【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#17/「東京」にて

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「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。第17回は「東京」を取り上げる。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉東京の都心らしさ

多くのアニメや映画、雑誌の中で描かれる「東京」は「都心」ではない。それはあくまであらゆるフィクションの中の「東京」であり、架空の都心の姿だ。その仮想現実ともいえる「東京」のイメージを再現し生活するような人々はシティボーイと呼ばれるが、彼らは現実の都心に漂う憂鬱が理解できない。というよりも感知していないだけかもしれない。なぜなら彼等は都心を楽しむために用意されたサービスの顧客であり資本主義経済の模範的な消費者としてそのサービスを享受し都心を「楽しんで」いるからだ。

そもそも「都心」とは中枢としての機能を持ち合わせた都市だ。しかしポストシティボーイを語る際に用いられる「都心」という言葉は、資本主義経済によって生成されたあらゆるイメージや景色のことを指す。バナー広告やスマホのUI、交差点を行き交う人の流れ、電車の車窓から見える重なり合うビル、幅を利かせて歩く薄青いシャツの襟など。都心的なイメージは巨大な資本の影響下にいれば、どの都市にいたとしても多かれ少なかれ遭遇する。

ソフィア・コッポラ監督による映画『ロスト・イン・トランスレーション』(原題:Lost in Translation、2004)は2004年に日本で放映当時、映画内の登場人物達の日本人を見下したような発言や視点が取り沙汰され、日本人からバッシングを受けた。しかし2000年代の日本人があの映画の表現の一部を侮辱として受け取ったのは、人種間での薄い差別感情によるものではなく、監督であるソフィア・コッポラが、戦後日本が多大なる努力と資本の末に築き上げた東京に、すでに儚さと憂いを感じ、かの映画がその視点でもって作られていたからだ。東京の経済的な盛り上がりやそこで提供される数々のサービスは、シティボーイ的な視点を持ち、その価値観に賛同できなければ受け取ることも楽しめるはずもなく、空虚だったに違いない。(現に映画で描かれている、主人公達が薄暗い空間で踊るポールダンサーに挨拶をしてすぐに出るシーンや朝のホテルでカーテンが自動で開くこと呆れと驚きが混ざった表情をするシーンからはすでにポストシティの到来を暗示し、その空っぽさを見事に描写していたといえる)。ソフィア・コッポラは今から20年近く前に東京からポストシティ的な感覚を嗅ぎ取った。

◉蛍光ピンク

東京ではPASMO*1というバス・電車両方使用できるICカードが主に東京メトロ・都営地下鉄・私鉄などの忙しい都心の交通で使用される。このPASMOの文字部分にはもったりとしたピンク色が用いられ多忙さを糧に生きるオフィスワーカーに束の間の優しさを与える。背景部分の薄ら光る灰色によって冷たく合理的な東京的なイメージも担保されている。そしてこのピンク色は、冷たい灰色と組み合わせられることで絶妙な暖かさが生まれる視覚設計がなされている。

そもそも手のひらの色。唇や性器、爪など、人の体にはピンクの部分が多い。それはもっぱら皮膚の下には血管が張り巡らされていることを感じさせるようなピンク色だ。人という存在について、真っ正面から捉えさせる、ナチュラルという言葉で片付けるにはややヘビーな、動物としての人間の様々な部分の色だ。

体とより近いというイメージ付けからか、レパミドビムパットコーラックなど薬の錠剤やパッケージにもこの類の優しさや暖かさを想起させる印象の薄いピンクが使用されるものの、均一に印刷されたそれらからは、人の温かみよりも白衣を着た研究者の姿が連想される。

*1 2007年にサービスを開始した首都圏ICカード相互利用サービス。

PASMOは、関東の私鉄や東京メトロ、都営地下鉄、さらに民間のバス会社などが中心になって作られたもので、それぞれの電子マネー付きICカードに定期券が搭載されたもの。

◉EDM〜繰り返す刹那〜

EDMの楽曲内で淡々と繰り返されるフレーズは底抜けにアッパーで、わかりやすく弾けることができる。たとえどんな境遇にある人でも、あのブレイク、ビルドアップ、ドロップの反覆に身を委ねれば、無意識のうちにポジティブな気持ちを思い出させてくれるだろう。もちろん心地がよいのは一瞬だが、それは一定の時間を経てまた繰り返される。コピペされた軽やかで薄っぺらい刹那的な盛り上がりのループ。新しいことは起こらない分、変化によって何かを失うことはないという居心地の良さと、その先には繰り返ししかないという虚しさに切なさが垣間見える。

Zeddの「Clarity ft. Foxes」やRihannaの「We Found Love ft. Calvin Harris」、Calvin Harrisの「Summer」など一世を風靡したパーティーチューンは若干の寂しさをはらんでいた。それらが妙に心地よく、また流行したのも結局制作サイドである彼らがEDMの盛り上がりの心地よさとその繰り返しの先に何もないことを理解していて、そのメタな状況に耐えられなくなり寂しげなメロディを乗せるほかなかったのだ。無理矢理にでも踊るしかないという状況は何かからの逃避や諦めに近い。

ちなみに、#17の2.ピンク色で人にはピンクな部分が多いと述べたが、EDMのMVやファッションで使用される蛍光ピンクはそれを感じさせないまでに人工的なピンク色だ。刹那的かつ永続的な虚しさを纏ったその色は、ポストシティを象徴する1色といえるかもしれない。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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