Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama
◉EMPTY SPACE NOISE
日本橋駅では、有能そうな高層ビルが台形に地上から生えている。
私たちはビルよりも小さいので、地上からビルを見上げると直方体ではなく、台形に見える。
閑静な昼過ぎのオフィスでエレベーターを待つと、特に何もない場所で鳴っている音(EMPTY SPACE NOISE)が聞こえてくる。空調の音、エレベーターの動く音、どこかで鍵があく電子音、自動ドアの開閉音、普段耳に入れることのない、認識の外側にある、けれど、確かに存在している都心の音が意識の内に入ってくる。
巨大なビルのロビーの高い天井は、雑居ビルの3階分程の吹き抜けはある。そこでは、様々な力が誇示される。私たちはその高い天井の下で、不思議と、心の安らぎを享受する。
23時半を過ぎても、オフィス街のビルからは灯りが消えない。全員が異なるタイムラインを生きている。24時の次は25時。誰かにとっては、今この時間は、354時。延々と続いているかもしれない時間。街に点在する仮囲いは、そのまっしろさから、ただの一過性の仮な存在でありながらも、まるでビルの一部の様な、そんな誇らしげな様子さえ感じる。
◉観光業の作る架空の街
イタリアを訪れた際、ローマ空港に到着し、ついでに市内を観光した。下調べを怠った結果、とりあえずイタリアに足を踏み入れたことを実感したいという理由だけでヤケになってピザ屋を探した。大して感動することのないまま、イタリアではオリーブオイルを大量にかけるのが通だとか、浅い情報を頼りに「イタリア風」をとりあえず楽しんだ。
日本への観光客達が、成田国際空港から降り、具体的な目的地に向かう合間に、どこかの寿司屋に行くことは容易に想像できる。インバウンド効果を狙う飲食店サービスは、「SUSHI」「JAPAN」と掲げた看板を光らせる。それは、観光客がイメージするざっくりとした解像度のその土地の食事「イメージフード」だ。提供される食事で、店内の空間で、店員のユニフォームで、存在しない都市の姿が浮かび上がる。それは観光業が創り上げる並行世界だ。
◉ニュアンスのない安心感
都会にニュアンスはない。ニュアンスで決定できるような、再現性のない存在は極めて珍しい。オフィス街で個人経営の喫茶店を見つけるとなぜか入りたくなるのは、個人単位で様々なことを決めるその緩さや乱暴さ、不安定さに魅了されているためである。
SNSやインターネットで匿名性をもったアイコン*1を使用することは、個人的な感情の機微を見せずに、意見やアイデアだけを述べる、記号的な存在*2になることを意味する。そこでは、アンバランスな造形や多少の掠れのようなイメージ、いわゆるニュアンスは存在せず、色彩と造形は数値化される。
同じ現象は、音楽サブスクリプションサービスのUIデザインにも現れる。パンクもジャズもポップもクラシックも、全て同じUIデザインのボタンで再生される。本来であればそれぞれ異なる環境で、シュチュエーションで見聞きしていたであろう音や視覚情報は、同じフォーマットに同一に並べられ、平坦に整列させられる。誰でも、どこでも、いつでもを探求した結果、情報は民主化され、体験は均一になる。
ニュアンスを排除したアイコンや操作パネル、選択画面の書体選びは、決して沈むことの無いような近未来的な船に乗っている様な心地を想起させる。その船には、多くの人が乗り込み、ゆっくりと動いていることも気づかないスピードで進む。まるで陸地にいる時と変わらない感覚だが、あくまで人工物なので、無限な存在ではない。それに気づくことは難しい。
アイコニックな人と形容される際、そのアイコニック(肖像)は、その意味から把握するに、あくまで実在する人物を、絵画で、彫刻で、映像で、言葉で、あらゆるメディアで、作り上げたイメージ*3そのものを意味する。実態はなく、あくまでなにかしらの媒体を通して、人が誰かを認知するその過程で生まれる現象だ。
*3 作家や演者が、芸名を使って活動するのは、誰でもない空想上の誰かとしての生を全うするため。誰でもない架空の存在は、あくまで作られたものなので、その人間性を無視して、創作物に利用しやすい。
《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE
おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/