Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama
◉終わりのない設定
我々はいつでも「巨大なサービスの一部」として生きている。与えられていると思っている場合も、自らサービスを与える側として機能していたりする。
資本主義経済を基盤とした社会に属すれば「顧客」は常にいて、彼/彼女らは常に新たな問題を提示する。我々受注者は、その問題を解決するためのサービスを考案する。発注を受け、仕組みの中でスムーズに機能するべく考案されたサービスを提供し、顧客は享受する。世界の経済が回り続ける限り、サービスの需要はなくなることはないので、なるはやの供給を繰り返すことが求められる。
顧客から与えられたミッションは、その根幹から常に関わることは難しく、大概はその与えられた達成すべき目的に従う以外の選択肢はない。しかし、顧客から渡される業務は毎度新しい情報として、その度に我々を更新してくれる。それは再開発によって、過去を綺麗に捨て去り、0から街を創り始める都市計画を思い起こさせる。(サービス供給者は与えるだけでなく、経験値や個人的な発見を貯蓄する。それを繰り返す。)
◉スカイブルー
快晴の空はどこか不気味だ。宇宙と地上の境目が失われ、どこまでが空か判然としない。まるで巨大な球体のスクリーン*1を見ているかのようだ。Facebookのロゴ、ポリエステル100%のジップフーディ、有楽町のオフィスビル群の傍、建築資材や取り壊し中の建造物を覆い隠すブルーシートの色、青空を思い起こさせる平滑な色彩表現達は、スカイブルーと名付けられる。青すぎる空はその青さがゆえに、目の前の現実を非現実的に見せる。
◉大雑把コミュニケーション
有楽町のランチタイムは街が賑やかになる。数々の会議の末に作られたのだろう街の景観、そこから見上げたオフィスルームの一つひとつにドラマがある。
しかし、街ゆく人がどのような人であるかを、歩きざまに瞬時に把握することは難しい。大概は、その人が身につけている服などで大雑把にどのようなカテゴリーに属する人間なのかを判断*2する。それはとても記号的な認識の元に行われる。しかし、会話をし、言葉を交わしたりして個人的な関わりが増えれば、その瞬間に目の前の対象は記号的な「人間」という存在ではなくなる。
広告などに掲載されているモデルや俳優を見ている私たちの眼差しにも同じことが言える。画面内に写っている存在はあくまで「偶像」としての人間。決してパーソナルな部分は見せず、あくまで想像やイメージによってそれらを補わせる。そういったメディアの仕組みによって記号的認識は形作られている。
偶像は、写真や映像、絵画、彫刻等、多様なメディアによって作られ得る概念だ。例えば、写真に撮られた瞬間、そこに写っている被写体はその個人というものから離れていく。個人がモチーフになっていようと、そこに描かれた、撮られた*3、彫られた本人は存在せず、代わりに、綿密な設計で作られた「印象(イメージ)」がそこにある。
思い描いた「イメージ」で留めておきたい場合、握手会等は非常に危険だ。会って話せば、そこに本人の匂いがあり、触れば体温を感じる。あくまでイメージ上にしか存在しない偶像が、目の前で熱と臭いを持った生き物としての存在であることを知ってしまったとき、もう二度とそれを知る前のイメージを思い出すことはできないのである。
*3 あくまで、それはその瞬間、ある角度の、ある構図から、その被写体の人物を切り取った情景で、それが印画紙に、カラーならCMYKの4色で、白黒ならK1色で印刷されたものだ。特に写真やポスターなどは、ある限定された個人の視点から見た、ある一瞬が、イメージとしていくつも複製され並ぶ。その光景は、複製技術の作った現実の一つで、人間が本来体験できない。
《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE
おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/