【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#22/ポストシティボーイによるポストシティのプレゼンテーション

0

「グラフィックデザイン」には資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められるパブリックな視覚芸術としての側面がある。グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとは、ポストシティボーイとして広告やサイン(符号)などに着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けている。本連載ではポストシティボーイとして、限界の垣間見える社会の構造とその大きな違和感に趣き深さを見出す新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、多様な角度から都心のイメージを観察する。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、現在のシティライフにおける儚げで歪な美学を提案していく。連載も回数を重ね、結局のところポストシティとはなんなのか?とありがたい問い合わせをもらうようになった。そこで第22回はポストシティボーイの捉える「シティ」とはどのようなものなのか、そして「ポストシティ」とはどのような存在かをポストシティボーイの視点をあらためて考察し、プレゼンテーションという形式で紐解いていく。
Text+Photo+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉結局のところ、シティとはなんだったのか

「シティ(あるいは都心的)」という言葉を聞いて、どのような物事を思い浮かべるだろうか。

・最新の流行ファッション
・自動運転のタクシー
・ドバイの超高級ホテルのような超高層マンション

本連載において筆者が用いる「シティ」とは、具体的な都市や都心部のみを表象する言葉ではない。都心的な印象を与える演出的な要素(主に空間、プロダクト、グラフィック、建築、ウェブ、サービスに関するデザインによる)とその表層が、そこで行われる生活や業務において合理的に機能した結果生まれていた世界観やイメージを指す。

演出されたそれらのイメージは共通のデザインシステム上で設計され、機能的な造形美をまとって量産のシステムに則った上で開発、出荷され、手元に届く。そのフローと現物(やサービス)に組み込まれた美意識こそが都心的な世界観そのものを形成する。つまり、「都心」を形作るイメージは産業革命とそこから始まった効率的かつ合理的に生産と生活をすることを心がけた末に生まれた印象そのものであり、常に更新され続ける「現在」もその延長にあたる。



例えば、いわゆる都心的という言葉から思い浮かぶ土地「六本木」を例に挙げてみる。その「都心的」なイメージを分解していくと、六本木通りを走る高速都心環状線、その景色の中でひときわ近未来的な円柱の側面が際立つ六本木ヒルズ、その側面に貼り付けられたイギリス出身のグラフィックデザイナーJonathan Barnbrookが設計した六つの円で構成されたロゴマーク、施設内の飲食店として建物に併設されているマクドナルドの注文タッチパネルのUIデザイン、表示された商品名に使用されているサンセリフ書体、呼び出し番号が表示されるまでを待つカウンター前の行列。都市設計から建築、プロダクト、グラフィック、コミュニケーションに至るまで、すべてが一貫した(あるいは一貫しているとも見て取れる)「都心的」美意識と機能のもとに設計されているといっても過言ではない。この都心的な仕組みに寄り添う合理的な美しさは、もちろん六本木だけでなく様々なまちで、或いは「都心的」な仕組みを内包するスマートフォンを使用している最中に、或いは「都心的」なUI・UXデザインを携えた動画アプリを視聴している際にすでに発現しており、無意識の内に私たち生活者/消費者のベースとなる美的感覚を形成している。

「シティ」という言葉は特定の場所やまちという概念では説明することができない。造形や色彩、触り心地、動き、などで都心的なイメージは様々な時、場、媒体、形式を問わず現れる美意識の概念そのものとも言えるからだ。それら全体を通して一つの世界観や印象を体現し続ける。本連載における「シティ」はそうした概念を意味する。

さて、ここで「ニューメランコリー」は、「ポストシティ」という視点からシティを見た際に随所で感じ入ることのできる儚さげな美しさを表すが、ポストシティとは一体なんなのか?



◉ポストシティ的観点の必要性

「ポストシティ」とは、シティ同様、具体的な場所や空間のみを指す用語ではなく、「シティ(都心的なイメージ)とはそもそもなんだったのか」を探求、観察するために2020年以降*1 の都心的な生活の中で生じた視点」である。言い換えるなら、合理的な暮らしの中で提供される物事やサービス、形成される景観を「シティ的な美意識」によって生じた状況として認識することで、意味、機能、文脈、歴史、言語の外から「シティ」を見つめるための視点。「シティ」とは異なるどこかユートピア的な場所が具体的にあるわけではなく、あくまでシティを「一つの世界観」として認識することで、目の前の景色や世界観そのものは変化せず、それを眺める意識だけが更新される。六本木ヒルズは「日本最大級の複合商業施設」であると同時に、「複合素材で構成された円柱のオブジェ」でもあるのだ。

しかし、そもそもなぜこのように意味や機能の外側からシティを観察する視点が生まれたのか。現代における都心的な価値観の揺らぎに起因するその背景と共に、「ポストシティ」という概念を形成する要因に触れたいと思う。

*1 世界規模で起きた感染症、新たな世界大戦への不安、解決の糸口が見えず置き去りのままの環境問題への諦め、爆発的な技術発展における人間の存在意義への不信等、2020年以降の世界観はわかりやすくパラダイムシフトを迎え、それまでの20年間とは大きく異なるムードを醸し出している。

①DOOM / CRISIS 個人~国家までの存続の危機

度重なる戦争、紛争、核の脅威、ウイルス、災害など、目に見えてわかる地球規模の崩壊の危機は、文化文明が失われる可能性を常に人々に認識させる。人々が愛した、平穏で安定した資本主義の形式的なコミュニケーションさえも失われる可能性があるのであれば、それは慈しみをもってして接することができるだろう。来週分まで合わせた買い物や、1カ月後に設定した納期、2年契約での家賃更新など、生活を行うためのアクションの途中でも、未来の喪失の機会は不定期に私たちの目の前に現れ、この感覚を思い出させる。

②加速度的な技術発展による急速な変化

現在と未来に対する喪失感は別の形でも起こり得る。開発技術の加速度的な発展は日々使用するサービスをスピーディーに更新し、昨日まで当たり前だったアプリの設定が気がついたら変わっている。オンスクリーン上でのサービスの変更は、安定した現実だと思っていたものが誰かによって設計されたものであるという事実を否が応でも突きつける(例えば、いつも乗る電車のドアの開き方の仕様が縦開きから横開きに一夜にして変更されている状況を想像してみてほしい)。

③未来のアーカイブ化

自動生成されるイメージは過去と現在と未来のすべてをアーカイブ化し、ノスタルジーの対象にしてしまうことが可能になった。

④イメージの氾濫による焦燥感
 
動画、画像、再生機器、ソーシャルネットワークサービスの充足による生活圏内で目にするイメージの氾濫が引き起こすのは、目の前の生活に対する実感の減退だ。発信者としての意識が行き渡ったことで生活に含まれるすべての物事がコンテンツになり、体験として享受することが同時に演出にすり替わる。世界中の生活の多くが画面上で瞬時に閲覧可能となり、ランダムに再生され、自分の行動のすべてがデジャブ的な感覚で理解される。自分以外の視点で世界中の至る所で異なる価値観が同列のタイムライン上で同時に一斉に再生されているという意識は焦燥感を引き起こし、なにもしていないのにすべてが使い果たされてしまったような虚しさを思い起こさせるのである。

このような幾つかの生活環境と意識の変化は、シティ(都心的なもの)的な世界観の中で、シティの一部として消費者として過ごす状態から、シティ(都心的なもの)での生活や消費のサイクルをその世界観を充足させるためのレジャーと認識し、その状況自体を自覚的に消費する「ポストシティ的な生活者/消費者」の視点、いわゆるポストシティボーイ的観点を生み出した。あらゆる日常として存在していた価値観が崩れる中、都心という世界観の中のコンテンツで満たされず、コンテンツの外側にあるインフラに着目し、都心的な暮らしや消費行動そのものがエンタメ化するニーズが高まっていると考えている。



◉世界観の更新 シティからポストシティへ

シティからポストシティへと意識を移行するムードは、シティ(都心的)の生活者/消費者/労働者が直接解消困難な問題の乱発による壮大なニヒリズムによって強制的に引き起こされている。しかしそれは突発的に始まったことではなく、そもそものシティという神話への懐疑的な視点に起因する。

産業革命以降の技術発展で生活を構成する空間、プロダクト、グラフィック等のデザインや建築等のモダニズム様式は合理的で機能的な美意識を獲得しつづけているが、歴史の中ではその生活の中に憂鬱さを感じる視点がノイエザハリカイト(新即物主義)*2 という絵画、写真のイズムとして現れた。都心への冷めた(或いは、開き直った)鑑賞態度で、オフィス、工場、労働者、急速に変わった街並みや生活を描く。そこでは、機械化された産業への不信と不安が見て取れる。時代背景としては、産業革命後起こった第一次世界大戦後に勃興した美意識とされている。

本連載では、そもそもシティ(都心的なもの)は無機物へ憧れていたという仮説を元に話が進む。シャツやスラックス、コピー機のデザイン、オフィスビルの造形、ロゴマーク。それらはすべて再生産可能で合理的・効率的な再現性のある存在であり、その世界観に感じていたはずの美意識は機械への、無機物への憧れだったのだ。無機物への憧れから生まれた都心的美意識と快感は、再生産される物事への安堵でもあり、合理的な大量生産に合わせて作られた仕組みとその美意識にそもそも憂鬱さを内在していたとしたら、それはどのように私たちの前に現れていたのか。本編であるエッセイでは、この憂鬱への安堵と美意識である「ニューメランコリー」を、時代のムードとして綴っていく。


*2 新即物主義、ノイエザッハリヒカイト(独: Neue Sachlichkeit)。第1次大戦後のドイツ美術における新しい具象的傾向に対して名づけられた言葉で、マンハイム美術館長、Gustav Friedrich Hartlaub(1884-1963)が主宰した美術展(1925)の名称に由来する。第1次大戦中から戦後にかけてのイタリアの形而上絵画と擬古典主義、ピカソらの新古典主義、ダダの即物志向などから影響を受けながら、敗戦後のドイツでは,戦前の黙示録的、抽象的、情熱的な表現主義への反動として事象を冷静な視覚でとらえるさまざまな傾向が現れた。そこには戦後社会の混乱の中で見いだされた孤独な事物体験、人間疎外、生活態度などが反映している。(出典『改訂新版 世界大百科事典』平凡社)

◉グラフィックデザイナー/アートディレクターである著者がこの連載を書く理由

東京を拠点に活動するグラフィックデザイナー/アートディレクターという、生産者でありながら消費者、都心的生活者である筆者も、「ニューメランコリー」というムードに呑まれていく当事者だ。更新のないグラフィックデザイナー自体の欲望(加速的に社会の構造を回転させ、コーポレートアイデンティティで巨額の利益を生み、広告の再生数が跳ね上がる、等)はその停滞の末に「そもそもこの業務は一体なにを行っているのか?」という疑念へスライドした。この疑念こそが自身のグラフィックデザイン業務における欲望であった。具体的には「平滑さ」というキーワードに興味を持ち始めた。それは都心に充満する退屈さと憂鬱さへの視点の始まりでもあり、シティを観察することでもあった。

都心という世界観の中のコンテンツに満足できず、或いは信用がおけず、コンテンツの外側にあるインフラに着目し始めた際に、改めて都心というものを理解しようとしたことがポストシティボーイの視点の始まりである。グラフィックデザインの工程は、画面上での合理的なレイアウト/データサイズ/印刷という大量生産システム/運送/掲出/放映というスムーズな機能性や流通しやすさなどの社会インフラと密接に繋がっているので、平滑さは必然的に求められる。シティのユーザーでもありながらシステムを作る側の視点からか、資本主義の成長神話やグラフィックデザインの歴史が持つ物語とは距離を置いた観点を持つ必要性を感じていた。

再生産可能なものへの執着、機械に憧れているデザイナーという生産者が、生産の仕組みに儚さを感じながら、一方でカタストロフに苛まれる日々を送る。世界中どこのまちにもあるマクドナルドのデザインシステムは救いですらある。一つしかない生命に対して、延々と需要が繰り返されるユニクロ製品に感じる安心感は、シティが人に望み、また人がシティに望む完璧なまでの平滑な美しさを体現している。

本連載では、「崩壊(カタストロフィ)」という事態そのものを積極的に乗りこなす(消費していく)ことがこれからの新たな消費者像として必要になると考える。批評的な意識が芽生えた都心的な消費者/労働者/生活者は本書では「ポストシティボーイ」と位置付けられ、産業革命から始まる大量生産、大量消費とそれに伴う暮らし、生活、或いはそこで起こるコミュニケーションの変化やインフラ供給の崩壊の兆しに反応を始める存在として扱われる。「ニューメランコリー」という美意識もポストシティボーイの時代への反応、呼応の一つなのである。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE

おおつきしゅうと

1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/postcityboy/

0
この記事が気に入ったら
いいね!しよう