風景のうまれとゆくえ 絵描きの「根をもつことと翼をもつこと」のための試論 はじめに(1)

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光と闇、はじまりとおわり。大地と星空、森や海や山。木々や草花、獣や鳥や魚たち、そして人。
あらゆるものの境界を曖昧に、どこまでもひろがる世界。それぞれの物語が呼応していくような絵。
生命の存在を見つめ、その根源を辿ること。そして人間として生きることと向き合いながら、旅を続けていく、絵描き 熊谷隼人

本連載は、熊谷がかねてより心に留めてきた言葉「根をもつことと翼をもつこと」を起点に、いくつかの由縁のある土地を歩きながら、この世界を故郷にしていくことの地平を見つめるエッセイである。それは、「風景のうまれ(根源)とゆくえを探ること、それが“全世界をふるさととすること”(ひいては根と翼を共にすること)へと至る可能性をたしかめること」(本文より引用)でもある。これから大分、新潟、静岡、東京、北海道の土地を巡っていくが、第1回目は、序論として本連載のしるべとなる試論の仮説を展開する。前半は、熊谷自身が歩んできた時間と「根をもつことと翼をもつこと」への問いかけ。

Text+Photo:Hayato Kumagai
Edit:Yoko Masuda

歩くことが好きだった。
それは自分にとって描くことと同じくらい、生きるうえでなくてはならないものだった。

歩くとき、この身体の隅々にまで血を行き渡らせて、道のそこかしこに四肢を耳目を澄ませ、風や光と交ざりながら、自らの在りようをどこまでも私的にたしかめてゆく。世界、というものへの信頼を、そして人間であることの希望のようなものを、歩くことのなかにいつも、鮮やかに見出してきた。

“散歩”は歩くことへの親しみをいだかせてくれる、もっとも日常的な活動のひとつだと思う。
犬の散歩、ちょっとした気晴らし、軽運動などのような、そこに目的らしいものを認められる場合もあれば、何ら理由なく、ぼんやりと外の空気に誘われるように、ふっと道へ身体を放り出すようなのも、いかにも散歩らしいと感じられる。
道や川を辿らなくてもいい。猫を追いかけたり、鳥を追いかけたり、道路のひび割れを文字のように読み取ったり、街並みや草木のなかに好きな色を探したり、いいにおいを探したり、わけもなくここだと思える場所に立ち、くるりと踊ってみせたっていい。
散歩の語源は本来、古代中国にて五石散という滋養強壮の薬を服用するとその作用で身体が熱くなり(散発)、それを促すためたくさん歩いたことに由来するらしい。けれども自分にとって散歩とは、歩きながら自らを解き放ち、風のなか光のなかに散り散りになっていくような、解放の“兆し”を予感させてくれる言葉でもあった。
そのような世界への展き方は、あたかも宮沢賢治の『農民芸術概論』の次の一節を思い出させてもくれる。
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」

物心ついた頃から、ずっとぼんやりとしていた。
大分に生まれ、小学2年生の頃、新潟へ引越す。雪景色のなか、小学校(徒歩で片道3km)、中学校(自転車で片道2km)、高校(自転車で片道11km!)をひたすら行き来する。就職という、漠然とみんなが向かっていく未来に、絵を描くことが好きだった自分はそれが少しでも働くことに結びつくよう、自然と美大受験を志す。
一浪を経て、静岡のデザイン系の学部がある大学へ。

大学生活のなかでゆるやかに、しだいに読書という行為に惹かれるようになる。
読むことと歩くことの類似性。端折ったり飛ばし読みすることなく、一本道をひたすら歩くように本を読むのが好きだった。なぜか小説は読まず、小難しそうな本や思想家のエッセイに惹かれて、時にまどろみながら、頁をゆきつ戻りつしながら読んだ。内容を要領よく掴むことよりも、読む速度を大切にしていたのかもしれない。地道でどこか辿々しい世界の探求の仕方は、その“遅さ”ゆえにいつだって何よりも、頼りがいのあるもののように思えた。
自らすすんで何かを見つけようとしているはずなのに、むしろどんどん忘れ、見失っていき、後に残されるのは喩えようのないひろがりの感覚。当時どれほど自覚的だったか定かではないけれど、“忘却”というものにこそ、何かかけがえのないものがあるように感じていた。

大学4年生になる前、帰省した新潟で実家の犬と一緒に散歩をしていた時に、誰からも忘れ去られてしまったような廃墟のなか、クレーンで吊るされたちいさな小屋を見つける。それは風が吹くと揺れて、時々ゆっくりと回っていた。“なつかしさ”をテーマにした卒業制作で煮詰まっていた自分は、まるで誰かの秘密基地みたいだったその場所に不思議に惹かれて、最終的に吊るされた小屋をモチーフにした映像作品を試みた。
当時、イタリアのルイジ・ギッリという写真家に出会い、深い共感を抱いていた。彼がフィルムで撮った、イタリアの田舎の写真が好きだった。そこにはかつて自分が新潟を歩いていたときのまなざしが、そのまま重ねられるようだった。果てしないひろがりのなか、消失点までひろがってゆくような一本道や、ぽつんと取り残されたような公園への、どこまでも個人的な愛着。

ギッリの写真に対する根本的な考えは、愛着を投影することである。つまり、私たちの内面がそちらの方へ向かうような、そういうものとの出会いとしての眼差し。純粋な記録と写真は、ギッリの写真には存在しない。どの写真も外部の親密さへの接近、共鳴、魅力、証明の方へ向かっている。
(ルイジ・ギッリ『写真講義』より)

彼が晩年に考えていた、田舎の朽ちた廃屋を撮る計画の名前にちなみ、吊るされた小屋を撮った映像作品のタイトルを“散る家”とする。「私たちが最後に帰るべき場所は、一体どこにあるだろう?」という言葉が最後に流れ、映像は終わる。
正直なところ、それは散々な出来だった。講評会である教授から「僕はこの作品を評価しないけど、何か言いたいことはありますか?」と言われたとき、しどろもどろな答えしか返せなかった。
みじめな気持ちを引きずったまま、大学を卒業する。

奇跡的にエントリーシートを一文字も書くことなく、たまたま参加した就活イベントがきっかけで東京のIT系企業に就職する。吉祥寺のアパートと渋谷のオフィスビルを井の頭線で行ったり来たりしながら、液晶画面と半日にらめっこする日々。昼休みにオフィスを抜け出し、会社の人が誰も来なそうな喫茶店に身体をうずめては、スケッチブックを開いて絵を描き、ひっそりと自分の呼吸をたしかめていた。
仕事終わりや休日、ひとりで吉祥寺の街中をぼんやり歩くのが好きだった。そしてその街歩きのなかに、いまでも東京に来るたび通う大切な喫茶店と、“絵を描いて生を全うする”というしずかな決意を見出す。
液晶画面とにらめっこする日々に一年で別れを告げ、絵描きとして活動するために静岡へ戻る。たまたま芸術家応援キャンペーンを謳ったシェアハウスを見つけ、格安で一年ほど住んだあと、近くに見つけた安アパートに引越す。お金がなかったので、荷物は台車を借りて全部自力で運んだ。昼間にガラガラ音を立てるのは恥ずかしいので夜遅くに。まるで夜逃げしているみたいだった。
生きのびるために自分ひとりで出来る仕事として、個人でデザインやホームページ作成のお手伝いなどを細々と行いつつ、合間を見てはひたすら絵の画面と向きあう日々。お金がないときは、ベッドメイキングのバイトで糊口をしのいだりもした(職場のおばちゃんたちにはとてもお世話になった)。現実と幻想のあいだを行き来しながら、生きること、描くことの切実さを、それぞれ静かに噛みしめていた。

この頃絵が少しずつ変容していくなかで、制作する主体の転回、すなわち“自分が絵を描く”のではなく、“絵がいかに自分をとおして描いているか”ということの可能性に気がつく。絵を描くのではなく、絵になるということ。そこから自分の絵は、それまでになかった方へと徐々に解き放たれていった。

二十代の終盤、「はじまりの灯」という一枚の巨大な絵を描く。それは吉祥寺での日々を経て絵が生まれ変わっていったこと、そしてそこから自分が絵描きとして歩んでいった道を”変容と転回の物語”として刻みこむという、あたかも通過儀礼のような制作体験だった。

その直後、まるで何かに導かれるようにして大分の“カテリーナ古楽器研究所”という場所と出会う。
毎年5月になると“Sing Bird Concert”という音楽祭がそこでは開かれており、その最終回となる2019年5月を前にたまたまカテリーナを訪れた自分は、縁あって音楽祭の当日、会場で巨大な絵を展示することになった。
たくさんの素晴らしい音楽家や作り手たちが集まった祝祭のなか、まるでそこに飾られることが決まっていたかのように、カテリーナの森の奥に巨大な絵がおさまる。新緑の木漏れ日につつまれ、風をはらんでいく絵のすがた、それはほとんど奇跡といっていいような光景だった。
ずっと闇のなかで光を見ていたようなところにいた自分は、“光の中にいる”という感覚を、この頃はじめて感じとるようになる。それはひとつの“救い”と呼べる出来事だったのかもしれない。(とはいえ、絵で十分な生活をしていくには相変わらず程遠かったのだけど)

それから“世界中を歩く”という新たな旅を志すようになり、資金集めのために山小屋バイトやリゾートバイト(ホテルの和食調理補助)に明け暮れるも、コロナ禍のためにやむを得ず断念。一転して国内に目を向けたとき、ふと縄文とアイヌのことを考えるようになり、北海道への移住を志す。この頃頭をよぎっていたのは、“光から風へ”という言葉だった。
十勝での大根収穫のバイトを経て、特別支援学校へ勤務することになる。寄宿舎指導員(いわゆる寮母さん)と学習支援員(車椅子の男の子の学習サポート)の仕事の中で、生徒たちと遊んだり、絵のリクエストに応える日々。
天使、というよりまさに天使そのもののような彼ら彼女たちの存在が、今でも忘れられない。何よりも胸を打たれたのは、誰もがみな自分と同じ人間である、という事実だった。それまで人間であることに違和感を抱き、どこか“人間ごっこ”をするような気持ちで生きてきた自分は、ここで過ごす日々のなかで、気がつくと“人間であることの入り口”にふたたび立たせてもらっていたのかもしれない。

そこから色々あり、職業訓練校で大工修行をすることになるも数ヶ月で辞め、パートナーとの二人暮らしがはじまる。2023年秋、幾つかの後押しを受けてふたたび絵描きとしての活動を再開することになり、かつてカテリーナで展示した巨大な絵を、全国で巡回展示する旅がはじまる。お金の問題に絶えず直面しながら、巡回展は現在もなお続いている。
いま住んでいるのは、十勝の住宅街のはずれにある一軒家。ここにきてからは車で外出することが多くなり、歩く機会はずいぶんと減ってしまった。それでもしばしばパートナーと近所の散歩に出かけ、身体に血を巡らせてみる。タロウという老犬がいる家の前をなるべく通り、様子を見にいき、挨拶をする。

歩くときにも描くときにも、この数年間なかなか頭を離れずにいた言葉のひとつが、“根をもつことと翼をもつこと”というものだった。
社会学者・見田宗介が、ペンネームである”真木悠介”名義で著した『気流の鳴る音ー交響するコミューン』という本のなかで、ひときわ心に残る言葉の一つとしてそれは書かれる。
本の中では呪術師のドン・ファンが若き人類学者カスタネダに与えるいくつものレッスンをモチーフとしながら、人間について、社会についての明晰な洞察と共に、魅力的な言葉を数多く抽き出していく。
根をもつことと翼をもつこと、それはドン・ファンによる最後のレッスンであり、人間のもつふたつの根源的な欲求とされている。一見すると、根とはあらゆる社会的身分や財産、生活の保持による安定への欲求を、翼とはそれら一切から解き放たれていく自由への欲求をあらわしているように見える。けれども双方の獲得を求めることは、この社会において多くの矛盾や葛藤をもたらすことも同時に想像できる。

われわれの根を存在の中の部分的なもの、局限的なものの中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。その局限されたもの⏤⏤共同体や市民社会や人類⏤⏤を超えて魂が飛翔することは、「根こぎ」の孤独と不安とにわれわれをさらすだろうから。
(真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』より)

自由に絵を描き、それで収入を得て、安定した生活を送ること。あるいは制作と生活を両立させること。それは表面的には“根と翼を共にすること”のそれらしい実践のかたちであるようにも思われる。
けれどもその実践が“自立した社会人”を要請するいまの社会や世間に根ざしたものであろうとするうちは、つねにそこから疎外される危険をはらんだ、息苦しいものでもある。
では根と翼を共にすることは、どのようなところに求められるのか。

真木悠介は本のなかで、そのためのひとつの道を“全世界をふるさととすること”という、印象的な言葉であらわしている。

もしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。
(真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』より)

絵を描きながらそれで暮らしていくことができたとしても、ただそれだけでは“全世界をふるさととすること”にはきっとならない。もっというなら、絵を描けなければ、安定した生活を送れなければ、そもそも“根と翼を共にすること”は不可能なのだろうか?
不思議に思っていたのは、根と翼のどちらも人間が本来もっていないものである、ということだった(もちろん根も翼も、ともにメタファーであるということを充分承知のうえで)。植物でもなければ鳥でもない人間にとって、“全世界をふるさととすること”はどのようなところに見出せるのだろうか。
“根と翼”とは異なる発想を、気がつけば強く希求している自分がいた。
 
 
 
 
<「はじめに(2)」に続く>

熊谷 隼人 Hayato Kumagai
絵描き
1991年大分県生まれ、新潟県育ち。静岡文化芸術大学デザイン学部卒業。現在は北海道に在住。生命の根源や存在のはじまりを辿るようにして、絵を描きながら旅を続けている。
2016年、木や枯葉が鹿や鳥のように見えたことをきっかけにコラージュによる絵を描き始める。それ以来各地で個展を開催。2019年に高さ約3.6m、長さ約5.4mの巨きな絵“はじまりの灯”を制作する。2020年より北海道に移住。同年、haruka nakamuraとLUCAによるアルバム「世界」のアートワークを手がける。2023年より巨きな絵の巡回展「風の舟」を現在に至るまで開催中。最後は絵を燃やすことになっている。
https://hayatokumagai.com/
https://www.instagram.com/nukumedori/
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