【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#12/成田空港にて part.1

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パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けているグラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)。本連載ではポストシティボーイとして終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都心部におけるイメージを観察。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、都心部における破綻と儚げな美学を見つけていく。第12回目から3回に渡り「成田空港」を取り上げる。
Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉空港化する街

国を移動する飛行機、離発着する空港は、行きも帰りも似た様な内装、照明、椅子に机で構成されていることに気がつく。多少の新旧の違い等はあれど、全く異なる様式の物は少ない。若干色を振りながらも、主に灰色で構成された構造物、機械類は、偏った思想を感じさせない。世界中の多様な文化的背景を持つ人種が行き交う場所で、利用者全員にとって自然で、直感的に理解できる色彩、質感の情報(インフォメーショングラフィック、サイン、プロダクトデザイン、スペースデザイン諸々)になるのは当然だ。

つまり、空港のイメージこそが、現在の世界中の文化の平均値であり、最もプレーンな情報が一堂に介している場所とも考えることができる。今後、人の往来と文化の交流が盛んになればなるほど、私たちの身の周りの情報は空港化*1していくかもしれない。それは誰が望んだことでもないはずだが、そうなってしまったとしても、多分誰も驚きはしない。

*1 銀座通り*2は、まるで空港のお土産売り場だ。人種は異なれど、買い物客という群れが通りを行き来し、まっすぐに伸びる中央通りは動く歩道を思い起こさせる。

*2 銀座通り https://www.tripsavvy.com/the-top-things-to-do-in-ginza-4588805

◉アンチローカルジェネレーション

お祭り*3はローカルの原液みたいだ。「ローカル」は個人単位のつながりが造る盤石な自治的組織。大きなご近所付き合い。それは、お互いの関係性を、ポジティブなものとして保たせることそのものを利益として認識し、行われる。自治体にとっては短期的な儲けよりも、地域間での交流が長い目で見たときの利益になる(もちろん屋台は儲けを出すのに必死だ)。

都会で見かける場所は大概巨大資本により利益追求のためだけに作られているから、なかなか人間臭さを感じることはできない。しかし一方でローカルな和菓子屋は、表層化はされていないものの都市開発という名目のもといつ立ち退きを強要され、100円ショップやらコンビニエンスストアに取って代わられるかもわからない、不安要素を常に持ち合わせている。その点空港にあるものは全て人間臭さがなく、人工的な出来立てのプラスチックのような匂いがする。それ自体が空港のリアル。

空港には最初から、いつ潰れるかもわからないというような不安定さを孕んだ江戸時代から続く老舗店などない。あるのは、老舗店のイメージを参考に作った木材調にカラーリングされたプラスチック製の看板、書家の書いた文字風にPCソフトで作られ、プリントされ、プラスチックケースに入れられたメニュー表だけ。ロビーには寒色系のグレーのタイルカーペットが延々と続く様に敷かれている。コーヒーをこぼしても、速攻で一枚ずつ張り替えられる。

*3 近所で働く社員たちは、カーペットの敷いてある空調の効いた部屋で、お祭りの熱気から逃げコンビニで買ったお茶を飲みながら屋台の飯をいただく。

◉全員でつくる社会のイメージ*4

社会のシステムは私たちを、一般市民として定義づける。その存在は絶対で、その中での個々人の振る舞いが社会全体を構成する。

狂気や鬱といった存在は、人を悩ませるが、常にそれに向き合っているわけにもいかないので、基本的な生活の上では見えないもの、隠すものとして扱われる。

資本主義経済で回る社会は、利益を追求するという基本理念の元で、無意識の内に戒律を作り、それこそが私たちを人たらしめる。それはゆっくりと、あらゆる思考を構成する基盤となり、一つの目標one directionとして人を導く。

その目標を明確にするためにはイメージが必要だ。映画やドラマ、漫画に広告やパッケージ、あらゆる媒体によって作られたイメージは欲望を喚起し、*4呼び起こされた欲望が誰かの努力につながる*5。誰かの努力は、また別の誰かの日々に幸福をもたらす。欲望を作り出すことで巨大な社会が確実に動き出す。イメージは徐々に形をおび、金銭が動き、文化が形成され、そこに生活が形作られる。

経済の仕組みによって予め用意された目的が、人を人として生かしてくれている。サービスを作り出し、またサービスを消費するだけの日々は、断じて卑下されるべきものではないのである。

*4 イメージの力は絶大で、実態はなくともそこには心地が生まれ、同じ事柄でも感じ方が全く異なるものにもなり得る。ハンバーガー一つ食べるにせよ、包装紙の色で、その日の気分は変わる。が、今はそんな贅沢な話がしたい訳ではない。
*5 プラダを着た悪魔で、主人公は急に多忙になるが人生が輝き出す。それは、ファッション業界という社会が彼女に多忙な日々と理想と夢を与えてくれたおかげ。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。

PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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