映画を観た後、小説を読んだ後の帰り道に、私にみえている風景が変容しているように感じられてしまうのと同様に、作品を鑑賞した後に、街の見え方が全く変わってしまう経験がある。「白昼夢的歩行のための万物レビュー」では、散歩や移動に関して私たちが何を見ているのか理解するために、制度的に芸術作品と呼ばれるもののみならず、さまざまな事象を右往左往しながら思考+実験を行なっていく。
第1回では日常の中で見つけたモノや空間が持つ秩序に、表現手法としての人為が介入することで立ち現れる「かたち」の面白さを探求しているアーティスト・速水一樹の作品をとりあげようと思う。速水の実践は、作品の構造自体に、街歩きに生じる風景の二重化の生成が孕まれている。散歩するものの身体性が制作行為、ひいては観賞行為と深く関与している作品であるため、初回の題材としてふさわしいと考えた。本稿は①作品の構造、制作者の歩行する身体の文章による記述、②観察者の歩行する身体についてのグラフィックによる記述によって構成される。
Photo:Joh Rimon
Text+Edit:Junpei Ito
展示が有する三つの様態
展示が行われる大久保分校スタートアップミュージアム*1(以下大久保分校)がある栃木県足利市は、速水一樹の生まれ育った地元でもある。本展示は、〈bomb〉と名付けられる木材のユニットからなる構造物を足利の路上空間に配置した「写真(インクジェットプリント)」と「映像(プロジェクターによる投影)」、「実際に使用された〈bomb〉(組み立て前、組み立て後の両方)」の3種類から構成されている。ユニットの組み合わせからなる幾何学図形の配置された路地の写真は、足利の中心市街から展示会場のある大久保分校までの道のりで撮影されたもの。展示会場には木材のユニットが組み合わされる瞬間が写真作品として、またその瞬間を立ち上げる制作者の手つき、加えて〈bomb〉が積み上げられる場所自体の記録が映像作品として配置されている。
左・写真1/右・写真2
本稿では展示「道草のプラクティス」を三つの様態に基づいて記述する。「道草のプラクティス」において、制作物は写真作品として観られることを想定している(写真1)ことから、まずは「写真」で起こっていることを一つ目の様態としてレビューを行う。
続いて「映像」に着目する。会場では「写真」を成立させるためのドキュメンタリーとして、制作プロセス自体が映像作品となっている(写真2)。すなわち、写真-映像を往復する視点の示唆が第二の様態となる。本稿では展示会場「内」の作品鑑賞を通じて生じていたことを前編とし、文章によるレビューとして記述する。
一方、第三の様態は、作品そのものを離れて足利の土地を歩く観察者の身体に起こることと考える。展示会場がある大久保分校は、〈bomb〉がかつてあった地点が紡ぎ出す経路の終着点である。速水が展示において、足利市街を何らかの形で経由するであろう来場者の経験を含めて想定しているとすれば、「足利の街を歩く」ということが観察者に引き起こす事象も作品の射程にあるのではないか。この問いに対する答えは歩行者の数だけ複数化する。よって後編で扱う第三の様態は、展示会場「外」の作品鑑賞を通じた作品自体を離れた記述であるという意味で、個別具体的な私の経験を通じて記述されることを避けられない。そのため第三の様態の記述は「作品鑑賞後の足利の歩行者」としての私たちに起こった経験の記述を最大化するため、(文章ではなく)グラフィックによるレビューとして記述する。
注釈1* 大久保分校スタートアップミュージアム(略称OBSM)は、2004年に閉校となった毛野小学校大久保分校を改築し、2022年4月にオープンした現代アートの美術館
〈様態Ⅰ-写真 幾何学化する路上空間〉
○設置のルール
展示空間を半分に仕切る木材の合板が天井から吊るされたワイヤーで固定されている。写真、映像共に仕切られた板や、黒板、壁に配置されている。連続する写真の構成にはルールがある。観るものは写真を反復で観ること、また制作のプロセスを記録した映像作品を観ることで、作品の規則を段階的に理解していく。作品は〈bomb〉を積み上げることによって作られていく。〈bomb〉は、実際に使用されたものが展示会場内に展示されている(写真3)。〈goban-bomb〉、〈kakuzai-bomb(no.2)〉、〈kakuzai-bomb(no.3)〉という三つの種類のユニットが写真、映像とともに一連のシリーズとしてみれるように構成されている。作品を成立させるための基本的なルールはまとめると次のようになる。
写真3
[1]ユニット〈bomb〉を構成する全ての部材は、過不足なく使用されている。
[2]全ての部材は、途中で分離されることのない一連の結合体として組織されている。
[3]地面と平行になる部材がない状態で重力に耐えて直立するために、部材は互いに平行あるいは垂直の関係を保っている。
○幾何学化する風景
これらのルールが作品の構造を規定する。〈bomb〉は路上空間に整然と配置される。ルールをはみ出る構造物が写ることもなければ、崩れた〈bomb〉が写ることもない。写真からは完成に必要なプロセスが見えないように排除されている。〈bomb〉の介入はありふれた街の風景を背景に撮るポートレート写真がそうであるように、路上空間を撮影するだけでは見えてこない独特の質感を写真が起こる空間全体に与える(写真4)。無理やり押し込まれた色付きの長方形図形の組み合わせは、付近の風景をも図形化する。ルールの[3]にあるように、立てかける垂直のフックを必要とする〈bomb〉が積み上げられることでできる構造体(以下、構造体)のかたちを保持するために、よりかかる線との間に相似の図形を生み出す。木材のない背景(階段、暗いかげ、路地の向こう側等々)は、景観の一部であるにもかかわらず、「それが何であるか」という判断の手前で当面のあいだ「図形」として把握される。
写真4
構造体があまりに幾何学的であるため、周りの風景をも切り刻むように図形化する。〈bomb〉の発生は構造物自体やそのごく周辺だけで起こる事象ではなく、写真が撮影された土地そのものにも介入を始める。どういうことか。複数の写真で〈bomb〉から独立する風景の要素に着目してみよう。写真5は、飲み屋がひしめく細い路地で撮影された写真である。階段とビルの壁の間を結びながら緊張関係を結ぶ〈bomb〉は、しかしながら自らが物理的に接触する事物とは別に、奥の道にある「すなっく華路」と書かれた看板との関係をも結ぶ。看板はちょうど部材が置かれるのと同じように頂点を〈bomb〉と接する。あるいは写真6で、線路下の通路に切り込みを入れるように生成される〈bomb〉は、脇にある、警告表示の黄色・黒色の斜線との関係を想起させうる。撮影される風景と〈bomb〉との間に生じる妙なリンクは、単に線だけではなくその色なども含めた複合的な経験である。公園にある強い配色のベンチにおいて〈bomb〉は、まるで木や葉、花などの環境に擬態する動物のように密度の高い寄生を行う(写真7)。他方で〈bomb〉が各写真でその土地と結ぶ関係は、観察者の過剰な理解による勘違いにすぎないかもしれない。仮にそうであったとしてもここで重要なことは、構造体が持っている生態が周囲の風景を構成する他のモノの見え方を変容させる働きを持っているということだ。
写真5
写真6
写真7
○図形との同期、非同期が織りなすリズム
構造体が現実空間においては、移動や撤収を前提とする一つの仮設的な形象にすぎないのに対して、写真はその形象に取り急ぎの永遠性を与える手続きとなる。写真作品の成立を前提とした場合〈bomb〉の土地への寄生は「撮影」という行為を常に予期している。路上空間におけるあらゆる事物は、写真の成立が必要とするフレーミングに従い、一度そのモノが持つ物質の文脈の解除に遭う。写真に対し、さながらグラフィックデザインのような収まりの感覚を覚えるのは、〈bomb〉の部材も、路上にある事物も、構図を構成するためのパーツの集合に還元され、元々の空間が持っていた奥行きの認知を困難にさせているためだ。
何でもない物理的な環境の諸要素は、路上に〈bomb〉が発生することにより構造体の部材(≒写真作品を構成するモチーフ)へと変換される。〈bomb〉は第一の様態において、構造体とその近くにある風景を図形化する。そうしてできた面的な輪郭に、周りの事物との線や色との奇妙な結びつきが生まれてくる。〈bomb〉が持つ「線」、「色」、「図形」のモチーフが強烈であることによって、路地の風景を構成する事物と同期(synchronization)が行われる。また同期が複数ある場合、相似が生じる。相似が「点」による同期ではなく「像」による同期である場合、モチーフの強度をより高次に引き上げる。ありふれた路上の風景、その構成物同士の関係性が観者に対してある一定のルールに基づくリズムを与えるのは、モチーフの量的な働きかけによるものだ。同期のリズムは一方で、非同期(asynchronization)される事物の存在をも強調する。雑草、ちぐはぐな看板、速すぎてブレて写る電車、歩道橋の脇を走る車などの事物は、幾何学や配色がもたらすパターンの持つ論理と同期しないことによって、写真の中に異質さとして現れる。植物がただ、植物としての形を保ちながら存在していることが、ここでは強固なリアリティとして強調され、観者を揺さぶる。
〈様態Ⅱ-映像 プロセスの提示による予感の生成〉
○写真作品に因数分解を行う、制作プロセスの記録映像
写真においては当然、撮影のために現場で調整を行うプロセスは排除されている(写真8)。鑑賞者は完成に至る行為の組み合わせを写真にみることはできない。映像においては、展示される写真作品の全ての制作プロセスが上映されている。写真は〈bomb〉と路上の緊張状態とも言える一瞬の結びつきを半永久的にアーカイブするのに対して、同展示場に配置される映像は常に動きを伴う(写真9)。制作の頓挫や崩壊の可能性を常に予感させながら、モノ、並びに制作者のからだがそれぞれ持っている限界性を観者に対して提示し続ける。鑑賞者は写真作品に対応するそれぞれのストーリーを含めて展示を経験する。
写真8
写真9
○映像は、写真が具体的な施工のプロセスであることを提示する
映像を観れば、すべての写真には固有のストーリーがあることがわかってくる。「〈bomb〉置き場」に〈bomb〉を積み上げていくプロセスは全てがあまりに愚直で具体的である。まるでジェンガをやるように重力を手指に感じながら、地道に積み上げを行う。徹頭徹尾の設計図はおそらく存在せず、具体の建設の中で構造体が崩れたり、作り直されてしまう過程そのものが映像に映っている。実現したかもしれない形態の未来がその場で頓挫していくさまが切実で、幼少期のうまくいかない積木遊びを連想させる。実際の工事現場で資材置き場を設定し、狭い道をなんとかやりくりするように、ボロボロの階段に〈bomb〉を設置する場合は、階段の下から上に、積み上げ途中の構造体を崩さないようにパーツを運ぶ動作が必要になる。一つ一つの写真は、設計図によって入念に考えられた図形ではなく、路上空間とコミュニケイトしながらようやく完成した行為の記録である。設計図のないその場限りの施工プロジェクトあるいは遊びのプロセスは、土地を理解する一つのプラクティスとなっている。
○積む場所を求めて街をさまよう制作者の身体はどこにあるか
制作は〈bomb〉を積む場所を決めることから始まる。〈bomb〉はユニットの種類ごとにそれぞれ積む場所の幅に限界を持っている。展示会場では〈bomb〉のスケールが確認できるように写真が貼られたパネルの裏側に組み上げられた構造体が展示されている(ただし、展示においては角材が固定されている)。設置には立てかける幅を持った壁や棒のようなフックが必要になる。
展示会場「内」において、どのような論理によって積む場所が選定されているかなどリサーチプロセスは明示されていない。ただおそらく、構造体を持っている〈bomb〉のユニットは、辿り着く菌床を探すために空気中を浮遊する菌のように、積まれる場所を求めて、形の限界性を背負いながら速水と一緒に足利の街を歩いているはずだ。それはストリートでアーティストがステッカーを貼る行為、グラフィティを描く行為、スケーターが走る大地を探す行為と似て、路上空間を、作品を通じて特定の切り口で眼差している。速水には足利の風景が、地元の単なる路上空間であるだけでなく、「〈bomb〉置き場」の予感として二重化する。
写真において、制作者の動きが排除されていたように、映像においてなお、土地と歩行のプロセスは排除されている。路上を彷徨い、菌床を探す菌のように風景を二重化する歩行者の身体は展示会場内には、記録されていない。私たちは、展示を鑑賞した後に、作品の形跡を追いかけるように足利の街を歩いた。後編では、前編で思考の対象となった作品が必要とする「歩行」を私たちがどのように追体験できるか、グラフィックの制作を通じてレビューしていく。<後編に続く>
速水一樹「道草のプラクティス」
会期:2023年4月7日(金)-5月28日(日)
場所:大久保分校スタートアップミュージアム
〒326–0012 栃木県足利市大久保町126
会場時間:午前10時~午後5時
料金:入場料は募金制
速水一樹 Kazuki Hayamizu
ルールや偶然性を表現に取り入れ、「遊び」の要素を以て様々な空間に展開する作品を制作。日常の中で見つけたモノや空間が持つ秩序に、表現手法としての人為が介入することで立ち現れる「かたち」の面白さを探求しています。
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