風景のうまれとゆくえ 静岡編「描くこと/描かれることの制作史」

光と闇、はじまりとおわり。大地と星空、森や海や山。木々や草花、獣や鳥や魚たち、そして人。
あらゆるものの境界を曖昧に、どこまでもひろがる世界。それぞれの物語が呼応していくような絵。
生命の存在を見つめ、その根源を辿ること。そして人間として生きることと向き合いながら、旅を続けていく、絵描き 熊谷隼人。本連載は、熊谷がかねてより心に留めてきた言葉「根をもつことと翼をもつこと」を起点に、いくつかの由縁のある土地を歩きながら、この世界を故郷にしていくことの地平を見つめるエッセイである。それは、「風景のうまれ(根源)とゆくえを探ること、それが“全世界をふるさととすること”(ひいては根と翼を共にすること)へと至る可能性をたしかめること」(第1回目本文より)でもある。第4回目は、絵描きの出発点となった土地、大学時代と絵描き駆け出し時代を過ごした静岡について。
Text+Photo:Hayato Kumagai
Edit:Yoko Masuda

これまでの連載では、「風景のうまれとゆくえ」という主題を軸としつつ、生まれ故郷の大分と、小学校から10代の終わり頃まで過ごしてきた新潟という二つのルーツから、風景を巡る試論を展開してきた。とくに意識していたわけではなかったものの、風景へと向かっていくよすがとなるものとして、大分編では写真について、新潟編では映像について、それぞれふれることになった。

それではふだん絵描きとして活動している自分にとって、絵を描く行為はこれまでに見てきたような風景のありようと、どのように繋がっていくのか。今回執筆する静岡編では、大学生活を過ごし、その後絵描きとして活動の出発点にもなった場所・浜松を中心に、自らの制作史を振り返りつつ、風景とのつながりを確かめていきたい。

なお、浜松で過ごした期間は大学時代(2011〜2014年)と絵描き駆け出し時代(2016〜2019年前半)の二つに大きく分けられる。両期間のあいだに位置する2015年は東京・吉祥寺に住んでいたため浜松を離れているが、制作における重要な転換期となっているため、この回でもある程度ふれておきたい。

◯大学時代(2011〜2015年)/静岡・浜松市

2011年春、1年間の浪人を経て静岡文化芸術大学のデザイン学部に入学が決まり、新潟から静岡・浜松市へと引越すことになった(奇しくも大学生活のためのアパートを探すために母と浜松を訪れた日は、東日本大震災が発生した3月11日だった)。
一年を通して曇りがちで、くすんだ色が印象に残る新潟とはちがい、浜松は晴れの日が多く、ほとんど雪が降ることもない(新潟から進学した後輩が「晴れすぎて鬱になる」という名言を残している)。はじめはその違いに多少戸惑いながらも、まちのさまざまな場所を巡ったり、自転車で30分ほどかけて中田島砂丘まで足繁く通ったりするうちに、自分の体と心も少しずつ馴染んでいくようになった。

大学ではデザインの基礎をはじめ、WEBサイト・映像制作・ゲーム制作・メディアアートなど、パソコン上で出来ることは何でも、という勢いで多岐にわたる表現を学んだ。その一方で、高校2年生の頃からCDジャケットのイラストや本の装画をいろいろ見漁っていた影響から、卒業後にはイラストレーターになることを漠然と志向していた。
もともと人物(とくに顔)を描くのが好きで、中学校の頃から繰り返しノートに人の横顔を描き続けていた自分は、美大受験を経て身につけたデッサンをベースとする絵を模索していた。とりわけ揺るぎないデッサン力に裏付けされながらも、私的かつ静かな世界を親密なまなざしによって描いているという点で、日本の絵本作家酒井駒子や、美大受験期に知った20世紀アメリカ具象絵画を代表する画家アンドリュー・ワイエスに強く惹かれていた。いくつかの小さな模索を経て、まずは子どもや動物、日常的なモチーフを主とした、どこか絵本風の作品を描きはじめるようになった。いま振り返ると、これが自分にとって”作品”というものを意識した、最初の制作だったように思う。とはいえリアリティを追求することにはそこまでこだわっておらず、陰影の描写も必要最小限にとどめ、空間的な奥行きへの関心は低かった。

大学時代前半(2011〜2013年ごろ)の絵たち

一枚の作品ごとに中心となるモチーフは、多くの場合が人物や動物で、それ以外の要素は副次的に控えめに描かれる場合がほとんどだった。当時大学のデザインの授業などをとおして好きになった北欧デザインの影響で、シンプルかつミニマルな表現に憧れていたこともあり、いかに少ない要素で手応えのある画面を構成するか、ということに関心があったのかもしれない。
しかしなかなか納得のいく絵を多く描くことができず、描きかけの絵の前でぼんやりしている時間がわりと長かったように記憶している。

大学2年生の終わりには、人生初の個展を鴨江別館(現:浜松市鴨江アートセンター)で行った。この時は2階にある4つの部屋をそれぞれ展示スペースとして使わせてもらい、当時模索していたさまざまなイラストレーションのほか、1年生の終わりに訪れたフィンランドでの体験から生まれた絵本の原画や、白樺の木を描いた100号の油絵を展示した。さらに絵だけではなく写真やことばの展示をしたり、各部屋に繋がるロビースペースでは自作のチーズケーキやハンドドリップによる珈琲の提供なども行っている。自分らしい展示をつくる、というようなこだわりは特になかったものの、その時の自分ができることを媒体や形式にとらわれずに展開していく点は、今もあまり変わらないかもしれない。

個展「ナイフ展」の風景と、絵本『しろくまとオーロラ』の原画(2013年)

それから県内外でも絵の展示を行うこともあったものの、自身のデッサン力に限界を感じていたことも影響して、イラストレーション的な作風は徐々に行き詰まってしまう。
一方で大学時代の後半になると、それまで絵画表現と並行して実験的に取り組んできた様々なアプローチを発展させて、抽象的なイメージの作品化を試みるようになった。ただし多くは写真表現に基づくもので、間接照明にさまざまなものを透かして光の表情を探究したり、中田島砂丘の海と砂浜の境界を追いかけてみたり、写真用紙の裏面に印刷して意図的にインクが滲む表情をつくる等、多岐に渡った。絵画表現においても幾つかのアプローチを試みたものの、絵の具を重ねたマチエールを撮影してデジタル加工したイメージの追求など、絵画と写真の境界が曖昧なものも少なくなかった。

中田島砂丘で、一日の朝と夕方に海と砂浜の境界を撮影した写真集『Ethos』(2013年)
故意にミスプリントをしてインクを滲ませた《mist print》(2014年)

抽象表現の模索から絵画として形になったものとしては、凍らせた絵の具を画面上に放置して溶かした絵や、サインペンでひたすら同じタッチを繰り返して画面を埋めつくした作品などがある。しかしいずれも1〜2点のみの制作にとどまり、同様の表現はそれ以降ほとんど行っていない。

大学四年生の秋には、初個展を開催した鴨江別館(この頃には「鴨江アートセンター」という名称に変わっていた)でもう一度個展を行っている。この時は鴨江アートセンターが企画するアーティスト・イン・レジデンスという滞在制作プログラムに参加しており、その成果発表も兼ねていた。この時の記録写真はほとんど残っていないものの、最初の個展でも展示したイラストレーションから、抽象表現の展開としての写真や絵画、そしてことばなど、ひとつの表現方法にとどまらず幅広く取り組んできた自身の足跡を、そのまま表したような展示だったように記憶している。

アクリルガッシュを凍らせてから画面に配置し、氷が自然に溶けて描画される《ice painting》(2014年)
サインペンで同じタッチを繰り返して画面を埋めつくした絵《tree and water》(2014年)
ペン画シリーズ(2014年)

上記の作品以外に、実は約90点もの新たなイラストレーションを新たに描いて展示しており、いま振り返ってみると興味深い。おそらくこの頃スケッチブックに描きためていた、黒ペンのみで描かれたシンプルかつ空想的な絵を、ハガキサイズの紙に描いたことがきっかけでこのシリーズが生まれたように記憶している。マグカップ、鉛筆、スプーン、パン、小鳥、小舟など、日常的に親しみやすいモチーフを中心にしつつ、鉛筆で今まさに描かれている道の上を少年と犬が走っていたり、マグカップからたちのぼる湯気がパンのように見えたりとユーモアが散りばめられており、縮尺も自在なものが多い。写真や実物を参考にしながら、あくまでもデッサンありきで生真面目に時間をかけて描いていた過去のイラストレーションからすると、下絵もなしにふと思い浮かんだアイデアを気軽に描いている点で、大きく異なっている。短期間でこれほどの点数を描いたのは、おそらくこのシリーズが初めてだったかもしれない。そしてペン画に基づくこうした発想の展開は、その後東京で絵の転換期を迎える時にもひとつの起点となっていく。

大学時代の終盤は前回の新潟編で見てきたように、卒業制作として「懐かしさ」をテーマにした作品制作で映像作品をつくることになり、絵を描くことからは遠ざかってしまった(実は卒業制作に向けて手描きのアニメーションを試みていた時期もあったものの、講評会であまり評価を得られず、結局挫折している)。

こうして振り返ると、大学時代に描いた作品のほとんどはこれまでの連載で中心的に綴ってきた「風景」というものと無縁ではないにせよ、あくまでもイラストレーション(情報伝達)としての絵の模索や、その時々に惹かれた表現手法による視覚効果の追求ということに終始していた。
写真を撮ることにおいてはこの時点ですでにぼんやりと形成されつつあった、主体の転換へと向かうような発想、すなわち「自分が制作するのではなく、何かが自分をとおして制作している」というような自覚は、絵においてはまだまだ希薄だったように思う。

地方誌「浜松百選」の表紙のための絵 左:3月号 右:5月号(2015年)

◯新卒時代(2015年)/東京・吉祥寺

渋谷のIT系企業に就職が決まり、吉祥寺に移住してから仕事に追われる日々の合間にも、休憩時間や休日になるとスケッチブックにペンや鉛筆で絵を描いていた。大学四年生のうちに自分の絵を何度か強く批判されてしまったこともあり、この頃は絵を描くことをあくまで趣味と割り切り、自分のためだけに描こうと決めていた。
一方でこの時期には浜松市の月刊タウン誌「浜松百選」の表紙を担当しており、当時趣味で描いていた絵や在学中に描いていたイラストレーションをベースにしながら、のびのびと絵を描いてもいる(ちなみに「浜松百選」は2024年に廃刊となった)。

会社ではろくに立ち回ることができず失敗続きで、社会不適合者=ミスフィットという言葉がいつも片隅にあった自分は、いつしか都会の喧騒からおよそ離れたところへ思いをはせることが心の拠り所となっていた。この頃ビジネス本にはほとんど目もくれず、辻まことの『山の声』や串田孫一の『山のパンセ』を読みながら、そこで綴られる自然豊かな風景や動物たちの営みの中に、自らの在りかを探し求めていた。夏になるとひとりで、栃木の戦場ヶ原を訪れたり、長野の上高地を歩いたり、檜原村(東京唯一の村)へ滝を見るために山を上ったりした。その中で鹿のようなかたちをした朽木と出会ったり、霧に包まれた風景を撮ったり、本能的な恐怖あるいは野生に身を浸した歓喜からか、山の中でひとり思わず叫び声をあげたことが、どこか神秘的な体験として残っている。
都会での暮らしの中でいつしか人間社会から疎外されているように感じていた自分にとって、山は人間である以前に生命として呼吸を取り戻す時間をもたらしてくれた。浜松にいた頃にもそのような人里離れた場所にどこか惹かれてはいたものの、海や山からすっかり遠ざかった吉祥寺に移住して以降、その気持ちはますます切実なものになっていく。

森を歩いているときに偶然出会った、木のかたちをした鹿 栃木・戦場ヶ原にて(2015年)

秋ごろになると、その頃よく通っていた書店や喫茶店などでさまざまな作品との出会いが立て続けに起こった。インドの伝統的な刺繍布カンタ、ラオスの少数民族・レンテン族の刺繍布、鈴木照雄のうつわ、洞窟壁画の写真集など、その多くは土着的な営みの中で生まれたものたちであり、手仕事の生々しい痕跡をとどめているものばかりだった。とりわけ吉祥寺のセレクトショップOUTBOUNDで紹介されていた、中央インドのゴンド民族の画家によって描かれた生命力溢れる絵本『夜の木』との出会いは、その頃描いていたペン画に多大な変化を与えただけでなく、絵を描く時の意識そのものを変容させていった。細い線で緻密に描かれた神話的な樹々や動物たちは、自分がデッサンする時つねに意識していた「画面全体をつねに意識すること」「陰影や遠近の表現によって三次元的な広がりを持たせること」等とは明らかに異なる原理によって描かれているように見えた。それらの絵はまるで線から線が生えていくように生じており(実際には画面全体のなかにバランスよく収まっているが少なくとも自分にはそう感じられた)、平面的かつ二次元的な描写でも繰り返し重ねることによって、やがて多次元的な絵が生まれるのだということを示していた。
同時期のある日に公園を訪れた時、二枚の落ち葉を重ねると鳥に見えた体験から、紙による鳥を象ったコラージュも試みている。それまで四角い紙やキャンバスの中でいかに描くかという枠組みに捉われていた自分にとって、これらの出来事は従来の絵の在り方から解き放たれていくための、きわめて重要な出来事だった。

左:「夜の木」と出会った頃のペン画 右:枯葉と紙による鳥のコラージュ(2015年)

浜松百選の表紙担当の最終回となった12月には、その頃の集大成ともいえる絵を描いている。主に鉛筆と色鉛筆を使って、当時ペン画でよく描いていた生きものや植物たちがそこかしこに溢れている。学生の頃にこれほどの密度で、一枚の中に多数のモチーフが登場する絵を描いたことは、おそらくなかっただろう。この時に自分なりの手応えを感じたことが一つの後押しとなり、絵描きとして生きていく意志を固めると、ちょうど一年で会社を辞めて、ふたたび浜松へと戻ることになった。

地方誌「浜松百選」12月号表紙のための絵(2015年)

◯絵描き駆け出し期(2016〜2019年前半)・静岡県浜松市

大学時代の繋がりからデザインやイラストレーションなどの仕事のお誘いを浜松の方から幾つかいただいたこともあり、東京を出てからはひとまず浜松に再び戻ることになった。そこからはフリーランスとしてデザインの仕事を行いつつ、部屋にこもってひたすら絵を描いたり、本を読んだりしていた。東京から離れるようにして歩いた山や森での神秘的な体験、そして東京で出会い感銘をうけた作品たち、それらに共通して感じられたのは、生命の根源、存在のはじまりへと遡るような感覚であり、その探究の手がかりとして絵を描くことが、最大の関心事となった。
東京のようにまちの喧騒に疲れることがない浜松の中心街近くに暮らしながら、学生時代ほとんど訪れる機会のなかった浜松北部・天竜の山奥や、ときには富士の樹海の散策路など、生命の気配が色濃く感じられる場所をよく訪れ、そこで見たものや感じたことを、そのまま制作にも反映させていった。

とはいえ画材の扱いは著しく変わってはおらず、基本的にはパステルや水彩・アクリルガッシュなど身近で購入できる安価な画材を使って、未だ見ぬイメージを探し続けていた。試行錯誤を繰り返すなかで、やがて動物の絵を輪郭そのままに切り抜いて壁に飾る「切り絵の生きもの」シリーズや、無数の生命がうごめくような点描画、パステルや鉛筆による抽象画など、従来の絵の描き方からさらに解き放たれたアプローチが次第に増えていく。

「切り絵の生きもの」シリーズ(2016年)
《土の記憶》(2016年)
パステル画《星祭り》(2017年)
鉛筆画《無題》(2017年)

現代的な人間の営みとはおよそ逆な方から、積極的に霊感を受けて絵を描こうとしている点で、日常的な静物や人物を多く描いていた学生時代とは一線を画している。それは人間として生きることへの挫折を幾度となく経験した大学〜東京時代から一転して、絵の中で人間ならざるものの方へと向かっていくことで、翻って生きることそのものの鮮やかさを取り戻そうとしているかのようでもある。

当時描いていたさまざまなモチーフの中で、とりわけ重要だったのは鹿の存在だった。東京で過ごしていた頃にかつて出会った、鹿のような形をした木をはじめとして、その後も森を歩くたびに鹿と出会ったり、鹿にまつわる作品や、鹿の身体の造形(毛皮の表情や頭蓋骨に入った亀裂)に魅かれることがたびたびあった。自分にとって鹿は、何らかの導きをもたらす存在なのだと信じていた。

左:鹿の頭蓋骨に入った模様のような亀裂 右:鹿の毛皮を撮影してからデジタル加工したイメージ

2017年には、鹿の骨で描いた大きな点描画を一枚制作している。森を歩いた時に偶然拾った鹿の骨を、自力で細かく砕いてから膠で溶いて絵の具にし、つややかな墨で真っ黒に塗ったキャンバスの上に何十時間もかけて点を重ねていった。何らかのかたちや生命がうまれようとする気配のようなものが縦横無尽に広がる画面は、星座のようなイメージをも想起させつつ、さまざまな場面で生命の畏怖にふれた時の体験を反映している。

鹿の骨で描いた点描画《ミナハラム》(2017年)

その後も天竜のジビエ加工施設で、縁あって一度だけ鹿肉の解体・精肉のお手伝いに参加したりと、鹿との不思議な巡り合わせから生命そのものへと文字通り肉迫していくような体験を重ねている。

こうした一連の体験をとおして、動物と人間の関係について考えを深めていくうちに、やがて絵を描くことと狩ることの間に奇妙な類似性があることに気がつく。かつて人は鹿を狩る時、鹿そのものになりきることで、自らが人間であることを悟られないようにした。鹿に似れば似るほど近づくことは容易になるが、もし人間であることを忘れて完全に鹿そのものになってしまうと、狩りを果たすことはできない(鹿は鹿を食べないから)。そこで鹿でありながら人間であるという、ある種矛盾した状態へと移行していく必要がある。これになぞらえると、絵を描く行為は人間から「絵になる」ことによって、絵そのものへと接近し、そこから何らかのイメージを持ち帰ってくる行いとして見ることができる。しかしここでも完全に絵そのものになってしまうと、人間の時間から絵の時間へと移行してしまい、いつまで経っても絵は仕上がることがない(このことはある意味で死を連想させる)。越境しながらも向こう側へ行ってしまわず、あくまで人間として戻ってくるという点で、一連の流れはシャーマニズム(呪術者を媒介して人間界と霊界を架橋すること)にも通ずるものがある。

黒いクレヨンで塗りつぶした画面をスクラッチした絵《Inuuniq Ⅰ》(2017年)

描くことへの意識の変容を自覚しつつ、その後も県内外で展示活動の機会を広げていくと、2018年には鴨江アートセンターのアーティスト・イン・レジデンスに再び応募・参加する。かつて大学四年生の時のアーティスト・イン・レジデンスで使用した時と同じ部屋で、以前とは大きく変化した自分の表現でふたたび挑戦させていただけることが大変ありがたく、感慨深かった。
約3ヶ月の制作期間を経て、2019年2月にはその成果発表となる個展「存在の祭りのなかへ」で、それ自体が自分の人生におけるひとつの通過儀礼であるような作品として、高さ3.6m、幅5.4mの大作《はじまりの灯》を制作・展示した。この絵の中では2015年から2018年の4年間で自分の絵が大きく変容していったこと、それと同時に自分の人生が鮮やかに変化していったことを、おもに循環する四つの場面の中で鹿・鳥・蛇・人などのモチーフによって表しながら、全体として生命の曼荼羅のようなイメージで描いた。この絵は2026年現在も全国巡回展「風の舟」として、国内各地での展示を断続的に行っている。

絵描きとしての活動で主軸となったのは、こうした絵画作品の展示であることはいうまでもない。しかしそれとは別に、絵画作品の制作と並行して絵を描く行為が画面の外にまで向かい、やがて視覚表現の領域に留まらず、身体表現にまで拡張されていったことにも焦点を当ててみたい。

《はじまりの灯》(2019年)

浜松へ戻ってきて以来、制作や仕事の合間に大学の後輩のひとりと、さまざまな場所で身体を使ったワークや造形遊びをしていた。ある時は公園で紙の上にこもれびを映してペンでなぞったり、紙をちぎって原っぱにドローイングしたりした。またある時は沢に行って、蚊に刺されながらきれいな色の石を見つけに行った。まるで子どものように遊んだそれらの時間をお互いに写真や映像に記録しつつ、後で一緒に見返しながら、次に遊んでみたいことをふたりで話し合った。映像表現やコンテンポラリーダンスに興味を持っていた彼の誘いで、コンテンポラリーダンスのワークショップに一緒に参加したこともあった。
当時住んでいたアパートの部屋が狭かったため、以前よりお世話になっていた鴨江アートセンターの2階ロビーをアトリエ代わりに使わせてもらい、そこでも放課後のような時間を過ごしていた。2017年には鴨江アートセンターのアーティスト・イン・レジデンスに参加していた振付家・演出家の尾花藍子さんと出会い、尾花さんによる身体表現の稽古に何度か参加したり、共同プロジェクトとして鴨江アートセンターの一室を使い「身体と思考の蓄積」を行うという試みにも参加している。

浜松市・牛山公園での遊び(2017年)
鴨江アートセンターにて、針金を使った空間ドローイングの試み(2017年)
オープンアトリエ 205 プロジェクト》鴨江アートセンターにて(2017年)

大学の後輩と遊ぶ日々の中でも、中田島砂丘の海岸で過ごした時間はとくに印象深い。浜辺に落ちていた手頃な枝を拾うと、砂浜をキャンバスに見立てて、自然とドローイングをはじめるのが常だった。海のすぐそばで線を描いていると、やがてすべてが波にかき消されていく。ふたたび描いては消えるを繰り返し、そのうち砂浜に描くだけでなく空中にも枝で線を描くようになる。果てには枝も放り投げてしまい、まるでただ踊っているみたいに、無法位に四肢で見えない線を描いている。当時はおそらくあまり自覚していなかったけど、まるで絵を描くことの起源に触れるような原体験として、その後も折にふれてこの時のことを思い出している。

中田島砂丘でのドローイング(2017年)

2011年に起きた東日本大震災の影響で、中田島砂丘は津波対策として2014年から大規模な防潮堤の建設工事が始まっており、2017〜2018年ごろはすでに防潮堤の約半分ほどが出来ている状態だった(その後2020年に完成※)。元あった風景が失われつつある状況に自分はそこまで敏感ではなかったものの、かつて通っていた海までのルートが工事で突然封鎖されていたり、人工的な建造物が徐々に増えつつあることに漠然と違和感を感じてはいた。
変わりゆく中田島砂丘の景観を巡る市民活動の一環として、鴨江アートセンターでは2018年3月に「中田島砂丘、断片。」という企画展が行われた。無邪気に海で遊んでいた自分たちも縁あって、これに参加することになる。会場では写真・映像・流木によるミクストメディア作品として、大学の後輩と海で遊んでいるようすを友人に撮影してもらった写真と映像、その時に使っていた約4mの流木(海から会場まで約10km歩いて運んだ)を展示した。砂浜でのドローイングはもちろん、大きな紙を砂に埋めて手や足で白い線を描(掻)いたり、流木を砂の上で自立させてみたり等、子ども心に思いついた行為が中田島砂丘の景観と共にそのまま記録・展示されている。
二日間だけの展示だったこともあり、おそらくこの作品に気を留めた人はほとんどいなかったかもしれない。しかしそれまでに過ごしてきた海での時間をひとつまとまった形にできたことが、自分には嬉しかった。

ミクストメディア作品《いま、ここで描く》より
(制作:熊谷隼人・藤澤董平・小林みのり)

「中田島砂丘、断片。」での展示風景(2018年)
※ 中田島砂丘は天竜川から運ばれる大量の土砂が堆積して形成されたもので、海に侵食されながらもその砂の量は一定に保たれていた。しかし戦後に天竜川にダムが階段状に建設されたことが原因でこのバランスは失われ、2003年以降に海岸の侵食対策として行われた護岸工事やテトラポッドの設置を機に、砂丘の景観を巡るさまざまな議論が起こった。
2014年より建設がはじまった大規模な防潮堤は、浜松を創業地とする大手ハウスメーカー・一条工務店と浜松市・静岡県の三者により進められた。これは一条工務店による300億円もの巨額寄付が発端となっており、通常の公共事業とは異なる形で進められ、市民への周知が十分でないまま事業が進んだために疑問の声も上がった。
2020年に防潮堤が完成した後も、景観のためその上に被せていた砂が風で飛散してしまったり、建設の際に防潮堤の破片が砂丘内に散らばったり等、砂丘としての景観や生態系の回復・維持については未だ多くの問題が残っている。
参考:浜松市沿岸域防潮堤整備(浜松市公式ホームページ)
〜産学官民で作り上げた「静岡方式」の先駆け〜“防災先進県”ふじのくに静岡の新たなレガシー「一条堤」(しずおかメディアチャンネル)
第1回 遠州灘沿岸侵食対策検討委員会(静岡県公式ホームページ)
かぶせた砂が風で飛ぶ 中田島砂丘の防潮堤で試行錯誤(朝日新聞 2021.9.7)
中田島砂丘で再びごみ露出 浜松市埋め立て付近(中日新聞 2022.11.19)
松下克己さん/中田島砂丘観光協会(みなみくひがし)

大学の後輩と共に行ってきた一連の遊び/活動は、ひとり机の上で絵と向き合ってきた時間から逸脱して画面の外、すなわち世界そのものを絵画空間とみなし、そのなかで全身を使って描くことへと導いていった。それは写真を撮る時と同じかそれ以上に、自分を風景へと溶け込ませていくこと、そして風景が自らを媒介として制作するということへ意識を向けるきっかけとなった。

鴨江アートセンター2階ロビーでのドローイング(2018年)
ロビーの柱や椅子・机などを簡潔な線で描きつつ、その間を線が漂っている

2018年には新たな試みとして、粘土による小さなオブジェ・ブローチの制作を行っている。昔から絵を描くことがずっと好きだった一方で、紙や木などで工作物を作るのは指先の不器用さも相まってかあまり楽しかった記憶はなく、立体的な構造物を考えるのも苦手だった。美大受験の実技試験で取り組んだ立体構成が出た時は散々な出来だったし(後日成績開示したところその年の最低点だった)、大学の木工の授業でもいつまでも作品を仕上げられず惨めな思いをしたから、立体造形全般に対して半ばコンプレックスを抱いていた。
そんな自分が粘土での制作を試みるようになったのは、可塑性が高く小さな作品であれば気軽に始められるという点も大きかったものの、当時敬愛していたフランスの画家ロベール・クートラスがテラコッタやワインのコルクから作った小さなオブジェや、古代の遺跡から出土された動物の土製品など、素朴な立体造形に少なからず関心を持っていたからだと思う。
ブローチづくりは程なくして終わったものの、小さなオブジェの制作は緩やかに続き、やがて粘土の上に彩色した紙を貼った動物のオブジェが生まれた。これは現在でも断続的に作り続けている。

左:オーブン陶土によるブローチ(2018年) 右:粘土に色紙を貼った動物(2019年)

これらと時期を同じくして、自作の封筒や紙箱なども作りはじめるようになる。大学生の頃、コラージュ作家の井上陽子による蝋引き封筒や紙箱の作り方が書かれた本を読んだことがあり、誰かへの贈り物としての封筒や自分の絵をしまう箱など、様々な紙ものをいつか自分の手で作れたら、という構想は以前からぼんやりと温めていた。
最初の封筒は、紙の専門店で風合いのよい色紙を購入し、自分なりに封筒の展開図を起こし紙をカットして組み立てるところからはじまった。やがて購入した紙では飽き足らず、半紙や障子紙などをコーヒーや絵の具で染め、それらを蝋引きすることで紙同士の色の重なりが美しく透けるようにする等の工夫を施していく。紙箱も封筒と同様に自ら展開図を起こし、色紙を貼り合わせることでただ機能的な箱というだけでなく、それ自体が立体作品となるようなものを目指していた。工程が多いため数多くは作れなかったものの、一枚の紙から展開図を起こして立体的に組み立てるという作業は非常に面白く、三次元的な発想の広がりを自分にもたらしてくれた。
封筒・紙箱のための色紙づくりから派生して、自ら染めて蝋引きした色紙を組み合わせることで抽象的なコラージュを幾つか制作し、それらを窓に貼ったり天井から吊るす試みが生まれる。光を透過した時の色の重なり方や、窓からの光による影の形など、平面から空間へと発想を広げていく制作が、ここからも萌芽していく。

左:自作した蝋引きの色紙封筒 右:色紙を貼りあわせた紙箱(いずれも2018年)
蝋引きした色紙によるコラージュ(2018年)

2018年9月には、浜松市北区の浜名湖沿いに位置する土地・三ヶ日で行われた「アリィの冬と夏」という企画展に参加した。
この時は80年以上の歴史を持つ三ヶ日駅の駅舎で、主に三ヶ日牛をモチーフとした茶系の紙によるコラージュをセロハンテープで貼ったり、天井から吊るしたインスタレーションを行っている。主に三ヶ日牛をモチーフとした茶系の紙によるコラージュをセロハンテープで貼ったり、天井から吊るしたりした。窓ガラスには長きにわたって掲示物が貼られた名残でセロハンテープが多く残っており、当初は全て剥がす話もあったものの、なるべくそのままにしておくようお願いした。風で静かに揺らめくコラージュたちに足をとめて、窓の裏からじっくり見入る人もいれば、作品であることに気づかずに横切っていく人まで、反応も様々だった。同じ企画展の中では、三ヶ日に伝わる妖怪・鵺(ぬえ)にまつわる伝説をモチーフとした即興パフォーマンスを、大学の後輩と共に行ったりもしている。

三ヶ日駅でのインスタレーション《呼吸するかみたち》(2018年)
即興パフォーマンス《ヨルノトリ》(2018年)
終了直後に熱中症で倒れたり、その夜寝ている間に鵺(?)の如く叫んだ(後輩談)のも今ではいい思い出

翌年2019年2月に鴨江アートセンターにてアーティスト・イン・レジデンスの成果発表を終えると、同年5月には海外を旅する準備をはじめるために浜松を離れることになる。その前に行ったいくつかの展示では、粘土による立体や紙ものの制作の中で育んだ三次元的なアイデアを、さらに発展させようとしている。
大学時代も合わせると約7年半を過ごしたこの土地を去る前に、最後の個展として5月に行ったのが、浜松の建築家・天野寛志さんが運営する「ギャラリーあ」での展示「旅立ちのみどり」だった。自身の誕生月でもある5月、大好きな新緑をイメージして緑色に染めた紙によるコラージュを「みどりの子」と呼び、ギャラリーを絵画空間に見立てながらあちこちに配置した。それまで絵画作品をメインに行ってきた個展の様相とは一転して、風と光をはらむとても軽やかな展示となった。

cafe Panchavatiでの展示用ビジュアル(2019年)
小さな居場所を作るようなイメージで、様々なオブジェを制作した
個展「旅立ちのみどり」展示風景と作家本人(2019年)
絵画作品も展示しつつ、窓や壁・天井から飾ったみどりの子が主な作品だった

子どものように遊んでいた公園や川、描くことの原点に立ち返った中田島砂丘、大学時代から一貫して制作および展示の拠点となった鴨江アートセンター、天竜や三ヶ日。それぞれの場所で過ごしてきた時間をとおして、描くこと/描かれることへの感覚は深まり、かつ解き放たれていった。
それは写実的な風景画のような、大学時代のデッサンを軸とする表現と地続きのアプローチによってではなく、むしろ生命そのものへと向かっていく絵の在り方や、紙も筆も持たず空間に身体でドローイングすること、そしてオブジェや紙ものから展開した三次元的な発想の中で息づくのだった。

時に未熟で混沌としながらも、たしかに形づくられていったこれらの作品や行いは、その後2020年に北海道へ移住してからますます発展していくことになる。このことについては連載の終盤あたりで、再びふれることにしたい。

熊谷 隼人 Hayato Kumagai
絵描き
1991年大分県生まれ、新潟県育ち。静岡文化芸術大学デザイン学部卒業。現在は北海道に在住。生命の根源や存在のはじまりを辿るようにして、絵を描きながら旅を続けている。
2016年、木や枯葉が鹿や鳥のように見えたことをきっかけにコラージュによる絵を描き始める。それ以来各地で個展を開催。2019年に高さ約3.6m、長さ約5.4mの巨きな絵“はじまりの灯”を制作する。2020年より北海道に移住。同年、haruka nakamuraとLUCAによるアルバム「世界」のアートワークを手がける。2023年より巨きな絵の巡回展「風の舟」を現在に至るまで開催中。最後は絵を燃やすことになっている。
https://hayatokumagai.com/
https://www.instagram.com/nukumedori/
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