あらゆるものの境界を曖昧に、どこまでもひろがる世界。それぞれの物語が呼応していくような絵。
生命の存在を見つめ、その根源を辿ること。そして人間として生きることと向き合いながら、旅を続けていく、絵描き 熊谷隼人。本連載は、熊谷がかねてより心に留めてきた言葉「根をもつことと翼をもつこと」を起点に、いくつかの由縁のある土地を歩きながら、この世界を故郷にしていくことの地平を見つめるエッセイである。それは、「風景のうまれ(根源)とゆくえを探ること、それが“全世界をふるさととすること”(ひいては根と翼を共にすること)へと至る可能性をたしかめること」(第1回目本文より)でもある。第3回目は、多感な時期を過ごしたふるさと・新潟について。
Text+Photo:Hayato Kumagai
Edit:Yoko Masuda

8歳の夏、新潟へ引越すことになった。
生まれた場所が九州・大分であっても、いま自分が「地元」と呼びたくなる場所は、8歳から19歳までの約11年を過ごしてきた、新潟という土地にほかならない。
引越した時の記憶はとてもおぼろげで、おばあちゃんの家で少しだけ暮らしたあと、程なくして新しく建てた家に暮らすことになった。棟上げの餅まき、転校生としての挨拶、気がつけば出来ていた友だち、自然とうつりはじめた方言……
あっという間に田んぼだらけの風景の中へ取り込まれていった日々。
時計を少しさかのぼり、あれはもういつだったか覚えていないけれど、初めて新潟を家族で訪れたとき、”雪国”というものを初めて体験したとき。新幹線で向かう冬の新潟はどこもかしこも真っ白で、しかもそれはけっして唯(ただ)一色の白ではなく、晴れても曇っても刻々とうつろう、無限の白。
大分でどんなにがんばっても泥混じりの雪だるましかつくれなかった自分にとって、風景の音という音が溶けてゆくその白は、とても新鮮で、美しく、寒空のなかひときわ感じられる自らの体のぬくもりと共に、あたたかなものとしてうつった。
思えばそのときの記憶が、自分にとって新潟の原風景となるものだったことに、この文章を綴り出してからようやく気づく。
雪のあたたかさ。日本海側特有の曇りがちな、どこまでも灰色のつづきそうな日であっても、雪は自分にとって閉塞感を与えたり生活の脅威となるものよりも、幼心にいつまでもうれしいものだった。
いま暮らす北海道・十勝で、一晩120センチの豪雪を体験し、5時間の雪かきに追われたときも、札幌から洞爺へ向かう途中の峠でホワイトアウトに見舞われた時でさえも、このよろこびは天使の輪っかのように、いつまでもくっついてはなれなかった。
いつだったか美術館でクロード・モネの《かささぎ》という絵を観たとき、静かな高ぶりを感じたのは、きっと自らの原風景と重なるものをそこに見出したからなのかもしれない。

所蔵:オルセー美術館
Image: Wikimedia Commons / Public Domain
10歳の頃、姉の誕生日に一匹の真っ白な子犬がやってきた。母が保健所から引き取ってきたという真っ白なその犬はとても元気で賢くて、我が家を長い間あかるく照らしてくれた。
自分は家族のなかで誰よりも散歩に行くのが好きだったから、よく犬と一緒に散歩へと出かけた。朝5時から1時間ほどかけて、海まで自転車で一緒に向かうこともあった。
実家の裏手を少し歩いた先にだだっ広い空き地があって、冬の夜になるとよくここを訪れた。息を白くしながら、小さな雪山のうえに仰向けになって倒れ込むと、冬の静けさに耳を澄ます。自分の心臓の音、そしてハッハッという犬の呼吸の音を聴きながらぼんやりとしていた時間が、今でも忘れられない。

小学2年生〜高校3年生、そして1年間の浪人時代を新潟で過ごしたあと、静岡の大学に進学が決まって地元を離れてからは、年に数回帰省する時間が楽しみになった。お金もないので青春18きっぷを使い、鈍行でひたすら乗り継いでいく、その時間が好きだった。雪の影響で電車が止まり、1時間経っても動かない電車のなかでひとり黙々と本を読んでいたこと。群馬から新潟へと向かう5月の電車で、桜が散る風景を見たかと思ったら、トンネルを抜けてすぐ雪景色に覆われたこと。
帰省しているあいだも、よく犬と一緒に地元を散歩した。この頃には写真をよく撮るようになっていたので、それまで何気なく通っていた田舎道をあらためて見つめなおすのが楽しかった。
空をうつす鏡のような水田、トタン壁の色褪せた表情、風草の集まった空き地、骨組みだけ残ったビニールハウスを覆う蔦、いつも下校時に目印にしていた水色の煙突。曇り日の雪の色、夕暮れの雪の色、夜の雪の色。
それらは自分の原点を確かめるなつかしいものでありながらも、つねにどこか新鮮なものとしてうつった。




*
あの”小屋”と初めて出会ったのは、大学3年生の冬休みのことだった。
実家の裏側へまっすぐ、よく仰向けに倒れ込んだあの雪山がある空き地よりもさらに先、水色の煙突を遠景に、いちめんの田んぼが広がる風景のなか。
作業場の跡地のような場所がそこにはあって、一度も足を運んだことがなかったのに、不思議とその時だけは気になって、奥まで行ってみることにした。
雑草が伸びて廃墟と化した鉄骨組みの空間に入ると、一棟の小さな小屋が見つかった。それは鉄骨から宙に吊るされて、風に揺れながらゆっくりと回っていた。
開いている窓や、取り付けられたカーテンがはためくのを見ながら、まるで秘密基地みたいだ、と思った。日が沈んだあとで辺りはすっかり暗くなり、それ以上は探索することなく家へと帰った。
記憶の奥底にしまわれたはずのその家は、その後思いがけないかたちで自分にとって、かけがえのない場所となっていく。

大学4年生の後半、デザイン学部だった自分は卒業制作で煮詰まっていた。
前半では手書きのアニメーションを試みるも、中途半端な出来で教授たちの評判も芳しくなかった。その後も迷走をくりかえし、相談に乗ってもらっていたゼミの先生(偶然にも新潟出身だった)にもなかなか首を縦に振ってもらえず、それまで描いていたイラストレーションまで散々に酷評される始末。
それでもゼミの先生と話し合いを重ねていった結果、「懐かしさ」をテーマに作品を制作することになる。人は何に対して懐かしさを抱くのか。住む場所や時代を超えて共通するものがあるとすれば、それは一体何なのか。
当初考えていた作品の企画は、次のようなものだった。
自分と同じ故郷、つまり新潟出身の人たちに取材し、それぞれの子ども〜学生時代の中で印象に残っている風景の話を聞く。その後実際にその場所へ行き、風景を映像に記録する。
映像とは別に、その風景を自分が一枚の絵として水彩で描く。その中に風景について話してくれた人の子ども/学生だった頃の姿を想像しながら、絵の中でこちらを見つめるように描く。
そのようにして描いた絵たちを20〜30枚壁に展示し、向かい合うように反対の壁へ、記録していた映像を流す。絵の中の子どもは、映像に映る現在の故郷の風景を見つめることになる。

しかしこの企画は、結局見送りとなった。
作品への協力者探しから現地への取材・絵の制作にかかる時間を考えると、スケジュール的な余裕があまりにもなかったし、絵と映像を向かい合わせるという発想も教授陣からあまり理解を得られなかった。
いま当時の企画書を見返すと、たしかに荒削りではあるけれど、ここから発想をより膨らませていけば、なにか面白い作品が生まれるような気もする。
例えば絵の中のモデルとなった人物が、実際に映像の中にも映っていれば、絵と実際の人物が見つめ合う空間が形成される。過去と未来とが鏡合わせになったその空間のなかで、鑑賞者の目線も行き交うとき、何か去来するものがあるかもしれない。
さらに風景を描くうえで、過去の風景について可能な限り聞き取り、調査をして、現在と異なる部分も含めて描くことができれば、過去ー現在という時間の対比はより鮮明なものとなるだろう。
しかし当時の自分にはそこまで考える余裕もなく、結局この企画はたち消えてしまい、今度は個人的な記憶の方へと向かっていくことになる。
その中でふとよぎったのが、あの小屋のことだった。

一度しか訪れたことのないあの場所が、こんなにも気になるのはなぜだろう。あの場所を不気味な廃墟としてではなく、子どもたちが遊ぶ秘密基地のように、どこかあたたかな場所としてうつったのも、あらためて考えてみると不思議だった。
大学4年生の12月、ひとりで再びあの場所を訪れてみることにした。約1年を経て、作業場の跡地にはセイダカアワダチソウがたくさん生えていたことから、もはやここには誰も手をつけていないことが分かった。吊るされた小屋は相変わらずそのままに、風雨にさらされてしっとりと濡れていた。
雑草をかきわけながら、小屋を撮った映像をInstagramに投稿する。すると後日それを見たひとりの友人が、この場所に関心を示してくれた。
以前から映画制作について学んでいた彼は、同い年の自分よりもずっと物知りで、賢い人間だった。つまらない話にはつまらなそうな態度をはっきりと示し、美味しいものを信じられないくらい美味しそうに食べ、よく手巻きのタバコを吸った。
吊るされた家について詳しく話すうちに、そのうちここで一緒に何かを撮ってみようという話になった。そして自分も卒業制作で、この場所をモチーフにした何らかの映像作品を作れたら、と思うようになった。
吊るされた小屋に惹かれた自分と友人は、一緒に何度も新潟へと通った。
そしてその時間をとおして、まるで血の繋がっていない兄弟のようになっていった。

自分がもっとも気がかりだったのは、なぜ小屋が吊るされたのか、ということだった。それを明らかにするために、周辺をくまなく歩いては、手がかりを探し求めた。
しばらくしてこの作業場にいたであろう人物は、数年前には既に亡くなっていたことがわかった。彼は長年建築業をしていたがうまくいかなくなり、多額の借金を抱え、社会的にも疎外されながら、晩年逃げるようにしてこの場所へとやってきたらしい。
少しでも作業場にいた人の気持ちに近づけないかと、当時いろいろな試みをしたけれど、そのほとんどが無意味に終わった。吊るされた小屋を作るに至るまでの架空の物語をいくつも考えてみたり、角材で組んだ立方体のフレームを自分の部屋に吊るして、ぼんやり眺めていたこともあった。
大晦日の夜には、実家に帰らずに吊るされた小屋の中でひとり眠ろうと試みた。でも風が強すぎて小屋は大きく揺れ、何らかの啓示的な夢を見ることはおろか、ほとんど一睡もできなかった。
なぜ小屋が吊るされたのかという謎はいつまでも明らかにならず、自分はそのことに執着するがあまり、半ば墓荒らしのようになってしまっていた。
何かを掴もうにも掴みきれないまま、まるで自分自身までもが宙吊りの存在になっていくかのようだった。

結局作品としておよそまとまらないまま提出した卒業制作「散る家」は、友人が撮影してくれた、吊るされた小屋で自分が無邪気に遊ぼうとした時の姿が映っている。小屋の中で寝転んだり、外からゆっくりと回してみたり、はてには小屋を壊すような勢いで、激しく揺さぶってみたり。
その姿はまるで、子どもになりきることができないこっけいな大人のようだった。どんなことをしても、自分はこの場所を秘密基地にして遊ぶ子どもにはもう戻れないのだった。
激しい焦燥と諦めが入り混じった感情を、何かが剥き出しになってしまったような状態のことを、よく憶えている。
このとき、作業場の跡地を去る前に、満身創痍だった自分が友人と交わした会話が記録に残っている。卒業制作にその会話は入っていないけど、録音して残っていた音源を、自分がテキストに書き起こしていた。
友人「風に揺れた?」
「風に…風に?」
友人「うん 自分で動かしたよね?」
「うん 自分で動かした」
友人「おもちゃかな」
「うーん…おもちゃだったね…おもちゃか」
友人「おもちゃじゃなかったら 何かな」
「おもちゃじゃなかったら 家だよね」
友人「家じゃなかったら何かな」
「家でもおもちゃでもなかったら?
うーん…家でもおもちゃでもなかったら…
あー ガラクタだね」友人「ガラクタなんであんのかな?まだ」
「うーん なんでだろう…
なくてもいいのかな」友人「あれを必要とする人って誰だろう」
「うーん…いたんだろうけどもういないよね」
友人「君は?」
「うーん…もういらないかもしれないね」
友人「こわしたい?」
「うーん…どっちでもいいね
…どうやったらこわせるかな」友人「こわせないかもね
もしあれを燃やしても
もしあれを叩いても
あのロープを
鎖を外したとしても」「この廃墟と同じように残るよね たぶん
骨だけが 何かがあるように
残って残って…消えてなくなってく」友人「僕たちじゃなくて子どもだったらどうかな 本当の
それとも僕たちが子どもだったらどうかな」「子どもだったら あってほしいな なんか」
友人「秘密基地?」
「うん 秘密基地だよね
秘密基地にしてくださいっていってるよねなんかここって そうだよね
秘密基地にしなきゃもったいないよね
…秘密基地か やっぱり 秘密基地だな」友人「それだけ?」
「…うーん」
友人「子どもたちはさ
秘密基地に、いや 家に帰ってるのかな
それとも秘密基地に帰ってるのかな」「秘密基地に帰ってると思う」
友人「どうして?」
「うーん
だってここ家じゃないもん 家は他にあるもん
家があるから秘密基地があるんじゃない?
…でも秘密基地だけど
帰ってきたって言えるよね ここに来ると」友人「なんでかな」
「うーん
家の形してるからかなあ
これがなかったらどうだろうね」友人「秘密基地ってそういえば全部家のかたちしてるよね」
「うん そうだね
帰ってきたって でも いえるな
どんなものでもそうか いや
でもここは帰ってきたっていえるよ だって
そこで過ごして で先に友達がここにきて
本読んでてさ ただいまーって ここに来た子がいったら
ガラガラおかえりーって すごい自然でしょ
やるよ自分だったら
…秘密基地じゃなきゃなんなんだろう
大人が見たらなんだろう でも
…大人が見ても秘密基地かな やっぱり」友人「…帰る?」
「うん 帰ろっか」
この会話を友人がボイスレコーダーをこっそり回していたのか、それとも自分だったのか、今となってはもう思い出せない。
でもこの大人とも子どもともつかないふたりの会話が、何かとても切実なものであったことだけは、未だによく憶えている。
“私たちが最後に帰るべき場所は、一体どこにあるだろう?”
映像の終わりのほうにその一節がテロップとして流れて、卒業制作は終わる。
卒業制作の発表を終えた直後、自分と友人はもう一度吊るされた小屋のある場所へと向かう。
今度は友人が監督となって、新たな映像作品をつくるために。

(後編に続く)
絵描き
1991年大分県生まれ、新潟県育ち。静岡文化芸術大学デザイン学部卒業。現在は北海道に在住。生命の根源や存在のはじまりを辿るようにして、絵を描きながら旅を続けている。
2016年、木や枯葉が鹿や鳥のように見えたことをきっかけにコラージュによる絵を描き始める。それ以来各地で個展を開催。2019年に高さ約3.6m、長さ約5.4mの巨きな絵“はじまりの灯”を制作する。2020年より北海道に移住。同年、haruka nakamuraとLUCAによるアルバム「世界」のアートワークを手がける。2023年より巨きな絵の巡回展「風の舟」を現在に至るまで開催中。最後は絵を燃やすことになっている。
https://hayatokumagai.com/
https://www.instagram.com/nukumedori/



