政治・経済・文化の生態系を生成する「自治区・MAD City」の次なる可能性を探して
テライマンがゆくMAD Journey #3 岡崎まち育てセンターりた 天野裕〈前編〉

0

資本主義経済の名のもと、経済が政治と文化より優先される社会に終わりを告げ、これからは文化を優先して政治と経済をつくりかえる時代に突入していくのではないか。そこで形作られるのは文化圏を中心に政治/経済的な生態系を築く自治区。ここではMAD Cityと呼ぼうと思う。語弊を恐れずに表現するならば、MAD Cityにはある意味でバグった(個の観点を追求し、実践を重ねることで生み出される)視点から理想郷を実現すべく奔走する人物たち、MADなひとたちが存在する。 MAD Cityにとっての次なる刺激を探し求めて、まちづクリエイティブの代表、テライマンこと寺井元一氏が自治区の更なる進化形を探求すべく、MADなひとたちに会いにゆく連載企画。

vol.3で訪れたのは徳川家康の生地でもある愛知県岡崎市。岡崎城を始めとした歴史のあるまちでありながら、市民が主体性を持って活動を行うことで様々な施設や催しが絶えない。そうした活動を支えるのが、特定非営利法人(NPO)「岡崎まち育てセンター・りた」の天野裕氏だ。「新しい開発論」へと移行していくための「水面下の知見」の共有について。乙川リバーフロント地区への100億円規模の投資で話題になった「QURUWA戦略」の中心人物でもある天野氏に、前編では、まちづくりへ参加することに至った伝説の「限界破滅GIG」から、計画の現在地までの話を聞いた。今回の旅路は自身もまちづくりに関わる伊藤隼平が同行し、第三者として言葉を記述していく。

Edit:Moe Nishiyama
Writing:Jumpei Ito
Photo:Rimon Joh

◎「限界破滅」のメンタリティ パンクやるために市役所へ

寺井元一(以下、寺井):松戸でまちづくりをしていると、自分自身の活動が松戸の中で完結してしまい、どうしても引きこもりがちになってしまう。もっと外を見ようとこの企画が立ち上がり、前回は大阪を訪問しました。今回は愛知ということで天野さんのところにやってきたわけです。私自身は過去に岡崎に視察に来て天野さんからお話を伺ったことがあるのですが、そのとき聞くことができなかったことも含めて今回改めてじっくりと聞きたいという思いでやってまいりました。というのも、東岡崎にある籠田公園を含めた「QURUWA戦略」*1のまちづくり活動が、地方における開発・都市再生にとって重要な取り組みだと思うからです。都市再生の議論では昨今、「マンションしか建てられない、街から店やオフィスが無くなっていく」なんてことが言われているんですけど、そのときに公園が果たせる役割の大きさについてあらためて考えていて、その辺りも聞いていきたいところです。まずは、天野さんが岡崎を拠点に活動を展開するようになったきっかけを教えてください。

天野裕(以下、天野):岡崎市は城下町で、隣の豊田市のように階級的にも人種的にも多様な工業都市に比べると、やや保守的な雰囲気のあるまちだと思います。私はそんな岡崎で昭和51年に生まれた寺井さんと同じ団塊ジュニアの少し下の世代。昭和60年頃の岡崎は「管理教育のメッカ」といえるほど教育が厳しく、その反動で暴走族や校内暴力が盛んでした。物心ついてから大人と若者の闘争を間近でみながら、もう少しうまくやりくりする処世術を身につけたのが自分だと思います。多感な時を岡崎の管理教育でガチガチに締め付けられるなかで育ち、中学くらいからそれを発散する意味でパンクやハードコアの音楽に惹かれるようになりました。
でも実際に音楽活動を始めてみると、ライブハウスでバンドをやるのは色々と窮屈だったんですね。チケットのノルマがあったり、全然かっこよく思えない先輩にペコペコしないといけない。そんな時、豊田市の駅前のロータリー広場で無許可のゲリラライブを定期的にやっているという噂を聞いて。出かけてみたら人が行き交うような半地下空間に、おもむろにドラムとアンプだけが置いてあったんです。ドラマーが座ると同時にドラムをドカドカと叩き出し、ボーカルはただ叫ぶだけ。「バンドってドラムとボーカルだけでも表現ができるんだ」と、彼らのスタイルや出立ちに衝撃を受けました。みんなラフで、ジャージにTシャツ、スニーカーみたいな感じが逆にかっこよくて、岡崎への帰りの道中、バンドのメンバーで「岡崎でもやろうぜ」と意気投合して、地元で屋外ライブを開催することになったというのが行動の原点としてあります。それが高校1年生の頃の話ですね。

寺井:岡崎でやるぞとなった屋外ライブはどのように実現したんですか?

天野:豊田のゲリラライブは警察上等でバチバチのアウトサイダーな空気があった一方、僕ら岡崎勢は結構マジメで豊田より育ちのいい人たちが多かったので、「まずは市役所に行って許可を取りに行こう」という流れになりました。そこでデパート裏の広場でやろうと思ったのですが、許可を取ろうにもデパートにも役所にもたらい回しにされ、最終的に「川ならいいよ」と。第一回目は乙川の河川敷で開催したのですが、全然人が来なかったんですね。やっぱり人通りがあるところがいいと、署名を集め「音楽ライブを開催させてください」と手分けして周りのお店に許可を取りにいきました。お店に了承を得てゲリラでライブを開催すると、やっぱり警察がくるんですけど許可状を見せて乗り切ったりしていました。デパートの裏で開催していると、ライブなど全く求めてもない人たちも通りすがりに見ていくので、なんだこれという人もいれば、足を止めて面白そうに見てくれる人もいるのが良かったですね。無料でオープンなライブという形式も、ライブハウスで開催するライブとは全く違う手応えも感じられて、だんだんと出演したいという人も現れ始めました。

寺井:新たなイベントとして認知をされていったということですね。

天野:そうですね。さらにその屋外ライブに出演するためにバンドを始めるという人たちも現れはじめて次第にバンドのレベルも上がっていき、切磋琢磨する競争の原理みたいなのが働くようになっていきました。大学で進学した東京にも岡崎の屋外ライブの名が轟いていて「どうもあそこにはフリー屋外ライブがあるらしい」という噂とともになんであんな地方都市からなんだという話にもなっていました。東京の方がよっぽどライブハウスがあるし、色んな良いバンドのライブが見れるじゃないかというのが僕らの感覚でしたが、東京の人たちからすると、逆にそれがすごい出来事だったのかもしれない。結局北は北海道、南は沖縄から観客が来るようになりました。

寺井:ちなみにそのイベント名はなんだったんですか。

天野:「限界破滅GIG」です。「限界破滅GIG」は、豊田の「炎天下GIG」を参考にしてつけた名前なんですが、それもそもそも名古屋で開催されていた「雨天決行GIG」の逆をとって豊田のライブ名は「炎天下」になり、岡崎では天候関係なくGIGに当時影響を受けていたバンドのアルバムから「限界」をもらって「限界破滅GIG」になりました。今は会場の近隣の住宅地化に伴い、2010年を最後に開催していません。

寺井:「雨天決行」から「炎天下」への変化は天候の話だけど、「限界破滅」はもはやそういう話でもない。そのころの天野さんたちには実際に「限界破滅」なメンタリティがあったんだろうなと想像するんですが、それは何かしら、今につながってたりしますか?

天野:「炎天下GIG」の延長線上にあるのが豊田の「橋の下世界音楽祭」*2のような気がします。アウトサイダーがアウトサイダーのままオーバーグラウンドに現れ出たような感覚です。岡崎はどちらかというとアウトサイダー志向のインサイダーがインサイドで足掻いてたのが「QURUWA戦略」のようなまちづくりに発展したのではないでしょうか。

寺井:「限界破滅GIG」の成れの果てがまちづくりにもつながっていったんですね。

――都市空間にある種の余白を感じて参入するというのは、元々音楽的意図でやっていたと思うのですが、まちづくりにも共通する態度だと思います。天野さんの中で、単に音楽というより、もっと広い視点が生まれたりしたきっかけなどはあるのでしょうか。

*1 「QRUWA」とは名鉄東岡崎駅、乙川河川緑地、桜城橋、中央緑道、籠田公園、岡崎市図書館交流プラザ りぶら、岡崎公園などの公共空間各拠点を結ぶ約3キロのまちの主要回遊動線のこと。かつての岡崎城跡の「総曲輪(そうぐるわ)」の一部と重なること、また、動線が「Q」の字に見えることから命名された。「QRUWA戦略」は2017年から岡崎市により実施された都市再生プロジェクト。豊富な公共空間を活用した公民連携プロジェクトにより、QURUWAの回遊を実現させ、まちの活性化を図る戦略として実施された。
参考:https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1176/p022685.html

*2愛知県豊田市を拠点に2012から開催されている「橋の下世界音楽祭」。2025年は「橋の下大盆踊り」として開催された。https://soulbeatasia.com/about/

◎廃れていく地元。限界破滅からまちづくりへ

天野:まちへ興味を持ったきっかけは「限界破滅GIG」だったのですが、大学時代、建築系の学科でまちづくりや都市計画を学んだことも関係しています。大学に入学した90年代は、郊外型の大型ショッピングセンターがロードサイドで展開していくタイミング。岡崎にも例外なくショッピングセンターが展開し、帰省するたびに、青春時代を過ごした岡崎の街並み、商店街が衰退していくのが目に見えてわかりました。片や大学で都市計画理論を学んでいた当時、 中央省庁や自治体が様々な制度や計画を駆使して中心市街地の衰退に歯止めをかけようとしていましたが、こうした制度だけではなんともならない状況を目の当たりにしていました。「限界破滅GIG」は、既存の制度の枠組みではやる場所も存在も認められなかったわけですが、いざ実現してみると、まちにいる人たちが表現活動をし、互いに切磋琢磨をして、それを近場の人だけでなく県外からも人が来る状況が生まれていて、いわゆる都市計画にもっと違うアプローチがあるんじゃないかと感じていたんですね。そんな中、大学4年生の時に土肥真人さんの研究室に所属し、今まで学んできたトップダウン型の理論ではなく、コミュニティデザインなどボトムアップ型のまちづくりを実践的に学ぶことになります。土肥さんは当時、釜ヶ崎や須磨などの日雇い労働者のまちで、公的な空間管理と福祉の制度の狭間にいる生活者が都市空間から排除されてしまう矛盾に対して、社会運動的な観点からまちづくりの実践をしていました。
そしてちょうどその頃、岡崎の郊外にあったショッピングセンターが大規模拡張工事をすることになり、周りの住民から計画見直しを求める署名が1万筆以上集まっていることを知りました。勝手にこれは自分の出番だと思い、市民の集いに参加するようになり、大人に混ざって活動を始めたのが、岡崎との接点ができる大きなきっかけだったと思います。ただ、ショッピングセンターは別に法を犯してるわけではないので、市役所に言っても計画見直しを求める手だてはなく、一応ショッピングセンターのお偉いさんに会わせてもらったりしても「なるべくみなさんの意見を参考に考えます」と返ってくるだけで、何も変わりませんでした。こうした決定事項に対するカウンターアクションは、お互いに疲弊し、建設的な対話になりづらいということにその時気づき、何かに対する反対ではなく「自分たちはこういう風にしたい」という、まちにとってポジティブな動き方、提案をしていこうと思うようになっていきます。
たまたま近所の公園で全面的に地下に貯水池を設置する工事をしていて、せっかくならと近隣の人に働きかけて、ワークショップで新たな公園のプランを考えるプロジェクトを始めました。まず市の公園担当部局に「東京では住民参加で公園デザインしていて、自分たちもそうした手法を学んでいるので岡崎でもやりたい」と提案しに行きましたが、「東京で出来ても岡崎ではまだ早い」という反応で。まあ、僕が岡崎出身だとはいえ、どこの馬の骨だともわからぬ学生が来て、みなさんの意見を集めると言ったところで「いいですね、やりましょう」とはならないですよね。なのでとりあえず、地域のいろんな人たちと独自にそういう場を設けることから始めました。

――「自分がやらなきゃいけない」という感覚が周りに波及しながら進んでいく過程が興味深いですね。寺井さんは岡崎というまちをどういうふうに着目していたのでしょうか。

寺井:僕は岡崎といえば……というところで思い浮かべていたのが「光のラウンジ」です。「光のラウンジ」はアングラな謎の箱という印象で、電気も止まっているけれど、ライブハウスとしては続き、冷房もどんどん効かなくなっていくが、雨が降り込まない限りはなんとか営業しているという凄みがありました。壊れ続けながらライブハウスであり続けるというのが僕の印象です。松戸にいるアーティストが「光のラウンジ」と繋がっていて話を聞いたりもして、そんな場所がある東岡崎は何かがすごいはずだと思っていました。

天野:その「光のラウンジ」は、二代目みたいな感じで、途中で運営が変わっているんですよね。僕は二代目の方はあまり行ってなかったんですけど、ヤバい営業をしている噂は聞いていました。来るメンツも面白いし外から注目されていて、アングラの中でもさらに異端な立ち位置にあった箱ですね。

寺井:それが僕の岡崎への「イケてる」という最初の印象だったと思います。「限界破滅GIG」でいうと、みんなが限界破滅を求めてるんじゃなくて、割と保守的な空気がある中で「おい!ふざけんな!」と限界破滅しようとする「はね返り」がいたんだろうと思います。なので「当事者意識がみんなの中にありました」という話じゃなくて「こんなんじゃダメだ」という人たちが少しずつ湧いてきたものが、結果形になっていったという印象があります。

天野:僕は自分の音楽的嗜好や考え方がマイノリティだという感覚があるのですが、マイノリティなりの作法と闘い方があると思っています。コミュニティ論や社会運動論みたいなものは1970年代くらいまで盛んだった*3のですが、当時は「異議申し立て的」で、いわば道義的な「正義」を掲げ、その正義の正当性を強化し現状変更を迫るという闘い方が主流だったんですね。一方で僕は超管理教育下で培った処世術とショッピングセンターへの異議申し立ての経験を糧として、「正義」を振りかざして敵/味方を分断するのではなく、「共感性」を武器に状況を変えていった方がいいと考えるようになりました。

*3政策や学問において「コミュニティ」という概念が盛んに使用されたのは1970年代以降のこと。当時は、近代化や高度経済成長に伴い、旧来のムラ社会的秩序とは異なる新たな地域のあり方として、コミュニティ形成が目指された。

――異議申し立て的なアクションが一般的だった時代に、逃げずにといいますか、自身の闘い方で活動を粛々と継続されていたというのがポイントなのかもしれないですね。

天野:とはいえ最初は仲間や共感者を増やす手がかりがまったくなく、いくら地元だとはいえ知り合いも全然いないので親に相談するところから始めました。教えてもらった人から順に1人ずつ突撃して、やりたいことを一枚にまとめた広報誌を渡して思いを聞いてもらいました。公園の担当課は直接行って駄目だったので、市政だよりをチェックして面白そうな説明会に行き、印象に残るように質問をしてから終了後に担当の人に熱く語っていたら「明日、役所においで」と言われて。学生で、地元のことを盛り上げ、なんとかしたいという思いが功を奏したのか、かわいがってもらいました。その関係が実はそのあと「りた」というNPOを作る時にも効き、のちにお仕事をもらうという意味でも、実はロングテールの営業だったのかもしれません。

寺井:ハードコアもパンクも、あの頃は直接暴力的な世界観だったじゃないですか。その中で、高校生という早い段階からコーディネーター的な立ち位置にいたのはなぜなのでしょうか。「みんなで大人を殴りにいこうぜ」みたいな短絡的な方向にならなかったのは天野さん自身の人格によるものなのでしょうか。

天野:キャラかもしれないですね。ライブやろうというのも、核になる仲間がいて、僕はどちらかというと右腕キャラ的な振る舞いでした。リーダーのもとで、チラシ作成や連絡係をやっていました。

寺井:僕のことを思い出すと……、管理教育を受けたという記憶はあまりない方だけど、それでも良い大学・良い会社…といったいわゆる「昭和の人生すごろく」が当然の時代だったので、自分の人生が18歳くらいでほぼ決まってしまうような不自由さに対して「うぜえ」と思ってましたね。

天野:不自由さが前提のメンタリティはありますね。岡崎の「QURUWA戦略」と、豊田の「世界橋の下音楽祭」を並べると、世界観や価値観がまるで違うように見えるけど、根っこを辿っていくと実は一緒だと思ってます。僕にとってはそれがすごく大事。豊田は「生き様そのものがパンクス」という人が多いけど、岡崎、というか僕自身はどちらかというと「思想としてのパンクス」という感覚で、限界破滅GIGに来る子も意外と育ちのいい人たちが多かったりして。岡崎の場合、反骨心は強いけど根はまじめで「限界破滅GIG」も手続き的なところから抑えていくみたいなところがあったのかなと。

◎新しい開発論。公園はいかにして周りへ滲み出していくか

――寺井さんが天野さんの活動や「光のラウンジ」から、岡崎はどうやら注目すべきまちだと思うに至る所以はどのあたりにあるのでしょうか。天野さんのご活動に関して特徴的だと思う部分についても教えてください。

寺井:「光のラウンジ」や「限界破滅GIG」が示しているのは岡崎に若い世代が新しいカルチャーを生み出す素地があったということだと思う。そしてその岡崎が、QURUWAのような「新しい開発論」につながる試行錯誤の現場の一つで、現場の登場人物の一人が天野さん。新しい文化的土壌と新しい開発がどう関係できるのかを知ることで、他のまちでも出来たら良いなという気持ちがあります。

ちょうど今、開発のコンサルタントのような仕事をしているので、再開発の事業計画に触れる機会があります。それでわかるのは、建物の容積率をアップしたところでお金が回るのは、東京でも一部の都心部だけになってきているということです。他ではホテルを建てても商業施設を作っても、もちろんオフィスを作っても赤字になる。端的な表れが中野サンプラザ跡地で野村不動産が出したような、建物の中身が住宅だらけになっていくという案です。つまりこれからは「住宅だけ作るしかない」ということで、まちが寝に帰るだけの、店もなければ働くこともできない場所になる。それでは経済的にも文化的にも持続しないし生態系が生まれるはずがないので、僕にとっての「自治区」じゃないんですよ。どうにかするきっかけはないのかなと思ったときに、以前、籠田公園のお話を聞いたことがヒントになると感じました。

籠田公園は、結果的に周辺環境のリノベーションを活性化しています。例えば店の正面を後付けで公園に向けるようなお店が出て来たりしている。公園は基本的には近隣の住民の憩いの場という前提があるから、籠田公園のように「使うための公園」について考えている人は少なかった。ましてや「まわりの商業のために公園に期待する」というのはどちらかというとタブー気味で、公園を売り渡すみたいな批判にもさらされがちで十分に研究されてこなかったと感じます。一方で、公園の価値アップは商業施設やオフィスビルをつくるよりはるかに投資額が少なくて済む。お金の使い方を工夫したり着眼点を変えるだけで、開発にはまだ可能性がたくさんあると思います。そのとき、「公園は基本的には近隣の住民のためのもの」だからこそ、改めて「限界破滅GIGをやってる、まちを自分でよくするんだと思う人」が居るかどうかが重要になると思うんです。公園を起点にまちを変えるためには、人が重要。その蓄積が岡崎にはある。

さらに公園と開発の話題を掘り下げると、例えば、岐阜県多治見市の「プラティ多治見」はタワマンと商業機能が一体となった施設で、事業規模が270億円です。住居は即完売したのに対し、商業施設はオープンから2年ほどにも関わらず、空きテナントが目立ちます。他方「QURUWA戦略」では、市長が100億円の投資をしてまちを変えるぞと動いたときが、みんなが色めき立ったきっかけでした。それでも商業施設1つより予算が小さい。籠田公園単体で見たら投資額は5億円くらいで、商業施設と比べたら何十分の一ぐらいの金額でまちを変える機能を果たしていることになります。

そういう意味では、公園に求められる機能はなにか、設計思想が少し変わることを求められている気がします。だから天野さんが「公園をどうするか」というテーマについてどう考えているのかも気になります。

天野:寺井さんがほとんど答えにたどり着いていると思うんですけれど、特に「Park-PFI」では、公園の内部に施設を作ることで流れが完結する形になっています。そもそも何のためにああいう開発をするかといったときに、公園の周辺を盛り上げるという要素も考慮する必要があるはずですが、現在ある公園のうちいくつかは、公園利用者の満足度はそれなりに高いと思うんですけれど、公園内が独り勝ちをしていて、それが外に滲み出ていくようにはできていないように感じます。

◎ハードにおける連鎖型開発。岡崎の功績「桜城橋ー中央緑道ー籠田公園の三連鎖」

天野:籠田公園単独に脚光が当たりがちですが、籠田公園は「中央緑道」とのつながりが重要な要素であると思っています。また、グッドデザイン賞金賞の評価ポイントは「地域自治」の部分で、それはそれで望ましい一方、ハード整備で狙っていた構想、つまり回遊性の実現という点ではまだ道半ばです。「籠田公園ー中央緑道ー桜城橋」という軸線が、今回「オンサイト計画設計事務所」*4の設計でできたというのは、施設が単体で完結しない形になりとても良かったです。ただ、そのつながりも現状では籠田公園にくると途切れてしまいます。「QURUWA戦略」における「Q」の字の東側が「桜城橋ー中央緑道ー籠田公園」ですが、ここから西側に行かせるための動線が明確につなげられてないというのがハード面におけるQURUWAの現在地という感じです。

*4ランドスケープ・アーキテクトの長谷川浩己がパートナーを務める建築設計事務所で、造園及び都市計画のコンサルタント業も行う。「籠田公園・中央緑道」のほか、「気仙沼内湾プロジェクト」、「紫波町オガール広場(岩手県紫波郡紫波町、2018年日本建築学会賞)」などを手掛けている。

photo by Takuo Yamada

岡崎市提供

寺井:巨大な開発を一発打てば終わるという世界観はもう立ち行かないので「連鎖型開発」に関心が集まっているんだけど、結局容積率のパズルが多くて。都心部以外でけっこう連鎖したよね、というのは岡崎が初めてなんじゃないですかね。桜城橋と中央緑道と籠田公園だけでも3連鎖。

天野:計画当初は、それぞれの設計や施工のタイミングも発注先もバラバラになりそうだったので、「連鎖」という意識は薄かったと思います。途中からまず「回遊(=つなげる)」という構想が出てきて、それを色々ディテールや違う形を描いていくことでより正解に近い形につながったのだと思います。ただ、せっかくこんなモデルがあるのに、岡崎のほかのエリアで再整備、再開発をやろうとすると、突然また旧態然としたやり方になってしまうので、どう再現性を持たせるかに課題を感じていたりもします。

寺井:最初から今の形を完全に計画を落とし込んでやっていたら、うまくいっていなかった気がしますね。ある程度の偶発性は仕込みすぎない程度には必要なんじゃないでしょうか。

――そういうハード面の成果は一体どうやったら測ることができるのか、ということが気になります。

寺井:QURUWAの3連鎖だと、成果のアウトプットは、緑道や公園そのものというよりそれらのポイントから周りへの影響がどれくらい滲み出しているかということだと思います。「周りにどんなお店ができたか」とか「こんな事業をやり出した人がいる」など、外で何が起きているかが重要で、公園の内部だけで評価しようと思うと難しい。形をコピペするだけではダメで、籠田公園にすごく似た公園をひたすら作っても上手くいかないと思います。柔軟性のあるハード整備を前提に、当初は予想しなかったことがある程度起きることによってそれが魅力になり、結果として連鎖が生まれる。評価に関しては周りを見ればいいと思いますね。「限界破滅GIG」をデパート側が完全に計算してやってたら、多分みんな冷めてると思うんですよ。本当にやりたいという想いを持った、かつての天野さんみたいな謎の人物が現れて、説得したり行動することがやっぱりすごく大きい。誰かにやらされていたら、そんなに頑張れてないはずだし、周りも冷めた目で見ると思う。その瞬間には予想し得ないことを引き受けられるような、ある種の余裕を作っていくという議論は大切です。「こんなことできちゃうんだよね」と説明してみせたときに、やりたいと言い始める人が重要で、僕にとってはそれが「遊び」の部分だと思います。

後編に続く>

天野裕
岡崎まち育てセンター・りた 事業企画マネージャー。博士(工学)
1976年、岡崎生まれ。二児の父。東京10年、メキシコ3年を経て、岡崎にUターン。路地、水辺、銭湯、昔ながらの喫茶店など、絶滅が危惧される暮らしの舞台の継承をテーマに、松應寺横丁、乙川、QURUWAのまちづくり等に携わる。最近は額田南部の片麻岩の石積みの保全・活用に注力している。

寺井元一
株式会社まちづクリエイティブ代表取締役/アソシエーションデザインディレクター、NPO法人KOMPOSITION代表理事
統計解析を扱う計量政治を学ぶ大学院生時代に東京・渋谷でNPO法人KOMPOSITIONを起業し、ストリートバスケの「ALLDAY」、ストリートアートの「リーガルウォール」などのプロジェクトを創出した。その後、経験を活かして「クリエイティブな自治区」をつくることを掲げて株式会社まちづクリエイティブを起業。千葉・松戸駅前エリアでモデルケースとなる「MAD City」を展開しながら、そこで培った地域価値を高めるエリアブランディングの知見や実践を活かして全国の都市再生や開発案件に関わっている。
MAD Cityは空家の利活用に関わる不動産、アーティストやクリエイターとの協業、ローカルビジネスの起業支援、官民連携のプラットフォーム、居住支援法人に転換したKOMPOSITIONによる福祉ケアなどからなる複合的なサービスを提供しており、2023年には国土交通省「第1回地域価値を共創する不動産業アワード」中心市街地・農村活性化部門優秀賞を受賞した。

伊藤隼平
1994年宮城県仙台市生まれ。カフェ・バーなかなかの店主。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。

0
この記事が気に入ったら
いいね!しよう