【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#4/新宿にて

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――大きな銀行やオフィスの床の色や、静けさや異様な清潔さ、煌々と光る蛍光灯のように。完璧なロゴやサインの直線と曲線、指定色は異様に美しい。そしてカチッとした文字や機械や建築などの構造物(産業を構成する要素)のもつ安心感と美しさは現実の脆さを際立たせ、この国、強いては資本主義の社会の終わり、インフラの崩壊を感じさせる。(――おおつきしゅうとの雑記録より)グラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)は、パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都市部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けてきた。本連載では終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都市におけるイメージを観察し、そこにある破綻と儚げな美学を見つけていく。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。

◉ポストシティボーイは森に帰れない

新宿駅を降りて、目的地に向かう間、さまざまな情報が目に入る。動画系のSNSをひたすらスクロールしているときと同じ気持ちだ。まとまりのない情報で右往左往。それはそもそも新宿の複雑怪奇な駅の構造に端を発している。

コロナ禍より後、東京2020 オリンピックを通過し、私たちは再び観光地と化した「JAPAN」ないし「TOKYO」をより体感する。それは、駅前の待ち合わせで、世界堂のボールペン売り場で、飲み屋街で、「東京」が「TOKYO」になる中、家族連れの観光客を見るたびに自らの人生も観光資材の一部となるのを俯瞰してみている。

新宿の街中には、簡易に食と性の欲求を叶えるサービスが多数ある。
食も性も、生命の現実的な生々しさが全面に出てしまう。そこで、広告はいかにそれがポジティブで、清潔で、煌びやかを示す必要に駆られ、過剰に描かれたそれ等は、イメージとしてしか存在しない世界を作り上げる。

とくに、風俗、準風俗に値する類の飲食店の広告や看板のグラフィックは異様な魅力を放つ。理想を追い求めた多重な加工*1から生成された、存在しない人間の写真。それは、人間から「人間性」を ⌘コマンド+X *2したことで、生まれた魂のない異様なイメージ。消費の煌びやかなイメージは、繰り返されたコピペで新たな貧しさに向かう。

空腹感や性的な欲求、人間としての本能を満たしたい気持ち。それを、金銭のやり取りを通して、サービスとして享受することしか出来ない空虚さ。そこに生まれる乖離が新宿の虚しさの正体。しかしポストシティボーイは、簡単に森に帰ることも出来ない。この空虚さそのものが我々の故郷だ。何をしたら満たされるかは、まだ誰もわからない。

何をしたら満たされるかは、まだ誰もわからない。

    1. *1 それは、暗い店内で顔の詳細が見えない時にイメージを補完するため。
    1. *1 光を強く当てて、情報を減らした肌の面、茶色や銀、金に染められた髪色は、白人をモデルにしたアニメやゲームののキャラクターの造形。
    *2 選択した項目を切り取り、クリップボードにコピーするMacのキーボードショートカット。はじめからなかったのではなく、あるものを切り抜くことで「ないこと」が際立つ。

 

◉コンビニ

極彩色で彩られたスーパーのお菓子コーナー。豊富な色数は、味やそこに付随する体験を想起させる。情報の陳列。目に刺さる色と、そこに与えられた形。それは人の欲望の答え合わせ。

コンビニのカラーリングは、欲望の色を整頓して、それを綺麗に並べ直したもの。スマートで便利な、合理的な目的に沿って欲望を整理整頓した存在。

もちろん、都心の風景の色はコンビニのコーポレートカラーの組み合わせで認知されている。清潔感と清涼感、安心感、そしてわずかにまだ見ぬ未来*3を彷彿とさせるカラーリング。

街から、製品、画面上の広告に至るまで、そのイメージの連なりは景色のように視界に広がる。世界進出を果たしたコンビニは、帯状のラインで地球の上を球状に覆い尽くす。それは帰るべき故郷のないポストシティボーイのためにある。Googleのロゴの4色を目にすると覚える安心感。それは、トイレに飾ってある印象派の絵画のレプリカを見たときに覚える安堵感に近しい。*4

    1. *3 コンビニから未来感をなくしたら、それはスーパー。
    1. *3 BBQ風味のポテチには無限の可能性を感じる。(たとえ、それがジャガイモをスライスして、そこに味付けという名のコピーライトを付けたものだったとしても。)BBQという体験を、パウダー状にして、嗅覚と味覚だけで再現する。フレーバーの消費は、最も記号的な食事の仕方。その記号を差別化するのは、商品名とコピーライトの内容、そのタイプフェイスのデザインの選択。(10年ほど前に、かき氷を目隠しをして食べたことがある。結果は、どの味も同じであった。結局、色でもってそれまでの経験で得たイメージを補完しているに過ぎなかった。)
    *4 揺らがぬ地位を獲得した大企業の単純明快なロゴ。印象派というグループとして定義された絵画。これらは視覚的なイメージとして、読み取られ方、鑑賞のされ方に一定のガイドが引かれている。安定しているがゆえの精神的故郷ともいえる。

 

◉10秒飯

チャップリンの映画*5のワンシーンで、機械的な労働を強いられる人間は、食事の時間を短縮させられる。自動的に飲食物を流し込まれるた人間は、機械の一部になれる。

ウィダーインゼリーを摂取する様子は見ようによってはガソリンスタンドでの給油シーンにも見える。その他にも、そもそもコンビニで販売されている商品の多くは、簡易な方法での栄養補給の材料だ。短い時間の中で、座りもせず、箸やフォークを使いもせず食事を摂ることを想定されたデザイン設計がなされている。

パッケージに使用される素材にプラスチック*6が多いのは、スタッキングするのに適しているからだ。どこまでも合理的に作られたサービスは、安上がりで簡易的な方法を求めていくがために、消費者の人間性*7からは離れていく。

    1. *5 映画「モダン・タイムス」(Modern Times)はチャールズ・チャップリンが監督・製作・脚本・作曲を担当した喜劇映画。彼特有の皮肉とユーモアで資本主義や機械文明を題材にした本映画では、自動給食マシーンが登場する。
    1. *6 しかし私はパスタのパッケージの、木目調のプリントがなされているデザインにだけは反対したい。人間を人間として生活させたいという作り手の欲が滲み出ている。ロハスな思考は捨てて、より機械的な印象を与えるのに徹するべきだ。
    *7 そもそも、この「人間性」という言葉はの定義する「人間」はどの時代の誰なのか。

 

PROFILE

おおつきしゅうと
グラフィックデザイナー。1996年、東京生まれ。
クライアントワークと並行し、アイコニックと複製の関係性、都会のイメージを探求し、ドローイングや書体、書籍を刊行する、おおつきしゅうと自主出版を主催。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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