【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#5/青山にて

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パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都市部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けているグラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)。本連載ではポストシティボーイとして終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都市におけるイメージを観察。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、都市部における破綻と儚げな美学を見つけていく。第5回目は「青山」を取り上げる。

Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉ふるさとセントラルシティ青山

日本の民謡に「ふるさと」という歌がある。「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」と歌の一節にあるような豊かな自然がなくとも、その地で生まれて育てば、そこは「ふるさと」と呼ばれ、ときにアイデンティティに直結する。それゆえ自分がどこから来た何者なのかを知るには、故郷を知ることが重要だ。第5回目を迎える本連載。ここであらためて「ニューメランコリー」を執筆・制作する理由を考えてみる。

私は東京都港区青山*2で生まれ育った。青山は東京のセントラルシティに位置し、朝から晩まで爽やかなオフィスワーカー*1が出入りする。オフィス街が「ふるさと」である自分にとって、故郷の姿を明確にするためには、まず都心というものを自分の視点から理解する必要があった。自身の制作は、そのための方法の一つと考えている。

制作は、グラフィックデザインのツールや思考法を用いた、美術作品(主に造形詩)の製作と出版が主だ。現在は、特にロゴやサインで用いられる色彩や造形の探求を行っている。意味を与えられた形や色である記号を、意味ではなくただ見えているものとして、つまりは風景として捉え直している。

たとえば、都心には情報が集まるが、情報がなければなにもない*3とも言える。都心では、意味は右から左、上から下、横から横に流れていく。それぞれの情報が複雑に関係し合う中で、その姿形だけを捉えようと試みる。理解しきれない「都心」という存在のイメージの記録に近い。

江戸っ子とは、三代遡って江戸(東京)生まれの人のことをいう。東京のその土地に詳しく、土地に根付いた関係性を持ち、地元という概念を持っている人だ。東京に生まれながら江戸っ子でなければ、祖父母か両親のどちらかが、元々育った土地を離れ、血筋や環境から自身を切り離し、東京の都心で全く新しい生活や自分自身を始めた*4ということになる。つまり、彼ら彼女らは、都心2世、3世的な存在で、(4世から先は、江戸っ子としてカウントされる)東京で暮らしながらも、江戸っ子を名乗る事の出来ない。歴史を持たず、故郷というものが想像できない。

    *1 それは新橋の類とは大きく異なる。
    *2 青山は、位置的に言うと表参道と永田町、六本木の中央に位置している。HONDAを初めとした巨大な企業のオフィスの集合所で、六本木よりも老いた、銀座よりも若い街だ。
    *3 山を切り開いて作ったゴルフ場で、ゴルフをしなければ、そこはゴルフ場とは言えない。
    *4 都心に歴史を持たない民は、大衆文化によって即席の神話を無理やり作り出しているアメリカ合衆国とよく似ている。

◉コンビニエンスコミュニケーション

顔見知りの近所のコンビニ店員と客である私はほぼ毎日会う間柄だが、お互いを知らず、たいした会話もしない。しかし、そこには顔馴染みならではのアイキャッチがあり、常に使われる敬語にも少し砕けた素振りが見え、心地よい距離感がある。

いくらフランチャイズといえど、結局は企業名が店の名前なわけで、関係性はコンビニの店員と客。個人商店の店主と客の様な濃密な関係は築けない。巨大な企業が用意した均質な箱の中で、主にマニュアルに則ったコミュニケーション。お互いに干渉し合わない。

たとえば、個人商店の場合、形あるものはいつか壊れる様に、その関係性はとても繊細なものである。店主が仕入れた品に少しでも問題があれば顧客は離れていく。しかしコンビニはどうだろうか。超巨大企業が日本中(今や世界中?)に出荷する、完璧に管理された商品は、問題なんて起こるはずもなく(問題が起こらない事そのものが問題でもあり)、客と店側は、関係を深めずとも、そのネームバリューで商品内容も把握され、購買につながり、関係は良好に続く。壊れたり割れたりすることがない、落としても割れないプラスチックマグカップの安心感。

◉オフィスウオッチャー

オフィス空間で繰り広げられる無尽蔵な労働の外側から、そこで使用されるホチキスの青色、椅子の背もたれのプラスチック部分の加工*5の質感、エレベーターの眩い照明を観察する。

ビルの窓ガラスはエネラルドグリーンな透明は、macのテキストエディターでテキストを選択した時の色に近く、イメージ上のIT企業に務める男性職員のシャツの色に近い。ビル内部の壁やエレベーターの灰色は、Twitterの画像表示までの間に出るステンレスを思わせるグレー。至って爽やかで落ち着いている透けた青と、平滑な灰色。透けた青と、平滑な灰色。オフィスの地下に入っているのは、チェーン店の見知ったカフェ。天井の高いフロントは近未来的な色合いと質感の壁と高い天井で空港を思い起こさせる。

文化とはローカルで、その対極がグローバル*6に位置する。しかし、グローバルな経済がもたらした経済的効果や、それによって生まれたイメージ、そのイメージが生活者の日々に与える感覚は、ローカルであり、文化である。世界規模で見れば、グローバルキャピタリズム(資本主義)が生み出したイメージは、新たな、そのグローバルをローカルとする種類の人間を生み出した。

都心に生まれ、都心で過ごす人間は、帰る故郷が無く、グローバルな都心が生み出したイメージそのものを故郷とするしかない。つまり、オフィスだって故郷になり得る。当エッセイのタイトル「ニューメランコリー」(という造語)は、このどうしようもない事実を美学として受け入れるという事を示している。

    *5 シボ加工
    *6「最近はグローバルという言葉がよく聞かれるんですが、グローバルというのは僕は経済用語だと思っています。文化を語る言葉ではない。たまたま、世界中でものをつくったり販売したり、あるいは金融システムを標準化したりすることから、ものの生産や物流、組み立てや販売の仕組みを地球規模で展開したほうが無駄がなくて合理的だということになってきた。そういう観点からグローバルという言葉が出てきたわけですが、文化というのは本質的にローカルなものなんです。シシリア島であり、伊豆半島であり、京都であり、北京なんですよ。」【無印良品の理由展 第3回 原研哉氏 】

《ニューメランコリー》

ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。

PROFILE

おおつきしゅうと
グラフィックデザイナー。1996年、東京生まれ。
クライアントワークと並行し、アイコニックと複製の関係性、都会のイメージを探求し、ドローイングや書体、書籍を刊行する、おおつきしゅうと自主出版を主催。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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