【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#15/納島にて

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「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。第15回はシティボーイの故郷である東京を離れ、遙か遠く海に囲まれた長崎県平戸諸島の一部として存在する小値賀島のさらに一部の島「納島」を取り上げる。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉最速のスローライフ

長崎県平戸諸島の一部として存在する小値賀島のさらに一部の島「納島」を訪れた。そこではポストシティボーイは宇宙人になったかのような感覚であった。自分と同じ星から来たカラフルなプラスチックゴミが海岸沿いに流れ着く。砕けたトレーの一部や、何かしらの用途があったはずの造形は、役目がなくなったことで、自然の一部として振る舞えることに安心感を覚えているように見えた。

私たちの星、シティボーイの故郷における現代的な生活は、生活にかける時間をより短縮していくために作られた道具によって支えられている。何者かの発明の組み合わせで作られたそれは、どこから来たかわからない宇宙人の飛行物体のようで、まるで信用が置けない。

情報の媒介となることが生活(生きる活動)の根幹をなす私達にとって、島での生活を安易にスローライフとしてくくることはできない。GAFA*1のようなグローバル企業が生み出した魔法によって世界中がつながった今、ネット環境さえあればどこにいる誰とも情報を共有することができる。形になる必要がなくなった情報はより速度を増していく。

都心への物理的な距離から、離島ではわりかし余計なストレス(人混みで肩がぶつかったり、同じオフィスを使う人に気を挨拶をするかどうかで気をつかったり等、大小様々なひと同士のコミュニケーションで起こる摩擦)を抱えることなく仕事をすることができた。どこにいても時代が進んでいくことから逃れられないのなら、そこに何の救済がないと知りながらも、不可逆に進む時間の中で、私たちは社会を更新し続ける他ない。この美学こそをニューメランコリーとして認識している。

*1 Google(グーグル)、Apple(アップル)、Facebook(フェイスブック、2021年10月よりメタに社名変更)、Amazon(アマゾン・ドット・コム)、米国のIT(情報技術)企業大手4社の頭文字をとった略称。インターネット上で消費者の個人情報を集約し、販売や広告に活用するプラットフォーマーとして市場を席巻する企業群を指す。

◉遅いシティボーイとカルチャー

ポストシティボーイとは、高度に発達したはずの情報社会を、何がどう発展したかも気付かぬままに使いこなし、日々を過ごす私たちのことを指す。そんな私たちにとっての最新の文化はもはや都心にはない。最新の情報は、建築や空間デザインを伴って形になっている暇がない。

情報が集まり更新されるはずの都心は、その機能をインターネットやSNSに譲り、最速の情報が集まるそれらを実体験できる場所として、つまり準最速*2な場所になった。

どこにいてもポストシティライフは体現できる。都心という概念は身体性を伴う場所から解放され、どこも都心ではなくなり、逆に言えば、どこでも都心になった。場所に限られることがなくなった生活の中で生まれた意識は、中心のない世界の感覚を端的に表している。

シティは文化が生まれる場所だった。しかし、情報のやり取りを場所でこだわらなくても良くなった時点でそれは形式でしかなくなり、都心は役目を終えた。感覚の共有は土着的な場所から、時間や嗜好を中心としたコミュニケーションに移り変わる。それは同時にカルチャーの発生に起因するが、未だ土着的に作られたカルチャー生成の手法に則っている現在の方法では、真に現在をとらえた文化は形成され得ない。ポストシティ*3における文化は、一つのレゴボックスから無限のパターンを作り出すように、絶えず編集を繰り返し続ける。ポストシティボーイ*4は、カルチャーを作らず様々なカルチャーの編集をし続ける。中心のない世界で中心を作る作業は、古き良き「カルチャー*5」があった時代への懐古。ポストシティは、どこでもないし、どこでもある。

現代の文化の受け取り方、作られ方は、時間軸や場所という文脈から全てが解放されて、もはや「カルチャー」という思考回路を必要としなくなった。絶え間ない永遠の編集作業はそのスピードを上げつづける。この地に足のつかないどこにも拠り所の無い感覚そのものが現在の文化の美学になっていく。

*2 最速である座を譲ってしまった都心は、今では地名という記号としてしか機能しない。

*3 都心に人が集まることで、最新の情報が集まっていた。今はそれが街ではなく画面の中に集約。Wi-Fiさえあればそこが都心。情報の集積と更新の行為の集合体が都心だ。情報が新しくない東京はもはや都心ではない。

*4 そもそもポストシティボーイとはシティボーイという若干時代遅れな言葉に対して、現在の真に都心的な人間は何なのかを提示するために作り上げた造語である。

*5 カルチャー的な物を目指す場所には独特の居心地の悪さがある。それは場所においてもそうで、何もカルチャーの無い場所=オフィスで得られる心地の良さはここにある。

◉破綻への準備

どこにいても海が見える小さな島では、随所随所で例えば貯水タンクであったり、流れ着いたプラスチックを目にし、その度に、人工物というものが如何に人間が人間の生活の生成のために作り積み上げてきた物であるかを感じた。人間は死後分解され、土や草の上で養分となって自然の一部となるが、自然の中では人工物は腐ることなく時が経つごとに積み上がり、そこに残り続ける。

都心での生活を営むことは、その一部として、都心を作ることでもある。そこから物理的な距離を置くと、如何に都心というものが、無数の出会ったことのない誰かの意思によって作られたものであるかを痛感させられる。

おおまかなスケジュールとして提出され、備えることを義務付けられる巨大都市の破滅*6は、一旦であったとしても、「社会」が終わることを確約する。巨大な災害という具体的な破滅のイメージが報道やSNSを通じて流通し、どこに根拠があるかもわからない都心的な生活を少しづつ「破綻」という概念へと慣れさせる。度重なる地震が、都心という街の景色を通じて信じていた仕組みや価値観を崩していく。そして無意識の内に「破綻する都市」のイメージもまた、「ポストシティ」の姿の一部として、生成・普及されているのである。

*6 政府は宮崎県で震度6弱を観測した2024年8月8日の地震を受け、南海トラフ地震の臨時情報「巨大地震注意」を発表。8月15日、呼びかけを終了した。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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