グラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)は、パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都市部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けてきた。本連載では終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都市におけるイメージを観察し、そこにある破綻と儚げな美学を見つけていく。
Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama
ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
◉工事現場
渋谷に思い出を残してはいけない。「お気に入りのあの店」も、求めてはいけない。いつものメンツと盛り上がったどこかのカラオケや、多分大騒ぎしただあろうチェーン店の居酒屋での飲み会、オールしてクラブに行く途中に寄ったコンビニ。これくらいの具体的な固有名詞をもたない記憶で留めておかなくてはいけない。渋谷は、個人の大切な記憶が残るような街ではないのである。たとえば、渋谷駅は常に工事中*1だ。解体現場と建築現場と利用可能な部分が混在している。そもそも工事現場や解体作業は、時として思い出の場所を奪うが、建て替わった新しい建物は、新たな思い出を形作る。そしてまた、壊される。景色は常に動き続け、一瞬として同じ姿を留めない。変化し続けることこそが、都市の姿なのだ。しかしこのような街の変動の様子には安心感を覚える。それは、プラスチック製品や、本屋に山積みにされた大量の印刷物に抱く感覚と近い。たとえ壊れたり破れたりしても、わざわざ直したりはしない、なぜなら工場は常に稼働し大量生産を繰り返すとわかっているから。この無関心に近い安堵は、巨大な資本主義経済というシステムに対する無意識の信頼のあらわれでもある。だから、安易にその連続した動きのひとつの結果にノスタルジーを感じたりしてはいけない。昨日見たユーチューブの動画の前に流れた5秒の広告、電車に乗ってるときに眺めていたツイッターのリプライ、前までタピオカ屋があったところにできた唐揚げ屋*2、本屋に並ぶ週刊誌の見出し、コンビニ店員と交わす挨拶。立ち替わり入れ替わり、せわしなく変化する情報の渦を、ただ意識もせずに、眺めるのが程良い。
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*1 駅構内の工事現場が消え、新しい構造物や建築が出来上がっているのを見て初めて「工事中」であったことを再確認する。仮説壁が景色の一つとなり、工事現場そのものが風景になっていた。
*2 タピオカ、チーズティー、巨大平唐揚げ。これ等ブームのある食べ物は、食べ物であるというよりは、撮影した写真をSNSにあげた後の残りを体内に接種しているような気さえする。シジミの味噌汁のシジミのような。
◉マドンナ
幾度とない工事を繰り返しながら、渋谷は若者に受け入れられる街で居つづける。その姿は、現在の「MADONNA」の姿と近いのではないか。クイーンオブポップとまで称されたアメリカのスター歌手は、現在、幾度とない整形を繰り返し、自身のSNS上では20代のようなファッションに身を包んだ若々しい姿をポストしている。アンチエイジング、とくに老婆が整形で加齢に逆らうようすは哲学的ですらある。Adobeのソフト・Photoshopによる画像加工技術の力も大きいだろうと想像するが、64歳(2023年現在)という年齢に不釣り合いな肌艶の良さには生老病死の概念をあらためて考えさせられる*3。とくにマドンナに関して、若返りたいという欲求は、最大級の評価を得ていた期間を維持したいという強い意志を感じさせる。そう考えると、老婆がMVやライブでポップソングに合わせてバックダンサーと踊りまくる一見攻めの姿勢は、意外と保守的な思考の果てともとれるかもしれない。しかし興味深いことに、マドンナは2023年6月4日にThe weekendとPlayboi cartiのコラボ曲「popular」を発表した。The weekendは、整形に失敗したような顔の特殊メイクでアワードの授賞式の壇上に上がったり、MV内で自らを猟奇的に殺害したりと、過去のハリウッドのゴシップを俯瞰して捉えた(メタ認知した)ような振る舞いが目立つ。そんなThe weekendとのコラボレーションは、マドンナの行動までもが、実は全て彼女のメタ認知の上で成り立ってたことを示唆させる。つまり、整形も、若々しすぎるSNSも、若い恋人との恋愛も、「マドンナ」というキャラクターの最終章「老いへ抵抗する往年のポップスター」を完成させるにあたって必要不可欠な要素なのだ。「MADONNA」とは、1人の女性の人生を賭けた壮大なエンターテインメント。しかし、現実問題、いつかは向かえる終焉を彼女自身はどの様に受け入れるつもりなのか。マドンナのインスタグラム、画面内の肌理からは、永遠に変わらない「イメージ」としての存在への渇望を感じる。それは、触れたら割れてしまいそうなガラスの様な美しさでななく、着色済みの材料で成形されたプラスチックの質感。
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*3 フィクション内での老婆の整形の描かれ方
映画「未来世紀ブラジル」で、主人公の母と、その知人の整形の描かれかたの対比は特に印象的だ。主人公の母は整形に成功し、回を重ねる毎にまるでヒロインの様に美しく若返るが、母の知人(主人公のお見合い相手の母親)は整形手術をする毎に、合併症を引き起こし、それを治すために整形手術を繰り返し、最終的には衝撃的な姿で主人公と邂逅することになる。
◉スクランブル交差点
都会と田舎をわけるものは、(人工的に作られた)情報の量だ。都会であるということは情報が密であるということ。田舎であるということは情報が疎である*4ということ。人の往来の激しいスクランブル交差点は、都会の中心のイメージ。スクランブル交差点には大型液晶ビジョンが大量にあるが、今やその幾つかは大型液晶ビジョンの広告ばかりが流れている。情報が、大きな画面から手元へと移る。情報が全て手元に収まって、街に看板もロゴも、広告も無くなったら、街に残るのは、様々な質感の外壁を有した四角柱達。コロナ禍に、第1回目の緊急事態宣言が発令された際、午後8時の消灯により、スクランブル交差点の液晶ビジョンの電源が落とされた。電気の付いてないビル群は、まるで人を入れるための大きな箱で、渋谷はその箱を置くバックヤードだった。街の建物の色や形だけが強く意識に残った*5。
*4 田舎の蕎麦屋等でメニューが手書きだと風情を感じるのもこのため。
*5 それはまるで、充電の切れたスマートフォンのようでもある。その美しいRや、鈍く光る銀色な物体を日々持ち歩いている事の不思議さに気づく。
PROFILE
おおつきしゅうと
グラフィックデザイナー。1996年、東京生まれ。
クライアントワークと並行し、アイコニックと複製の関係性、都会のイメージを探求し、ドローイングや書体、書籍を刊行する、おおつきしゅうと自主出版を主催。
https://www.instagram.com/otsukishuto/