづくりをする理由は「一人ひとりの人間の可能性の最大化」をしたいから。人は自分のやりたいことをやるために生きていると思っています。それができるまちにしたい。結果的にはものすごくカオティックなことになると思いますがそれでいい。静的な状態、整然としているデザインではなにも変わらないと思っているので、混沌としたまちを作るというのが僕の考えです。そのために一人ひとりの人間がある種自分のやりたいことを主張したり、みんなで考えてもらえる仕組みを作らなければならない。松戸まちづくり会議は仕組みづくりの1つでもありました。
当時僕が参考にしていた自治区の1つに、デンマークの首都コペンハーゲンの一等地にある「クリスチャニア (デンマーク語: Christiania)」があります。クリスチャニアは1971年にかつて軍の兵舎だった場所をヒッピーや若者が占拠したことから始まったそうです。ゲートはいつでも開いていて、誰でも入れるんですが、いくつかのルールがあります。「暴力禁止、武器の持ち込み禁止、犬を鎖につなぐのは禁止、自治区への車の乗り入れ禁止、ハードドラッグ禁止(持ち込むのも禁止。ただしマリファナは解禁)*3」。公園の看板に収まるくらいのシンプルな決まりしかないなかで、集う人たちをみな平等に接し、コミュニティで話し合い、クリエイティブによりよい場所を作っていく土壌があるまちです。自分のやりたいことをやろうと思うともちろんバラバラになっていきますがそれでいいと僕は思っていて。仲良くできそうな人と話すだけでなく、仲良くできない人とも話し合っていけば答えが見えていくはず。それがナチュラルなまちづくりだなと思っています。クリスチャニア以外にも、BID(Business Improvement District)型エリアマネジメントと呼ばれる、ビジネスを促進し、改善するための地区というのが自治区的なものに近いと思います。ニューヨークでさえ100個以上あると言われています。日本でいう商店街がその場所の担い手。たとえば、タイムズスクエアは道路上のオープンカフェやアーティストが道路にペイントすることをエリアとして認めているんです。日本では2015年4月に大阪市が日本で初めてBIDの制度運用を始めました。エリア周辺で活動する事業者が資金を出し合い、その予算でまちから委託された民間企業が公共空間のまちづくりをしていく。よりよい場所になれば、結果地価も上がり、活動者たちにとってもメリットが高い。よい経済循環が生まれるわけです。僕が松戸まちづくり会議などでやろうとしていたことはCID(Community Improvement District)型のエリアマネジメント。事業者ではなく、町内会などコミュニティを中心とした循環づくりをしていこうとしていました。
*3 参考:『クリスチャニア 自由の国に生きるデンマークの奇跡』清水香那 稲岡亜里子著,WAVE出版,2017
・右翼的発言がありつつも、君が代が嫌い。フランスのラ・マルセイエーズ最高。王族や貴族の首を斬って血塗れにする、国歌はエレクチオンするようなものでないといけないとのことだった
・ヒトラーなど研究していた
・マツモトキヨシ創業者の元松戸市長・松本清への敬意があった
◎次世代のために力を惜しまず使うこと
また、稲葉さんには4人のお子さんがいらっしゃいました。パートナーの愛子さんを始め、きっと家族に見せる顔はまた違う一面があったのではないかとも思うのですが、お子さんたちやそのご友人から、とても慕われていたと話を伺いました。次世代をとても大切にしていたと思いますし、若い人には自分の持っているものを貸し与えたいと心から思っているような人だったのだと思います。
僕が稲葉さんと出会った2010年頃、稲葉さんは小学校の課外授業として江戸川の河川敷の環境再生に取り組んでいました。茨城県の湖沼「霞ヶ浦」の環境再生を率いたNPO法人・アサザ基金を呼び、江戸川に住む生物が育つ環境を再生するために、尽力していたんです。今でいうSDGsのような活動は、10年ほど前の当時から重要なことであると彼は気がついていたのだと思います。川を綺麗にして生態系を取り戻し、より豊かな環境で子どもたちに育ってほしいと。稲葉さんの場合、貸し与えるのは物というより権限や影響力。僕自身も稲葉さんと一緒ならやりたいまちづくりが実現するのではと思っていましたね。稲葉さんのことは誰も止めることができない。違和感のあることにはとことん首を突っ込むし会議にも突撃していく。やり方は少々荒々しいこともあったかもしれませんが、僕が知る限りでは稲葉さんが間違ったことを主張していたことはないんです。ただひとつ確かなのは、誰よりもやんちゃで失敗を恐れずに行動に移す反面、責任は持つと腹を括り、まわりの人たちがこんなことまでしていいんだと思える活動の余白を広げていたことなのではないかなと思います。なんとなくこれはしてはいけないのではないか、と人目を気にして行動に移せないことも、実はそんな取り決めはどこにもなかったりして、行動してみたら意外と実現できてしまう、なんてことも多々あるんですね。自分の主義主張を貫くためには先陣を切って行政にもぶつかっていくような人だったので、彼をよく思わない人もたくさんいたと思いますが、まちの人が自分たちの場所として集える拠り所をつくり、次世代のことを本気で考える志ある人の後ろ盾にもなっていた。取り繕うことをしない人柄も含め、その熱量ある姿勢に背中を押された人も数多くいたのではないでしょうか。稀有な存在だったと思いますね。
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稲葉八朗氏のすべてをここで語り切ることはできない。寺井氏が出会い共に過ごした数年間がそうであったように、稲葉さんの生き方や試みから得た精神はその生き方に触れた人の心に息づいている。
(本取材に際して貴重な写真から逸話に至るまで、稲葉愛子様(故・稲葉八朗氏妻)に貴重な情報提供など大変なご協力をいただきました。故人の御冥福をお祈りするとともに、ご遺族に感謝申し上げます)