「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。第21回は「バンコク」を取り上げる。
Text+Photo+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉旅で覚める夢
「都会」は「誰かの夢(ドリーム)」を大勢で叶えた結果だ。ビルを設計する、ビルを建築する、ビルを建てる、ビルを相続する、ビルを清掃する……。様々な構成要素の組み合わせで出来た景色にはそれぞれの意思が反映、影響を与えながらも、その中心には都会のコンセプト(イメージもしくは夢)が存在する。その「夢を叶える」という意思のもと、都会を形作る些細な物事や出来事、ディティールが集められている。その夢はさまざまな形で共有される。
バンコクは、タイが発展するためのロールモデルとして振る舞う役割を任せられているように、わかりやすく都心的な威光を放っていた。ビルの高さやその煌びやかな造形は、白いシャツを着た背筋のシャンとした艶やかな黒髪の40代の男性を思わせる。雑居ビルの軒下に並ぶ屋台のラジオから、局を紹介するサウンドクリエイターに加工されたであろう効果音と音声が流れてくる。まさにに都心を感じさせる電子音が、まるで夏と風鈴の関係のようにそこにある。
後期資本主義の社会では常に逃げ場が求められる。行き場のない資本主義によって作られたイメージやルールの反復からどう逃れるか、その結果どこかにあるここではないどこかを目指し求め旅に出る。しかし我々はどこまで行っても資本主義経済のイメージに追いつかれる。
そして、各地に散らばる「都会」を織り成す形の微差と多様性に新たな価値観を垣間見る。普段見慣れた地域のそれと比べるといくばくか不自然な広告や店舗のロゴデザインは、自分とは関係のない世界に存在する資本主義の一面を見せてくれる。自分の生活を作り上げてきた経済の活動はイメージを共有し合うゲームに参加しているに過ぎないのだという感覚にさせる。全く興味を持たれない不動産屋の看板は道に転がったまま放って置かれている。
また、どこに行ってもスターバックスから逃げることはできないが、少し勝手が異なり、ローカライズされた注文方法やメニューは、システムがどこでも等しく、絶対的なものではなくて、誰かによって作られた存在であることを痛感させる。無機質で均一な世界を繋ぐ有機的な存在としての「人」の痕跡だ。

◉スマホアプリの濫用が引き起こす明晰夢的日々
LINEからInstagramのリンクへ飛んで、そこからさらに別のウェブサイトのリンクに飛んでそこからInstagramのリンクに飛んで……。アプリ内の遷移は終わらないメタ視点を引き起こす。夢の中で夢を見て、その夢の中で夢を見ている感覚に近い。しかも夢であることを感じながら。PCで画面をわけながら様々なアプリを使用するのとは異なり、スマホでアプリを複数使う場合、一つの画面内で様々なアプリ間を行き交うことになる。スワイプや画面の切り替わりで表示される世界が瞬時に切り替わる。複数の並行世界のレイヤーのどこに自分が存在しているのかわからない感覚に陥り、明晰夢を見ているような夢見心地な体感を引き起こす。*1
特に誰でもアップロード可能な画像・動画の再生プラットフォームの出現は私たちのイメージの消費の仕方を定義する。プラットフォーム上で日々流れる「現実」や「真実」は不確定多数な匿名の「様々な会ったことのない誰か」が恣意的に編集した世界観の集大成だ。この理解が常識となったことで、情報の制御は困難になり*5 結果として異なる正解が同じ時間軸の中で無限に再生*6 されることが当たり前になる。無数の世界観の氾濫は一つの夢を共有することから、複数の夢を夢と理解したまま楽しむ明晰夢的な振る舞いを強要している(中には無理に一つの夢を見続けようと努力する人もいる)。画面から目を引き離した後も目の前の光景が夢か現実かを判断するのは難しい。
*1 「The Backrooms(バックルーム)」*2 はポストシティボーイの憂鬱さを明確に表していた。出ることはできないがそもそもどうやって入ったかもわからない場所は画面外の「現実」(としてあてがわれた空間)に対する私たちの意識と大差がない。(仮に宇宙に行ったとしてもここから出ることは出来ない。読書や映画や音楽など様々な別の現実を覗くための道具を用いて別の現実に束の間の意識を持っていくだけだ。*3
*2 「The Backrooms(バックルーム)」は、匿名の人物が2019年に4chanのスレッドに投稿したクリーピーパスタ*4 に由来するインターネット都市伝説。直訳すると「奥の部屋」を意味する「The Backrooms」は本来「ない」はずのエリア、プレイヤーが認識できないはずのエリアというような意味合いを持ち、建物の内部の廊下やロビー、なにもない部屋といった、人工的・閉鎖的でどこか懐かしさと同時に孤独と不気味さを感じさせる空間を表す「リミナルスペース」と関連した概念である。
*3 抜け出すことができないなら見つめ続けるしかない。新即物主義者達が試みた様に、名前の与えられた道具やサービスを「対象」として認知できるようになったらバックルームそのもので遊ぶことができるのだ。
*4 クリーピーパスタ(英: Creepypasta)とは、インターネット上でコピー・アンド・ペーストを通じて流布している、恐怖を催させる説話や画像のこと。
*5 すべてが物語を作るために作られたものであるというこの共通理解は様々な事態を「メタ認知」することをサーフィンのようなレジャーに変える。例えば日本のコメディ文化「お笑い」のシュールなボケに現れる。その場でのメタな振る舞い自体が笑う対象になる。
*6 スライドするときに無関係に繋がった上下のイメージや、粗い画素数で保存とアップロードを繰り返されるmeme、誰がつぶやいても同じ書体とフォーマットでアップされるテキストなど、プラットフォームそのものや、そこにあるフォーマットにアウラ*7 が宿る。
*7 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが提唱した、芸術作品が持つ「いま、ここ」に存在することによって生まれる一回性、唯一性、権威、存在感などを指す概念。
参照:ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(晶文社、1997)

◉シティで見つける花鳥風月
今の人は自然がなくて人間関係だけ。だからイジメで自殺する人も出てくる。昔の人は平安朝に住んでいた都会人だって、自然から大きな影響を受けて暮らしていた。そのことを「花鳥風月」なんて言っていたんですね。現代人もこの「花鳥風月」を心に持っておくべきだと思います。そうすると人生がとても楽になる。「花鳥風月」っていうのは、人が生きていく上でとても大切なことなんです。
――養老孟司
引用元:https://fqmagazine.jp/73557/what-is-child/
ポストシティボーイは、都心的な要素を持つあらゆるディティールに花鳥風月*8 的な情緒を持って接することができる。仮に電車を例に挙げると、シティで活動する生産者・消費者にとっては時間通りに動く電車は機能的な存在であっても、ポストシティボーイはまるで美術館で彫刻を鑑賞するように電車の手すりの造形を眺め、青山ブックセンターか代官山蔦屋書店に平積みされる欧米や中国から輸入した分厚めのファッション雑誌をめくるように電車を待つ列の人の服装を観察し、主張の少なめなニューバランスを履いた若い男性がApple Watchを付けているのを確認する。
都心の都市デザインに始まり、オフィスの外観・内観、内装、机のデザイン、そこに付されているロゴデザインのディティールをとってもその造形には意図があり、印刷や鉄板の曲げ・塗装など加工のほぼすべてが人の手(機械をオペレートしているのも人であると考えると)によって作り上げられたものだ。さらにその多くは企業の巨大な資本から作られているのもあり、人の意思を超えて、その総意である「理念」がのしかかっている。
精密にデザインされ、管理された都心の景色は、人の意図が色濃く反映されている物体の集合体とも言える。里山をはじめとした森や林であっても人の意図が入り込んでいることは珍しくない。完璧な自然物と人工物というような線引きすることがすでに不可能に近いとも言えるが、少なくともすべての工程で人が手を加える必要がある工業製品と違い、畜産物や植物はそのもの自体が持つ力によって「成長」できるという点で人工的とは少々言い難い。しかしその「成長」の結果、「洗わずそのまま食べられます」という表記付きでパッケージングされた千切りキャベツやサラダチキンを手に取ると、そこには人工的な軽さと心地の良い自然との断絶を感じさせられる。
「都心は疲れる」的感想は、あくまでそこで行われる人同士の意思の受け渡しによって生じている。例えば巨大な灰色の直方体や白や黒のグラデーションで構成された平坦な地面は、そのものが人々に心理的な悪影響を及ぼしているというわけではない。その内容や意味、機能が私たちを疲弊させている。ストレスフルなシティライフに、「都心を即物的に、つまり鑑賞物*9 として嗜む」という視点を持ってみてはいかがだろうか。それは都心の造形を風景として花鳥風月的に嗜み、観賞する、あくまで自然を見る目つきでただ眺めることだ。超巨大なモノリスに太陽光が当たり、そこにできた大きな影が道の色を変える。演算の結果作られた様な精緻な美しさを持った円弧と直線で構成されたパネル*10 は清潔な色合いで、灰色の仕切られた面の上に位置している。
*8 花鳥風月とは、自然の美しさや風情を詠んだ四字熟語である。具体的には、花は春の美しさ、鳥は秋の哀愁、風は夏の涼しさ、月は冬の寂しさをそれぞれ象徴している。また、これらの自然現象を通じて人間の感情や心情を表現することも多い。
参照:実用日本語表現辞典
*9 一方で、都市設計士や建築家の作品としての都心の見方もある。彼らは経済活動の流動そのものをメディウムとして使用してオフィスビルを建て街を作る。彼らの視点から見れば生活者そのものが作品の一部。
*10 ロゴマークはその形と意味が必ずしも一致している訳ではなく、例えば言語が違えば読めないという現象で記号は意味を成なさない形そのものになる。ポストシティボーイの過ごす世界ではすですでに都心は物体が連なっているだけの意味を失った場所だ。シティとポストシティは同じ場所にある。

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/



