Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama
◉変化
「下町」*1という言葉をきいて誰もが思い浮かべる下町*1文化のアイコン、浅草。現在は日本に住む私たちのみならず、世界中から「下町」こと浅草を目指し訪れる人でまちが賑わう。
まちで完結していた人々の経済的な営みは、観光客の観光資源になる。浅草は「浅草」になり、その次に「ASAKUSA」へと変化した。継承される文化は、外の世界から見た際の最大公約数的なわかりやすさへとシフトする。やけに高価格に設定されている寿司のネタは、ローマ字で表記され、その背景や食べ方、原材料さえも明かされず、音の再現方法のみを伝える。
グローバリズム以降の時代に生を受けた私たちにとって、アメリカに代表されるような西洋文化、経済システム、そしてそれらがもたらしたイメージは、もはや生活の一部を成している。しかし、巨大な時代のうねりは常に止まらず現在進行形。個人の平穏な思い出や生活など気にもせず、グローバリズムは次なるステージを迎え、形は変化し続ける。その行く先にどんな到達地点があるのか、私たちが知ることはできない。
そもそも、国や地域の文化は固定されたものではなく、生活習慣や産業、経済等あらゆるものごとを巻き込みながら、時間の経過と共に形を変えていくものだ。その土地、地域、国のイメージは、その瞬間、その場に流れているた空気によって形成される。都心と都心に住む私たちも「文化」として丸ごと更新される。それはまるで、同じく毎分毎秒脱皮をする生き物のように。*2(動的な変化も、一瞬を切り取れば止まって見えるのだ。その一瞬を、私たちは「文化」と呼んでいる)。
安定していたはずのモダニズム的なイメージ群は、刻々と変化する。生活の中で、今まで建築やプロダクト、ロゴをはじめとしたグラフィックデザインから無意識に享受していた様々な印象、こと安定したイメージは、「完璧に」つくり上げられていたものなのだ。メディアの増加は、不安定さの増す世界をより一層リアルに描く。安定したイメージそのものが、不安要素として感じ取れる世界では、「完璧に」つくられたパッケージの文字やイラストのプリントは、スマホの表面でRGBの3原色で映される異国の惨状と決して不可分ではない。
ブランニュー*3なグローバリズム*4に与えられたのは、新たな平坦さのイメージ。その下で文化は形を変える。憧れは郷愁に、違和感は日常に。新しい感覚が平等に根付く。帝国主義は、手を替え品を替え忍び寄る。未来は必ずやってくるが、車が空を飛ぶような雰囲気は感じられない。現在の世界の情勢は、100年後の社会の教科書にてダイジェストでまとめられてはじめて把握される。
*1 都会で、高台の上町に対して、低地にある町。商工業に従事する町家が密集しているあたり。特に、江戸で、武家屋敷や寺社の多かった山の手に対して、芝、日本橋かいわいから京橋、神田、下谷(したや)、浅草、本所、深川方面の町家の多い地区をいう。現代では、山の手の住宅地区に対して、その東に広がる低地一帯を呼ぶこともある。江戸時代の風情を残し、住む人の庶民的であけっぴろげな気風(きっぷ)や人情味を特色とする。(出典『精選版 日本国語大辞典』)
*2 iPhoneのシステム更新は、残酷にも全てのユーザーに訪れる。誰かが作り上げた仕組みを生活に取り入れるとはそういうことなのだ。
*3 brand-new。真新しいこと。
*4 グローバリズム(英: globalism)とは、地球全体を一つの共同体と見なして、世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想である。字義通り訳すと全球主義であるが、通例では、多国籍企業が国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを表す。(出典『広辞苑第六版』岩波書店)
◉信仰
中世ヨーロッパにおいて、メランコリー(和訳:憂鬱)が信仰の不足から起こる感情だと信じられてきたならば、*5 現在の都心で暮らす人間にとって信仰の対象は、Amazonの箱であり、東京メトロの寸分違わぬ到着時刻であり、いつも変わらないスターバックスのアイスコーヒーの分量に値する。この生活がなにに支えられているかを考え、またそれを信仰し、今日も巨大なシステムが、変わらない日々をつくり上げることに感謝を捧げなくてはいけない。目に見えないシステム *6はこの瞬間も稼働を続ける。都心での信仰の対象は営利目的の産業。金を払って物を買う、金を払ってサービスを享受する、金を作るために働くこと。都心が用意しているものはこれ以外に存在しない。
*5 「(中略)死の恐怖にむすびついた恐れと悲しみを和らげる治療法の基本は、医者に見てもらう前に、祈ることである。神がメランコリーを治癒するのだから。しかし神は媒介的に、活動し作用する。したがって、医師の助けが必要である。(出典『メランコリーと不安―デカルトからライプニッツ、その周辺―』谷川多佳子)
*6 目に見えない巨大な存在が最終的に自分の人生や世界を回収してくれると信じられることは幸せなこと。
◉イメージを飲む
ペプシだろうがコカ・コーラだろうが、薬品の味のする炭酸飲料のイメージは100%体によくないと本能が警告する。しかし、まるで石油会社か何かの色彩で表されたロゴが付されたそれら飲料を口にする体験には化学甘味料と合成化学甘味料を飲んでいることを了承した上で、なににも変え難い心地よさがある。
誰かの手でどこかも知らない場所で作り上げられたペットボトルに口を付け、原産地のわからぬ材料を、想像もできない方法で加工した飲料水を口にする。飲んでいるものがなにかなんて知らずに液体の色とプラスチックのパッケージから得られるイメージで、概ねを予想して体内に入れる。爽やかな、目の覚めるような、落ち着きを取り戻すような、《イメージ》が体に入っていく。
それらがあらわしているのは、少量の破滅的な心理と、白い工場で稼働するロボットアームの生産技術への信頼の証。計算されて割り出された「完璧な」現代の技術が、不定型で、予想のできない未知なる存在への不安を打ち負かす。工業製品は私たちの「ライフライン」だ。
《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。
PROFILE
おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/