【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#16/吉祥寺にて

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「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。第16回は「吉祥寺」を取り上げる。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉ありすぎる世界で迷子

一部の界隈では「閑静で豊かな暮らしやすい街」として知られる吉祥寺には、カップルのデートや家族の団欒、1人の時間を楽しむなど、個々の行動フォーマットとシチュエーション、ニーズに応じたサービスがバリエーション豊富に揃う。そしてユーザーの多様性と同様にオーナーの多様性も必要数担保されており、個人経営の飲食店も多い一方で、チェーンの居酒屋、カフェ、ファミリーレストランが雑居ビルの至る所に差し込まれているのが特徴だと言えるだろう。ポストシティボーイは贅沢に過ごすためではなく、単に時間を短縮するために家で済ませれば事足りるサービスを自らで負担することなく企業に任せるために飲食店に入る。

ドトールを出て向かうエクセルシオール、そのあとで行くタリーズ。スマートフォン、あるいはPCを充電できる電源のある机とWi-Fiを求め意味もなくうろつく。腹を満たしたい時はより安価に食事を提供するファミレスへと向かう(もちろん充電出来れば尚良し)。

コーヒーチェーン店で、席を取るためだけに頼んだ飲食物の味に大した差はなく、乱立するそれのどこの店に行くかの判断基準は、空き具合と近さにより形成される。

もしあなたが人間を大きな資本主義経済の仕組み、あるいは歯車の一部として扱うサービスから一定の安心感得ているなら、それを享受することで自分もその一部であることに安堵を得ている証拠だ。ぎゅうぎゅう詰めのカフェで、安い紙のカップに入ったコーヒーを啜る時に感じる不甲斐なささえも心地が良い。そんなモノに安心する自分と、その自分を形成した仕組みへ若干の悲しさが趣深いのだ。

◉丁寧なパン屋

「丁寧なパン屋」でパンを買った。黄色調の光と木のテーブルは、手作りのパンの「手作り感」の演出。その奥ではパンをこね、焼き、味をつけたりする。蛍光灯の下で行われるその作業は丁寧なパンの味のイメージとは異なり、煌々とした白いライトの下で食品的に問題がないかどうかが見極められている。

はてその時に、演出されてるのはどちらかが気になってくる。もしかしたら、白い蛍光灯が演出の可能性もある。何も、合理性を求めて安価な素材を用いて、必然的に?なってしまった空間が現実とは限らない。それもタイムカードという仕組みを用いて1分1秒という時間で管理される労働を演出するイメージに過ぎないかもしれない。私たちの生活は常に何が現実かはわからない状態で進む。実態があってもそのイメージが作る現実は常に流動的で、固定されたものではない。

◉デ・キリコ

デ・キリコ*1は神のいない世界を描く、ニューメランコリーでは資本主義経済という神がいなくなった後の世界を描く。じゃあ今までのものはなんだったのか?という。自らの意思と関係なく、程よく一定の労働を積み重ね、“みんな”でがんばれば豊かな暮らしができると信じていた。けど頑張ったのに訪れたのは資本主義経済の限界と崩壊寸前の西洋主義的社会システムの現状。では「豊かさ」とはなんだったのか?という話。

デ・キリコ達が感じた神の死、世界の謎化。それはポストシティボーイが受ける世界の意味の崩壊、実際に建物や道が崩れなくても、既に因果律は外れ、何もかもが現実の目の前の風景のまま、それそのものが崩壊する感覚、新しい破滅の時代の美学。

「豊かな」時代が訪れると信じていたあの頃にはもう戻れない。それは戦争や災害なんかよりもより深刻だ。ジェントルマン達の作ったこの何百年かはまるっと意味のなかったことになる。Apple製品だけがアップグレードを繰り返し、生活が便利になっていく。

ポストシティボーイが対峙しているのは、戦争や疫病による単純な社会不安ではない。結局その先に破滅以外の未来があったとして、そこにどのような理想を抱けば良いかがわからないという事実だ。

*1 ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。イタリアの画家であり彫刻家。簡潔で明瞭な構成を用いて広場や室内を描きながらも、歪んだ遠近法や脈絡のないモチーフの配置など後に自ら「形而上絵画」と名付けた作品群は絶対的な「真の世界」を破棄したいわば「神の死」以降の絵画であるとされる。
参考:長尾天『ジョルジョ・デ・キリコ: 神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』(2020、水声社)

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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