【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#6/虎ノ門にて

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パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けているグラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)。本連載ではポストシティボーイとして終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都心部におけるイメージを観察。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、都心部における破綻と儚げな美学を見つけていく。第6回目は「虎ノ門」を取り上げる。
Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉造花

虎ノ門ヒルズは直訳すると「虎ノ門丘」。ビルのことを人工的な「丘」と表しているのだろうか。確かに、ヒルズの中では最も「丘」を感じられるオフィス空間だ。外と直結する緩やかな外階段には、豊かな草木が生い茂っている。

以前虎ノ門ヒルズを通った際、一羽の美しい鳥が外階段の途中で死んでいた。小鳥は自然界離れした白と黒の二色で構成されていて、少し青みがかった灰色のビルと美しくマッチしていた。あまりに美しかったので、もしかしたら剥製だったのかもしれない。

剥製は自然由来で不安定な存在だが、造花は完全な人工物としての安心感がある。花はどんなに美しくても最後は汚く枯れてしまう。ずっと咲いていた方が美しいに決まっているのだ。そもそも、咲いて枯れてを繰り返し、極度に強い色味を放つ自然物である花は、生活における一つの不安要素である。

造花のクオリティは高く、置いてあるだけでは本物の花と見分けがつかない。花における、人間が必要とする部分だけを取り出したプロダクトで、水やりも不要、虫も寄り付かない。自然をその見た目だけで受け取るという愛で方は、人の都合で作られた最も合理的で不条理な美しさと言える。

植物がある一定のパターンで生成を続ける仕組みをもつとするなら、対する造花はプラスチック成形で機械的に量産されていく。花は農園で育てられ、造花は工場で組みたれられる。量産の仕組みは異なりながらも、最終的に同じ見た目になる。

その点、造化は咲いているわけではないから枯れないし。葉の緑色も買ったその日から永遠に変わることがない。*1 一点疑問があるとすれば、造花を美しいと思うとき、造花が模している花の美しさを讃えているのか、その合成布やプラスチックへの着色そのものを美しいとしているのかという問いである。

    *1 マクドナルドのトレーの人工的な緑色は、ハンバーガーや甘味料の入った炭酸飲料等の製品と相性が良い。それは、販売されているのが、何をどうあがいても粗悪なジャンクフードでしかないという事実を浮き彫りにする。

◉近未来の色

90年代前後に上映された、初期の『バットマン』(1989)や、『未来世紀ブラジル』(1985)、『ガタカ』(1997)等、ディストピア系の映画の街並み*2は、少ない窓、巨大な階段、連続する極端に大きい立方体の建造物。これは街のみに限らず、スマートフォン、その中で繰り広げられる何万通りものアプリケーションのデザインのクリーンさに見え隠れする不穏さを予見していたのだと思う。

しかし実際に2000年代を迎え、エコへの意識と共に、爽やかで鮮やかな緑色のクリーンな世界がやってきた。爽やかな緑色は経済的な成長と共に自然を豊かにする未来を見せてくれた。世界中が近代的な生活の上で、平和で健康的に暮らせるイメージを作り上げた。

そこから20年、エコという概念を使い切り、直近の解決が必須な目標、或いは差し迫った問題として、17のカラフルで細分化された概念が提示された。

「エコ」のイメージである具体的な緑色は、世界の自然環境を整えよう!という明確な印象を伝えていた。対して「SDGs」のイメージは、より具体的かつ抽象的な環境への配慮としてざっくりと認知されている。

◉より軽く、より強く

新聞、ポスター、雑誌、テレビ、PC、スマホ。印刷からオンスクリーンに向かい、又、徐々に媒体は体の一部になっていく。自ずと目にする時間が増え、一つあたりの情報を見る時間も減る。SNSは、簡単な情報伝達の仕組みを作り、Memeのような、目に付く/印象に残る、イメージがviewの数を伸ばし蔓延する。*3

いつの時代も、視覚表現は必要。時代に沿って、その支持体と媒体は変化する。SNSのストーリー機能は最速のグラフィックデザイン。

情報をダイレクトに伝えられるアプリケーションで、簡易なテキスト、イメージ、動画での視覚伝達が一般的になった。かつては産業の一部として機能していたグラフィックデザインも、素早く情報を伝えるという技術や、そこで用いられる支持体、媒体をテーマにした芸術の1ジャンルとしての価値を持ち始める。(写真の発明と開発で、絵画の目的がモチーフの記録から、媒体や支持体の探求に向かい、結果として「見る」とは何なのか?という本質を求める一つの芸術分野になったように。)

絵画の主題が、その道具と不可分であるように、グラフィックデザインも扱うテーマと印刷の関係は不可分だ。グラフィックデザインを絵画の1ジャンルと考えるなら、素早く仕上げることを求められている絵とも言える。ペインティングでは不可能な急な修正も、Adobeアプリのillustrater内では簡易に行う事が出来る。

画面上で使用されるグラフィックデザインの使用頻度の増加は、印刷という専門的な知識が無くてもグラフィックデザインを完結させる。そこでは、デザインデータは一枚の画像データとして複雑な印刷の工程を省かれ、スピーディーにアップロードされる。その場に応じて求められる臨機応変な変更への対応は、新たなグラフィックデザインの主題になる。

    *3 アテンション‐エコノミー(attention economy)_人々の関心や注目の度合いが経済的価値を持つという概念。インターネットの普及が、情報量の爆発的増加と情報そのものの価値の低下をもたらし、情報の優劣よりも注目を集めること自体が重要視され、資源または交換財になるという傾向を指す。1997年に米国の社会学者M=ゴールドハーバーが提唱。関心経済。(出典:小学館デジタル大辞泉より)

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。

PROFILE

おおつきしゅうと
グラフィックデザイナー。1996年、東京生まれ。
クライアントワークと並行し、アイコニックと複製の関係性、都会のイメージを探求し、ドローイングや書体、書籍を刊行する、おおつきしゅうと自主出版を主催。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

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