会期中には、東京藝術大学教授でグラフィックデザイナーの松下計氏を迎え、対話形式のトークセッションが行われた。その模様を収録した本セッションでは、おおつきが提唱する「ポストシティーボーイ/ニューメランコリー」という概念をキーワードに、若い世代におけるグラフィックデザイナーという個の拡張性や、メタデザインのあり方について議論が交わされた。
Text:Chikei Hara
Photo:Kosuke Sasaki
Edit:Moe Nishiyama
◉ポストモダンの幻想と崩壊するシティの当事者
おおつき:グラフィックデザイナーのおおつきしゅうとです。現在展示をしている会場「CREATIVE HUB UENO “es”」のロゴと広報物のデザインも担当しています。中村政人さん(東京ビエンナーレ総合ディレクター)にこの場所の構想時点からお話を聞いていて、このギャラリーがターミナル駅である上野駅に直結しさまざまな乗客が訪れることができる点、ドアの先に町並みが見える特異な場所だと感じました。そこでギャラリーの壁に都心そのものをテーマとするドローイングを表すことで、ギャラリー外に広がる景色を重ね合わせました。この展示に合わせて松下先生に書いていただいた推薦文*1は僕にとってすごく新鮮でした。
この展示は「ポストシティボーイ」*2という活動の延長にあります。僕自身、東京の都心部というシティで生まれ育つ中で、次第に都会に“新しさ”や刺激を求めて訪れ、ライフスタイルとして都市を消費するシティボーイの価値観に違和感を覚えるようになりました。
ここ10年ほどのインターネットカルチャーやソーシャルメディアにおける都市部の若者の表象、さらにはシティポップのリバイバルによって、シティボーイの価値観が繰り返し再生産され続けた結果、もはや新しい価値観に出会うことが難しくなってしまった事実に起因していると考えています。また、コロナ禍の緊急事態宣言期間に、行き交う人々が不在となった都市空間を目の当たりにし、情報が抜けたただのオブジェクトのように見えてしまった経験も、ポストシティボーイの価値観が芽生えたきっかけになりました。そこで都心で楽しく過ごせる方法を考えたとき、シティに溢れる娯楽ではなく、シティそのものを題材として遊ぶ中でクライアントワークのグラフィックデザインや、自主制作、出版活動を捉えることができると思ったわけです。なのでグラフィックデザイナーとして活動はしているけれど、「グラフィックデザイン」とはちょっと違うことをしてるつもりです。松下先生はこれまでシティを作ってきた世代としてどのようにシティを捉えてきたのでしょうか?
松下:僕らの世代はやっぱり1970年に開幕した大阪万博(日本万国博覧会)が大きかったです。2025年にも大阪万博はあるけど、第1回目の大阪万博が開催された当時、僕は小学3年生でした。70年万博はのべ6000万人に及ぶ会場動員数で、国民の6割が足を運んだことになります。それまで東京オリンピック、札幌オリンピックという前段があり、大阪万博へとつながる国策として開催され、戦後日本の復興を掲げるストロングウィルがあって、完全にお祭りの中にいるような盛り上がりだったんですよね。
グラフィックデザインを産業革命以降の工業生産力の発展と、モダニズムによる規格化・標準化を基盤とした近代の産物だとと捉えると、大衆に向けて発信することを前提に、マスメディアやマスプロダクションが起点となり、都市に対する幻想を描いてきたんですよね。 ただし、バブル経済も崩壊し、都市というもの自体が幻想であることも僕自身は背中で感じていている。おそらくこれからの世代はそれを如実化するのであろうと思う。ヴィジュアルはかっこいいけど中身が伴っていないような、それぞれの仕事への中身を問うクリティカリティーの必要性をデザイナーがみんなが感じていて、おおつき君がやってることも恐らくはそれを代表する一つだと思うんですよね。
おおつき:色々な活動をしていくなかで、個々のプロジェクトが徐々にまとまりを帯びるようになってきたと思ったんですね。例えば、2019年に制作した《もぬけの形》では、公共の場に設置される標識を、固定された記号としてではなく、ドローイングとして再解釈しました。アルミ素材にスプレー塗装を施し、標識の素材感やサイズを再現しつつ、意味を取り除いた標識を都市の表層を象徴する“もぬけ”として提示しました。さらに、2023年の《とても真面目な線》では、ロゴやサインのような形状のドローイングを制作し、木版画として印刷する過程で図版が再構築される作品を発表しました。このプロジェクトは出版活動でもあり、最終的な印刷工程において、複製という行為自体を批評する試みでもありました。都市や公共空間における記号やデザインの意味を再考し、その中身や本質を問い直す活動の延長線上に、この展示やエッセイなどの創作もあると考えてます。執筆しているエッセイの編集を担当している西山さんという編集者に、「おおつき君はグラフィックデザイナーじゃなくて、ポストシティボーイだから」と異なる枠組みで捉えられたことに最初驚いたけど、今思うと納得できる話をされたことを思い出しました。
松下:先ほど「グラフィックデザイナーのおおつきです」と自己紹介しましたが、グラフィックデザイナーというよりも、ある種の運動体として機能しているように見えます。今回の展示にしても、この展示一回だけでおおつき君を評価するよりも、一連の運動の中からスライスされたような、フレームワークされた運動の前後を感じる。今の若い世代にはそういうアプローチをしてるデザイナーが多いと感じるので、そこが僕らの世代の表現と違うところなのかな。デザインの文脈で運動体として活動している人に共通しているのが、近代に対する批判精神は持っているが、否定はせず、オマージュを前提にしていること。近代が培ってきたタイプグラフィーや写真の扱い、コミュニケーションの問題は踏襲しながら表現していることが特徴なのかなと思うんですよね。もし本当に「ポスト◯◯」という形で全否定するのなら、全く異なることをすれば成立するはずだけど、そうでもない。おおつき君が扱っている「ニューメランコリー」という概念*3 にもそういう意味は含まれている?
おおつき:先ほど松下先生が背中で感じていると言ってた幻想を、僕らは目の前で見てるようで、だから近代から抜け出すことができないことに憂鬱を感じているのだと思うんです。近代デザインの力強さに憧れを持つ一方で、その後がもうないというか。その他の方法論がわからない切実さも同時に抱えている。例えば都市を離れて山に行き、木版画のような表現を行うデザイナーを見たとしたら、その活動には興味が湧く一方自分とは相入れない、どこか共感できない感覚を覚えることもあると思います。
松下:近代グラフィックデザインは身体に深く根付いていて、無意識のうちにフォーマットとして自動的に作用しているけど、それすら否定して「表現の新しさ」を仕事で提示するよりも、その連続性や運動そのものに価値を見出しているようだね。
おおつき:大きなものを成し遂げることで出来上がったものが果たして有意義なのかどうしても疑いを持ってしまうんですよね。長年使われるロゴが当てはめられた電力会社による原子力事故など、思春期に起こったフィクションではない日常の延長線上の出来事は自分にとって重要で、大きな構造に則って作ることが正しいとは信じられなくなった気がします。ただ、グラフィックデザイナーの仕事はみんなが共通認識できる記号を作ったり、形のない情報を1個のイメージにまとめて大衆に届けることなので、メディアのバリエーションが増えてもその構造は変わらないですよね。
松下:例えば環境問題をテーマに活動してる人が現在の環境を批評しようとすると、環境の中にいる自分自身も同時に批評しなくちゃいけない矛盾が生じる。デザインも常にそうで、デザイナーの自己性が分離する中で、没我精神を持って社会のために身を投じるアノニマスなスタンスと、自身のクリティカリティーを可視化するスタンスが二分して、両軸のバランスを持ち得ることがこれからの世代には重要とされるのかもしれない。デザインの定義とは何か、クライアントやオーダーを超えて自ら問題を見つけ、自分の意思で動くデザイナーの活動が始まってるという気がします。
おおつき:近年評価を得ている僕ら世代よりも少し上の世代から「デザインとは?」とメタに問う表現や手法が増えていると思います。彼ら/彼女らが現代美術の周辺のデザインをしている影響もあるけど、デザインをメタに見ているようにも感じます。
松下:一つの人格の中で個を残しつつ環境を意識する、個と集団の溶け合いが特徴のように感じられますよね。デザイナーが規範化されたメカニズムの中で仕事をしてきたのは事実だし、仕事とデザイナーとしての表現が分離せずに表現を捉えられるフィールドがクライアントの理解や変化とともにだんだん用意されていると思う。
◉非構築な情報の伝達
おおつき:藝大の授業で行った「Which Mirror Do You Want to Lick? (どの鏡を舐めたい?)デザインにおける虚構と現実の狭間」などの活動が若い世代に与える影響をどのように感じていますか?
松下:藝大に長年いると教授陣の考えるデザイン像のテーゼに応じてカリキュラムが作られ、その姿勢に乗るか剃るかを生徒が考えることになるが、デザインの問題をどう読み解くのかという点に主題を置いたカリキュラムにすごく魅力を感じたんですよね。それでクライアントワークのグラフィックデザインとコミュニケーションを育む文化的な形態としての実践を両軸で捉えるデザイン集団åbäkeと協働することにしたんです。フェイクニュースやイメージ編集で正しさの定義が揺らぐ今日、デザインが生み出すのは「虚構」か「真実」か。デザインされたイメージや物体が立ち上げるオルタナティブ・リアリティをテーマに、2016 年のブルノ・ビエンナーレ(チェコ)を皮切りに、デザイン集団åbäkeが中心となり欧米諸国を巡回してきたプロジェクト「Which Mirror Do You Want to Lick?(どの鏡を舐めたい?、略称WMDYWTL?)」の日本版を開催することにしました。実現しなかったデザイン案や実在しないアーティストの作品などをテーマに集めたこの展示は、近年のビジネスやテクノロジー指向の議論からは見えてこない、デザインの意味づけや問いかけとしての側面を浮かび上がらせました。コロナ禍だったこともありåbäkeも来日が叶わない中、オンラインをベースとして東京藝術大学デザイン科の学生、キュレーター、タイプデザイナーが集まり、半年間に及ぶワークショップを経て、その対話をもとに企画展を実施しました。このワークショップで実際に行ったことの7割はデザインの持つ問題や課題を「読み解く作業」だったように思います。
おおつき:リサーチをする中で、グラフィックデザインは通俗的には、効率性の観点からフォーマットやサイズが規定されており、例えばチラシやフライヤーが当たり前のようにA4用紙で印刷されることや、ポスターが大量生産され、公共空間に掲示され貼られること自体が生む安心感など、グラフィックデザインに内在する価値を探すことがすごく大きな出来事でしたね。
松下:生徒からこういう解釈で合ってますかという質問が来ると、「正しいかどうか聞くな」とåbäkeのMakiが答えていたのが印象的だったが、みんな頭の上にクエスチョンがあって、当たっているのか否かはわかんないけど、模索するマインドがすごく学びになったのではないか。いずれにしても最後は仮説を育てて形を作らなくていけないというのは面白かったですよね。
おおつき:絵画や平面の表現は、立体などとは違って実際にはその実体が存在しないじゃないですか。富士山の絵を描いたとしても、目の前にあるのは絵の具があるのみ。グラフィックデザインもそうで、ロゴがあっても目の前にあるのはサービスではなく、イメージを伝達するための造形や色彩。無いのに有るという、ある意味で嘘とも言える存在であることがとても面白いことだと思うんです。自分がグラフィックデザインに取り組むことでものをそのように見ることしかできなくなってるのか、あるいは時代背景から与えられる情報全部の裏側が透けて見え始めているのか。デザイナーはみんなそう考えているのか否かということに関心があります。
松下:僕たちがデザインを学んだ頃は、0.1ミリずれたらアウトという世界が中心にあったけど、今はどちらかというと文脈に沿っていれば良くて、ミリ単位の仕事に対しては割といい加減だけど、形をシビアに規定することで逆にデザインが機能しなくなることへの批判としても捉えられる。もう目の前に答えがあったのに見過ごしてることもたくさんあって、その感覚を取り戻す意思の表れなのかもしれないね。おおつき君の展示を見ても、ある運動やその向こうにある哲学が何なのか、メッセージが届くようなアプローチをしている感じがする。
おおつき:この展示を作るときにも、駅の係員や用務員の方が貼ったようにしたかったんですよね。シビアに画鋲の4点をコンマずれなく埋める方法も最初考えたけど、それはあまりリアルじゃないと感じて、展示として完成度の高い貼り方をするんじゃなくて、街にいる用務員の人が仕事として嫌々貼っている、そういう合理性の中にある違和感を描いた方が面白いと思ってたんです。それでインストーラーにもざっくりな自具だけ渡して組み立ててもらったんですよね。
松下:構築的でないというポーズを視野に入れることが新しい構築なのではないかな。
◉心地のよさと、居心地のわるさ
松下:おおつきくんは自分よりもっと若い世代のことをどのように見てる?
おおつき:「ニューメランコリー」というタイトルも、大学院在学中に自分の世代と近い野良で活動してるアーティストと接する中で感じた自分のテンションやムードから来ているんです。憂鬱でどんよりとしているというより、社会や都市に対してうっすら期待を抱けないというか、うっすらとした憂鬱。根本的な転換があるわけでもなくみんなおそらく普通に生きていくんだけど、どうすればいいか不安になる気持ちが物を作ることにつながっていてそれが興味深かった。その趣深さを形にした方がいいなとおもって、何に憂鬱を感じるのかということを、真正面から見てみようって思ったんですよね。
松下:SNSからの影響はすごく大きい気がして、似た価値観の群がりがコロニーでの評価を照合するエコーチェンバー化が疑問を持ち辛くさせることを、若い人を見ると少し感じるんだよね。こういう風に自分見てますと逆に言いにくい状況がある気がして、今後そうした意見を言えるフィールドがデジタルを通じて出てくるんじゃないかなと期待している。もしかしたらおおつき君がやってるエッセイもその一環なのかもしれないけどね。
おおつき:エッセイを読んで共感してくれる人が多い一方で、おおつきしゅうと個人が感じている現在の都市の感じている違和感や空虚感が一般化されていくと気持ち悪いなとも思うんですよね。憂鬱な現実を見つめたときに、グローバル経済主義の発展によって、日常生活を不自由なく過ごせる一方で、私たちが日々過ごしている現実そのものを観察する機会は少なくなってしまいます。しかし、いざ現実をつぶさに鑑賞しようとすると、それが世界そのものより現実的、つまり“超”現実的な側面を帯びて見えることがあります。
例えば、コロナ禍において東京都が外出自粛を呼びかけた2020年3月、渋谷のスクランブル交差点から人影がほぼ消え、大型ビジョンの映像放映も中止された光景を目の当たりにしました。機能を果たさなくなったビル群の中に、シティにおける新しい現実が垣間見えた。経済活動によって与えられた役割を失った「渋谷109」は、まるでブルータリズム建築のような、コンクリート製の巨大な円柱彫刻のように感じられたのも印象的でした。このように、現実から離れる瞬間に立ち会うことに面白さを感じながらも、いざコミュニティを育もうとすると、その感覚が異なる意味を帯びてしまう。
共同体で共有したいわけでもないけれど、とはいえ自分の視点は共有したいという二つの意識が両立しているようでもあります。運動体の中で行う試みの一環としてこの展示をしていますが、この展示で示したメッセージに共感する属性の人ではなく、自分とは異なる視点のベクトルから面白がってくれる人もいたら、全然違う国や世代の人がいることも理解できて面白く感じられる。変な連帯感が自分と誰かの間に芽生えてると面白い。
本展についてもう少し詳しく解説すると、色がキーワードになっています。例えば僕は辛いものや脂っこいものが食べられないので、空腹でどこに行けばよいかわからないときは、世界中どこにでもあるサブウェイに行くようにしています。グローバルエコノミーが変な輪を繋ぐ感覚があると感じていて、それはデザインの仕組みやシステムも含め、みんなで共有してる日常の一部になっているんですよね。しかもそれが未来に進むための箱船みたいになってるわけではなく、どこに社会が向かうのかわからない不安も抱えている。みんなが共有しているイメージを作ってるのがデザイナーであり、資本主義経済に則った認知、販売流通システムの構築時点から関わっているなと思うんです。大きなグローバルシステムにはカラーシステムがあって、どの国に行っても同じPANTONE(パントーン)*4 やDIC (ディック)のカラーコード*5 での再現が可能になっている。セブンイレブン、無印良品、ユニクロ、IKEA、全てが同じカラーリングによって平滑に再現されていることは色の問題として捉え直すこともできます。世界中に同じトーンがあることは、同じくどの国、どの地域に行っても多くの資本主義経済圏においては管理され整えられた同じ景色に遭遇するといううっすらとした憂鬱としても感じることができる。一方で憂鬱に感じるから嫌うのではなくて、グローバル化したそのロゴ自体に魅力を感じながら、心地の良さと居心地の悪さを共に感じる面白さを捉えている。僕はユニクロのロゴは好きですが、景観に関係なく真っ赤な色がグローバルに出店してマス取りゲームを行うことは支配的であると思います。ロゴの便利さや視認性の高さとその乱暴な怖さには、男性的で尊大なmenの暴力性があって、その構造を全て含めて面白いと思う価値観や視点を、「ニューメランコリー」という美意識として表しているんです。
松下:大きなシステムそのものにフェティシズムを感じてしまうことは、純粋なデザイン愛であるとも言えますね。デザインという概念そのものに善悪が介入しない例として、ドイツのバウハウスとナチスも捉えられる。どちらもデザイン施策だけど同じ強さが諸刃の剣になってるわけです。中身は空っぽに抜け落として仕組みそのものにフェチを感じるっていうのは、純粋なデザイン愛というか、それがある人がデザイナーになっていると思う。
おおつき:でも僕は汎用性の高いものにしていくデザインの純粋な仕組みそのものも男性的だと思うんですよ。シティボーイってボーイじゃないわけですし、浅田彰が『逃走論』で既存の価値観や固定概念から逃れ、より自由で流動的に生きる新しい視点を持つ存在として*6 スキゾ・キッズと言ったことはすごくしっくりきたんです。面白さと心地悪さを同時に思い続けることに批評性があるなと。自己否定をしながら仕事をしていくのがとても大事なんじゃないかなと考えています。自分の取り組んでいるデザインの構造は実際の男性に向けているわけではないけれど、デザインを通じてシステム上のピラミッドを作るような男性的な考えには抗っていきたいと思っています。「men」や「シティ」という言葉を使っているのも、自分が身を置いている構造の中で自分がいかに揺らいでるものか、またそれらを見つめる視点が一瞬でも湧き上がる大きな構造に対して当てているわけですよね。シティの仕組みを使うことに批評性を感じているわけで、そうした大人になることへの気だるさに悩んでる過渡期の人間たちが見ている世界があって、それがシティとして捉えられるか、あるいはポストシティとして捉えられるかは、いろんな人のレイヤーの視点が交差することだとも感じています。
*1 松下計推薦文
『おおつきしゅうとは、都市に残るモダニズムの残像をあえて対象とし、グラフィックデザインの文法を参照しながら、統一性や機能主義が残したアイコンを反芻する。その過程でものの形式美を見つめ直し、背景に潜む社会的文脈や経済的仕組みを再定義しているかのようである。』
*2 ポストシティボーイとは、情報を消費するための場として都心を捉え、都市生活を営む“シティボーイ”とは異なり、都心という空間そのものを消費する方法論を模索する人々を指す造語。
*3 ニューメランコリーとは、終焉に向かいつつある現代の社会の構造に対する感覚を指す。グローバル資本主義の経済合理性が安心感をもたらす一方で、それに伴う漠然とした憂鬱や不安が生み出す趣深さを捉えた、おおつき独自の新たな視点である。
*4 アメリカ合衆国ニュージャージー州に本社を置くPantone社が開発した世界共通の色見本帳。数千種類のカラーがある。
*5 1967年からDIC株式会社(旧大日本インキ)によって作られ、印刷会社やデザイナーなどの間で色の指定や色合わせに利用される代表的な色見本帳。2000種類以上の色があり、日本国内でよく使用されている規格のため、海外の工場で名入れをする場合には使用できない場合がある。
*5 「一定方向のコースを息せききって走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型は、今や終焉を迎えつつある。そのあとに来るものは何か。電子の密室の中に蹲るナルシスとありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾ・キッズ、ソフトな管理とスキゾ的逃走、そのいずれが優勢になるかは、まさしく今このときにかかっているのである。」―浅田彰『逃走論ースキゾキッズ』(筑摩書房、1986)冒険本文より引用)
松下計(グラフィックデザイナー/東京藝術⼤学 美術学部 デザイン科 第4研究室 教授)
1961年生まれ、神奈川県出身。1985年東京藝術大学美術学部デザイン科卒業。1987年同大学院デザイン科ビジュアルデザイン専攻修士課程修了。1990年に松下計デザイン室を設立。1997年にJAGDA新人賞、東京ADC賞、文部科学大臣賞、グッドデザイン賞受賞。2010年よりグラフィックデザイナー、アートディレクターとして、グッドデザイン賞のディレクション、21_21 DESIGN SIGHTの企画展カタログ、特別展「運慶」の広報ディレクションなどを手掛ける。2014年より東京藝術大学附属図書館の館長を務める。
おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/