【ニューメランコリー】ポストシティーボーイの臨界点#9/表参道にて

0
パブリックな視覚芸術である「グラフィックデザイン」において、特に資本主義経済下にある都心部で訴求力を求められる看板や記号(符号)などの視覚芸術に着目し、それらの収集・リサーチと共に「記号らしきもの」の制作を続けているグラフィックデザイナーのおおつきしゅうと(ポストシティボーイ)。本連載ではポストシティボーイとして終わりゆく社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる新しい視点を「ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)」と定義し、都心部におけるイメージを観察。その過程で制作された「記号らしきもの」とエッセイを通じて、都心部における破綻と儚げな美学を見つけていく。第9回目は「表参道」を取り上げる。
Text+Graphic:SHUTOOTSUKI
Edit:Moe Nishiyama

◉ライムグリーン

どんな時でも広告を見ると心が安らぐ。目の前の現実とは異なる時間軸で語られる夢や理想はフィクションだ。景色に溶け込む、どこかで見たことのある女優や俳優の表情、その背景色に使われている薄い黄緑色がほんのひととき心を潤す。特に表参道の交差点では、名だたるファッションブランドの広告がビルの上辺りに連なる*1。

駅の構内や工事現場など、即時に伝えるべき情報は空間内で強い明度、彩度の差を伴って存在する。赤、黄、青、緑、黒、白。これらを組み合わせた視認性の強い明瞭な色調は、通りすがる者と空間そのものに緊張感を強いる*2。 例えばそれがライムグリーンやらラベンダーやらの組み合わせだと、そのようには機能しない。

一瞬ではなにを意図しているかわからない不明瞭な色が存在できるのは、それだけまちの情報にゆとりのある証拠だ。どこかアンニュイだったり、絶妙に控えめな色の組み合わせは、単なる「情報」に風情と趣を与える。都心を歩きながら広告やロゴに、この赴き深さを感じつつ、新たな春を迎えいれたい。

*1 月ごとか季節ごとかに貼り替えられるそれらは、最先端の洋服とメッセージ、それらを取り巻く身の回りの細々とした道具たちの組み合わせかたを啓蒙してくれる。

*2 きぬた歯科ハウスポートの広告は、警告に用いられる黄色、極彩色のピンクの組み合わせで、生理的に注意を喚起する。風情のなさの極みのような姿には、轟音のノイズミュージックを聴いている際に不意に感じる懐かしみとも悲しみともつかない感情が詰まっている。

◉インターナショナル

世界中で起こっている事象を「見る」には、現地まで赴き自分の目で確かめるほかない。そしてそのためにはそれなりの資金と時間が必要である。ありがたいことに2024年現在、私たちはさまざまな世界の情報をスマートフォンの画面越しで観測することができる。しかし、どこかの誰かが撮影した写真と映像は、なにかしらの意図を内包したイメージとして、地球の上に、無数のパラレルワールドを作り出す。例えば、シチリア島の砂浜に横たわってうたた寝をしているご婦人と、新宿駅LUMINEの信号前で腹痛でうずくまってる若者、彼らは全く異なる世界にいるようで、結局は同じ惑星の上で、同じ1秒を共有している*3。

メディアが発達する以前、人々は、自分たちが生活し移動し得るまちの「外側」の存在について想像する術はなかったはずだ。メディアの数々は、発展する毎に自分の「外側」に広がる日常と思惑と個人の日課までを詳細にを伝える。自分という存在が、遠くの誰かにとっても、逆に「遠くの誰か」であるという感覚が、我々の中で発達していく*4。

*3 この瞬間に発射された人工衛星は、美しい円を描いて地球の周りを回る。点線で見定められた1秒後の進む先を現時刻が追いかける。
*4 tiktokで見かける、アフリカの若者が日本語を無理やり喋る動画。あちらとこちらが強引に繋がれたことで生まれる違和感は、SNSでは(笑)で簡易に片付けられる。

◉カタストロフィ*5

続く戦争と災害と疫病は、「ニューノーマル」*6という標語によってパッケージされ、日常的な光景の一部としてメディアの上で淡々と再生される。アポカリプティック」*7な世界の渦中にいれば、破滅は起こるかもしれない脅威ではなく、起こった時にどう対処すればよいかという、具体的な策を求められる実践の対象に変換される。降りかかる災難からどう生き延びるのかという、サバイブ志向と検証能力が私たちの世代が生きる上での必須条件に加わる。

逃げ惑うのではなく、賢く対処して生き残る姿勢(あるいはスタイル)を獲得することこそが生きる上での知恵であり賢かさの象徴。アーマーやプロテクターをつけたファッション*8は、そのサバイブ志向をアクセサリーとして身に纏うことが「クール」を体現する一つの手法であることを教えてくれる*9。

生き延びることはもはや時代の空気であり、流行。いつ起こるかわからない不測の事態は、備えるものから、起こり得る事態への適切な対処として、私達に認識され始める。カタストロフィはもはや物語の終わりではなく、イントロダクションを象徴する出来事として、生き残った人間が紡ぐ物語の冒頭部分として、描かれる。

*5 [英]catastrophe。大災害や大惨事を意味する英単語である。自然災害や人災、経済的な危機など、大規模で深刻な悪影響を及ぼす出来事を指す。また、劇作品においては、悲劇的な結末や破局を示すこともある。【出典:実用日本語表現辞典】
*6 直訳すると「新しい日常」。2000年代初めにITバブルが崩壊した際、米国で登場したといわれている。2008年のリーマン・ショックや2020年のコロナ禍など世界的な景気悪化が進む時代に使われてきた用語である。
*7 [英]apocalyptic。世界の終末や壮大な破壊を予示するようなという意味をもつ形容詞。
*8 Travis Scottのライブスタイリングは、プロテクターに身を包み、現代と近未来を行き来するスーパーヒーローのような印象を与える。
*9 この感覚はあくまで自分の生活をフィクションとして捉えているから成り立つものでもある。俯瞰し、ゲームのキャラのように斜め後ろから操縦しているような印象を感じる。実際にことが起きたときの痛みだとかそういう現実的な問題は意識の中から外される。

《ニューメランコリー》ニューメランコリーとは、終わりゆく現代の社会の構造に感じる、大きな違和感と破綻に趣き深さを感じる、新しい視点である。グローバル資本主義の台頭する世界で、生まれた瞬間から大都市で過ごしてきたポストシティボーイは、臨界点をむかえた。憂鬱なわけではないが、確実な絶望がある。ニューメランコリー([和]新しい憂鬱)とは、西洋文化への憧れによって形成されてきた文明によって作られた仕組みの限界、その終焉を肌で感じるミレニアム世代以降の、たった今のムードだ。ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazon、etc。世界的大企業が打ち出す施作や商品に、幼い頃から日常的にふれ、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージに囲まれて育った。しかしながら、現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない。それでもなお、破綻することのない経済や生活は、決して灰色ではなく、蛍光灯の下で見る指定色でつくられたコーポレートカラーの上に成り立っている。都心の巨大なビル群、広告、商品パッケージ、出版事業、企業VI、オフィス製品等、巨大なグローバル資本から生まれたイメージはその根本の成り立ちに破綻があるように感じる。このアイデンティティのイメージを観察し、そこにある儚げな美学を見つけたい。

PROFILE

おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/

0
この記事が気に入ったら
いいね!しよう