【MAD Hodgepodge Orchestra】クソコラ的風景のアーカイブ・松戸編 #1

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千葉県・松戸市、松戸駅前エリア半径500mを対象としたまちづくりプロジェクト「MAD City」のInstagram上。松戸市在住の2組のアーティストによる地域アートプロジェクト「MAD Hodgepodge Orchestra」が開催されている。

サウンドアーティスト・吉野裕司が作成した音と、写真家・倉谷卓により撮影された文字通り「MAD」 な風景のイメージ。おそらくインスタ映えはしないであろう音と風景が調和することなく、ぶつかり合いながらもその複雑なまちの成り立ちの断片を拾い、ブリコラージュされた投稿の数々が並ぶ。公開された作品は2023年4月から6月までの間で40点にのぼる。まるで複雑なまちの生態系を伝えるかのごとく投稿を続ける本プロジェクトの作品群はどのように計画され、始められたのか。目指すべきゴールはあるのだろうか。今回は、制作の発起人でもある寺井元一(株式会社まちづクリエイティブ代表)、企画を考案するきっかけになったというサウンドアーティスト・吉野裕司、写真家・倉谷卓の3名に、プロジェクトが始まった経緯に加えて、制作を通じて培われていった「MAD City」こと松戸を捉える方法の変化について、今後の展望とともに話を聞いた。前編では作品を作ったきっかけ、制作する中で見えてきた松戸という街について紐解いていく。

Text+Interview: Jumpei Ito
Edit: Moe Nishiyama

「音」×「コラージュ」で松戸の風景をアーカイブする

街を歩くとき、私たちは過ぎ去っていく風景をあいまいに知覚している。過ぎ去る風景を思い出す際、記憶を構成する断片は常に頼りなく、しかしながらかえって強烈な構成力を持っていることがある。MAD CityのInstagram上で鑑賞することができる「MAD Hodgepodge Orchestra」による40の音像と対応する40枚のコラージュは、そういった奇妙な構成力に支えられている。サウンドアーティストの吉野裕司の「音」と、写真家の倉谷卓による「コラージュ」によって立ち上がるこれらの作品群は、松戸という街にある唐突なイメージの去来、あるいはその再構成で、街が持つ風景の可能性をある意味歪んだ形でアーカイブしたものだ。

本プロジェクトは、まちづクリエイティブの代表でもある寺井元一が、松戸に在住する吉野と倉谷に声をかけてスタートしたという。きっかけはまちづ社が行う不動産事業で管理している物件に棲まう吉野と、寺井が契約更新のタイミングで交わした会話だった。

不動産契約の話のついでの世間話からはじまった

──そもそも、本プロジェクトが始まったきっかけについて教えてください。

寺井:不動産の面白いところでもあるのですが、一定の周期ごとに契約を更新するとかしないとか、定期連絡を取り合う理由があるんです。それで吉野さんがちょうど切り替えのタイミングがあったので、「最近どうですか?」「なにか一緒にできることはありますか?」というヒアリングをするようにしていて。そのときに、最近吉野さんが制作している音楽作品や活動をみて、音による聴覚的な体験だけではなく、視覚も通じた空間的な体験としてもっと多くの人にふれてもらえる機会をつくりたいという話を聞いたところから、スタートした記憶があります。それを吉野さんがどう覚えているかは分からないのですが……。「吉野記憶」的にはどうでしょう?

吉野:元々ウェブサイト上で「音」によるインスタレーション作品をオンラインで立ち上げることは可能なのか、試みたいと考えていたんです。どういうことかといいますと、こちらでつくった多数の「音」を、ウェブサイトに個別の音声データとしてアップロードします。聞き手はそれらを再生する際、各々のスマホを通じて聴くことで、その一音一音を、個別に環境に立ち上げることになります。ここで「音」のデータは複数あり、個別に異なる蓋絵をつけ並列にアップロードすることで、複数の人たちが同時多発的に集まり、ウェブサイトにアクセスしてそれぞれが選んだ音を同時に再生することが可能です。それぞれが同じものを選んでもいいですし、好きなものを選んでも良い。同時に再生すると音が重なり合うことで立ち上がるような体験が作れたらいいなと。ただ自分で作れるのは「音」だけで、視覚的なものはいい加減なものを作っていたから、視覚的な要素が加わればもっと色々出来るんだけどなということをお話しして。

──なぜ視覚的なものが吉野さんにとって必要だったのかが気になりました。

吉野:人間って、「音」を聞いているだけでは飽きてしまう。視覚的な情報があると、聴覚から得た「音」と視覚から得た「イメージ」を自分の中で勝手に結び付けるということを無意識のうちに行っています。曲に「標題音楽」というものがあるじゃないですか。たとえばベートーベンの「運命」。ダダダダーン。「運命」だからなにかを叩いている音のようなイメージを思い浮かべる人もいると思うのですが、実は何の意味もなかったりする。それと同じように、「イメージ」を一つの記号として「音」と合わせることで、こちらが意図している以上の情景が浮かんだりする。そうしたことができないかなと考えていました。

──今回は、一つのプロジェクトでありながらも、「音」を吉野さんが、「映像(イメージ)」を倉谷さんが担当されているという二つの入力方法が存在し、かつそれが完全に一致しているわけではないという点が面白いと思います。鑑賞者は脳内で勝手に「音」と「映像(イメージ)」を一致させる可能性があるということですよね。

吉野:それを映画では「モンタージュ技法」といいます。登場人物が同じ表情をしていたとしても、その前のシーンでリンゴを映すのか、死体を映すのかで、その表情の意味が変わってくる。死体を映して表情がパッと映しだされたら不快で悲しげな表情をしているように見える。ですが、リンゴを映したあとに表情を映したら、あたかもそのリンゴを食べたそうな表情をしているように勝手に連想させることができます。今回の「音」と「映像(イメージ)」で、何の因果関係もないものを(倉谷さんが)結びつけることで、結果として何が連想されるのかを個々の人の頭の中に委ねてしまっているんです。まあみんな同じものを見ても色々なことを思いますよね。逆にそういう個々の思いが複数並んでしまうという状況が作れることが面白い。人間の生活で考えたらその辺の街を歩いてる人が、同じ景色を見ながら何を考えているのかなんてわからないですよ。今回でいえば、それをあんまりこう、個人の意図で完成させる「作品」という形式にしないことで見方も固定せずに提示できるのかなと。どうしても個人の「作品」は見るひとの見方、鑑賞の仕方を固定しがちじゃないですか。

──視覚的な部分でいえば、「音」と「イメージ」のコラージュを担当した倉谷さんは、元々寺井さんからお声掛けされたと聞きました。先行して吉野さんが「音」制作をされているなか、実際にはどのような意図があったのでしょうか。

寺井:吉野さんのプロジェクトのお話を一通り聞いた上で、漠然と「視覚の人」とコラボレーションできたらよさそうだ、ということを感じていました。ふたりは同じ屋根の下にいるんですよ。物件が同じなんですよね。そもそも物理的にも近いところにいるじゃないということもありますし、もともと倉谷くんが河川敷でなにかを見つけてきて、採集して写真を撮るようなまちの風景の断片からコラージュをしていくようなイメージがあったので、、倉谷くんに話してみようと思ったというのが発端です。ただ、結果的に現れてきた今回の「クソコラ」(複数の画像を適当に切り貼りして作成した「コラージュ」(コラ)のうち、特に「クソみたいな」と形容したくなる類のコラ画像を指す俗な言い方)みたいな表現に今興味あるかどうかは全然知らなかったです。取り敢えず、探しているよ、興味ない?って言って声かけてたんですね。

倉谷:そうですね。先ほど吉野さんが話された通りですが、「音」を作ってる人がいるので、聴覚的な情報から発想したイメージを提供してもらえないかと聞かれて、あーやるやると。お引き受けしますよと答えた後に、あれ、何ができるんだろう?と我に返って(笑)。基本的には本業は写真家なので、松戸のまちを撮って写真を提供することはできるけれど、それだとつまらないよなと思ったんですね。最初から、作品を公開する場所がInstagramなどのSNSやオンラインを起点としているということは聞いていたので、SNSでの表現としてどういったことが可能なのか、ということははじめから考えていたと思います。

「クソコラ的なもの」、「完成されすぎていないもの」への関心

倉谷:ウェブサイト上で人に音楽を聞いてもらうとなると(画面上への)滞在が必要になってきます。そのページに留まらせる、かつ音を聴き続けてもらうためにはシンプルなスナップショットのようなイメージはなんだかちょっと違うと思い考えたものが、元々気になっていた「クソコラ」でした。コラージュの技法は元々気にはなっていて。余談ですが、ある時期マッチングアプリに載せられているクソみたいなコラージュを集めていた時期がありました。

寺井:マッチングアプリに載っているってイメージがつかないですね。具体的にはどういったコラージュなの?

倉谷:正直なところ、コラージュの制作意図はわからないものがほとんどです。どんな意図があってこの画像を載せているの?とツッコミを入れたくなるものが多々ある。わかりやすいものだと顔をちょっとごまかすためにウサギちゃんのスタンプが押してあるといったところでしょうか。全然理解ができなかったのは、風景の中に「スフィンクス」があり、「サングラスをかけた女の子」の小さな画像があり、その上に「手」がコラージュされているというような謎の画像が結構あったんですよ。それを一時期集めていたんですね。他にも、「アマチュア写真家」と呼ばれる人たちの写真も結構好きで、完成されすぎていないので意図したことや捉えようとしているものよくわからないことが多いのですが、技術があると表現できないような、偶然にして生まれてしまう面白さがあったりする。「アマチュアレタッチャー」という人が最近いますよね。レタッチというと、少し前まではPhotoshopを扱える人にしかできないと思われていたけれど、今では誰でもスマホでも簡単にレタッチができてしまう。でもそうしたレタッチ画像も、やっぱりちゃんと人に見せることが考えられていないものも多いので、一見とても雑な仕上がりになっているけどある種の味わい深さがある。それが「クソコラ」のカルチャーを生んでるなと思っていて。そうした「アマチュアレタッチャー」みたいなことをしようと。

──意図しながらも意図されていないようにつくるというのは結構面白い反面、難しそうですね。

倉谷:そう、難しいですね。作為的なものが嫌いなので、無作為にできてしまうイメージをどうにか作為的につくれないかを考えていました。もともとレタッチが超うまいわけではないので、そこをさらに「雑に」することによって、無作為に近付けられるかなと。

寺井:お話聞きながら思ったのですが、僕も思想としては共通項がありますね。基本的に予定調和のことは破壊してきたい、偶発性には期待をしていきたい。ただ今回の「MAD Hodgepodge Orchestra」の場合、プロジェクトマネージャー的立場的としてふたりに依頼している立場でもあり、落とし所を「こんなんじゃないの」と提案しながら進めていたのですが、結果的にどんどんズレていっていきましたね。動画をやらないはずの倉谷くんが最終的にはこのプロジェクトのために動画を勉強していたり。まあでも落とし所を見つけようとしてズレていくということはなにかいいことだとも感じているので、それはそれで納得しつつ、今も継続して制作を続けてもらっています。

オーケストラに着想を得た、40のソロパートからなる協奏曲としての風景

──今まで本プロジェクトの「無作為性」「偶然性」についてお話を伺ってきましたが、制作に関しては、お二人は具体的にどのようなコミュニケーションをとっていたのでしょうか。あるいはとっていなかったでしょうか。

吉野:ほとんどとっていなかったですね。

倉谷:プロジェクトを始めた初期は、吉野さんが「音」を先につくり、その後イメージをつくるという順番でいいのかだけを確認はしたような気がします。

吉野:「音」を完成したものとして先に提示してもわかりづらいだろうなと思って。一応先につくっていましたけれど、つくったら並べられるようにして渡していました。別に「この絵だからこの音」というのはなかった。音を5グループに分けて、グループごとの絵を指定している。だから音が付いた絵でも偶発的についてるし、その偶発性をもう一度まとめて下さいと。こちらは言ってるだけだから簡単だけど、言われた方はたまらないと思う。それぞれ5パターンで枚数も違うし。

──投稿するイメージを40枚にしようというのはオーケストラの構成人数から着想されたと聞きました。

吉野:オーケストラは40人くらいで構成されますよね。一人ずつが異なる楽器で異なるフレーズを流すことで楽曲がつくられることと同様の考え方で、40個の「映像」と「音」を組み合わせたら結果としてひとつの楽曲ができていくかもしれないなと。

倉谷:最初の打ち合わせで、仕様を決めようというときに、試みようとしている作品の形として2枚3枚ではない。かといって100枚、200枚はできないだろうとボリュームについての議論はしていました。Instargram上で行われるプロジェクトであること決められていたので、2日に1回ぐらいは基本的に投稿したいという思いがあり、それを総合していったとき、オーケストラって40人ぐらいいるしとかいう話も出てきて、今みたいな話に落ち着いていった。1枚ごと、この画像だからこの音というような考え方はせず、たとえビジュアルと音楽がめちゃくちゃあっていても、全然乖離していても、どちらでも面白いだろうと思っていました。その辺のコミュニケーションはほとんどしてないですね。おそらく吉野さんとした打ち合わせは2回ぐらいですね。最初に1回やって、次にどうするかだけ決めて、あとは実務的なやり取りのみをしたという感じです。

寺井:音はどれとでも合うように、どの組み合わせも成立するように、最終的には40枚のソロでなってもまあなんとかいけるだろうというような作り方をしていましたね。

倉谷:1枚ごと、この画像だからこの音というような考え方はせず、たとえビジュアルと音楽がめちゃくちゃあっていても、全然乖離していても、どちらでも面白いだろうと思っていました。その辺のコミュニケーションはほとんどしてないですね。

後編につづきます

 

PROFILE

吉野裕司
作曲、作詞、編曲、プロデュース。
古楽、現代音楽、テクノ、サウンドインスタレーションなど幅広く作曲し CM、アニメ、劇音楽やアルバムの制作を手がける。 また、ソロユニット『Vita Nova』を主催。studioRam代表。

倉谷卓
写真家。
主に写真の扱われ方・捉えられ方への興味をベースとした制作活動を展開。
近年の展示に、「I was you, you will be me」(Art-Space TARN,奈良,2022)、「自・灯・明」 (Espace Kuu,東京,2021)など。

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