【なかなかのコラム】店主・伊藤隼平のプロムナード#2 からだ、つまり集団とお金の流れ編

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なかなかの」は、東中野と中野坂上のちょうど真ん中、山手通り沿いにあるカフェ・バーです。カフェ・バーですが、本屋でも学校でもイベントスペースでもライブスペースでもありたい、そんな感じの場所です。この場所で私たちがやろうとしていることは……。正直いっぱいあるつもりなんだけれど、実行力やら根気が足りなくてやりきれていない、し、よくわかっていないかもしれない。なのでいつもあらゆる手を使いながらどうにかして会いたい人に会い、考えたいことについて考える場所を作っている最中です。シリーズ「なかなかのコラム」では、初代バーマスターであり店主、経営者でもある私、伊藤隼平がお店で起こったあんなことやこんなこと、そこから想起するいろんな場所のことについて雑多に思考を巡らせる経過、メモをお届けします。第2回のテーマは「場所のからだの形」について。

Text+Edit:Jumpei Ito
Illustration:katomonoi

野鳥観察のように、昆虫採集のように。場所の生態を観察する

生き物を観察するとき、その生態について知りたいと思ったら、おそらくその生き物の容姿や構造、つまり「からだ=機構」の特徴と、生息地域である「すみか=環境」に着目するのではないだろうか。唐突ではあるが、今回は「なかなかの」という場所が持っている構造と、それを取り巻く環境を店主自ら振り返り、紐解くことによって、場所を観察するとはどのようなことか、という問いの足がかりを探していこうと思う。「なかなかの」という場所は一体どんなメカニズムで生活しているのだろうか。連載の第2回はまず「なかなかの」という「からだ=機構(誰が運営しているのか)」の話にフォーカスすることから始めようと思う。

複数の行動様式を持つ「なかなかの」という「からだ」について

「なかなかの」は、「カフェ・バー」という「顔(営業形態)」をもつことで複数の文化的な活動の交流点としてふるまえるよう心がけている。ひとつの顔で複数の表情を持ち得る「カフェ・バー」という「顔」の特性を活かし、できるだけ色々な催しをやってみている。

ここで「文化的な活動の拠点」という場所に目を向けると、(いくつかの場所を思い浮かべることができるが)いずれも均一ではなく、さまざまな条件によって独自のスタイルを持つ。たとえば同じ出版物の記念イベントでも、実は主催しているのはバーだったり書店といった顔ぶれであることが多く、そもそも場所という「からだ」を持たない団体だったりとさまざまだ。書店ひとつとっても、収入源が異なる他の経営母体がある書店があったり、一個人が経営している書店があったりとその生存するための栄養補給法はさまざまである。場所にはそれぞれの場所の維持・存続に関わる養分があり、生態系があるんじゃないだろうか。独自の機構をもつ多くの生命が環境のなかで生きながらえたり繁殖したりするように、置かれた土地の環境を読み解き、自己を同期させていくプロセスのなかに「場所」という生き物としての事物がある。なにやらかなりぶっちゃけた話になりそうだが、「なかなかの」は維持・存続のためのプロセスの中でなにを得意とし、何を苦手としているのか、掘り下げていこうと思う。

「弱さ」について。「なかなかの」を構成する栄養素は?

「なかなかの」という生き物の行動パターン(つまり企画)の多様性を担保するという役割を担ってくれている伊藤公人さんは、「なかなかの」を次のように表現してくれている。

なかなかのは便宜上カフェ・バーと営業形態を取っているけど、僕にとっては「のようなもの」という言葉が一番腑に落ちる。カフェのようなものでもあるし、バーのようなものでもあるし、はたまたクラブのようなものでもあり、様々なイベントを行う会場でもあり本屋でもある。

うちは、「カフェ・バー」でありながらトークもライブもやるし、ポップアップストアもやるし、DJパーティーだって、お弁当の大量受注だって!、店舗の規模でできるようなことはとりあえず一通りやってみようと思うし、共同経営者であり設計者であるカトウモノイアーキテクツはその前提をもとに空間を設計している。「のようなもの」とは確かに腑に落ちるが、それは脆弱さでもあり、ハンパというか、軸がないしあまり誇れることでもないような気もしている。だって正直、料理が超一級とかイベントに特化しているとか、とにかく専門性がある仕事に対するリスペクトがあるし、ユーザーとしての自分はそういう場所が好きだから。(図1〜3)

だが私たちの脆弱性は、「なかなかの」の生命体の根幹をなすともいえる。つまり「場所づくり集団」としての最大の特徴にもなっているかもしれない。この弱さは基本的に二つの背景から生じていると思う。一つ目は生命活動の動力の維持管理(経営)を担う人間が「出資者(債務者)」「制作者」「運営者」「労働者」という要素を内包しているという点。もう一つは、栄養分を取り入れる機能(構成メンバー)に決定的な特殊能力があるわけではない(基本的になにに関しても道を極めた者でない素人である)という点。これらが「なかなかの」の生命体としての場所性を確実に規定していると思う。

設計時のイメージ図(図1〜3)

「からだ」の組織。良くも悪くも「器官」ががっしりと結合した状態

弱さの一つ目はかなり具体的な集団のしくみの話。なかなかのは要するに、元々ほぼフリーターみたいな状態の人間が偶然集まり、援助も給与も、逆に言えば方向性の指示も制約もほとんど受けずに自分たちで借金して「店舗企画コンセプト立案」、「メニュー開発」、「クリエーティブの制作」、「内装設計」、「店の経営」、「調理」、「接客」、「イベント企画」、「空間設営」、「経理」というように全てのボールをほとんど自分たちで持ち、行っている場所だ。※1 大規模に金銭が要する部分に関しては、他の生命体との「共生関係」にあるわけではない。「からだ」が駆動するための動力をサポートする「養分」は、別の独立した生命体から受けるものではなく、純粋に「カフェ・バー」営業の利益という「栄養」とリンクしている(一応断っておくとこのような状況は我々の場合プライドやこだわりから生じるものではなく単純に資金力の不足によるものであるのが前提で、外注はしたくてもできないことの方が多い。)何かを試みるたび想定もしなかった部分からボロが出て、普通の飲食店だったらこうはならないだろ、というような「おもしろ事態」※2 が普通に起きる。レビューは心が痛むのであまりみない。うちのようなプチ文化施設は大体どういう資金計画で養分を摂取し、からだを維持・存続しているのだろうか。例えば収支が別の次元にあったり、何店舗めかだったりするのだろうし、うちのように自分たちで全部やる場合もある。とにかく「出資者(債務者)」「制作者」「運営者」「労働者」という役割がどのような関係で分かれているのか着目することで、その場所のからだの器官(=場所を形づくる機能)の可動範囲が見えてきたりもする。

場所を維持・存続するために支出(家賃、人件費、借入の返済金、その他諸々)を毎月払っていかなければならない。※3 呼吸や食事と同じように、排出したものの分は摂取しなければならない。他の文化拠点も多かれ少なかれ、こうして存立要件のやりとりをしながら場所を経営する。「なかなかの」は現状「飲食物提供」という器官の活動によって大半の養分を生み出すという収益構造であるため、みんなが現場の人間として毎月毎月売り上げ表と睨めっこして試行錯誤している。そうした利益や時間のリソース状況を受けて、異なる器官、たとえば「新しいアイデアの企画実行」という器官の可動する領域が決定されてきたりする。

つまり、店に関わる全体的なプロセスに関与している者が、限界的な時間設定の中で企画に関与するような体系がある、ということだ。これは、「なかなかの」という場所で制作物を生み出す一つのメカニズムとなっている。意思決定は、日々の収支とのバランスや労働者としての自分たちの余力との中から行われる。例えば単純にやる気に左右されてイベントが減ったりする可能性がある、ということだってあり得る。目線を変えて考えれば、企画をよくしたり、広がりを持たせていく場所運営のテクニックとして一つ、例えば専任者を配置する、雇うというようなことが思いつくが、うちはそれもDIYの一環として自らの手で行っている。そういう時求められているのはいつでも、「うまくやりくりする知恵」だったりする。良くも悪くも「なかなかの」は、生命体全体の動きが、極めて切断困難な具合で結合した総体となっている。

一撃必殺に欠ける「中途半端なキメラ」ヘ

店のスタイルが一筋の、一貫性のものになりにくい、つまり脆弱であることの原因の二つ目は、特殊能力を持つプロの不在によるものだ。ハヤブサが時速二百キロの飛行能力で獲物を捕まえたり、ハナカマキリが花への華麗な擬態能力を通じて蝶を捉えるのとは違って、いわゆる「一撃必殺技」を持つ尊大なタレント性に欠けている。前述の話で言えば、企画専任者がいるわけでもないし、飲食店としてもどこかで修行してきた料理人がいるわけでもない。そもそもオーナーである私自身、店の企画編集をやっています、みたいなことを烏滸がましくも言ったりするが、お前ほんとプロか?と言われれば回答に困る。以前広告代理店で制作業務をしていたが、すぐに会社を辞めてしまったので成し遂げた主要な仕事などないに等しい。人々の心に残る広告を作りたかったが、挫折。広告業界出身を名乗るほどのスキルも恥ずかしいくらいない。つーか店の企画なんて広告と違うこと多いし!、じゃあ店の企画編集のプロってなんなんだよという話にもなってくる。いっそのことスーパーマルチ・クリエーティブディレクターとでも名乗ろうか、堂々巡り。

店に関わるスタッフもほとんどが駆け出し中というか、各分野成長中の人が多いので、熟練の技など正直言ってないに等しい。それは手を抜いてるとかそういうこととも少し違って、自分たちなりに一生懸命頑張って、来てくれた人たちのためになんとかいい体験をしてもらいたいとは一人一人が本当に思っているんだけど。一つ一つの仕事は初めて挑戦することも多いが、情報にうまくアクセスするように努力したり、アウトプットにできる限りこだわることによって商品の品質をなんとかあげようと試みる。イベントだって毎回毎回初めてのことばかりで、企画したものの、終わって初めて「なかなかのってこういうイベントできるんだ!」みたいなことを言い出したりしてしまう始末だ。※4

素人ばっかりでいいことねえじゃねえかよ!と思うかもしれないが実はそうでもない。素人集合体としての「なかなかの」は、養分確保の動きが一元化しないわけだが、それは裏を返せば企画などの「器官」の動きに関して発想の余地が消えにくい、というメリットがあるということでもある。どういうことか。素人は、素人であるが故に完成品のクオリティがプロ並みにならないこともしばしばある。それでも「今日の晩御飯は初めて作った料理しかないけど韓国をテーマにしてみました!」みたいな催しがめちゃくちゃ楽しいのと同様に、やってみようという楽しさを場に関わる人と共有できるという喜びがある。これが韓国料理のエキスパートが集まる料理人の集いに参加してしまったのであれば「参鶏湯を一からやっちゃおう!」みたいなアイデア自体がそもそも生まれ得ない、生まれても気まずくて言えない。

大谷悠はドイツ・ライプツィヒでの空き家を用いたスペース[日本の家]を介したまちづくりの活動について記した『都市の<隙間>からまちをつくろう』(大谷悠、学芸出版社、2020)のなかで場づくりにおける「素人」や「暇人」の参加について、多様な事例を挙げながら言及している。料理や、演奏などのイベントにおいて「素人的」になりすぎることによって緊張感がなくなることについて注意しながらも次のように述べる。

「いろいろな人たちが一緒に自分たちでつくっていく」ような場所では、できあがるものが常にプロのクオリティになりえないし、そもそもそれを目指す必要もない。むしろクオリティを求めると、サービスを提供する「プロ」と「客」に別れてしまい、致命的に失われる場の価値があるのです。※5

素人は素人なので、発想の余地はプロより残存しやすいというメリットがある(まぁ素人素人言ってるが、実際にはちょっと技を持っている人たちがいたりするので、素人感覚で思いついたアイデアを場所に関わる人間で大切にしながら、できることできないことを整理し、役割分担してなんとかクオリティを上げていく作業はしているという風に言うのが正確だったりするわけなんだが)こうやって素人仕事を積み重ねていると、周りの素人が瞬間的に接続して、器官の一部になることもある。「元からこういうことをやってみたかったのだけど」、とか「ポップアップユニットを作ったもののまだまだ活動の場所が少ない」、と相談に来てうちでなにかをしようとしてくれるお客さんや、知人・友人のアイデアによってお店のからだが確立していく。そうなるともうなんというか、できる能力を組み合わせた「キメラ」のようになっていくしかないんじゃないかという気にもなってくる。顔は人間、体は犬だが、ハヤブサの羽根があるから空も飛べるし、たまにお花に擬態することもできる(そしてそれぞれの能力は本物よりちょっとずつ落ちる)みたいな「中途半端でいびつなキメラ」でいることを引き受けることで、養分摂取のありさまをバラつかせられていたりもする。もっとうまく繁栄している生命体は、なんでもプロのクオリティに引き上げることで、夢のようなからだを構築し、美味しい養分にありついているんだろうけど、まあ毎日そうするだけの底力も体力も今はまだない。死なないというのは生命にとっては正直何よりの強みで、健康でいることも維持・存続の大事なテクニックだ。

からだの形が行き着く先:生活者を養分に、生活者の養分に

「なかなかの」はなんだか化け物のようにうろちょろしているわけだが、素人による素人のための試みを続けて行った結果気がついたことがある、というか元々気づいていたことだけど。やはり「生活者」というテーマが気になるということだ。「素人の試み」は、「普通の生活者」の生活の延長線上にあって、私たち「生活者」のための試みだ。自分も含めた生活者の要求や生活者の小さな成長を養分にからだを組み上げていけたらいいなと思っている。生活者の記録、積み重ね、それに関するストーリーは一つ一つが面白い。バーに座った隣の人が、何を考えて何を工夫して何を楽しくて生活しているのか、ということのストーリーはそれ自体がありふれていて、ありふれているからこそ宝物のように美しい。例えば鹿児島に突然転勤してしまったが、楽しそうに暮らしている友人はどうやって上手に楽しんでいるのか、とか、商店街に根付く喫茶店がどんな思いやテクニックでお店を切り盛りしているのか、とか。なんとなく知っているけど実際よくわからない他人の生活について、もっと聞き出し、面白がれるようになりたい。現実的なリソース状況の中で都度個別具体的なものへと対処していく時に、生命体に必要になるのは生活の知恵や技術でしかない。それは「うまくやりくりする知恵」として、「なかなかの」という場所が常に求めている情報でもある。日常生活で生まれてくるクリエイティビティやパフォーマンスみたいなものへの関心は、私たちのリアルな探究心としてイベントの企画に繋がっていたりもする。「集団でものを考えること」シリーズは、複数の人間が集まって場所を運営したり、制作することについてゲストを招いて参加者含めて思考するイベントだが、そうした試みも場所運営という視点から見た「生活をどうにかしようとする技術」の希求によって生まれている。「なかなかの」は、脆弱な体制で軸も見えづらいかもしれないが、関わる人が何かしら「生活すること」、「働くこと」、「遊ぶこと」について考えることのできる場所になればいいなと思っている。そういう思いが「金銭」のような要素と一緒に、でも別の仕方で「なかなかの」という「中途半端でいびつなキメラ」の養分になればいい。そして段々と、そういう生き物を面白がるように「なかなかの」を観察してくれる人がどんどん増えていけばいい。

    *1 行った外注は、主に店のインフラとなる部分。融資を受けた理由もここにかかる資金を払うためだ。内装、空調、水回りに関わる工事は自分たちではできないので、プロに任せる。税理士などもそう。基本的にはお金がないので、自分たちでできる部分は自分たちでやる、という発想でそれがあまりにも長時間に及んだりする場合はプロフェッショナルに任せる、という考えで店づくりの準備を始めた。
    *2 流石にここには書けないことが多いので、是非を店まで足を運んで聞いてみてほしい。
    *3 金銭の移動がない場所でも例外ではない。例えばお金のかからない場所でさえ、それを維持・存続するにはそのためのモチベーションやシステムというような機構の構築や内部の交換様式が必要になるはずだ。
    *4 テクニックとはまだ違うが、やったことないことをやるには、やると決めてしまうことが一番だと思う。未知のイベントも、スケジュールに落とし込んで実現のためのタスクリストを作ったらあとはそれを調べたり実行したりする作業ゲームと化す。過去のいろんな経験から大体こんな感じだろ、と当たりをつけて間違い探しをしていくだけ。
    1. *5 『

都市の<隙間>からまちをつくろう

    』(大谷悠、学芸出版社、2020)、p193,194 大谷のレポートは、場づくりと、場づくりにおける都市の状況を並置している面も興味深い。さまざまな事例を挙げながら、ライプツィヒという都市の空き家問題の具体的な推移、都市の制度や政治といった側面から場づくりの活動がどのように変容したのか、詳細にレポートされている。

PROFILE

伊藤隼平 / Junpei Ito
1994年宮城県仙台市生まれ。Y字路。カフェ・バーなかなかの店主。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。慶應義塾大学SFC研究所 上席所員。

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