都市に交錯するグラフィックデザインや無形の情報の集積を、記号的なものとして捉え直すグラフィックデザイナー・おおつきしゅうとによる個展『ニューメランコリー』が、JR上野駅構内のギャラリー「CREATIVE HUB UENO “es”」で開催された。本展では、大企業のロゴやオフィスビルの中にあるインダストリアルデザインなどの一部を切り取る。グローバルエコノミーによって築かれた都心での生活の基盤となる、平滑なサーフェイスを解体し、合理的なデザインを純粋な形として再発見するおおつきのインスタレーションが発表された。この作品は一台の乾熱プリンターによって生産されることで、都市機能の還元を試みる 新たな“デザイン”の在り方を捉えようとしている。
東京芸大絵画科教授・副学長/アーティストであり、本ギャラリーのディレクターを務める中村政人氏を迎えたトークセッションでは、規範化された都市に創造力をもたらすアーティストの役割や、制度の内部から批評を築き、都市の構造に対して直接形を変えようとする行為の必要性について議論が交わされた。
Text:Chikei Hara
Photo:Kosuke Sasaki
Edit:Moe Nishiyama

◉都市との距離とパブリックへの介入
おおつきしゅうと(以下、おおつき):本展示のタイトル「ニューメランコリー」は、都心を観察するなかで生まれた特定の概念から引用しています。現代における都心的なもの*1 、資本主義社会の産物である「明るい未来に向けた、ポジティブで健康的なイメージ」はまちの風景だけにとどまらず、X(旧Twitter)のUIやスクロールの感触、Amazonのロゴなど至るところに浸透していますが、そうした社会の「綺麗」な側面に感じる「憂鬱(メランコリー)」を捉えようとするのが、この概念の核心です。たとえば、どこに行ってもコンビニでシャケおにぎりを買うことができ、ワンクリックでAmazonから商品が届く社会は便利です。しかし、こうした文明の産物が僕たちの未来を更新し、希望をもたらしている実感はあるのかと問われると、正直わからないとしか答えようがない。僕たちの生活に漂う「憂鬱」そのものを真正面から見つめ、その根源を真剣に考えてみようと思いました。グローバル資本主義が築いた、ライフスタイルを支えている基盤がなければ生きていけないようにすら見える社会の価値観に不安を感じることもある。「ニューメランコリー」は、東京を含む都心に暮らすなかで感じる儚さや憂鬱に共鳴する価値観それ自体のことであると定義しています。本展示会場である「CREATIVE HUB UENO “es”」の設立にあたり、ロゴや広報物のデザインを担当させてもらうなかで、中村先生が都心や東京に対して強いこだわりを持って活動されていることを実感しました。これまでどのような形で都市と関わってこられたのでしょうか?
中村政人(以下、中村):若い頃から都市と身体の間に生じる距離の感覚について考え続けてきました。都市で生活していると物理的な距離と心理的な距離が複雑に変化します。ずいぶん昔の話ですが秋田から初めて上京したときに、東京がとても遠い場所に感じられました。そのときに初めて距離感というものを意識するようになり、大学卒業後、展覧会をつくりながら、街中でパフォーマンスや展示を行うゲリラ的な活動も始めました。その一環として行ったのが当時の仲間であった小沢剛さん、会田誠さん、村上隆くんたちとともに、銀座1丁目から8丁目の路上でゲリラ展示「THE GINBURART(ザ・ギンブラート)」*2 。銀座の町会にも挨拶せず、ビルのオーナーの許可も取らずにノンアポイントで実行しました。ただ、それぞれが自分の思いで行動し、個々に自己責任で行うことだけを約束して行動に移したんです。僕はその展示で、金属の無垢の彫刻を道端に置いたのですが、その行為にものすごくドキドキしたのを覚えています。大事な作品を道に放置することでそれまでは意識していなかった空間が、自分のプライベートな感覚によって身近なものに変わり、逆説的に都市との距離がぐっと近くなった瞬間でした。そのほかにいくつか制作した作品のうち、銀座ライオンのビアホールの横の掲示板の上に置いた作品は現在も残り続けています。10センチほどの鉄の棒を並べ、両面テープで固定した作品は、面白いことに掲示板がペンキで塗り直されるときに一緒にメンテナンスされて街のインフラの一部に溶け込んでいます。街を掃除してくれる行政にとっては、カラス除けのように置き物の一部としてみなされ、作品が街中に擬態しているようです。1993年に設置してから何十年も経ち、錆びたり一部が取れたりしていますが、プライベートなちょっとした行為が、公共の空間に31年間も残り続けているわけです。
30年経った今、都市との間に生じる距離の感じ方は大分変わりました。2021年から2年に一度のペースで開催している東京ビエンナーレは、今年で3回目を迎えます。以前はゲリラ的に行っていた活動も、今では企業や町会の人たちと話し合い、計画のもとでプロジェクトを実行する形へと変わりました。この30年間で僕にとって都市との距離は確実に近くなりました。
かつて「ザ・ギンブラート」を行っていたときに表現していた怒り()は、今も変わらず持ち続けています。ただ、今ではそれを相手に悟られないように、周到に計画を立てながら実行するようになった。批評を行うだけでなく、実際に形にし、社会に働きかけることが重要だと感じたからです。アートだからといってメタファーで終わらせるのではなく、徹底的に追い込んで、現実に影響を与える形へと落とし込むことが今の僕には求められています。30年前に、勇気を持って大胆にアクションを起こしていた価値観は今も変わらないけれど、実現する力の質が変わったと言い換えても良いかもしれません。 今では大人のコミュニケーションを重ねながら実現する方法へとシフトして、社会に表現を働きかける際の組み立て方そのものが変化しました。現在、僕は事業家の領域で活動しているため、アート界からの誘いはほとんどなくなりました。しかし、そこにはまた別の「憂鬱」が生まれます。今まで絶対に会えなかったような人たちと出会い、新たな都市との距離感に触れる一方で、かつて路上でゲリラ活動をしていたときのドキドキする感覚は薄れてきている。何かを手に入れることは、同時に何かを手放すことでもあり、そのバランスが「憂鬱」という構造の中に存在しているのではないかと感じています。
おおつき:僕がこの展示で指している都心への憂鬱というのは、グローバルエコノミーによって立ち上げられた都市像に対する手に負えない感覚を指しています。 巨大すぎる企業の理念や、人工的につくられた街に対して、どう関わればいいのかわからない感覚。それは単に会社や自治体に属していないがゆえの疎外感ではなく、個々人のビジョンが都市という巨大な市場において共有できない、あるいは瞬く間に消失し得ることによる憂鬱を捉えようとしています。厳密には世界各地、それぞれに都市の歴史があり、その成り立ちも異なると思うのですが、ここではグローバルエコノミーの影響下における世界中の都市の表層を覆うような価値観だと定義したいと思います。わかりやすい例でいうと、パリに行ってもユニクロやスターバックスがあり、マーケットに蔓延する大きな野望が築いた均質で平滑なものによって「理想都市」を形作る構想が現実として広がっている。かつてはそれが都市計画における理想だったことは理解しています。しかしその夢が現実の空間において叶ってしまった今、この状況をどう受け止めればいいのかわからない不安こそが都市に対する僕、ないしはポストシティボーイの憂鬱の正体なのかもしれません。
中村:都市との距離には自分が感じ取れるものと感じ取れないものの差があり、それが精神状態にも影響を与えるのかもしれませんね。昔から思っていたことですが、都市に住むということは、自分一人で生きているわけではないということです。僕は神田に住んでいますが、 街には昔ながらのコミュニティがある一方で大手町の再開発が大波のように押し寄せ、戦後間もない頃から建っていた低層ビルは次々と高層ビルへと移り変わり、今ではさらに超高層ビルへと変化しつつあります。その現実が、目の前まで差し迫っているのを感じます。一方で、都心における共同幻想は、グローバリズムとともに膨大な床面積を必要とするものへと変貌し、高い地価をフロア単位で分割し、切り売りすることで成立しています。フロア面積で利益を生むビジネスモデルのもと、個人商店が生き残る術はほぼなく、巨大資本のルールの中で勝ち残った者だけがそこに入ることを許される。都市の地価の高騰することで得られる恩恵や付加価値は一見すると高いと言われますが、結局個人の存在感は限りなく薄くなり、企業倫理を優先する資本主義の論理の中で、商売が成り立つための価値観が支配的になってしまっている。その結果、資本主義の全体像としてはコロナ禍を乗り越えることすらできない、脆弱な社会が生まれてしまったわけです。
おおつき:都心の憂鬱を眺めるポストシティボーイとしては、脆弱さそのものを美しさとして捉えていまいました。しかし中村先生の様な都心そのものを魅力的に感じる視点からすると都心であってもコミュニティが必要で、そのコミュニティを成立させるためにはやはり個人商店のような形態のサービスが不可欠という見解でいますか?
中村:一度地価が上がってしまった場所で個人商店が生き残ることは、どう考えても商売として成立しないため、ほぼ不可能です。今の都市のあり方そのものが、このまま続いていく共同幻想が成立する部分と成立しない部分を同時に内包しているのです。300メートルの高層ビルを建てたとしても、フロアが埋まらない事態は当然起こり得る。それは為替を含めた経済価値そのものの信用を揺るがし、アメリカでトランプが大統領に就任したときのように一気に不安定な状況を引き起こします。だからこそ新しい資本主義のあり方をどのように構築するのかというポスト資本主義や、人生の幸福度を優先する考え方も出てくるわけです。クリエイティブエコノミーの観点から考えると、創造性そのものが経済性を持ち、一人の力でも生きていけるような想像力が原資になり得る。 これは金銭的な資本ではなく、ものを生み出す力こそがエネルギーとなり、それがクリエイティブ産業の底力となり、個が成立するための土台となるわけです。僕自身はシティボーイ的な都市との関わりや憂鬱さとは別に、クリエイティブエコノミーをさらに拡大解釈しながら考えています。生き残るための戦略が必要だと思って、2021年から2年に一度のペースで継続して開催している東京ビエンナーレに取り組んでいるように、いかに街とつながるかということを大事にしたいと考えています。

◉憂鬱の根源に触れる
おおつき:「ニューメランコリー」という概念を立ち上げた背景には、不安定な資本主義の中で個人としてどう生き残るか、大きなビジョンを持つ企業に属さない人間としてどう存在し続けるかという現実を直視したいと思ったからです。資本主義が生み出す憂鬱さや清潔さは完璧がゆえに逆説的な不安定さを孕んでいます。過剰に安定した都市の姿に供給が止まった未来を想像することさえできない。例えば、ユニクロが開店時に商品を隙間なく陳列することでユニクロらしさや安心感を演出しているように、私たちはそうした資本主義の仕組みを享受しながら生きています。その安心感を受け入れてしまう自分自身に対する不安すらも、ある種の趣深さとして捉えられるのではないかと思ったのです。つまり、資本主義やグローバルエコノミーの枠組みから逃れることができないのであれば、資本主義そのものを自分たちの批評対象、或いはあはれな感覚で捉える対象として見つめようと考えました。経済的な指標で行われる出来事に乗っかること自体が批評になるような方法を模索し、コンビニやユニクロなどインフラ的な都市の風景も含めて、都心における憂鬱な側面を乗り越えようとするのではなく、むしろその憂鬱さを乗りこなすことを目指そうとしています。
中村:コンビニのサインをそのまま壇上に重ねてストライプ状の絵画にしたり、本物のマクドナルドの「M」を自分で発注して制作した《QSC+mV / V.V》を制作していた2000年代は、ちょうどセブンイレブンが街に広がり始めた時期でした。当時は埼玉の奥地にあるスタジオで暮らしていて、行く先々でコンビニが次々に建ち、深夜になると人々が吸い寄せられるように店内へ入っていく光景を目の当たりにしました。その光を見続けるうちに、精神的には不安を感じながらも、利便性も含めて光そのものが持つ力にある種の美しさを見出したのです。その美しさとは、資本主義の象徴であり、グローバリズムを象徴する記号としてのサインそのものが、都市の憂鬱さを美しく放っているように見えたことにあります。当時はこの光に何か本質的なものがあると感じ、その持つ意味を強調しビジュアル作品としてアートの領域で表現しました。ホワイトキューブという空間に実在するファサードの光を持ち込むことで、余分な要素を排除し光だけを残す。その結果、記号性だけが浮き彫りになり、それ自体が一つの批評になると考えていました。ベネチア・ビエンナーレに出展したときには、高さ4メートル50センチほどの巨大なMを五角形に並べた作品を制作しましたが、この作品を成立させるためには、メーカーと交渉し高度な技術的調整を経て、マニュアルまで作成する必要がありました。それは単なる批評にとどまるものではなく、最終的に直談判する必要がありました。当時のマクドナルド会長であった藤田田氏と直接話をする機会があり、「よくわからないけれど、マクドナルドの看板がアートだと言われるのは嬉しい」なんて言われたり、作品を世界各地で展示を行う都度、各国のマクドナルドのトップと交渉し許可を得た結果、最終的には「マクドナルド20周年記念誌」に寄稿の依頼が来るなど、予想外の展開も生まれました。批評とは一方的に相手を否定することではなく、批評によって相手の意識に変化をもたらすことが重要です。企業の内側に入り、そこで堂々と批評することで、ある種の神秘的な光の美しさを強調できるのなら、その批評の方法にも意味があると感じました。この作品を制作した当時から自分が批評対象の内部へ入り込む感覚を持ち、批評や批判からさらに一歩踏み込み、憂鬱さの根本的な原因にアプローチするあり方について考えてきました。解決できるかどうかは分からなくても、人々の行動変容を促すところまで踏み込む必要があると思ったからです。

“QSC+mV/V.V” 2001 m works are installed in the pentagon each 5420x4400x400mm Installation view at the Japan Pavillion, 49th Venice Biennale
Photo by Masato Nakamura
おおつき:僕自身がグラフィックデザインに取り組んでいるのも同様の理由なのかもしれません。 ギャラリーの中で批評をするだけでは特定の層との会話にとどまってしまうからこそ、グラフィックデザイナーとして、都心の仕組みの一部になることを選択しています。クライアントワークでは与えられた媒体を使って表現を行うので、仕組みの中で批評的な議論を生み出す起爆剤をクライアントに提示し、そこから最終的な消費者にもその視点を共有する場だと捉えています。一方で自主的な活動では、そもそも媒体が与えられていないため、どのような媒体をつくるかというところから制作が始まるのです。クライアントワークでは既存のシステムの中で批評を生み出し、自主的な活動では、そのシステム自体を構築することから始める。そうした両軸でグラフィックデザイナーとして都市や社会と関わっているのだと思います。
中村:アートや自己表現が介在するとき、自分に純粋でありたいという気持ちが人一倍強く生まれることがありますよね。どんな企業と仕事をするときも、あるいはアーティストとしてクライアントワークの中に入るときも、その姿勢は変わらず単に頼まれたことをやるのではなく自分の考えを持ち込む姿勢は変わらないスタンスとして僕も持っています。僕は0と1の間にある0の部分、あるいはマイナスから始まるような貪欲な状態を経なければ、1にたどり着く喜びを得られない不思議なタイプの人間なんです。 これは都市との距離の話ともつながっていて、僕の中には常にストレスや憂鬱、あるいは怒りがあってそれが消えることはありません。僕自身はポストシティボーイだとは思っていませんが、都心に暮らす者としてこの憂鬱さに対するリアリティは常に意識の中にあり、それはある種の美意識にもつながっている。今日の話を聞いてその点にシンパシーを感じました。
おおつき:ニューメランコリーという言葉についてどのように受け取りましたか?
中村:若い頃に感じていたストレスや他者に対してのみならず、行動できない、関係構築できない自分に対しても抱いていた怒りのようなものが、都市が築いてきた合理性に対する違和感と結びついていたと思う。つまり都心という空間の持つある種の合理性への反発が、内在するストレスとしてあった。 そのストレスを過剰なストレスとして捉えるのではなく、表現の衝動に変えることで別の形にストレスを昇華させる原動力になっていたのかもしれない。

◉都市をこえる想像力
おおつき:中村先生の著書『アートプロジェクトの文化資本論 3331から東京ビエンナーレへ』(晶文社、2021)で表されていた「街を超えろ」という言葉に刺激を受けました。その先にどのような未来や東京の姿をイメージしているのでしょうか?
中村:「街を超えろ」というメッセージは、遠慮をするなという思いにも近いところがあります。大江健三郎の小説『見るまえに跳べ』(新潮社、1974)から引用しているのですが、このタイトルが気に入り3331 Arts Chiyoda*3 の立ち上げの際にも、同名のタイトルで柿落とし展示を企画しました。大江健三郎がこの書籍を執筆した当時はいわゆる学園紛争期で、学生たちがさまざまな議論を交わし、政治に対する反発や議論の中で、ただ口だけで終わって行動しない人たちに対して「いいから、見る前に飛ぼうぜ」と促す意思に由来するタイトルだと感じています。つまりまずは行動すること、そして考えすぎて飛ぶ勇気が出ない状態を打破するための呼びかけであり、それは創造性そのものを喚起するエネルギーの原点への問いに直結しています。僕自身を奮い立たせるためにもこの「飛べ、超えろ」という考え方を自書でも書いてきました。自分にも他人にも遠慮せず、はっきりと言葉にする重要性と、受け止める側が忖度するのではなく、寛容に受け止める力を持っている状態でなければ、批評と包容のバランスが取れず、人々の想像力が十分に発揮されにくい状況が生まれてしまうと気づいたのです。アートの面白さというのは、創造性がどこまで行っても良いということ、つまり受け止める側がその創造性をしっかり受け止め続ければ、どこまでもやれるということにあります。一方で現実の都市には多くのルールが存在し規制が敷かれることがしばしばですが、その中でルールを超える力、すなわち現状を打破するエネルギーが重要であると伝えたかったのです。
おおつき:「超えろ」という言葉が、まさに想像力を喚起するものだとすごく納得しました。それを踏まえ、大きなビジョンがあった時代から、大きなビジョンがない時代へと変化した自覚が、都市の生活者としてあります。人々が創造力を持ちづらくなってしまったと言い換えてもいいですが、創造を続けることを前提に進んでいく意識を持っていても、社会に成長や何かを乗り越えるビジョンがないことで、明確なイメージがないまま進んでいく不安も同時に持ち合わせています。そのような話題は同世代の人たちと話していると、よく出てくる話題でもあるんです。
中村:今はそういう時代になったんですよね。僕もこうして人前にいるから立派なことを言ってるけれど、それでもやっぱり悩むし弱い部分は弱いままです。一個人の意見としては1992年に大韓民国政府招待奨学生としてソウルに留学した経験が、僕の創造力を強くしたのかもしれないですね。僕が留学した1990年代の韓国は軍事政権下で、盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の時代でした。その前の朴正煕(パク・チョンヒ)政権から続き、クーデターで国をひっくり返した人たちの統治下にあった。そうした状況下で初めて日本人の留学生として行ったから、周囲の視線はかなり厳しかった。*4 酒を飲みながら楽しく話すこともあったけれど、ある段階になると必ず歴史の話になり、日本人であることが原因で批判される。それは反論もできないしひたすら受け止めるしかなかった。毎日のように、「お前、日本人として何をしに来たか」という問いにうまく答えられない自分に苛立ちを感じながらも、韓国の人たちはとてもおおらかで、激しい議論を交わした翌日にはケロッと仲直りしていた。そんな環境の中で過ごしていたけれど、今の韓国は、僕の世代が経験した軍事政権下の社会から、エンターテインメントや産業が世界レベルにまで成長し、日本をはるかに超えてしまった。僕が韓国に行ったのはバブル期の日本で生活していてただ浮かれている人たちを見て、ここでは一緒に仕事ができないと感じたことがきっかけだった。だからあえて厳しい軍事政権下の韓国に留学してプレッシャーに打ち勝つ経験をしたことが、自分にとって大きな意味を持つようになった。当時発展途上であった韓国で純粋であることの大切さを教えてもらったことが、価値観を揺るがすとても大きな体験になりました。2015年に開催した「明るい絶望」という個展のタイトルには、韓国で話した彼らが抱えていたとても苦しい状況の中でも明るく生き抜くたくましさが込められています。時代を共有しているからこそ生まれる連帯感のようなものだと感じたからです。今はインターネットの時代になり、個人の心のひだのようなものが可視化されるようになった。すると、その繊細な部分同士が接触し、反応し合うことで、ようやく分かち合える言葉や共有できるイメージが生まれるようになった。僕らの世代はそうした感情を内に抑え、言葉にしないままに会話を続けることで、楽しさを生み出してきた。 苦しみや葛藤をあえて言葉にせず、でも確かにそこにあるものとして認識しながら、対話を続けることで、何か新しいものが生まれるのかもしれないと信じてきました。ただそうした連帯感や絶望を打破する価値観を今の若い人たちと共有しようとするのは正直難しいとも感じます。今の学生たちを見ていると、辛さをすぐに言葉にすることで、息継ぎをしているような感じがして良悪ではなくそういう生き方が定着したのだと思います。呼吸するように辛さを言葉にする時代になっているからこそ、逆に生きづらさも生まれているような気がするね。
おおつき:SNSの広がりが個人視点でのかたりを可能にしたからこそ生まれた「憂鬱さを共有したい」という感情も、都心的な仕組みによって生まれた日常の風景ですね。。単純に憂鬱を愚痴として吐露することについてではなくて、僕自身はその憂鬱さを美しいものとして見つめ、趣深さを感じたいという気持ちを持っています。この姿勢はインターネット以前以後の時代感などを超えて、一つの美意識としてのアンチテーゼでありたいと考えています。
中村:個がメディア化していくというか、感覚を共有するために共有のプラットフォームを作ることで、概念をもとに対話を求めていく姿勢は非常に大事ですよね。若い頃は上の世代を全否定し既存のやり方をダメだと考えていましたが、それは単なる否定ではなく、自分が何も生み出せないことへの悔しさだと気づきました。世代を超えて前の時代をつくった人たちと戦うというより、彼らがつくったものをどのように更新し、変えていくかを考えるほうが重要になっている。そのためには賛同できる点とできない点を自分で発見し、言語化する力が必要だと思います。誰しもに大きな岐路に立つ瞬間があるが、文脈や歴史の流れ、その土地や空間が持つ気配のようなものを読み取る力が必要になる。だからこそ、物事の全体像を受け止めるために、対話と調査が不可欠だと考えている。
おおつき:中村先生が築こうとしている芸術文化を街中で創造するあり方も、そのような意識のもとで広がりつつあるということですね。
中村:街には本当にいろんな表情がある。単に人間の精神的な問題だけでなく、人間がつくり上げてきた景観、物事の連続性がもたらすものでもあるわけです。建物があり、道路があり、橋があり 、そうした都市の要素が連続する中に、一つの心理が宿り人との出会いや景観の変化を感じる。その中で、これは見たことがないなと思うものに強く反応し、自分なりの文脈で捉え直すことで、今まで見てきたものと接続してみると、目の前にあるものが異なる姿で見えるようになる。この場所で新たな接点が生まれたら流れが変わるかもしれない、より良い方向に動くんじゃないかなと、そうした積み重ねで未来が見えてくるようになった。そうした構造が読み解けると、やれることが増えてくるどころか、 60を過ぎて、むしろ今のほうがやれることが多くなった実感があります。不思議な話だけど今までドキドキしながら向き合ってきた都市との距離が、遠かったものが近くなり、逆に近かったものが遠くなったような感覚もある。でも、これからが本当に面白いことを始められる気がしている。 まるで新たなスタートラインに立っているような感じがする。その未来に3331を超えた新しい未来の拠点のあり方も見据えています。
おおつき:都心への働きかけとしては共通したトピックを持ちながらも、「街自体を更新する」という中村先生と「街への視点を変化させる」というポストシティボーイとでそれぞれ都心に持つ認識の違いが明確になったことはとても興味深かったです。都心という存在の魅力は、個人と都心の関わりは固定化された一つのものではなく、常に自ら変換していく可能性が広がっている場所なのだということを痛感しました。
*1 ユニクロ、マック、サブウェイ、スタバ、Google、Amazonなどの世界的大企業を筆頭に打ち出される、明るい未来に向けたポジティブで健康的なイメージや商品(現実世界は決して明るく健康的だとは限らず、その距離は計り知れない)。
*2 1993年4月4日〜18日にかけ、貸画廊が軒を連ねる東京・銀座の路上で行われた展覧会。中村をはじめ、岩井成昭、飯田啓子、小沢剛、申明銀、西原みん、ピーター・ベラーズ、村上隆の8名が、銀座1丁目から8丁目の各所で、展示・パフォーマンスを発表。さらに会田誠、宇治野宗輝、謝林、鈴木真吾、パルコ木下、スモール・ヴィレッジ・センター(小沢剛、村上隆、中ザワヒデキ)ら26名がゲスト・アーティストとして参加した。
*3 2010年に旧練成中学校を利用して誕生し2023年に閉館した、アーティスト主導、民設民営のアートセンター。館内には、アートギャラリー、オフィス、カフェなどが入居し、展覧会だけでなくワークショップや講演会といった文化的活動の拠点となっていた。無料で開放されるフリースペースには、第一線で活躍するアーティストやクリエイターから、地域の子供たちまでが集う場所となった。
*4 1990年代初頭の韓国は、軍事政権から民主化への過渡期にあり、慰安婦問題の表面化などを契機に歴史認識や対日感情が再び社会問題として浮上していた。政治的・社会的文脈の中で、政府招待による日本人留学生は、単なる学術交流の対象ではなく、歴史的な加害責任や国家関係を映し出す象徴的存在として位置づけられ、周囲から複雑な視線を向けられる存在となっていたことが推測される。

中村政人
アーティスト。1963年秋田県大館市生まれ。「アート×コミュニティ×産業」の新たな繋がりを生み出すアートプロジェクトを進める社会派アーティスト。第49回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館(2001年)に出品。「The Ginburart」(銀座、1993年)、「新宿少年アート」(歌舞伎町、1994年)でのゲリラ型ストリート・アート展。1998年からアーティストイニシアティブコマンドNを主宰。秋葉原電気街を舞台に行なわれた国際ビデオアート展「秋葉原TV」(1999-2000年)、「ヒミング」(富山県氷見市)、「ゼロダテ」(秋田県大館市)など、地域コミュニティの新しい場をつくり出すアートプロジェクトを多数展開。第一回・二回の東京ビエンナーレ総合ディレクター。「東京ビエンナーレ2025」プロデューサー、「千葉市国際芸術祭2025」総合ディレクター。
おおつきしゅうと
1996年生まれ。東京生まれ。グラフィックデザイナー。主に、文化事業にまつわる宣伝広告やロゴマークなどを制作。クライアントワークと並行し、アイコニックと複製イメージと都会の関係性を探求し、ドローイングや書体、テキストを自主的に制作し、発行している。
https://www.instagram.com/otsukishuto/



