風景のうまれとゆくえ 新潟編「風景のゆくえ(風化)とうまれ(感化)の環の発見」後編

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光と闇、はじまりとおわり。大地と星空、森や海や山。木々や草花、獣や鳥や魚たち、そして人。
あらゆるものの境界を曖昧に、どこまでもひろがる世界。それぞれの物語が呼応していくような絵。
生命の存在を見つめ、その根源を辿ること。そして人間として生きることと向き合いながら、旅を続けていく、絵描き 熊谷隼人。本連載は、熊谷がかねてより心に留めてきた言葉「根をもつことと翼をもつこと」を起点に、いくつかの由縁のある土地を歩きながら、この世界を故郷にしていくことの地平を見つめるエッセイである。それは、「風景のうまれ(根源)とゆくえを探ること、それが“全世界をふるさととすること”(ひいては根と翼を共にすること)へと至る可能性をたしかめること」(第1回目本文より)でもある。第3回目は、多感な時期を過ごしたふるさと・新潟について。
Text+Photo:Hayato Kumagai
Edit:Yoko Masuda

地元・新潟の実家の裏側を歩いた先に広がる田んぼ、その中にある作業場の跡地。
この場所に惹かれて足繁く通い、映像を撮った自分と友人は、ここを「ヤード」と呼んでいた。(ヤードという言葉は、作業場や資材置き場など、何らかの用途をもった囲い地のことを指す)

敷地内を区切る鉄骨と上部に取り付けられたトタン屋根、どこかから運び込まれたいくつかの巨大なコンテナ。ひとつは資材置き場に、ひとつはどういうわけか鉄骨の上にきれいに積み上げてある。まるでそこを隠れ家にしていたかのように、長い脚立までかけられて。
足元には放置された無数の廃タイヤ、ガラス窓から木材まで捨てられた幾つもの廃材、それらを埋め尽くそうとする勢いで繁茂するセイダカアワダチソウ。
そして鉄骨から吊るされた、風に揺れる一棟のちいさな小屋。

ヤードのはずれには窓が開きっぱなしの古びたカラオケボックスがあり、中には作業場の主人と思われる人物の生活の痕跡が残っていた。
建築歴〜年と書かれた名刺、未払いの公共料金や工具代の支払い催促状、競馬のチケット。「金は追うものではない」との書き文字、弟の病状が記された書類。
大量に散らばっていたカセットテープ。その中にひとつだけ、「10年前のやっちゃんの声」と手書きでラベルに書かれたテープがあった。
これがきっかけとなって、後に友人が制作する短編映像『ヤード』が形作られていくことになる。

散らばっていたテープたちを、ラジカセで一つひとつ聴いてみる。
ほとんどは石焼き芋屋や竿竹などの移動販売で使われる宣伝用の音源や、昔の演歌が入っていた。
そして「10年前のやっちゃんの声」を再生してみると、それはひとりの男性が、かつてお世話になった人物に宛てて送ったテープであることがわかった。

冒頭、テープの送り主である30〜40代くらいの男性がやさしい口調で語り出す。
事情はわからないが、彼は10年前にやっちゃんのお父さんのもとで居候させてもらっていたらしい。
当時のやっちゃんの声の記録が見つかりましたので、音質が悪いですがダビングしてお送りします、といい、当時のことをぼんやりと回想した後、程なくしてカチリというダビングの再生音がする。

当時3〜4歳だったと思われるやっちゃんと、テープの送り主の声が流れだす。
ふたりはまるで親子のような親密さでかけあっている。おもちゃで遊んだり、途中でやっちゃんが彼のことをおかしな歌にしてうたったりする。
ふたりの仲睦まじい様子に、テープを聴きながらこちらまでつい微笑んでしまう。と同時に昔、自分が大分のおばあちゃんの家で双子の兄と一緒にカセットでダビングして遊んだ記憶が、ふと蘇ってくる。あの頃の何かに守られていたような、包まれていたような感覚がなつかしい。
10分ほどの音声記録が終わると、いかがだったでしょうか、とふたたびテープの送り主による終わりの挨拶で、テープは締め括られる。

「10年前のやっちゃん」のテープからは、吊るされた小屋やヤードのこと、ヤードにいた人物に関する情報はまったく得られなかった。ヤードにいた人物が偶然どこかから持ち去ったのか、それともやっちゃんのお父さんと何らかの関わりがあったのか、今となってはもうわからない。
しかし何よりも自分の気をひいたのは、それらの事実関係よりも「10年前のやっちゃんの声」のテープを聴いて感じた、あたたかさやなつかしさのことだった。どういうわけかその感覚は、初めてヤードを訪れたときに自分が感じたそれと、まったく地続きのものであるように思えた。

一連の出来事を経て、自分はひとつの架空の物語を書く。ヤードにいた人物はやっちゃんのお父さんだったという設定で、ヤードにいた人物、彼の弟、大きくなったやっちゃん、テープの送り主であるおじさん、そしてふたりの子どもが登場する。
「10年前のやっちゃん」を聴いたことや、吊るされた小屋を見たこと、ヤードにいた人物について調べる中で思い浮かんだものたちを繋げ、一通りの筋書きをつけてみたのだった。

しかし卒業制作の映像作品としてこの物語を扱うには、定められた映像の尺(5分)にはとても収まりきる内容ではなかった。
ヤードを一緒に撮っていた友人にこの物語を見せたところ、後日彼がこれを脚本として書きなおし、卒業制作とはまた別の、新しい映像作品の方向性を示してくれた。
脚本をひとつの軸にしつつ、彼は場所それ自体をひとつの主体として映像を撮る「場所映画」の可能性について考えていた。

こうして自分が卒業制作の発表を終えた直後に、今度は友人が監督となってカメラを回し、自分がやっちゃん役として出演することで、もうひとつの作品制作が始まることになった。
やっちゃんのおじさん役は自分が大学在学中にお世話になっていた守衛さんに、ふたりの子ども役は自分の新潟の友人の紹介をとおして出会った小学生ふたりにお願いした。そしてやっちゃんのお父さんとその弟役は、自分の実家の近所に住んでいた老兄弟を、なんと友人が撮影日当日に1時間かけて直接スカウトした(奇跡的に成功した)。

短編映像『ヤード』は完成後、幾つかの場所で自主上映会としてひっそりと発表されることとなった。




映像の中では、3つの異なる時間軸がヤードで交錯する。
やっちゃんのお父さんと、彼の弟。
大きくなったやっちゃんと、お父さんの友人だったおじさん。
そして彼らとまったく無縁な、ふたりの子ども。

やっちゃんのお父さんと弟はみかんを食べたあと、ラジカセを取り出して「10年前のやっちゃんの声」を聴きはじめる。
やっちゃんとおじさんは、ヤードのどこかにあるはずのそのテープを探すが、いつまでたっても見つからない。
偶然にもテープを発見したのは、彼らとまったく関わりのないふたりの子どもで、やがてひとりがラジカセを持ってくると、吊るされた小屋の中でそれを再生する。
やっちゃんのお父さんがテープを聴いている姿が、ふとそこに重なっていく。



ふたりの子どもたちにとって、ヤードは遊び場であり、秘密基地でもある。
吊るされた小屋のなかで「ただいま」「おかえり」とかけあったり、カセットテープを積み重ねてみたり、廃タイヤをドミノ倒しにしたりする。その姿は不思議と、この場所にとってもっとも望まれた誰かであるようにも見える。
やっちゃんもはしごを登ったり、吊るされた丸太の上を渡ったりするけれど、ひとりで何かに抗おうともがいているようで、最後までその表情が緩むことはない。

別の日に、やっちゃんがひとりでヤードを訪れ、吊るされた小屋に向かって歩きだすところで、映像は終わる。それは卒業制作の冒頭と同じカットでもあった。

映像を撮り終えた数ヶ月後、新潟に帰省してヤードを訪れてみると、吊るされた小屋は跡形もなく消えてしまっていた。

なぜ小屋だけがなくなったのか、誰かが撤去したのか、まったくわからなかった。
自分にとってかけがえのない場所がこの世界からひとつ消えてしまったと思うと、たまらなくさびしい気持ちになった。

一緒に映像を撮った友人にその話をすると、「自分で風に飛ばされて、どこかに飛んでいったのかもしれないね」という答えが返ってきた。
子どもじみた発想かもしれないけれど、自分はその言葉にどこか救われたような気がした。

遊び場であり秘密基地であり、安全基地であり隠れ家でもある場所。ゆりかご、あるいは鳥かごのような空間。世界のどこかにありそうで、どこにもないような建築。
家を建てることやアトリエをつくること、あるいは建築や空間そのものについて、ふと自由に発想を広げようとするとき、自分の中にはずっとあの小屋のことが念頭にあって、今も離れずにいる。
生きているうちにもしもヤードが取り壊されて、そこに作業場があったことなどまるで分からないくらい風景が変わったとしても、自分の記憶の中にはずっと留まり続けるだろう。

今日も小屋は風に揺れながら、誰かを、何かを待ち続けている。

ヤードを最後に上映してから約10年後。
縁あって2025年の秋、新潟で『ヤード』の上映会を久しぶりに行うことになった。

コロナ禍の頃からお世話になっていた、新潟市・内野町にあるお店「ウチノ食堂」を営む友人の野呂巧さんに、本エッセイ「風景のうまれとゆくえ」のことを話したとき、ふと思い立って『ヤード』を上映することについて相談を持ちかけてみた。
新潟編について書くことを考えたとき、いま一度あの映像を分かち合う場を開くことで新たな気づきや発見があるかもしれないと思ったし、店舗の内装を自身で積極的に手がけている野呂さんにとっても、きっと何か惹かれるものがあるような気がした。偶然にもちょうど野呂さんが制作していた屋台小屋は、吊るされた小屋の外観をどこか彷彿とさせるものだった。

ちょうどその頃、野呂さんはウチノ食堂が入っていた築80年ほどの建物全体を複合文化施設「たねむ」として運営するために改装を行っており、敢えて完成する前の空間で上映会を行えたら面白いかもしれない、と提案してくれた。
以前上映会を開催したのが静岡と愛知だけだったこともあり、故郷で『ヤード』を観てもらうはじめての機会が、10年越しに実現することとなった。

当日参加してくれたのは、思いがけずほとんど全員が自分と繋がりのある新潟出身の人、それも大学時代の後輩や中学時代の同級生という顔ぶれで、半ば同窓会のような時間となった。
ヤードの遠景にうつる水色の煙突を昔から知っていた人もいれば、自分と同じく「10年前のやっちゃんの声」を聴いたことで、幼い頃に兄弟とカセットのダビングで遊んだことを思い出したという人もいた。
映像をとおして、それぞれに呼び覚まされる固有の風景があり、それらを分かち合えたことがとてもうれしく、あたたかな気持ちになった。


一つひとつの記憶を思い出していくうちにあらためて感じたのは、当時自分たちがヤードで過ごした時間それ自体が、あまりにも映画的な出来事である、ということだった。
偶然にも自分がヤードの中へ入って吊るされた小屋を発見し、「10年前のやっちゃんの声」を見つけ、さらにもうひとりこの場所に惹かれる友人が現れたことで、それらは映像となって残り続けることになった。
けれどもし自分がカセットテープを見つけることなく、吊るされた小屋を見てもただ不気味だと感じるだけで、なつかしさやあたたかさを感じることもなかったとしたら。そもそもはじめから、自分があの場所に近づくことすら一度もなかったとしたら。
ヤードはただ風化していき、吊るされた小屋の存在は誰にも知られることがなく、まして映像に残ることもないまま消え去り、カセットテープの中身は永遠に誰にも聴かれないものとなっていただろう。
そしてもし仮に本当にそうだったとしたら、それこそが何よりもかけがえのないことなのかもしれない、とも思う。

『断片的なものの社会学』という本の中で、社会学者の岸政彦は「見出されなかった出来事」がこの世界には無数に点在すること、ロマンチックなものやノスタルジックなものを徹底的に追い求めていった先にあるのは、そのような出来事をそもそも何も知らずにいることだ、と書いている。
かつてたった一人で「ヴィヴィアン・ガールズ」という1万5000ページもの作品を、誰に見せることもなく半世紀以上もの間描き続け、死後アウトサイダー・アートの代表的な作家として知られるようになったヘンリー・ダーガーのことを引き合いに、彼はこのようなことを書いている。

この世界には、おそらく無数のダーガーがいて、そして、ダーガーと違って見出されることなく失われてしまった、同じように感情を揺さぶる作品が無数にあっただろう。もうひとりのダーガーが、いま私が住んでいるこの街にいるかもしれない。あなたの隣にいるかもしれない。いや、それはすでに失われてしまったのかもしれない。ダーガーの存在に関してもっとも胸を打たれるのは、ダーガーそのひとだけではなく、むしろ、別のダーガーが常にいたかもしれないという事実である。
だがやはり、ここでもまた、もっとも胸を打つのは、ダーガーがそもそも「いなかったかもしれない」ということである。「見出されたダーガーの世界」では、ダーガーは自分の営みが報われたことを知らないが、私たちは知っている。「見出されなかったダーガーの世界」では、見出されたダーガーは存在しないが、そうした報われない存在が「いた」ということは、私たちは想像することはできる。だが、「ダーガーがいなかった世界」では、ダーガーがいたかどうか、彼のやってきたことが報われたかどうかを、「私たちですら知らない」。知られない、ということが、ロマンチックな語りやノスタルジックな語りの本質であるとするなら、もっともロマンチックでノスタルジックなのは、ヴィヴィアン・ガールズを制作した本人が見出されなかっただけではなく、彼が見出されなかったことを私たちすら知らない、という物語である(見出されたことを知らない、のではなく、見出されなかったことを知らない、ということ)
このようにして、私たちの隣のアパートに住んでいるあの老人は、おそらくただの老人であり、部屋のなかにはおよそ人の目をひくような芸術品が存在することは決してないだろう、ということになる。
そして、それはとても「物語的」である。

ー『断片的なものの社会学』岸政彦,朝日出版社,2015

吊るされた小屋や「10年前のやっちゃん」との出会いがあらためて教えてくれたのは、こうした誰にも知られることのないであろう物語が世界には無数に存在していること、そのほとんどがこの先も決して出会うことがないものであり、そのような無数の出会わないものたちの集まりによって世界は存在している、ということだった。
あるひとつの物語は、数えきれないほどの物語によって支えられており、あるひとつの風景もまた同じように、無限の風景の中に包まれている。

風景はどこから来て、どこへゆくのか。
誰かがそれを見出したとき、あたかもカメラが感光するように脳裏に焼きついて記憶される瞬間に、はじめて風景は”感化”される。実在する空間としての風景は、誰かの手入れや保護が行われない限り、いつかは作為的に、あるいは時の流れによって徐々に形を変えていき、失われてしまう。風景が風そのものとなり溶けていって、元の場所から跡形もなく消え去ったとき、風景は”風化”し、物質としては不在のものとなる。

しかし風化する前に誰かによって記憶された風景は、少なくとも完全に忘却されるか、もしくは本人が死ぬまでのあいだ、決して消えることはない。誰かにそれを語ることで、風景はその姿が残らなくともまた新たな光を当てられ、何らかの形で残り続けることになる。
あるいは写真や音声・映像などによって記録されたものがあれば、たとえ記録者がこの世から消え去ったとしても何者かによってそれが見出され、感化される限り、完全な風化を免れてこの世界に長く留まり続けるだろう。

このように書いておきながら、一方で完全な忘却、完全な風化といったものは果たしてどこまであり得るのだろう、とも思う。
かつて誰かにとってかけがえのなかったものが風化し、わずかに残った残滓がもはやほとんど原型を留めないものであったとしても、そこから何かを感化しようとする、誰かのいじらしい気持ちがあるとすれば。もしくはヤードを秘密基地にしてしまった子どもたちのように、かつてそこにあったであろう誰かの意図や思いを汲み取らなかったとしても、また新たな風景としてふたたび見出されていくのだとしたら。

感化と風化のめくるめく環のなかで、あらゆるいのちの明滅と共に風景もまた巡りながら、誰かの記憶のなかで、あるいは誰にも知られることなく、無類の光を放っている。

どこかからやってきて、どこかへと向かっていく風のなかに、この世界にかつてあったものの声や姿、気配を感じようとすること。錆びた鉄骨や風に揺れている小屋、カセットテープから聞こえてくる声のなかに、自分たちが探していたもの。
それは終わりかけの風景の中に眠っていたかもしれない誰かの愛着であり、風景それ自体との無垢な出会いをとおして揺り起こされていく、自分の中の子どもだったのかもしれない。
たましいや永遠といった、容易に口にするのがためらわれる言葉を、ふとここに置いてみたくなるのはなぜだろう。

たねむでの上映を終えた翌日、野呂さんとふたりでヤードを訪れた。
鉄骨の上に取り付けてあったトタン屋根はすべて剥がれ落ち、セイダカアワダチソウはさらに繁茂し、かつて吊るされた家のあった辺りからは、すくすくとおおきな樹が育っていた。

熊谷 隼人 Hayato Kumagai
絵描き
1991年大分県生まれ、新潟県育ち。静岡文化芸術大学デザイン学部卒業。現在は北海道に在住。生命の根源や存在のはじまりを辿るようにして、絵を描きながら旅を続けている。
2016年、木や枯葉が鹿や鳥のように見えたことをきっかけにコラージュによる絵を描き始める。それ以来各地で個展を開催。2019年に高さ約3.6m、長さ約5.4mの巨きな絵“はじまりの灯”を制作する。2020年より北海道に移住。同年、haruka nakamuraとLUCAによるアルバム「世界」のアートワークを手がける。2023年より巨きな絵の巡回展「風の舟」を現在に至るまで開催中。最後は絵を燃やすことになっている。
https://hayatokumagai.com/
https://www.instagram.com/nukumedori/
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