【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#18/「上野」にて

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「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。第18回は「上野」を取り上げる。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Photo:Ryo Yoshiya
Edit:Moe Nishiyama

◉煩雑上野シティ

上野駅に位置する上野アメ横商店街は戦後のヤミ市から始まり、今や上野を代表する一つの文化的な公共空間になっている。常に文化が入り混じり歪に進化した商店街は、京成線上野駅が成田空港と直通なこともあり今では観光スポットの一部として毎日世界中から買い物客が集まる。人のごった返した通りでは国際色豊かな商店が立ち並び、全体的に雑多な印象を受ける。その光景からはグローバルというよりも、どちらかというと更新された日本ぽさを感じる。

アメ横の隣にはヨドバシカメラが細長くそそり立つ。建物の中には電化製品が上から下へ所狭しと置かれている。棚の面に貼られているダイソンやAppleの商品画像は、写真の中でイメージが完成されている。それは完璧なライティングで、商品の角度で、背景の白さで、持ち手の不在で、写真の外側の世界ではありえない状況で成り立っている。

写真の中で商品のリアリティに向き合った結果、決して日常生活では目にすることのできない状況での商品が、家電量販店という場で最終的にブランドが押し出す印象となる。スイス・フランスの写真家マキシム・ギュイヨン氏は新即物主義的な視点で数多のブランドで商品イメージを撮影する。ありとあらゆる場所で広告を目にする都心的な生活で頻出する美的感覚だ。しかし撮影者によって見出される心地よいカーブのハイライトや硬質且つ滑らかな質感には既存の美的感覚の枠を超えた美の予感がある。

それは商品に物語を与えるのではなく、あくまで即物的に商品を捉えることを徹底した結果生まれた心地のいい違
和感(対義語:心地の悪い安心感)だ。都心での豊かな生活のイメージや印象として提示された車や腕時計や香水の最も表面の部分を見つめ続けた末に、現実を超える現実*1 が垣間見える。

*1 参考:シュルレアリスム『シュルレアリスムとは何か』巖谷 國士

◉グラフィックデザインの楽しみ方

グラフィックデザインはBtoB的なサービスとして求められるシーンが多い。印刷された紙袋やポスター、その他パッケージや広告は、内容ではなくその表面にある表現(=グラフィックデザイン)の良し悪で消費されることは少ない(という認識で様々な商品のがわの部分として今日も気付かれずにグラフィックデザインは購入され、消費される)*2。

グラフィックデザインは記号の表面として、より多くの人に消費されることを望んでいる。キャンバス地に描かれた油絵などの絵画作品を「時間という縦軸」の中で数百年残ることを想定している情報の伝達媒体であるとするなら、グラフィックデザインは「現在という横軸」での広がり方に重点を置く。数週間で剥がされる耐久性の脆い紙や、商品の持ち帰りにのみ用いる袋、再生するタイミングや機種、画面の明るさ加減など異なる状況の画面で見られることを想定しているwebサイト等(CI等のロゴデザインに関しても時代の変化によって使用する媒体は変更するので、ある程度の期間で更新されることを想定して作られる)。

それゆえ印刷技術による大量生産で完成するグラフィックデザインは絵画と異なり塗り重ねや筆致といった、最終的に目に見えている媒体そのものに時間を感じさせる要素が現れない。より平滑になることを求められた結果、例えばシルクスクリーンの版ズレも、大量の印刷が求められる場合失敗として扱われる。

媒体に限らずオンスクリーンでも特に公共的な立ち振る舞いが求められる広報物は積極的に印刷面に均一さが現れる(それはオフィシャルなイメージを伝達する) 。*3

*2 ポカリスウェットとアクエリアスの違いをパッケージ以外で意識することはあまりない。味の違いというよりも広告やパッケージから受けるイメージを選んでいる。

*3 印刷物は、何かがそこに印刷され、限りなく再現されているという見方もできるが、実際のところ印刷機の動いた機械の跡でしかない。

◉社会のパーツとして社会を俯瞰する(おおつきしゅうとのドローイングについて)

ポストシティボーイは求心力を失ったシティで何を目指しどこに向かえば良いかわからず(どの文化層に自分を当てはめて、何を消費したらいいかがわからず)、かと言ってメン(仕組みを作った男達)を自分に当てはめることもない。シティで提示されるイメージ、そのイメージによって作られた物語を信用できないポストシティボーイ達はシティでの消費、シティの再解釈を試みる。以前の「シティ」は情報の発信源や時代の最先端として「次のビジョンそのもの」として機能していた。しかし現在では場所という記憶が記号としてのみ残され、その思い出を消費し続けている。提示されたシティの隙間・めくれた箇所からニューメランコリーという美的感覚が垣間見える。

都心に暮らすZ世代以降のグラフィックデザイナーおおつきしゅうとのドローイングとクライアントワーク*4 は、都心的な手法をあえて用いながらその空虚さを突き、定調和の方法論へ再考を促す。常に「合理的な振る舞い」を求められるデザイン業務や都心部での「無駄のない生活」に見つけたモダニズム的な価値観への不安や厭世観、憂いがアイデアの根本として設計されている。

《もぬけの形》では公式・公共的な意味合いとして設置される標識を、記号という固定された“意味”にしないことでドローイングに置き換えた。アルミを用いスプレー塗装で平滑に塗装されたテクスチャーは標識の素材とサイズを再現し、意味を抜かれた標識は都心の表層を再現した“もぬけ”な存在として提示された。

Creative Hub “es”UENOで開催された展示では、ドローイングがブラザーの感熱プリンターでA4用紙に印刷され空間全体に分割された状態で掲示される。印刷機の印刷範囲の結果生まれた格子状もドローイングの構成要素に含まれる。

都心の景色を構成するオフィスビルなどの建築物や高速道路等の建造物、または巨大な企業ロゴをもとにして描かれたドローイングは、いわゆるモダニズム的な価値観が集結した結果作られた「都心」に散らばる“硬さ”や“強さ”(しなやかさ、柔らかさの真逆)のイメージが再構成されている。

オフィス用品によって出力され壁一面に画鋲留めで掲示された紙面は、硬さや力強さを感じさせる「都心」的な価値観の持つ儚さを感じさせる。「都心」的な方法によって繋ぎ合わされたドローイングは、『整合性の取れない状態で成り立っている』こと自体が現在の都心的な存在であることを示唆し、いつ壊れるかわからない、或いは最初から存在していなかったのかもしれないという都心の可能性を体感させる。

*4 おおつきしゅうとが行うクライアントワークは、現実としてあらかじめ用意されていたいくつかのイメージから距離をおき、同時に別の手法で現実にアクセスすることを重視している。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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