あらゆるものの境界を曖昧に、どこまでもひろがる世界。それぞれの物語が呼応していくような絵。
生命の存在を見つめ、その根源を辿ること。そして人間として生きることと向き合いながら、旅を続けていく、絵描き 熊谷隼人。本連載は、熊谷がかねてより心に留めてきた言葉「根をもつことと翼をもつこと」を起点に、いくつかの由縁のある土地を歩きながら、この世界を故郷にしていくことの地平を見つめるエッセイである。それは、「風景のうまれ(根源)とゆくえを探ること、それが“全世界をふるさととすること”(ひいては根と翼を共にすること)へと至る可能性をたしかめること」(第1回目本文より)でもある。第2回目は、生まれ育った故郷・大分に足を運ぶ。Text+Photo:Hayato Kumagai
Edit:Yoko Masuda
1991年5月1日、父の生まれ故郷である大分に生まれる。
憶えているかぎりもっとも古い、自分にとって原風景と呼びうるイメージの一つは、生まれ育った家の傍らでじっと見つめていた、青空と原っぱの広がりだった。
8歳まで過ごしたあと、今度は母の生まれ故郷である新潟へと引越すことになる。
人生で新潟に次いで長い期間を過ごしたにもかかわらず、大分のことはあまりよく覚えていない。それにはこの土地を離れることになった決定的なきっかけとして、父の死が少なからず関わっていると思う。
父の死はあまりに唐突で、まったく予期しない形で訪れた。出来事の性質上、大分を去ってからもそのことについて誰かにくわしく話したり、家族のなかであらためてゆっくり語る機会もほとんどないまま、日々が過ぎていった。
葬式で流れていた音楽、火葬を終えて骨壷に納めるために箸でとりあげた父の白い骨など、断片的だが鮮烈な記憶の一部としていまも憶えていることを、当時まだ8歳だった自分がどのように感じ取っていたのか、まるで思い出せない。ただ、それが関係のあることかどうか分からないけど、いつからか泣くことがうまく出来なくなってしまった(今もそれは変わらない)。

10代のころ、何度か家族で大分に帰省することがあった。当時まだ繋がっていた人々ーー小学校の同級生や近所の人々、祖父母や親戚などーーとの再会をとおして、かつて自分はこの場所にいたのだという事実を、おぼろげながら確かめられていたような気がする。
しかし時が経つにつれて、それらの繋がりも遠のいたり消えてしまうと、生まれ故郷のイメージは誰かにかき混ぜられた水面のように、不確かさを増していった。”かつてここにいた”ということは何となく理解できていても、現在の自分との繋がりをうまく見出すことができない。そこで常につきまとうのは父の死という事象であり、まるで黒いベールが視界の端を覆うように”なかったことにならない”ものとして、執拗にまとわりついていた。
大学生の終わりに一度、そして20代の終わりにもう一度、ひとりで故郷を訪れたことがある。九州という土地への漠然とした郷愁をぼんやりと感じつつ、親戚のひとりと再会して生前の父の話を聞いていても、生まれ故郷と自らの繋がりは、やはりどこか希薄なままだった。

今年の春、まだ大分へ一緒に来たことのなかったパートナーと共に、6年ぶりに自分が生まれ育ったまちを訪れた。とくに誰と会うわけでもなく、見覚えのある道をひたすら歩くつもりでいた。
午後に最寄りの駅に着き、近くの宿にチェックインして周囲を散策しつつ、日が暮れ始めてから昔歩いた通学路を辿るように歩いていった。
二年生まで過ごした小学校、その手前の大通りにかかる歩道橋をわたると、毎日のように歩いていたはずの通学路を真っすぐに歩き、幾度か折れ曲がって当時の友人の家を横切る。
かつて生まれ育った家の前も、三輪車をよく漕いでいたはずの近所の駐車場も、硬筆教室に通うために歩いていた道も、花火大会を見に行った記憶のある大きな川沿いの道も通り過ぎた。
あらためて歩いてみて驚いたのは、かつて暮らしていたあたり(とくに生まれ育った家の近く)に思いのほか人の気配が少なく、どこか寂れたような風景が多かったことだった。おそらく当時住んでいた頃からそうだったわけではないにせよ、全体的に古びた建物が立ち並び、活気のあるお店もほとんど見当たらず、いつからか時が止まってしまったような印象を受けた。
どことなく不穏な気配さえ漂っているように感じられたのは、歩いた時にすでに夕闇が迫っていたからだろうか、それともあの黒いベールのせいだろうか。

車でしか行った記憶のない、昔家族でよく訪れたはずの公園に着いたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。長袖で歩くには暑かった日中と比べて気温がだいぶ下がり、肌寒い。空は曇っていて、星空も見えない。
歩き疲れてしまったパートナーと公園でしばらく休んでいるあいだ、ふと感じたのは”かつてここにいたのに、今どこにもいない”という違和感だった。昔父が撮ってくれた家族写真のアルバムを思い出すかぎり、おそらくは温かな記憶も幾らかあったであろうこの公園の風景に、この身体をうまく照応させることができない。それは故郷から、そして過去の自分からも疎外されたかのようで、父の死を経てなおここが生まれ故郷であると当然のように信じていた自分にとって、静かな衝撃だった。
“故郷の喪失”という、これまで自分とはおよそ無縁に感じていたはずの言葉が、否定し難い事実としてこの身体に、急激に嵌め込まれてしまったような感覚。
故郷だったまちの風景が大きく変わったり、失われたわけではない。そこを訪れることで当時の断片的な記憶を思い出し、かつてここにいたことを確かめることもできる。
けれども父の死を機に失われた何かは、まぎれもなく故郷の一部であり、決して消えない裂け目のようにして、過去と現在との間に奇妙な断裂をつくっていた。

翌朝訪れたのは、生まれ故郷の最寄り駅からみて生まれた家とは反対側の街のほうだった。
ここには有名なお城があって、城下町ということもあり平日の日中でもそれなりに車や人が通っていた。パートナーと一緒におみくじをひいたり(大吉だった)、昔母とよく通っていた図書館を訪れたりしながら、忘れていたはずの記憶を昨日とはまた違った気持ちで 手繰り寄せていた。
外は相変わらず曇りだったものの、昨日歩いていた川沿いの道の近くまで戻ってみてもそれほど暗い気持ちにはならず、明るい記憶を残すことができた。
たとえ生まれ育った土地とのつながりが損なわれたとしても、新たな記憶をふたたび積み重ねていくことによって、そこからもう一度関係をつくることができるということは、ひとつの希望なのだと思う。
かつての自分が見出していたであろう故郷とはまったく違うかたちであったとしても、新たにかけがえのない風景を見出し、やがてそこが”帰ることのできる場所”となれば、かつての故郷はふたたび故郷として、温かさを取り戻すのかもしれない。

生まれ故郷を離れる原因となった出来事が、今もなおもたらす闇(くら)いものとは別に、父の存在それ自体は大分を離れてからも、自分のなかで不思議と温かな光を放ち続けていた。
父にまつわる記憶のなかで嬉しかった思い出は幾つかあるものの、決してたくさんのことを覚えているわけではなく、当時のことをここに書き連ねたとしても、そこに特別な意味を見出せるかどうかはわからない。
むしろそれよりも、父がこの世を去って新潟に引越してから仏壇の前で毎日のように祈り続けてきたことや、父が昔描いた絵(一枚だけ新潟の家に母が飾っていた)をいつも見ていたこと、その後進学で新潟を離れてから、父が昔聴いていたという音楽を聴き続けてきたことが、その不在をかけがえのない灯のように繋ぎとめてきたような気がする。
それは生前の父との記憶よりもずっと長い時間をかけて積み上げてきた、不在の父との新たな記憶でもある。
仏壇に手を合わせて目を閉じるとき、誰に教わるでもなく頭の中に浮かぶイメージや言葉を空っぽにしようとつとめていた。心が透明であればあるほど、いまの自分のすがたを父も見やすくなるのかもしれない、勝手にそんなことを考えていた。
お寺や神社でお参りをする時も、それは同じだった。そして手を合わせるときにはいつも父のことがどこか脳裡にある一方で、父の存在もまた透明になり、神さまや仏さまのような漠然と”ここにいないけど、自分を見てくれているかもしれないものたち”と重なっていくような気がした。
いつしか自分にとっての祈りとは、具体的なお願いごとをするのではなく、特定の誰かや何かを強く思うのでもなく、ぼんやりと”不在の在”のようなものへと向けて、ひたすらおのれを空しくすることが、その原型のようになっていった。

“空になる感覚”について考えるとき、写真を撮ることもまた、自分にとっては深い繋がりをもっている。
昔から現在に至るまで、写真はあくまで趣味の延長上(あるいはごく私的なライフワーク)にすぎない。少なくとも絵描きから写真家に転身することはないし、写真を主体にして展示をするつもりもない。けれども写真を撮るときの身体性や、世界に対する姿勢のようなものは、とても大切な何かを含んでいると今でも思う。
はじまりはたぶん、高校生のときに手にした安物のLUMIXのコンパクトデジタルカメラだった。大学に入ってからもしばらくはそれを使い続けたものの、2年生のときにPENTAXの一眼レフを購入してからは、自分なりに写真について考えながら撮る機会が増えていった。
ポートレートはあまり得意ではなく、誰もいないひらかれた風景や、まるで世界から置き去りにされたような切り株など、多くの人が通り過ぎていきそうな、しかし自らにはつい足を止めたくなるような何かを探していた。そこにはもうひとつの世界がひろがっていて、自分はたまたまその入口を見つけた旅人のような気持ちで静かに目を見開き、そこに在るものへのささやかな畏敬をしるすようにして、シャッターを押すのだった。


大学4年生の頃、久しぶりに帰省した大分の父の実家を訪れたとき、かつて父が所有していたCONTAX T2というフィルムカメラを一つ譲ってもらい、しばらく愛用していた。1990年に誕生したコンパクトカメラでありながら、搭載されているレンズの描写力と色調の美しさから今なお名機と呼ばれるそのカメラは、”撮ることへの魅了”を今までになく感じさせてくれたのだった。
残念ながら26歳のときに訪れた白神山地で突然壊れてしまったものの、直後に訪れた青森の地元のカメラ屋のおじいさん(無骨ながらも写真への愛に溢れ、自らのことを写真家でもカメラマンでもなく、「ここ(シャッター)を押す人」なんだ、と語っていた)から特別に破格で譲ってもらった中古のMINOLTAのフィルムカメラで、それからも撮ることを続けていた。



“写真を撮るときにもっとも重要なのは姿勢、つまり、何かを前にしたときの身の置き方、見ているものに対する身体と視線の位置だとギッリは言っていた。なぜなら、どんなものにもそれぞれの見られ方というのがあり、視界の入り方によりそれは変わるから。”
(ルイジ・ギッリ『写真講義』より)
あるひとつの風景のなかに入っていくとき、自分がどのようにしてそこへと向かい、魅了され、何を行うのか。
誰に何を語るでもなく、ただそこに存在するひろがりや無名のものたちのかけがえなさを前にすると、こちらも何をするでもなく、ただそこに佇んでいたいと思ってしまう。でもいじらしいことに、そこで何か行動を起こしたくなってしまうのが人間なのだとも思う。
絵を描くのでもなければ詩を書くのでもなく、ただ見ること(これは自分にとって生きてするうちの、もっとも確かな行いのひとつだ)に熱中し、その記憶を宿すようにひとつの像を結ぶこと。これは温度をもった記憶をかたちづくるうえで、機械仕掛けの道具を伴いながらも、きわめてシンプルで信頼できる仕方のひとつだった。
ある風景への温かなまなざし、血の通ったパースペクティブのようなものをとおして、もう一度世界と出会い直すための、ささやかな儀式として。

20代の終わりごろにひとりで生まれ故郷を歩いていたとき、生まれ育った家の近くを流れる大きな川のそばで、一枚の写真をフィルムカメラで撮った。菜の花がいちめんに咲き、奥にはくろぐろとした林があるはずだったその風景は、現像してみるとあの世ともこの世ともつかない、不思議なひかりを宿していた。そこには自分なりの父への、そして不在そのものへの感受の一端が表れているように思う。
シャッターを押すその瞬間は、祈るときに自分を空にしようとする、あの感覚とどこかで通じている。過去と現在のあいだ、不在と在のあいだを架橋しながら、目の前の風景を記憶すること。あるいは”記憶そのものになる”こと。
写真を撮るとき、自分もまた風景から、世界から記憶されているのかもしれない。
今年の春に大分を旅する直前、青森のカメラ屋のおじいさんが直せなかったCONTAX T2を、無理を承知でとあるカメラ屋さんに送って診てもらったところ、なんと修理可能との回答をいただいた。残念ながら今回の大分旅には間に合わなかったものの、帰ってきて程なく受け取ったカメラは見事に直っていて、約8年ぶりに撮影ができるようになった。
幸いなことに今年の秋に熊本で絵の展示の予定が入り、もう一度九州へ行けることになった。今度はこのカメラと一緒に、もう一度生まれ故郷を歩いてみたい。父の死とその不在を感じながらも、ふたたび新しい風景を探すために。
絵描き
1991年大分県生まれ、新潟県育ち。静岡文化芸術大学デザイン学部卒業。現在は北海道に在住。生命の根源や存在のはじまりを辿るようにして、絵を描きながら旅を続けている。
2016年、木や枯葉が鹿や鳥のように見えたことをきっかけにコラージュによる絵を描き始める。それ以来各地で個展を開催。2019年に高さ約3.6m、長さ約5.4mの巨きな絵“はじまりの灯”を制作する。2020年より北海道に移住。同年、haruka nakamuraとLUCAによるアルバム「世界」のアートワークを手がける。2023年より巨きな絵の巡回展「風の舟」を現在に至るまで開催中。最後は絵を燃やすことになっている。
https://hayatokumagai.com/
https://www.instagram.com/nukumedori/



