白昼夢的歩行のための万物レビュー #2
事物介入による路上観察の記録/-芸術祭「MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館」-【後編】

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映画を観た後、小説を読んだ後の帰り道に、私にみえている風景が変容しているように感じられてしまうのと同様に、作品を鑑賞した後に、街の見え方が全く変わってしまう経験がある。「白昼夢的歩行のための万物レビュー」では、散歩や移動に関して私たちが何を見ているのか理解するために、制度的に芸術作品と呼ばれるもののみならず、さまざまな事象を右往左往しながら思考+実験を行なっていく。

第2回となる今回は奈良県で2023年9月16日から11月12日まで開催された芸術祭「MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館」へ訪問した際に私の身体に生じたことのレポートを記述する。率直に言えば、肉体的にかなりハードな展示であった。10キロ近く歩くことが前提となる当芸術祭においては、歩行という現実的な問題に衝突する観者にとって、作品と作品以外の境界が曖昧にならざるを得ない。「芸術祭を歩き回る」という経験の一つの様態を筆者の取材をもとに記述していく。後編では歩き回ることで出会ったさまざまな経験を具体的にレポートする。

Photo:Joh Rimon
Text+Edit:Junpei Ito

前編では奈良県南部・東部に位置する奥大和の中でも吉野町、下市町、下北山村の3つのエリアに分かれて開催された芸術祭「MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館」(以下「MIND TRAIL」)の概要について、また下北山村のルートを歩くことで身体に生じた負荷と鑑賞行為の関係について述べた。「MIND TRAIL」ではあまりに膨大な展示ルートがあることによって「歩く行為」が芸術祭を体験する身体の前提となっている。本稿は「私にみえている風景の変容」を「歩く」という事象そのものの側から記述することを目指している。そのため今回取り扱う対象は、展示されている芸術作品一つひとつの詳細ではなく、芸術祭を歩き回ることによって生じた作品以外も含めた知覚の経験になることを最初に述べておきたい。

美術館など、一般的な鑑賞体験を立ち上げる場では、展示において外部とされるものの存在、すなわち観る私(主体)と観られる作品(客体)以外の環境を省略することが、「観ること/観られること」の空間そのもののリズムを生成する。一方で「MIND TRAIL」のように、省略されなかった外部空間がむしろ経験の輪郭を形作るほど全面化する場では、「作品の経験」と「作品以外の経験」の境界は曖昧になる。鑑賞する際「作品の経験」はスムーズには続かない。一個の作品を観たあと、30分近く歩くことはざらにある。道路を長時間歩いたり、坂を登って息切れしたり、たまに見える水辺や木々に目を奪われたりする私は、容易に観者としての自分を忘却する。だが、こうした注意散漫へと身体を慣らしていくこと自体が「MIND TRAIL」の持つリズムにもなっている。この散漫さ、つまり「作品以外の経験」への注目について出来事の一つひとつを振り返ってみる。

自動車のための道と歩行のリズム

ルートを構成する道は、単に歩行者のための安全な道とは限らない。登山道や歩道のほか、私たちは自動車のために設けられた道も歩く。車の移動に最適化された道を再び人間の身体ひとつで歩き直す経験は、端的にいって凄まじい。国土交通省の「道路構造令」によれば、基本的にはどのような道路も「すれ違いや追い越しなどの交通実験を経て余裕幅をもって規定され」るため、幅員は3.5メートル程度となっている*1 。各形態は、道路の種類や交通量、地形などによって決定されるが、最大勾配や曲線部分の確保など、車両通行の安全が認められた上で初めて道路としての建設が行われる。歩行者を想定していない、このような峠道では自動車の安全を確保しながらも歩くスケールは全く考慮されないアンバランスな道が生成される。

注釈1* 国土交通省ホームページ「道路構造令の各規定の解説」よりhttps://www.mlit.go.jp/road/sign/kouzourei_kaisetsu.html

低地にある集落をスタートすると山の裏側へと通じる峠道が、文字通り気が遠くなるほど続いている。

訓練される身体

「MIND TRAIL」では道や木々などの風景などの外部空間が「ルート」という名目において全面化することで、経路そのものが鑑賞経験の大きな要素となり得る。鑑賞経験は、歩行の経験でもある。歩道、道路、舗装されていない道、登山道など、足でいくつもの質感の地面を踏みしめては、登山のようなアクティビティともまた違った種類の移動を行う。歩行者は、身体を酷使することが前提となるため、一つひとつの挙動はルートをクリアするために徐々にチューニングされていき、ある種の効率化が行われる。水分やスマホの充電の残り、日没までのタイムリミットを考えながら行動したり、車に轢かれたりしないように移動の方法をカスタマイズしたりする。道幅が狭かったり視界が悪かったりと、歩行者に対して容赦のない「自動車のための道路」という事物の形態は、私たちの注意の方向や歩きの動きを変容させる。

筆者によるメモ

例えば自動車用の道路では、車を避けながら歩くのに慣れることに時間を要する。ある道では、車のための道路なので当然多くの数の車が行き来する。歩道もなければ信号もないので、車を避けながら歩かなければならない。後ろからくる車、前からくる車の両方に対応しなければならない。どちらかに寄っていればいいということでもなく、真ん中を歩きながら、進行する車の車線とは反対側にその都度移動する。峠の道はクネクネしていて、視界が遮蔽されているので、機敏に動かなければ急に車が現れて危険である。だが面白いことに、3人で移動していた我々は段々と車避けの規則を発見し始める。チームスポーツのセットプレーをこなすように連携の体勢を構築していく。車の音がすると誰かがそれを聞き取り、知らせる。車の姿が見えた時点で「右!」とか「左!」とか喚起しあいながら全員で移動する。歩くにつれてこうしたある種の身体的熟練がいくつか生じる。

◎峠(斜面とヘアピンカーブ)と速度

筆者により作成。ルートの経路の一部分を抜粋し、線を強調したもの。

数百メートル先の距離へと到達するために、引き裂かれたように複雑な線形の道のりを要するのは、これが山を超える峠道だからだ。峠道において道路は、斜面とクネクネとしたカーブの道を連続させ、迂回に迂回を重ねることで山の高低差を克服するように作られる。一見不合理に見えるこの線は、合理的に解決された都合のぶつかり合いの数々によって生じる形態である。「自動車」という事物の行き来を可能にするため、ある程度の平坦さを、自動車の幅の分だけ確保しようとした結果、このような固有の線が土地に領域化した。峠道、つまり斜面とヘアピンカーブの連続をわざわざ「歩く」ことはまた、自動車での移動、つまり速度と室内化によって省略される細部を自らの足を通じて知覚するということでもある。

私たちも下北山村にたどり着くまでに自動車を利用してきた。この土地へは峠を越えてこなければ到達できないので、似たようなヘアピンカーブや斜面を移動してきた。しかしそれはあくまで自動車に乗っているという条件下においてである。自動車と歩行では移動の際に直面する具体性が根本的に異なる。例えばスピードの違いは、風景の知覚を編集する大きな要素となる。場面が移り変わっていく映像を観ることと一枚の写真を観ることの性質が異なるように、同じ土地、同じ道であってもそれを体験する速度自体が風景の様態を複数化する。しかも室内化されている自動車とは違って、歩行は足が地面と接続しながら移動しているので、写真をただ観ていることとも全然違う。神輿を担いで移動したことがある者であれば、速度が風景を一変させてしまうことへのイメージが掴みやすいかもしれない。神輿のモノとしての重さや祭りの儀式性によるのろさによって、「ただゆっくり歩く」というだけのことが普段自分たちが利用する街のモードをどれほど変えてしまうかが分かる。通常車で移動するはずの道を歩いてのろのろと移動するだけで、視線が向かう風景や移動の体験の質が全く変わってしまう。車のための道を敢えて歩くという行為にも、儀式のように、知覚する風景の次元をごっそりと切り替える力がある。そしてそこには道-足-身体という繋がりが確かにある。一度歩いてみれば、ルートは距離や所要時間のように換算される抽象的な対象から、具体的なうねりとして歩行者に現れる。峠のうねりは足の裏から身体の上の方まで連綿と、断続的に重く重く響き渡る。

車道のヘアピンカーブは、車に乗っているときの移動の経験に比べて「大きい」と感じられる。勾配の急さは足の裏を通して身体全体へずっしりと伝わっていく。道の調子がほぼ180度切り替わる。車に乗っていたとしても、のしのしと重力を感じるが、歩くという速度が風景の移り変わりを停滞させると同時に、カーブの起点そのものの事物の存在を強調する。
山の斜面と、下に広がる集落という風景のセットは変わらないのに、ヘアピンカーブの回転が歩行の調子をかえる先ほどまで進んできた道の真上を逆方向に進むという不思議さ、不条理さに身体と心が追いつかない。

川にかかる橋と橋にかかる蜘蛛の巣

前編の最後でも述べたように、作品も、作品以外の景観を構成する事物も、「ルート内の土地に置かれる事物」という点では水準が変わらない。ある川に架かる橋を見た直後に、その橋に架かる蜘蛛の巣をみる。またすぐあとに、奥で川に架かっている作品を見つける。今回、作品を観賞する体験はこうした連続性の中で醸成される。これらは土地を読み解き、その間に「架かっている」事物という点で等しさを有している。そこにリズムを読み取る。

①川を渡るために岸と岸をつなぐ橋がある。橋がかけられるためには橋の安全を確保する橋脚を建てるための土台がある地面、それらをつなぐ構造物が必要となる。「橋のある風景」は、土地を読み解き、橋が成立するための構造を、複数の営みを通じて初めて具体物として実現されるものである。
②同時にその橋の柵には、蜘蛛の巣がかかっている。蜘蛛の巣は岸と岸のあいだに橋がかかるのと同様、柵と柵のあいだに複数の糸を紡ぎ合わせることによって発生する。それぞれの糸は、いくつかの役割を持ち、土台となる柵との関係性によって形態を与えられる。(実際に蜘蛛が巣を作る際には工事現場で仮設する作業場のように、「足場糸」と呼ばれる作業のためだけに用いられる糸がある。)
③さらに、橋がかかる川を奥まで眺め歩いていくと、谷間に長いチェーンがかけられていることがわかる。チェーンは谷の両側を樹木に括り付けられながら吊るされ架っている。これは〈contact Gonzo〉による作品「mind tuning」である。〈contact Gonzo〉は、「チェーンの上でバランスを取りながら出来るだけ長い時間、落ちないように揺れ続ける」行為を「チェーンサーフィン」と呼ぶ。本制作では、池郷川の淵の水上に20m程度のチェーンを吊るし、水上で「チェーンサーフィン」を試みる。会場にはQRコードが提示され、リンク先から実演を映像として鑑賞する。

や蜘蛛の巣などの事例は、発見され、読み解かれた土地のある支点に基づいてそれぞれの事物が「架かっている」という点で共通している。私が①〜③との出会いのなかに恣意的に連続性を発見するように、歩き回って目にする風景の中にある事物や事象は、切り離すことが極めて困難な総合的事態として経験される。各々の作品/作品以外の事物は、互いが関係しているかどうかもわからないまま、土地とルートに配置されることで、無数の経験の組み合わせの可能性を漂わせている。あまりの膨大さに置いてけぼりになる観者がいても不思議ではない。私自身その一人だ。芸術鑑賞をした際に易々と感じてしまうある種の達成感のようなものにたどり着くことが困難なのは、「MIND TRAIL」という芸術祭が「省略されえない外部空間」に晒され続けることに起因する。気が散じ、飽き、自分が何をしているか忘れかけ、唐突な風景に感動する時、その土地にすでに発生しているリアリティと作品を単純に比較してしまいかねない。旅人のようにある対象地に対して芸術作品を付置するという行為自体に、その土地の事物や歴史が持っているリアリティとの乖離を見つけようとしてしまうかもしれない。ルート内に展示される作品にも、土地の造形物そのものに対する鑑賞体験や価値体系の転換に着目したものがいくつかあった。

石疎通センター」〈yuge(hoge)〉では作品の価値と、参加する複数の「ここにはいない」アーティストの作品を石と交換できるというシステムの展示が行われていた。作品と交換された石は、会期中、会場にて展示され続けていた。アーティストという人間の行為によって生み出された作品と、土地が持つ営為によって生じた事物を同一の交換体系に配置し直し、尚且つそこで生じる活動について着目し、アーカイブ自体も展示された。

◎ささやかな提案

「MIND TRAIL」のように巨大な空間に事物を配置する場合、それは意図するにせよそうでないにせよ、無機物/有機物、あるいは自然史/人間の歴史の垣根を越え、一人の人間の一生のよりもはるかに巨大なスケールのなかで構成される全ての外部空間の関与を受けざるを得ない。だからこそ、蜘蛛の巣であれ、土木構造物であれ、土地を読み解き働きかける営為への衝撃は、それらのモノにたとえ作品という冠がついていなかったとしても、観者の足を止めるだけの力を持っている。風景に対する提案は、それがさりげなければさりげないほど力を持っているのかもしれない。

明神池の周りにある長い林道沿いに唐突に現れるベンチ。制作者、制作年代ともに不明。
ベンチから見える風景。林道の木々は明神池を覆い隠しているが、このベンチの前だけは視界が急に開けて光が差し込んでいる。池の向こうには池神社までの景色が一望できる。いつか誰かが発見したこの風景の発見を、具体化する一つのさりげない提案として、このベンチは土地と人とを接続している。
Metabolizing Form : Grave」〈やんツー+齋藤 帆奈+吉田山〉土地への提案は、土地を大規模に変えることとは限らない。ベンチを置くというさりげない行為であったとしても、そこにある風景の調子を変える支えとなる。さりげないものは、さりげないが、その土地を読み、遥かな時間やモノの流れを何らかの形で見ようとしている点、強固さがある。「Metabolizing Form : Grave」はモルタルの物質性に着目し、「作品自体が人間による修復を受けずに『自己修復』を可能とする仮説」をもとに人間の生命のスケールを超えた時間を見据え、コントロールできないモノの関与をイメージする装置として置かれている。キャプションがなければ、やや不自然で意味ありげな構造物に見えるくらいさりげない。ベンチのようでもあるが、何かの記念碑のようでもある。座ってみるととても素敵な川の眺めを望むことができる。

歩くという行為は制度や思考などの抽象的空間把握をある点において無視したり解除したりすることのできる具体的な実践である。歩き回るという行為は良くも悪くも、作品に集中しなくてもいい可能性も兼ね備えている。またたとえ自動車用の道であれ、歩いてみることはできる。歩いてみれば、その道が谷間に広がる低地と奥にある山の風景を徐々に高さを変えながらゆっくりと展望できる装置であったことに気がつくこともできる。途中でルートを無視する瞬間に、その一歩目にこそ散歩の楽しみはある。歩きながら蓄積されるリズム自体を楽しみながら、そのリズムから脱する楽しみが自分の身体に流れ続けること、散漫さを許容してみる身体を眺め続けることが「MIND TRAIL」のように大規模な土地を舞台にした展示空間を愉しむヒントかもしれない。


INFORMATION

MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館
会期:2023年9月16日(土)〜 11月12日(日)
会場:奈良県 吉野町、下市町、下北山村
主催:奥大和地域誘客促進事業実行委員会、奈良県、吉野町、下市町、下北山村
協力:永和実業株式会社、FM COCOLO、在日スイス大使館、パナソニック コネクト株式会社、Peatix Japan株式会社、豊永林業株式会社、株式会社ヤマップ(50音順)
後援:株式会社奈良新聞社、奈良テレビ放送株式会社(50音順)

プロデューサー:齋藤 精一(パノラマティクス主宰)

エリアディレクター:
吉野町エリアディレクター 矢津 吉隆(美術家、kumagusuku代表)
下市町エリアディレクター SKWAT
下北山村エリアディレクター 浅見和彦(プロジェクト・ディレクター)、ゴッドスコーピオン(メディアアーティスト)、吉田山(アート・アンプリファイア)

参加アーティスト:(50音順)全18組
吉野町|北山ホールセンター、kumagusuku / 𡧃野湧 + 武内もも、signplay(染谷聡+矢野洋輔)、副産物楽団ゾンビーズ(佐々木大空)、副産物産店(山田毅+矢津吉隆)、MAGASINN(CORNER MIX、井上みなみ、武田真彦 & 糸魚 健一)
下市町|SKWAT(中村圭佑、山口イレーネ、岩崎正人、城正樹、植田歩夢)
下北山村|大小島真木(大小島真木、辻陽介)、ゴッドスコーピオン、contact Gonzo、SandS(浅見 和彦、林 直樹、佐々木 星児、高井 勇輝)、そめやふにむ(プロジェクトマネージャー)、花形槙、Hertz(Discont + Riki Osawa)、松岡湧紀、やんツー+齋藤 帆奈+吉田山、yuge (hoge)
​​吉野町、下市町、下北山村|齋藤 精一

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