ほかでもない「ここ」を見つめる装置として。 『まだ溶けていない方の山梨県美』座談会「なにが溶けていて、なにが溶けていなかったのか?」VR編

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山梨県立美術館が主催する、美術館内とメタバースと呼ばれる仮想空間を舞台にした展示企画シリーズ「LABONCHI」の第2弾として、美術家・雨宮庸介による展示『まだ溶けていない方の山梨県美』が2024年2月27日~3月24日に開催された。雨宮は代表作の《溶けた林檎の彫刻》《1300年持ち歩かれた、なんでもない石》など、自身が手がける作品を通して、普段は起こりえない事象や状況を生み出すことで、鑑賞者の認識に変化を生み出すことを目指し制作を行っている。その手法は彫刻作品をはじめ、油彩画や映像、パフォーマンスなど多岐にわたる。本展にて雨宮は、自身が長らく追求してきたV(仮想)とR(現実)を拡張していくものとして、2点のリアル作品と、初のHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を使用したVR作品を展示した。

本展の締めくくりには、2日間にわたり、雨宮と共に作品を制作した方々が集う座談会「なにが溶けていて、なにが溶けていなかったのか?」を開催。1日目には、雨宮と共にVR作品を制作した、劇作家の石神夏希、振付家・ダンサーの浅井信好、全体ディレクションを務めたCOMPOUND inc.小田雄太を迎えてトークを繰り広げた。本記事では座談会1日目に展開された、メタバースの作品制作においてその過程で立ち上がった考察や発見、そして三者の制作に対する捉え方や眼差しをお届けする。

Photo:Ryo Yoshiya
Text:Yoko Masuda
Edit:Moe Nishiyama

R編はこちら

美術家と劇作家と振付家で。
メタバースを使い、どこかではない「ここ」を表すこと

小坂井(山梨県観光文化部):「LABONCHI」という展示企画シリーズの概要を少し説明をさせてください。本企画は、山梨県立美術館の主催事業です。企画の発端は、長崎幸太郎山梨県知事の「メタバースを活用できないか」という提案でした。その言葉の背景には、新型コロナウイルスの流行当時、当館の活動が停滞してしまったことがありました。文化活動を止めないための可能性を模索するなか、メタバースという仮想空間における展示活用に着目したのです。その後、社会は新型コロナウイルス流行以前の様子に、徐々に戻りつつあります。このような状況を踏まえて、通常開館を行っている今だからこそ可能な新たな作品展示の実践を重ねたいと考え、作家の雨宮さんをはじめとするみなさまにご協力いただいたという経緯がありました。それでは、ここからは司会をお願いしているCompound inc.小田さんにバトンをお渡しします。

小田雄太(以下、小田):まず本展は、山梨県立美術館エントランスの吹き抜けスペース「ギャラリーエコー」に展示してある2つのリアル作品と、1階ロビーで展開しているHMD(ヘッドマウントディスプレイ)で視聴するVR作品(デジタル映像作品)で構成されています。

今日は雨宮さんと、VR作品制作に携わってくださった、振付家・ダンサーの浅井信好さん、劇作家の石神夏希さんをお呼びしています。自己紹介をお願いします。

浅井信好(以下、浅井):振付家・ダンサーの浅井信好です。普段は「月灯りの移動劇場」というカンパニー名で、名古屋を拠点にしています。雨宮さんにお誘いいただいたのは、僕が以前パリコレクションで担当したファッションブランドのショーの振付を面白いと言っていただいたことがきっかけです。そのブランド「beautiful people」は、洋服の隠れた空間に着目し、SIDE-C(サイドシー)という1着の服で5〜6パターンの着方があることを提示しています。その特殊な作りをショーのなかで実演するために、コンテンポラリーダンスの要素を加えていて。そのショーを目に留めていただき、今回お声かけいただきました。

これまでのキャリアを簡単に説明すると、もともとはSMAPやサカナクション、ファーギーなどポップアーティストの振付やバックダンサーをしていました。その後「山海塾」という頭を剃り全身を白塗りにしてゆっくりと能のような踊りをするグループに6~7年ほど所属し、ドイツやフランス、イスラエルなどで10年ほど踊りにまつわる活動をしていました。
日本での活動をいくつか紹介すると、まずは名古屋にある「Dance House黄金4422」の代表・プロデューサーをしていました。(2024年3月31日をもって閉鎖)ここは元縫製工場跡地の5階建てビルをリノベーションして作った、コンテンポラリーダンスに特化したプラットフォームで、劇場やスタジオなどを兼ね備えています。

また帰国以前から15年ほど、芸術監督として街づくりの仕事も続けています。名古屋には中川運河という昭和中期ごろまで東洋で一番大きいと言われた、横幅100m、縦幅10kmほどある物流の大運河があります。その運河は使われなくなり、今は負の遺産として残っているんです。そういった場所の新しい活用方法を模索する都市開発や、名古屋市と共に新しいアートスペースを作る活動も行っています。

主宰を務める「月灯りの移動劇場」は、2015年に日本で創設しました。名前の通り劇場で公演をやるだけではなく、屋内外のパブリックスペースなどで公演を行う移動型の劇場です。僕自身が美術家でもあるので舞台美術もデザインし、作っています。例えば、初期にはハイエースに詰め込めるような大きなおもちゃ箱を作り、マトリョーシカのように展開していく装置を作りました。

他にも移動劇場をちょっと作ってみようと地域の町工場の方と一緒に設計、制作をしたり、トレーラーハウスのようなトラックに乗せて移動できる劇場ってどのようなものだろうと荷台に乗せられるサイズの劇場を設計したりもしています。

近年は、コロナ禍のソーシャルディスタンスの規制を逆手に取った作品ができないかと考え「Peeping Garden」という作品を作りました。360度の円形劇場の間に仕切りがあり、観覧者は穴から舞台を覗くことができます。これは、マルセル・デュシャンの《1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ》にインスパイアされた作品ではありますが、実は本当のアイデアのスタートはラーメン屋「一蘭」の味集中カウンター。ラーメンに集中できるように、席が一人用の専用席になっているんです。そこでラーメンを食べた時にこれはすごいソーシャルディスタンスだなと思いまして。この形とマルセル・デュシャンの作風を掛け合わせ、さらに芸術や芸能の神事や政を「覗き見る」という起源などを起点にし文脈を掘り下げ、この円形劇場を作り公演するに至りました。これは劇場や屋内、漁港、体育館などどのような場所でも、すべて同じスペックの公演が上映できるように作り上げています。このように僕は振付家として、劇場空間にはこだわらず様々なところで舞台芸術を展開できるようなパフォーマンス作品を作る活動をしています。

小田:ありがとうございます。石神夏希さん、自己紹介をお願いします。

石神夏希(以下、石神):石神夏希と申します。劇作家 / Theatre makerという肩書きで活動しています。都市やコミュニティのオルタナティブな振る舞いを上演する演劇やアートプロジェクトを手がけています。また劇作家として都市のリサーチやまちづくりといった活動に携わってきました。劇作家とは一般的に劇のシナリオを書くことが役割ですが、私は演出も含めて行い、劇場内外で劇場的な時間や空間を作っています。その場所は公共空間や生活空間、例えばそれは街なかや田園風景の場合もあるし、人の家や職場などのこともあります。今回の作品は、もう一つの現実のなかにあるもの、もう一つの姿を立ち上がらせようとしています。その点が普段自分自身がオルタナティブな振る舞いを作品にしていることとリンクし、このプロジェクトに関わりたいと思いました。
これまでの作品で多かったものは、そこで暮らしてる人自身が、あるいは作品の観客自身が、パフォーマーとして作品に参加をするもの。一方的に作品を見るのではなく、自分で移動したり演者を探したり演奏に参加したりして、即興的なパフォーマンスをともに作り上げていくのです。

例えば2017年に京都府の舞鶴市を舞台にした作品《青に会う》では、青という名前の架空の女性が、架空のM市、つまり舞鶴市に滞在する14日間を演劇として上演しました。それを演劇だと知らない人は演劇だったとに気がつかないような、街のなかにさりげなく存在する演劇です。

具体的には、彼女がM市のどこでどんなふうに過ごしているのかが書かれたシナリオが、前日までにインターネットに公開されます。その時間にその場所に行くことで、実際に演劇として彼女の生活が上演されているのを見ることができるのです。また特設サイト上には戯曲やその日に上演された記録写真、彼女の日記が発信されたり、地元の新聞に彼女の手記が掲載されたり、地元のコミュニティラジオでは毎日夕方に「青からの手紙」が放送され、出演いただいた地元の方と過ごした時間のことやその人へのメッセージ、リクエスト曲が流れていたりなど、メディアを通じても日常にフィクションが染み出していくような仕掛けを作りました。

最終日の日没15分前、ラジオの電波塔を兼ねた展望台に集まった観客は、ラジオから流れる青の手紙を聴きながら、彼女に出会い、そのパフォーマンスを見ています。日没とともに彼女はいなくなってしまいますが、近畿百景に選ばれている展望台から見える美しい舞鶴の海と空の「青」に出会うことができるという作品です。この《青に会う》は、昨年タイの作家さんに戯曲を書いてもらい、タイを舞台にしたかたちで上演もされました。

もう1つご紹介するのが、2019年に東京都豊島区で行った『Oeshiki Projectツアーパフォーマンス《BEAT》』です。池袋の南にある雑司ヶ谷には御会式(おえしき)という伝統行事があり、それは本来は仏教の説法や供養のための法会(ほうえ)。その当日に日程を合わせて行ったプロジェクトです。御会式をやっている雑司ヶ谷から見て駅の反対側のエリアで、東京に住むトランスナショナルな背景をもつ市民パフォーマー、当日に来場した観客と、もうひとつの「Oeshiki」を即興的に立ち上げ、太鼓を打ち鳴らしながらパレードをし、最後に伝統の御会式に合流。その全体を演劇として上演するという社会実験に近い作品でした。

この作品は、トランスナショナルな50人のパフォーマーの方々に、彼らのお祭りの記憶や日本での体験を聞き取りながら、一緒に作っていきました。彼らは池袋の街の周辺に散らばり、観客とは、街中で待ち合わせをし、一緒に太鼓を叩きながら街のなかを移動。次の場所に集合していく途中で、まちのなかに徐々に太鼓の音が増えていきます。5ヶ所の会場に集まると、各会場で太鼓のセッションが行われます。そこから更に広場に移動し、最終的には5グループのメンバー全員が集合して太鼓のビートをひとつに合わせ、パレードとなる。シナリオはありますし準備はしますが、本番通りにリハーサルをすることは不可能なので、ほとんど即興です。

このように色々な人とせーのと力を合わせ、ぶっつけ本番で作品を立ち上げるようなことを色々とやってきたなということも、今回の雨宮さんの作品に参加をし改めて思っています。

小田:ありがとうございます。そして本展作家の雨宮さんです。

雨宮庸介(以下、雨宮):雨宮です。僕は話が長いので、自己紹介は省略しますね(笑)。

ゼロ地点からはじまった3者の対話。散文的な言葉の広がりに潜む世界観を紐解いていく

小田:今回のVR作品には、浅井さん、石神さんのほか、VR撮影編集の飯田将茂さん、ダンサーの皆川まゆむさん、コントラバスの千葉広樹さん、振付アドバイザーの木田真理子さん、編集に吉田山さん、ブレインストーミングに鹿野震一郎さん、VR映像英語翻訳に桐山明日香さん、そして担当学芸員として小坂井玲さんなど本当に色々な方が関わってくださっています。本トークにお呼びした浅井さん、石神さんは、特に雨宮さんと密に関わり制作をしてくださった方々です。まず僕は最初に石神さんにお声掛けをしましたね。石神さんと雨宮さんが話しているうちに、浅井さんに声がかかって。浅井さんはどなたもお知り合いではない中での参画でしたよね。

浅井:そうですね。みなさん、はじめましてでした。

雨宮:この企画は僕自身もほとんどのメンバーと面識がありませんでした。企画以前から知り合いだったメンバーは、クレジットに入っている人だとブレストで参加してくれた鹿野震一郎くんと、前の個展のときに少しだけ関わりのあった吉田山さん。小田さんとも過去に一度お会いしたことがあっただけです。

小田:確かにそうでした。

雨宮:誰も知らないということもあり、この作品制作は「新しいもの」感がありましたね。新しい作品作りにもかかわらず、今回の作品制作は本当に時間がなかった。僕が制作するとどんな企画もいつも時間がなくなるんですが、今回は僕の問題だけではなく、プロジェクト自体の始まりが遅かった。約3ヶ月前に展覧会の実施が決まり、それから下見をして、という感じで。

小田:本格的に動き始めたのが昨年の11月末くらいですよね。

雨宮:はい。僕は普段ダンサーさんとはお仕事をすることがほとんどないのですが、今回はカンでダンサーさんに参加してもらった方がいいなと思って。石神さんに、詳細が決まっていない状態でもクリエイションに参加してもらえる方をご存知ですかと聞いたら、すぐに5人くらいのダンサーさんをリストアップしてくれて。そのうちの一人のダンサーさんの資料に入っていたパリコレの映像が先ほど浅井さんがおっしゃられていたものです。それをみてすぐに「この作品を作った方を呼んでください」と、提示された5人とは別の方を指名することになってしまったわけです。
浅井さんとはタイミングよくその日の夜にオンラインミーティングすることができて。さらにその次の日に、たまたま浅井さんが山梨に来られるということで、指名をさせていただいたその2日後に現場でのミーティングが叶ったんですよね。

小田:浅井さんは意外な方向からご依頼が来たように思われたかもしれませんが、最初お話しがあった時にどう思いましたか?

浅井:最初にお話聞いたときは、もちろんとても興味をもちました。ただ初めてのオンラインミーティングの時、とにかく雨宮さんの話が長くて、打ち合わせが2~3時間ととっても長かった(笑)。普段は僕も石神さんも自分自身がアーティストとして表現していますが、今回のような場合はサポーターとしてメインのアーティストが作りたいものに向かってどうサポートし、そこに導いていけるのかを考えています。雨宮さんの話は散文的に広がっていくので、雨宮さんという人間とその頭のなかを理解するために、初日は困惑もあり(笑)。ですが、そのなかから雨宮さんという一人のアーティストがどんなものをこの作品の中で表現したいのかをとにかく読み解き、僕は踊りや振付をする人間として、どういった役割が担えるのかと熟考していました。

雨宮:困惑させるつもりではなかったんですが(笑)。まず僕は自分の特性はこうだと伝えなきゃいけないですよね。とにかく時間がないのでゆっくりとプレゼン資料を作るわけにもいかない。なので、まず最初に対面で会ってすぐに浅井さん一人を観客としてパフォーマンスをしました。会場となったソファのところで周りにいる人には気づかれないように(笑)。
パリコレの映像を見て、浅井さんにお願いしたいと思ったのには、実ははっきりとした理由があるんです。まず、コンテンポラリーダンスと現代(コンテンポラリー)アートは、よくないところが似ていると思っていて。それは表現者側が自分勝手に自己表現しているかのように、お客さんを置いてきぼりにしている状況をつくりがち、という点です。お客さんに理由や動機を開示せずに勝手に作っちゃう、勝手に踊っちゃう。本当はそうではなくてもそのように見えてしまう。そういう作品は嫌だなと思ったわけです。今回の企画に関しては、美術館でVRを鑑賞するお客さんと僕らをつなぐものは間違いなくお客さんが座っている「ソファ」です。その「ソファ」という事実の重要さを理解し、「ソファに座っている」という事実から自由になりきってしまわない・・こと、その上で踊りを考えられることがとにかく大事です。例えばソファを踊らせる、ソファと踊る、ソファの踊りをするなど、作り手が勝手に踊るのではないことを理解できる人じゃないといけない。そう考えているなかで拝見したのが浅井さんのパリコレの演出。それは服のコレクションのショーなので、服の機能と美しさを見せなければならない。つまり服という事実の重要さを理解しなければならない。服を置いてきぼりにして勝手に踊ったらいけないわけです。浅井さんの演出は服の紹介をしっかりした上で、さらに最終的には、服が人を踊らせているとか、服が踊るとか、踊る服は人のよう、着替えることもまたダンスである、などとより高次のことを達成していた。その映像を見て浅井さんだったらきっとソファにちゃんと「縛られてくれる」と思い、内容が固まっていない状態でご相談をし、お引き受けいただけたわけです。

小田:僕もその一連の流れを傍から見ていてとても印象的でした。その後もお三方のあいだでどんどん言葉を交わし、練度を上げてすごい勢いで決まっていくんです。コミュニケーションツールには主にDiscordを使い、テキスト主体でコミュニケーションが交わされていました。みなさん住んでいる場所がバラバラなので、ミーティングも主にオンラインで。相互理解を深めるために、どのようなことを考えながらお話されていましたか?

浅井:僕はとてもシンプルです。初日の打ち合わせが散文的に広がっていったというお話もそうですが、どの言葉に雨宮さんが目指している世界があるのか、作りたい、立ち上げたいものがあるのかを一生懸命探すこと。雨宮さんのなかにこんな風に作りたいという今のゴールはないけれど、作るために必要な柱のようなものが言葉のなかにはあります。まずはそれを見つけ、見つけたものに対して、仮説を立て、できる限りクオリティの高い提案をする、の繰り返しです。
また、今回僕が最初に取り組んだのは、360度カメラのインターフェースを徹底的に理解することです。実際に機材を購入し、自分のスタジオに設置して、どれぐらいの距離にいたらどう見えるのか、どの角度まで人を認識できるかなど、インターフェースをまず自身の動作や身体の感覚で徹底的に理解するようにしました。そうすることで劇場でできることとVRの世界でできること、できないことがわかっていきます。それらを随時共有しながら進めていきましたね。

小田:石神さんはいかがでしょう。

石神:制作期間そのものは確かにぎゅっと詰まっていましたが、早々にやりたいイメージを掴むことができたのは大きかったように思いますね。スタートしてすぐに現地でお会いできましたし、その時すでにテスト映像を撮っていて、そこでVRのHMDをつけて映像を見せてもらうこともできたので。
私自身は劇作家なので言葉で考えるタイプなんですが、その一方で言葉は信用ならないなとも思っています。その人が考えていることを、言葉ではすべてを正しく説明しきれないという前提があるんです。雨宮さんは言葉もとても面白いんですが、言葉だけでなく伝えているときの身体の動きや伝える流れも雄弁だなと。話の横道の逸れ方やたくさん上げてくださったスケッチなども含めて、言葉以外から伝わってくるなにか、伝えようとしているなにかはとても強いものだと思うんです。そういった雨宮さんから放出されてくる色々なものをまずは吸収する。それらを吸収してるうちに、徐々に雨宮さんの世界観や世界への対峙の仕方が見えてきました。こちらからすぐに的確な返しをできずに申し訳ないと思うこともありましたが、その大きな態度を掴むまではじっと観察していましたね。それが掴めた後は、もうそれを信じて進めばいいだけでしたから。あと細部は現場合わせでしょと。

雨宮:振り返ってみると、一体どうやって作ったんだろうと本当に不思議に思いますよ。今はもう終わったのでみんな昔からの戦友のように思っていますが、やってる間は、会ったこともない、仕事もしたこともない、ゆっくりお互いを掘り下げていく時間もなかった。それでも完成したのはおそらく仕事を進めるにあたって、踏んでいかなければいけないところは共に押さえられていたんだと思うんです。

HMDのなかでは何が起こっているのか。バックヤードがない360度の世界で

雨宮:僕はもともと絵画出身ですが、パフォーマンスもやっています。それはパフォーマンスをやろうと思って始めたわけではなく、空間とそれが鏡写しになった映像によるビデオインスタレーションを作っていた時期に、本来であれば空間と映像の間のベンチにお客さんが座って鑑賞するのですが、そのベンチに自分自身が登場したらどうなるんだろうという興味がとめられなくなり、ある展覧会でお客さんの隣に自分自身が登場したのが始まりなんです。なので僕がやっていることは、パフォーマンスというよりは、まずは自分の存在を素材として認定し、そしてその素材をインストール(設置)することなんです。今回のインストール先はVRのヘッドマウントディスプレイ(HMD)。現実ととても似ているようで、この世界とはアルゴリズムが異なります。まずは自分をHMDにインストールをするためにはHMDのなかの世界の成り立ちや構造を知る必要があったわけです。浅井さんと僕は制作のフィロソフィやイメージの伝え方に違うところももちろんありますが、HMD内部という「場」から真面目に考えていこうとするアプローチがとても似ていました。
石神さんは、先ほどの自己紹介にもありましたが、劇作家として、劇場をどう作るのか、そもそも劇をどう囲い込むのか、要するに劇場という場を毎度捉え直しながら作品を作っています。それは、インストールと限りなく近い話だと僕は思うんです。石神さんとはこのプロジェクトの初期に、高山明さんをひきあいに、ベルトルト・ブレヒトの演劇論や演劇の現概念のテアターとは、劇を演じるという「演劇」よりも、じつは「芝居」というお客さんの状況を語ったもののほうが近い(昔は劇を芝の上に座って鑑賞していた)などの話をしていました。つまりお客さんが居る場所のこと=インストール先に最初から着目していたのです。
3者ともHMDについては素人同然だったので、まずはこのHMDのなかでは何が起こっているのか、そのなかに何をどうやってインストールすればいいのかを考えていました。

小田:浅井さんも石神さんも、何がどう見えるかという点に着目していたということですよね。例えば僕たちは今この段差のある箱の上に4人並んで座っていることで、ここが舞台で登壇者であると認識されています。しかしVR作品は、HMDで作品鑑賞をするためあらゆる角度を見ることができ、舞台がどこなのかを特定しにくくなる。目線の先で繰り広げられていることを見ずに、真逆を見ることもできるわけです。なので、観客からは何が見えていて、どこを舞台にしていくのか、そのすり合わせが重要になります。それが3者間では最初から共有できたということでしょうか。

雨宮:正直HMDのどこがどうなったら作品になりうるかは、今だから結構わかりますが、どの時点で自分自身が理解できたのかはわからないですね…(笑)。
また今回の作品で特徴的かつ苦戦したのは、バックヤードがないことです。普通のステージの場合は出演者や裏方が控える袖が上手と下手にあるし、映像作品の場合も映像撮影者の裏側にバックヤードがあります。しかしVR作品は360度映るのでバックヤードがないんです。そのなかでの一発録りは、本当にパフォーマンス作品以上の緊張感がありました。さらに尺に限りもあるので時間を伸ばせない。アイコンタクトしてやり直すなども不可能なわけです。なかなか寿命が縮まる取り組みでした(笑)。

小田:たしかにこの作品自体は本当に一発撮りで、映像の編集や校正はほとんどしていませんよね。字幕だけは後でつけましたが、それ以外は何も調整していないんです。なので、非常にハイテクなもので見ているのに対し、実際は何かが滞ったり間違えたりしても修正できない状態の中でのシビアな撮影でしたね。

雨宮:そうなんですよね。HMDの構造としてもう一点、画角については苦労したことがありました。言葉で説明しにくいことなのですが、HMDを装着して目が捉える映像は、実際の人間の目の画角に近いように設定してあります。一方で、画角外は人間の感覚とはずいぶん違いがあります。なので、とても注意してやったことは、この360度見ることができる回転体のなかで、現在の正面ステージはこちらですと示しつづけること。だいたいこっちを見ていればこの物語からは脱落しないですよと。例えば、今僕は正面にいる浅井さんと石神さんの方向に目線を向けて話しています。僕の真横にいる小田さんも同じように、浅井さんと石神さんの方向を見ています。そのときに、僕は真横にいる小田さんの方向には、小田さんが変な音を出さない限り目線を向けません。当たり前のことですが、私たちは「こっち」を見ていますというその場その場での共通認識が、人間の会話を成り立たせるにはとても大事なんです。でも、VRの世界では、横にいる人の存在がいきなりすっと消えてしまうことがあります。いなくなってはいないので、頭を動かせば確認できるんですが、それはそれで話すべきトピックへの集中力が下がり、物語が破綻してしまう。今回の作品においては、この物語が自分の現実と置きかわることが期待されていたために、物語の文脈の伝導率を確保することはとても重要なことでした。舞台監督のような役割として回転ステージング+伝導率について議論できる人がいたらよかったなと、2回目の撮影をしたときに思いましたね。

美術館開館前の50分間、35分間の映像の一発撮り。本番を3回実施することで重ねたトライアンドエラー

小田:まさに今美術館のVR作品の鑑賞スペースに置いてあるソファを中心として映像が繰り広げられていくわけですが、その中盤で、約10人の老若男女が出てきてワーッと個々の話を重ね合わせていく場面があります。あの方々は一般募集をしたワークショップに参加をしてくれた方々ですよね。

雨宮:あのシーンはとても重要なシーンで、作品の中核に据えると決めていたんです。
その上でこの作品がどう撮影されたのかをお話すると、そもそもこの撮影は美術館開館前の50分間で、35分間の映像を一発撮りするという強行スケジュールで行われました。それは作品中に一斉に出てきた一般参加者の予定を優先したため土日にしかできなかったためです。本来ならゆっくり撮影できるので休館日にやったほうがいいんです。でも実際に観客がこのVR作品を視聴するソファのエリアは、展覧会会場ではなく一般開放されている場所なので、会期中もエントランスの音や行き交う人の声を遮れない。つまりそれらの雑音がある上で映像が成り立つ必要があるんです。映像の内と外が同じようなうるささでないと音が馴染まず、視聴時に現実からきこえる映像外の音がただの邪魔な騒音になってしまいますから。
50分間しかない撮影時間で一般参加者を統制してくれていたのは石神さんと鹿野さんです。もちろん僕も浅井さんもダンサーの皆川さんもコントラバスの千葉さんも一発撮りですし、一般参加のみなさんも同じく一発撮りなんですが、一般参加のみなさんは実は役割が3役もあったんです。灯籠の後ろに隠れ、ソファに座りワーッと喋り、最後には美術館の外にある庭からライトを点灯させる。全部を一発撮影でできているので本当にすばらしいですよ。

小田:少し補足をすると、作品を鑑賞する場所は、公立美術館の特性上、美術館の開館中に、テレビ撮影のように人の流れを止めたり、出入りのコントロールをすることはできないというルールがあります。VR作品をホールで鑑賞していると、隣や後ろで関係のない人が何かを喋っていることがありますが、これはもう公立美術館なので仕方がない。撮影に関しても同様で、人払いをしたり立入禁止にしたうえで撮影ができない状況でしたので、開館前もしくは閉館後の50分間で撮影をしなければならないが、撮影場所は一面が大きな窓で採光も豊かなので、夜に撮ると映像のシーンも夜になってしまう。日光が出ているうちに撮影をするためには、休館日もしくは開館前に撮影しなければいけない。そういった様々な条件がある中で、それらをどうクリアしていくのかを考えて。実際は開館前の50分間一発撮りというかたちになったんですよね。参加された市民の方に対して、どのようにコミュニケーションを取ったんですか?

石神:撮影当日は撮影開始の30分前集合だったので、皆さん朝早くから大変だったと思います。台本をお渡しし、30分間で説明。3つの出演パートの簡単な練習と立ち位置の確認を急ぎで進めて、さあ本番ですと。なかなかチャレンジングな状況でしたが、出演された皆さんの適応力、柔軟性がすばらしかったです。集合時間が早いとか、あと30分でこんなにやるんですかみたいな文句も一切なく、みなさん目をキラキラさせて状況を汲みながらやってくださり。終わったあとには楽しかったと言ってくださって。本当にありがとうございますと手を合わせたくなりましたね。
撮影日以前に1時間半のワークショップをしました。撮影につながるようなプログラムを雨宮さんが設計し、それをみなさんとやってみる時間だったんです。そのなかで逆に言うと私たちもこういうものが作りたいんだなということが改めてわかりましたし、ワークショップでなにかを掴んだ人は撮影まで参加してくれていましたね。私は1時間半のワークショップをカメラで見たんですが、ワークショップを面白がってくださった方が、撮影にも割と参加してくださっていて。しかも、その方々が多分この人も興味があると思うとお友達にお声掛けしてくださり、撮影に参加をしてくださった。今回ワークショップと撮影の時間をあけて進めることになりました。それは結果的に、私たち制作チームにとっても色々な実験から得られるもののある時間になりましたし、まさにこの人が出演してくれてよかったと思う人に出会うプロセスを踏むことにもなり、とてもよかったと思いますね。

小田:トライアンドエラーができる時間になったということですね。最初はみなさんで椅子を運ぶみたいなことをやっていましたが、意外に椅子がものすごく重くて、それで参加を続けることが難しかった方もいました。今回浅井さんは、椅子とパフォーマンスがどうつながるのかを、どのように考えていったのでしょうか?

浅井:そうですね。僕は荒川修作+マドリン・ギンズや、アフォーダンス、空間や環境などの要素と身体の関わりのようなことを今回、振付アドバイザーをお願いした木田真理子さんと普段からリサーチしていて、最初に雨宮さんと話しているときに、そういったことは共通言語になりました。先ほど雨宮さんが話していたように、ものと踊る、ものが踊る、ものとどういう関わり方をするのか、といったキーワードは、最初からいただいていたので、初期の段階からこれらの言葉をベースに共有や提案をしていましたね。「ものと踊る」がキーワードなので、この動きはどうでしょうかとサンプルの動きを数十個作って共有するなど。
それらに加え、石神さんからのアドバイスもあったんですが、実際に舞台にいると、物と身体の関わり合いとして踊っていても、お客さんの目には、どうしても物より身体の解像度が高く映ってしまいます。身体の方が前のレイヤーに出てきてしまうような状況。それは身体のエネルギーの出し入れの問題だけではなく、物体とのアプローチの仕方など些細な動作や感覚で表出してしまうわけです。時にはそれがあざとくみえてしまうことも。そしてそれらは生の舞台より映像のほうがより顕著に見えてしまうんですね。そういった点は本当に最後に大きく修正し、かなり細かく調整をしましたね。撮影は結局何回したんでしたっけ?

石神:3回撮影しましたね。

雨宮:コントラバスがないバージョン、一般の人がいないバージョン、全員いる、が一番最後。

浅井:本番1回のはずが、本番3回やってるんですよ。その中で微妙なマイナーチェンジをしていき、雨宮さんもその中で整理をしたりして。

雨宮:二月の山梨なので、めちゃくちゃ雪が降っていて集まれないとかが普通にありえたので、本番を1日に絞ることができなかったのも本番が3日あった理由でもあります。実際に雪が積もって画質がめちゃくちゃ明るい日があったり、いろいろありましたよね。

浅井:でも3回トライできたおかげで、雨宮さんが目指してるところはきっとこれで、僕はこう思っていて、石神さんもこういうアプローチをするなど、それぞれの翻訳を試していきましたね。例えば、ダンサーの身体はこういうふうにあるべきじゃないか、この空間においてはこういう置き方をした方がいいんじゃないかなど。色々なことを最後までディスカッションして立ち上げていったという感じでしたね。

石神:1~2回目の撮影と3回目の撮影のあいだに、1週間ぐらいの間があったんですが、その期間は重要だった気がしています。HMDで見た時にどんなことが起きるのか、体験として本当にどういうものなのか、私もそのときにようやくわかりました。なにが成立するラインで、雨宮さんの大事にしていることはどこで担保されるのだろうかと。それを具体的にどうしたらいいかの解は出ていないけれど、みなさんに疑問提起をして。雨宮さんは最後にそれをがっと完成まで持っていきましたね。

土台があるからこその即興性。作家としての態度や社会的な動向より、関わってくれている人たちと作品を良いものにできるかどうか

雨宮:今はいい話のようになってますが大変でしたよね(笑)。このメンバーみんなに共通してるのは、関わってくれている人たちと作品をとにかく良いものにするという、ある種の真面目さみたいなものだったと思うんです。そこに関しては、いい意味でみんな本当にしつこい。ダンサーでリサーチをする人はいますが、浅井さんは本当にしつこくて、絶対に知りたいことを知るんだという熱意が強烈でした。そういった意味で全員を本当に信用に足る人物だなと思っていましたし、その一方でもちろん僕はその熱意を下回るわけにはいかないのでとても緊張感がありました。
石神さんがおっしゃった通り、だんだんVRへの理解が深まり解像度が上がってくるんですよね。ようやく具体的な作品の話ができるようになったのは直前なんです。で、前日に石神さんから疑問が上がってきて。なにか納得がいっていない感じをオブラートに包んで伝えてくれていたのですが、それをゆっくり聞いている時間もない。「えっと、ようするにどういうことかを、一番口汚い言い方で言ってください」と伝えたら、ちゃんと汚く言ってくれて(笑)。それを聞いてゼロから考え直さなきゃならないと思ったんです。ゼロから考え直してもいいんです。作品として目に見える部分を取り除いても、ここまで理解したことや手に入れたことがなくなるわけじゃない。上澄み部分をゼロに戻してもできるのはわかっている。でも、ただただ時間がないなと……。ですので、その日にいくつかのバージョンを作りました。積み上がっていたものを10として、台本を完全に捨てる10変えるバージョン、5変えるバージョン、1変えるバージョンなど、大体6種類ぐらいの台本を書きました。結局、その夜のやりとりのなかで石神さんが「他の材料も鑑みて、そこまで変えなくてもいいのかもしれない」という書き込みがあったりもして、7くらい残したプランが現行のものなんです。それでも前日なので、結構激しい変更だったと思います(笑)。
贅沢を言えば、最後の最後、浅井さんたちともう少しコミュニケーションをしたかったなと思いますね。変更した部分は作品の成立のためにはすごく大事な部分だったのでそちらを優先したのは仕方なかったのですが時間はやはり有限でもあって。僕は振付はわからない領域ですけど、最後の時点で僕の書いたテキストや振付は、ある種の公共性がある状態になってるので、たぶん素人の僕からプロフェッショナルな浅井さんと皆川さんにダンスについてもっとコメントをすることができたはずなんです。

浅井:最後の振付は僕らもかなりインプロ、つまり即興でしたね。雨宮さんご自身も本番に強いんでとおっしゃってましたよね(笑)。

雨宮:いえいえ「本番だけ周りがよく見える」って言ったんです。それは多分本番以外はディレクションなどの他の役目が多すぎて飽和しているけど本番は役割が減るので余裕があるっていう意味で。もしくは本番以外はなにもみえていないという意味でね(笑)。

浅井:ということは、ある種自分がそこに立っているけれど、周りで事故が起きようが何が起きようか瞬時に対応できるということなんです。自分自身も即興的に変化していける状態が備わっている。これはプロフェッショナルな人間だけが持っている特性だと思っているんです。
一般の方々には一般の方々の表現手法というものがあり、その人たちだからできるすごいエネルギーや力があります。でも僕らは常に9割ぐらい冷静なので、何か事故が起きてしまっても瞬時に対応できる。例えば最後にソファを前に出す動作があるんですが、実は僕が前に出す予定だったソファに、一般の方が座られていたんです。実はソファがかなり重かったので、動かす予定のソファには事前に滑りやすくなるフェルトをつけていて。これはまずいと思いながらも、平然とエスコートして自然に移動していただくってことが僕らはすぐできるような状態になっている。
本番では今日は雨宮さんこういう感じで来るんだとか、コントラバスの千葉さんはこういうイントロで演奏してくるんだとか、一般の方のエネルギーってこういうベクトルで上がっていくんだっていうのを全部感じながら冷静に聞いている。その上で今日はこういう風にしようと。インプロですが、ダンサー同士では事前にコミュニケーションを取っているんです。踊りながらそれを気配や目線で汲み取りやっていただけたので、そういったある種のハーモニーが即興的に向かいました。それも前日の石神さんの指摘があったから。僕らも、なんだよこんなギリギリにみたいには思わなかったんです。最後まで意見を言い続けるっていうのは結構大事だなと思っています。

雨宮:石神さんの指摘は、積み上がっている9つのソファの表裏を回転させてスクリーンにするシーンについてです。前日まではダンサー2人にやってもらうシナリオになっていたんです。でもそのシーンに対して石神さんが「しもべっぽい」と言い出して。最初は、あのシーンはちょっとどうかなとオブラートに包んで伝えてくれていて。でも「口汚くストレートに言ってください」と伝えたら、しもべっぽいと(笑)。

浅井:そこだけ言うとね……(笑)

雨宮:その意見は全体を通してとても大事なものでした。この作品全体に通底していることは、たまたま違う属性の人たちが同じ場所で独立して勝手にやっていることが、重なり合わせてみると一つの出し物のように見える、というのが是である設定なんです。みんなで手を取り合って一緒のことやろうとしているのではなく、たまたま重なったタイムラインとして1つのものに見えていると。という前提でいくと、誰かが誰かのしもべっぽく見えると伝えたいことが真逆になってしまう。もちろんしもべとして配置したはずもなく、ソファが思ったより思いなどの条件から割り出した、現場での動きのやりくり的にそうなっていたのです。僕がソファを動かそうとすると息が切れたり危険もあったりで、段取り的に無理があったため、積み上がったソファを回転させる役割をダンサーさんにお渡ししていたんです。でも最後の最後にそこは違うんじゃないかと意見してくれた。

小田:それもDiscord上でやりとりしているわけですよね。

石神:その場では説明がうまくできず、違和感があるという態度になってしまって。それで後ほどちゃんと整理をして言葉で書いてお送りしました。しもべっぽいことが嫌だったわけではないんです。ずっと雨宮さんがいろんな断片を重ね合わせて放出してくれた世界観を、我々は信じてやってきました。逆に言うとそれがあるからきっと大丈夫と思い、進んできているんです。それが果たしてこの作品のなかでできているのかを考えたときに、大事な何かがずれているような気がすると思ったんです。どうしたら雨宮さんが言ってきたことが実現できるんだろうと。解決法はすみません、浅井さんお願いしますという感じでまずはしもべっぽく見えると感じたことをお伝えしたんです。つまり、誰かがコントロールして都合よく物事が起こっているように見えてしまって。これは反対の意味に伝わってしまう可能性があるなと思いました。さっき雨宮さんがおっしゃったように、ワークショップの参加者やそのほか自身の存在も含めて、いろんなことが思い通りじゃない。そういう世界の中にある一つの結節点というか、重なり合う瞬間がところどころ浮かびあがり奇跡を感じる、みたいな状態が表現されているべきなのではないかなと。

小田:Discord上で行われているそのやり取りを見てみると、とても言葉を尽くし、意見を交わされているわけです。3人ともちゃんと言うべきことは言い合いつつ、その上で雨宮さんがどう動くかというと、まず雨宮さんはすべてを一回受け取るんです。その上でがっと作品に仕上げていく。各々がどう考えていくのか、考え方はそこまでコントロールをしないというか。

雨宮:そういう意味ではあと何日あったらどう変わったのかみたいなことを考えますよ。逆に言えばそのようなスタンスでのぞむとゲームはいくらでもできるわけなので。

石神:そうですよね。

雨宮:一応今回の作品だと名前が出ているのが僕なので、世間的には作品の主体は僕になりますよね。でも僕みたいな特性の人間に「投げ込み」「濾過されたもの」が作品、って感じの作り方だったと思いますので、従来の用法においての作者とそれ以外という腑分けは今回に当てはまらないような気がしています。ちなみに全然話は変わりますが、Discordにもなんかまずいこととか誰かの悪口とか書いていないですよね? Discordを公開したくなりますよね、本当に大事なやりとりが記録させているので。

小田:DMも含めて悪口はないと思います。僕が把握している限りは、僕の悪口もありませんでした(笑)。

雨宮:悪口書く暇もなかったですね。

浅井:本当にすごいなと思ったのは、雨宮さんの姿勢です。舞台を作るときに、もし僕が芸術家で自分のクリエイティブチームから今回の石神さんの指摘のようなものを前日にされたら、クオリティを担保するために難しいという選択をしてしまうことが結構多いなと思っていて。それはテクニカル的に無理だからとか、時間的に無理だとか、それをやることでテキストがこう変わり、それによってクオリティが下がってしまうから、などと言って。けれど雨宮さんはとりあえず全部受け止める。でボロボロになりながら当日までとにかく絞り出そうとする。それには尊敬に値する、作家としてのポテンシャルを感じたというか、すごいなと思っていました。なのでとにかく僕らもクリエイターとして、できうる限りの言葉を尽くし対応する、言うだけのことは言うと思っていましたね。

雨宮:それはきっと、僕はやっぱり舞台を作る人間ではないので、基本は完全に1人で仕事をするんですよ。だから人と絡むと決めた時点で、基本的には他人の「こっちのほうが良いのでは?」を聞きにいっているんですね。聞きたくないんだったら人と関わらない方がいいので。なので例えばお願いをした人から自分が思っていることと違うことが出てきたら基本的には指摘さえしないことが多いです。そうそう、例えばこの展示会のタイトル「まだ溶けていないほうの山梨県美」は、僕がつけたタイトルじゃないんですよ。僕がつけたのは「まだ溶けてないほうの山梨県美」。「ない」と「いない」。僕がつけたほうには「い」が入っていない。途中で気がついたんですが、この部分は吉田山さんから返ってきた何かのときに「ない」が「いない」になってるって気が付きました。でもこれ、吉田山さんが意識的か無意識的かわかりませんが、こっちの方がいいと思ったからこうしたんだと思ったんです。

小田:そうですね。僕も「い」が入るかどうかは気になりました。このトークイベントのタイトルの、溶けていて、溶けていなかったなのかなど。

この世界への肯定や祝福を表す。偶然と必然と緻密さと奇跡と

小田:いろいろ盛り上がりましたが、終盤に差し掛かってきたので、おそらくここにいらっしゃっている方のなかにも、質問したい方がいるのではと。いかがでしょうか?

質問者A:作品にも少し出させてもらったんですが、今日初めて映像を見て、すごいよかったなという感想です。ヘッドフォンで音を聞き、HMDで映像を見ているとき、HMDで広がる世界には現実の世界の人はいませんが、ヘッドホンの外から現実の音が少し聞こえてくるんです。そのためバーチャルの中にはいないはずの人の音がリアルで聞こえてきて、リアルではいないのにバーチャルの中で動いている人たちという、2つが掛け合わされている世界が自分の中で拡張されていき、それが自分の中でも想像できていくのがとても面白かったです。
質問なんですが、この展覧会が終わった後も、この作品がどのような形で残っていったり、発展していくのかを聞いてみたいです。

雨宮:この展覧会自体は期日的には予定通りで終わりです。ただあのソファーでまた上演してもいいという美術館の許可がもらえれば、時折そういう会を作ってみてもいいですよね。この作品は山梨県立美術館のあの場所で体験するしか成立しないので。
また今回の作品を作ったことで、僕自身は考えている新しい展開があります。今回僕はとにかくバックヤードがない一発撮りが本当に大変で、それをもう1回やるのは辛いなと。でもそれを逆手にとって構成することができるんじゃないかというのが今思ってることです。普段バックヤードがないと成立しない人たちと、バックヤードがないなかで撮ることができたので。今考えてるのは、鏡張りの部屋で撮影するとか。映画だったらバックヤードが写っちゃうし、舞台だったら袖がないということです。でもなんか後ろのものが前に映ってるんだったら、今回の作品で言うと、正面性は取れるし、もともと全部意識しなきゃいけないんだから、なんかそれとかもいいなとか。このバックヤードのない撮影にずっといじめられてきたけど、反撃開始みたいな気がしています(笑)。

小田:今のお話は雨宮さんの作品としてどう展開していくのかというお話だったと思うんですけど、今回作品に参加してみて、浅井さんと石神さんもわかったことや感じられたことはありますか。

浅井:僕はこのクリエイション自体が、自身の創作の幅をまた別のところに拡張するんじゃないかなと思っています。これまでも色々な場所で、例えば野外などでも公演をしてきましたが、案外正統派な舞台の作り方をしています。劇場で展開できるようにしたり、舞踊史の歴史的文脈をちゃんと理解した上で作ったり。もちろんもっとお利口なスタイルのダンサーの方はたくさんいるので、僕自身はちょっと異質には見られていますが、それでも意外としっかりとアカデミックな文脈を反映した作品を作ることが多いんです。普段から現代美術家や演劇界の方といろんな場面で関わることは多いですが、今回はその中でも特殊なお2人と関わらせていただきました。石神さんも演劇界ではかなり特殊なスタンス、立ち位置だと思いますし、雨宮さんは現代美術の文脈のなかでも言葉の使い方などやはり特殊です。僕はこの2人の活動に結構影響されたと思いますね。実は次に作る8月の作品は、雨宮さんの演出手法、言葉の取り扱い方などを参考にさせていただきたいなと思っています。

石神:ほぼ同じです(笑)。今回の作品のプロセスを通して、自分がこれまでやってきたことを見直す機会にもなりましたし、雨宮さんとはやっぱりある意味で少し近いところもあって。最初におっしゃっていたバーチャルとリアリティのお話もそうです。この現実をずらすことによって、この現実にもう一度気がつく。私たちが生きてるのは、あらゆることに気がつき続けると頭が狂ってしまうくらいにすごい世界なんです。この世界そのものがよく見えてくるというのは恐ろしいこと。だから全部に名前を付けて、分類して、整理して、考えなくていいようにしながら生きないと、危ない世界なんです。でもその世界が少し開く瞬間を作ることで「ここ」にいるよねと確認したくて仕方ないという欲望が、心のどこかにあるんじゃないかなと。そういう意味でこの作品や雨宮さんの考えにとても共感する部分と、先ほどの鏡のアイデアなどもそうですが、こういう表現やアプローチがあるんだということも、とても気づきの多くあった時間でした。
少し横道に逸れますが……。この世の中にはちょっと不機嫌なものが多いなと思うんですよ。いわゆる批評と言われることが、不機嫌に物を言うとか、悪いところを指摘するとか、そういうことにすり替わっているような気がするし、そういう態度の人の方が頭が良く見える感じがある。間違っていると指摘することが批評だと思われている節があるように感じていますが、私は批評というのはもっと中立的であるべきだと思うんです。今回の雨宮さんの態度ってものすごく何かを肯定しているけれど、その肯定している態度や手つきそのものがすごく批評的だと思うんです。ステートメントにも「…最終的にこの世界への肯定や祝福にまでつなげることができるのではないか」と書いていましたよね。この世界に対しての祝福。私はそういうものがこの世界にもっとたくさん存在してほしい、目にしたいって思うんです。私自身も自分が演劇をやっている理由はこの世界に生まれてこなければよかったと思う人がいない世界であってほしいと思っているから。そういう作品を、雨宮さんが批評的な態度で、かつ結構ぶっとんだアイデアや形で表現されていること、こういうものがあるということに、とても勇気をもらいました。

小田:ありがとうございます。まだもうちょっと時間があるので他にいかがでしょう。

質問者B:壇上のみなさんへの質問ではないんですが、VR作品を視聴するときに僕は2番の席に座って見せてもらったんですが、(質問者Aの方に向かって)おそらく僕の真裏に座り出演をされていた方だと思うんですが、僕はずっと気づかなくって、皆さんが前に出てきた最後の段階で存在に気がついたんです。で、作品に出演した方が自分でその作品を見ているというのは、どういうことなんだろうかと、ちょっと彼に聞いてみたいなと思いまして。

質問者A:もう1人の自分がいるというのがすごく不思議でした。僕は自分が鑑賞した席の、その隣の席に座って演じたんです。今日は出演時と同じズボンを履いていて、靴は少し違うんですが、隙間から自分がいるのが認識できて。一方、現実の自分には気がついていないバーチャルの自分がいて、その関係がとても不思議だなと。タイムスリップをして、もう1人の自分がいるけれど出会ってはいないから、自分の人生には影響していないような不思議な感覚を覚えました。

雨宮:僕が一番この映像をHMDのなかで何度も見返していて、さらに自分が一番長く登場しているので、自分のことを誰よりも長く見ているわけです。ずっと自分に喋りかけられているという不思議はぜひ体験してもらいたいぐらい変な気分になります。映像のなかで「デジタライズされた走馬灯です」と話したりしていますが、まさに100年後とかの未来から考えると今ここにいること自体がそもそも完全に走馬灯の状態、幻なわけです。だから彼(質問者A)が出演した自分を見て不思議だったってすごく納得して。みんなやったらいい、自分で立って、自分で喋って、それを自分で体験する。全員が「プレ走馬灯」みたいなものを自作して体験したら、どんな世の中になるんだろうと思ったりしました。

小田:自撮りってあるじゃないですか。いろんな人が多分自撮りをしてネットに上げてすさまじい勢いで自撮りの写真はネットに出てくる。VRというのは空間を含んで自撮りをしてるっていうことですね。

雨宮:今回の作品は自撮りだったんですね(笑)。

小田:あの画面の中でワークショップに参加していただいてる方がそう感じてくれているのはすごいな。

雨宮:本当は自撮りになる予定からはほど遠いはずだったんですよね。特に今回は役回り的に、監督、タイムキーパー、衣装、小道具、脚本、、、、などなど多分12役ぐらいの役割があるだろうなと。なのでせめて主演はしない、と思っていたんです、本当に。ダンサーさんを探している時点では、主役を探してるぐらいだった。でも最初にHMDのアルゴリズムを理解してからみなさんに役割分担しようと思って、まずは自分がカメラに向かっていろいろなパターンで話しけるような形でテストシュートをしてみたんです。そのときに、石神さんが「自分だけが話しかけられてる感じが贅沢」と言ってくださって。だから僕がたくさん登場する、僕の自撮りがそのときに始まりました(笑)。
これもなかなか面白い、今後もっと突き詰めて考えてみたいことのひとつです。ごく稀にリアルな演劇や舞台でも、お客さん1人に対して演者1人という状態がありえるという笑い話もありますが、でも実際の舞台は役者が観客1人に話しかけつづけてくるってないことですよね。
まだ考えている途中ですが、このHMDの空間の中において「1人が1人に向かって喋った方が伝導率がいい事」ってのがあるような気がするんです。いまのところまだそれが何かはつかみきれていませんが、少なくともその希望において、HMDにもいいところがあるなと思っています。僕はそもそもはHMD自体が苦手なので、すこし見直したって感じです。
アートって、自分の調子が悪いときに来たくないのに来ちゃった美術館でたった5秒くらいしか見ていない絵画に心を救われる、という「条件や環境が整っていなくても感動したり興味が爆上がりしたりする」のがアートの良さのひとつだと思っているんです。なのでガチャってHMDを装着して人を目隠しに30分間押し込めるアートなんて、なんなんですかと今でも思っています(笑)。そんなことまでしたら、HMDのなかでアートをフワッて見せるぐらいでは釣り合わないくらい嫌な「封じ込め」をやってしまってる。なのでHMD自体はいまだにあまり好きではないんですが、今回使ってみて感じた可能性としては、繰り返しになりますが、1人が1人に対して語りかけることの伝導率なのかもしれないと思っているところです。

小田:HMDはほぼ目隠しですからね。目隠しして耳も隠されてっていう、五感のうちの2つの自由を奪われて作品鑑賞するって体験はほとんどないですよね。

雨宮:鑑賞って主にその2つですよね(笑)。

質問者C:最初のワークショップから参加させてもらって、全部出席してしまいました。最初にSNSで雨宮さんの投稿を見たときにこれすごい面白そうと思って、絶対やりたい、でもできるかなと心配で、できますかと聞いたら、できますよとリプライくれたんで、恐る恐る参加しました。今回は何かを演じるっていうより素のままでいいっていうことがすごくハードルが低くて巻き込まれつつ、プロセスをこんな間近で見られるのは、もう滅多にない贅沢だと思っていました。特に1回目のワークショップが面白くて刺激的で。作家もまだどういうふうに持っていくかを決めきれていないうちにやったので、作家がいろいろと工夫して、提案して、苦しんで、作っていくんだなっていうことも間近にすごくわかったし、いろんな身体の表現の仕方も教えてもらえてとても面白かったです。
また今回は作家がこんなにいろんな人に声をかけてチームとして何かを作るっていうのを初めて見て、地方であまり見る機会がない現状で、こんなにチーム雨宮としてやって、パワーがあってすごいなと、ただ驚き、刺激を受けました。
あとは、この2~3ヶ月だったと思うんですが、最初のワークショップから、山梨が、甲府が、アーティストが生き生きしてる姿が、映えて。すごく豊かな気持ちになれたんです。この館自体も普段すごく静かで止まってる絵を見るという形なんですが、人が入ったことで、すごく生き生きと、何か命を吹き返したようなそんな感じがしてわくわくが止まりませんでした。バーチャルに入る映像は、私はもうこの館の長い歴史を知っていて、その過去に連れ戻される走馬灯のような形ですごく良かったです。水が豊かに水をたたえられている池や、庭を作った方がここに来て庭にお名前を付けたときのことが蘇ってきました。

雨宮:へー、あの池に水が入っていた時代に実際見ていらしたんですか?

質問者C:当時この館に勤めていたので見たんです。すごく脳が活性化されて、何倍も得したなと思いました。素晴らしい試みだと思います。
浅井さんと女性ダンサーさんの踊りもとても近くで見ることができ刺激的でした。椅子はとても人に近い存在のような気がするので、椅子1つずつが人みたいだなと思いながら見ていました。浅井さんが2つの椅子に乗ってギュッと2つの椅子をくっつける、そのときに女性ダンサーの方が椅子の下を開脚でくぐっているというアクロバティックなシーンが印象的で今でも忘れられません。あのシーンはどんなふうに事前に打ち合わせをして、彼女とのやりとりや最初と終わりがあったのかなと。

浅井:面白かったって言っていただいたところは完全に即興ですね。彼女がたまたま椅子の下をくぐり出していたので、僕は邪魔をしようと瞬時に思い、あの行動をとったんです。最初にもちろん大きな構成は決めていました。皆さんがバーっと喋り出したら前に出て行き2回ぐらいは交差をし、その後はミラーリングといって彼女と向き合って真似っこみたいなことをすると。それ以外は即興です。気をつけていたことの共通認識は、前日に石神さんから指摘があったように、ダンサーがダンサーとして見えすぎないようにすること。ダンサーという解像度を下げて、身体を印象派の絵のように空間に溶け込ませるには、あわいのように自分の輪郭線を消していくには、どうしたらいいか。そのためにいくつか具体的に共有していたことはいくつかあります。例えば生の舞台は3秒ストップすれば止まって見えるのに対し、VRの世界は5秒くらい止まらないと句読点が見えないなど。VRならではの緻密な動きについては計算し話していましたね。またダンサー同士で目線を送りあってしまうとそこに1本の意識の糸のようなものが生まれてしまいます。関係性が見えてしまうことで空間よりも解像度が上がってしまう可能性がある。なので、身体の意識の糸はコントラバスの千葉さんの方に向けておこうかなど。それ以外はインプロで、より豊かにハーモニーが動いていくように、互いが対話をしているみたいな感じです。

雨宮:普段のダンサーがふたりだけいる舞台だったら良き雑音として存在するようなものを少なくしましょうと浅井さんと皆川さんと話したりしました。今回の場面だと僕も含めた色んな登場人物のタイムラインが実際に存在してしまっているので、その中ではっきり見えるように細かさよりも大きく何をしているかに向かいましょう、とお話ししていました。
振付の数的にはリハーサルや本番があるごとに半減、半減みたいな感じで減っていきましたよね。でもそのほうが全然成立したし、次があったらもっと減らしている可能性さえありますね。椅子を回してるだけでもかなり長くていいと思いました。舞台で1人がトップライトで椅子を回しているだけだったらひょっとすると思わせぶりすぎるかもしれないけれど、今回の作品におけるあの場面だと椅子を回していることそのものが基調低音になってコントラバスが旋律を作ったり、風船がそれに呼応して浮いているように見えたりが可能だったりするので。なので最後は情報を減らす方向に気をつかった感じがしますよね。

石神:ディティールの積み重ねですよね。今のお話を聞いて思い出したんですが、最初の頃に撮影をした映像を見ると、浅井さんは座ってる背中だけですごいんです、綺麗すぎて。普通の人と違う身体があるっていう存在感が醸し出されている、ダンサーの2人とも。それが最初の状態でそこからテイクを撮るごとに、その綺麗すぎるという情報を浅井さんたちは減らしていっている。

雨宮:「ここ、ダンサー減らせませんか」という不思議なやりとりとかありましたね(笑)。

石神:キレキレの体をむしろぼかしていくみたいな。

雨宮:椅子などを戻すときなど、あえてすごく「普通」に動いてくださってましたよね。身体から出る情報を減らしましょうと。

浅井:ダンスにおいて情報を減らすというのはある意味で機械的というか。身体のノイズを減らしているだけなので、実は機械っぽくなります。なので、映像を通すと逆にすごく情報が多くなってしまうんですよね。舞台では情報が減ることが、逆に映像上では情報が増えてしまうという逆説的な点を石神さんはずっと伝えてくれていたんです。でも最初はその意味がわからなくてダンサーのルールとしては情報を減らしているのに、何でそう言われるんだろうと。でも自分がダンサーという立場じゃないキャラクターとして物を見直したときに、確かにその目線でみるとこれは情報が増えている行為なんだと気づいたんです。では、ダンサーではない状態で情報を減らすにはどうしたらいいかという思考の転換は、VRならではでしたね。

雨宮:人間の身体が絡むと抽象と具象の話だけでは済まないわけですよね。一見すると、抽象度が上がると逆に入れ込める情報が増えるみたいなイメージを持ちます。ところが身体を使うと、抽象も具象も身体という具象に乗っかった上の話なので、減らすとひとことで言ってもかなり難しい。
前半のシーンでダンサー感を減らしてほしいと伝えたのは、この作品の締めのシーンが頭にあったんです。この作品の最後は、風船が重力と浮力のバランスをとって浮かんで意思のあるような状態、いわば意思をもって慎重で優雅なダンスをしているかのように見えた方がいいと思っていたんです。なのでその擬人化になだらかに接続することが可能になるために「前半はダンサーを減らせませんか」という発言をしていたのだと思います。
話は変わりますが、最後のシーンもいろいろありましたよね。僕自身、台本通りに姿を消したのに、最後の最後で片付けをするために再び現われてしまった。締めのシーンでは、主役のようにみえていた僕の役目は他の人にも渡せると証明しながら終わりにしたいと思っていたので、出番が多かった自分が早い段階でいなくなる予定でした。でも、本番中に「この物語はこの空間にいつものソファ以外は何もない状態じゃないとオチがつかない」と気が付いてしまって。それで絶対に戻ってはいけない役割なのに、急に舞台に戻り台などの片付けをしているんです。あの時のコントラバスの千葉さんと外で踊っている皆川さんの心のザワつきはきっと凄かったはずです(笑)。絶対に戻っちゃいけない奴が再び戻ってきた(笑)
そういう判断を、僕だけでなく、一般参加のみなさんも、ダンサーのみなさんもすべての方がとにかくその場で主体的に判断していた。みんなが一斉に喋る場面で、一人退出するのが遅かった方がいるんですけど、集中しすぎて出ていくのを忘れていたんです。でも自分でその状態を「解決」している。そうやってこの作品はかろうじて成立しています。これってなんだか人間に対する希望が湧きますよね。

小田:本当に最後に、コントラバス千葉さんの話とダンサー皆川さんの話、そして風船の話が出てきましたね。次に続く! と言いたいところなんですが、時間が来てしまったので、このあたりで終了にしましょうか。

雨宮:最後にひとつだけ風船の話を。風船は偶然ではなく完全に計算してやっています。この作品で起きていることはどれもが偶然に起こりうることなんです。それをどういう手つきでやると偶然が必然のように裏返るか。偶然も定着の仕方しだいでは必然をこえて奇跡となるはず。そういうことを恵まれたメンバー構成でやっていました。だからこそ、あえて風船のように偶然にみえてしまうものこそ、完全に必然をもってコントロールしていたのです。

小田:ありがとうございました!

PROFILE
雨宮庸介(あめみや ようすけ)
1975年茨城県生まれ。2013年Sandberg Institute(アムステルダム、オランダ)修了。2014年度文化庁新進芸術家海外研修員。以降、ベルリンに拠点を構え、2022年に帰国。現在、山梨を拠点に活動。主な個展に『H&T.A,S&H.B&W.(Heel&Toe.Apple,Stone&Human.Black&White.)』SNOWContemporary、東京(2021)、『雨宮宮雨と以』BUG、東京(2023)、主なグループ展に『Reborn-ArtFestival2021-22』日和山公園旧レストランかしま、石巻(2021)、『りんご宇宙―AppleCycle/CosmicSeed』弘前れんが倉庫美術館、青森(2021)、『土とともに 美術にみる〈農〉の世界―ミレー、ゴッホ、浅井忠から現代のアーティストまで―』茨城県立近代美術館(2023)など。

浅井信好(あさい のぶよし)
2005年〜2011年まで舞踏カンパニー《山海塾》に所属。2011年に文化庁新進芸術家研修制度で《バットシェバ舞踊団》に派遣。2012年よりパリを拠点に《PIERRE MIROIR》を主宰。2016年に日本へ帰国後、《月灯りの移動劇場》を主宰するとともに、コンテンポラリーダンスのプラットフォーム《ダンスハウス黄金4422》の代表を務める。近年は、2021年 春夏パリコレクション《Ziggy Chen》、2022年 春夏パリコレクション《beautiful people》、2023年 春夏パリコレクション《beautiful people》の演出・振付・出演を行う。
ダンサーとして、ダミアン・ジャレ +名和晃平 『VESSEL』、ダレン・ジョンストン 『Zero Point』、ナセラ・ベラザ 『La Travers』、Phantom Limb Company『Falling out』、スー・ヒーリー『ON VIEW PANORAMA』らのツアーに参加。これまでに35ヶ国150都市以上で公演を行う。
名古屋芸術大学舞台芸術領域専任講師。2013年ARTE ART PRIZE LAGUNA12.13 特別賞、2014年愛知県芸術文化選奨新人賞など。

石神夏希(いしがみ なつき)
劇作家。1999年に「ペピン結構設計」を立ち上げ、サイト・スペシフィックな演劇作品を多く手がける。その後、公共空間での活動に軸足を移し、国内外で都市やコミュニティのオルタナティブなふるまいを上演する演劇やアートプロジェクトを展開。近年の主な仕事に「東アジア文化都市2019豊島」舞台芸術部門事業ディレクターおよび『Oeshiki Project ツアーパフォーマンス《BEAT》』作演出、「2019台北芸術祭ADAM Artist Lab」ゲストキュレーター、静岡市まちは劇場『きょうの演劇』企画・ディレクター、SPAC-静岡県舞台芸術センター制作『弱法師』(2022)、『お艶の恋』(2023)演出など。NPO法人場所と物語・代表。2020年より静岡在住。

小田雄太(おだ ゆうた)
COMPOUND inc.
まちづクリエイティブ取締役 クリエイティブディレクター、COMPOUND inc.代表、日本芸術大学A&A非常勤講師、文化庁メディア芸術広報事業クリエイティブディレクター
アートや音楽、ファッションからニュースメディアまで、グラフィックデザインを軸足に事業開発支援、プロジェクトデザインを手掛ける。最近の主な仕事としてdiskunion「DIVE INTO MUSIC」クリエイティブディレクション,「NewsPicks」UIUX開発・ロゴデザイン,下北沢「BONUS TRACK」,Startbahn社リブランディングなど。山梨県立美術館メタバース事業「LABONCHI」のクリエイティブディレクション及び第一弾となるたかくらかずき『メカリアル』展の展覧会ディレクターを務め、本展でも展覧会ディレクションを担当。

VI制作:小田雄太(COMPOUND inc.)

山梨県立美術館を舞台にアートの可能性を模索する展示企画シリーズ『LABONCHI』の第2弾です。LABONCHIとは今までにない新しい事柄を共に作り上げる実験チームでもあります。
名前は造語であり、雄大な山々に囲まれたこの甲府盆地(ボンチ)にある実験室(ラボ)というイメージでこの2つの言葉を組み合わせました。
アーティストやクリエイターの経験や直感によって仮説を立て、この美術館を実験室として実践し生まれる視点や驚きを広く共有することをミッションとしています。

LABONCHI.02雨宮庸介「まだ溶けていないほうの山梨県美」

主催: 山梨県立美術館

企画協力: COMPOUND inc.

展覧会ディレクション+VIデザイン: 小田雄太(COMPOUND inc.)

VR撮影編集: 飯田将茂

ドラマトゥルク: 石神夏希

振付・出演: 浅井信好

出演: 皆川まゆむ

振付アドバイザー: 木田真理子

コントラバス: 千葉広樹

会場デザイン: GROUP

編集: 吉田山

ブレインストーミング: 鹿野震一郎

担当学芸員: 小坂井玲

VR映像英語翻訳: 桐山明日香

照明作品制作: 藤村祥馬、望月電気

出演: 赤木眞理、青柳一美、Chiaki、金亮子、Mimi、小野志津香、坂本泉、辻佑介、四宮スズカ、内田裕士、雨宮宮雨、雨宮と以

WS参加: 赤木眞理、青柳一美、林空杏、柄澤容輔、Mimi、中西星羅、小野志津香、坂本泉

VR作品オペレーション: 株式会社SPSやまなし

協力: SNOW Contemporary

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