M.E.A.R.L.と書いて〈ミール〉と読む。それはあなたがいままさに読んでいるメディアの名前である。M.E.A.R.L.とは、「MAD City Edit And Research Lab.」の略であり、株式会社まちづクリエイティブが運営するバーティカルリサーチメディアだ。まちの最小単位である「個人」の視点から、場やメディアの概念を拡張し、思考+追求+観察+実験+活動している。新編集部が立ち上がり約1年が経とうとするいま、編集会議を「公開編集会議」と題し公の場で開いていくことにした。種が蒔かれると芽が出て根も葉も育つように、個々の興味関心や思考を放出させることで、個々の思考もゆるやかに深化・拡張する。編集部でじわりと行ってきた一連の営みを、より多様な視点や思考を交換し合う実験の場にする。本連載はその試みの記録である。迷いや寄り道があたり前に存在する終わりなき対話が巡る先に、何かがかたちになるかもしれないし、かたちにならないかもしれない。誰かに、どこかに、何かが残るかもしれない。
2024年4月19日開催の第1回公開編集会議のテーマは「道に迷うことについて」。会場は編集部伊藤がオーナーを務める東中野と中野坂上のあいだにあるカフェバー「なかなかの」にて。遠方メンバーも参加できるようオンラインでも公開。前編では、個々の都市の歩き方や道の記憶の仕方、地図や土地の読み方について。
text:Yoko Masuda
edit:Jumpei Ito、Yohei Sanjyo、Sara Hosokawa、Moe Nishiyama
◎都市を歩き始めた頃の感覚や記憶から
西山萌(以下、西山):まずはそれぞれ自己紹介をお願いします。
伊藤隼平(以下、伊藤):伊藤です。なかなかのの店主としてカフェ・バーを運営しながら、さまざまな企画の制作や記事執筆等を行なっています。テーマは散歩やまちについてです。大学でも都市や道、個人の記憶や風景などを研究対象としていました。なかなかのという場所は単に飲食をする場だけではなく、色々なジャンルの文化やメディアを複合的に考えるイベントを行うなど、多様な人が集まるような場所として地域と連携していくことを目指しています。好きな道はY字路です。
細川紗良(以下、細川):細川紗良です。編集者をしています。電動キックボードのLUUP(ループ)が大好きで、そろそろLUUPのアンバサダーになりたいと思うくらい毎日乗っています。今日も気持ちがいい天気だったので代々木駅から東中野と中野坂上の間にあるなかなかのまでLUUPで来たのですが、途中まで逆方向に進んでいて。テーマ通り、道に迷ってしまったんです(笑)。編集という仕事については、文字を扱うだけではなく、体験や場所を作ることなどを通して、言葉だけではないコミュニケーションを生んでいくことが好きです。最近は情報を一方的にもらうだけではなく、蜂のように自分が主体となり情報を次のものに繋げるなど、“受粉的な”行為をできればいいなと思いながら日々生活をしています。よろしくお願いします。
西山:M.E.A.R.L.の編集長をしている西山萌と申します。編集者という社会的な肩書きを持ちつつ、粘菌として活動しています。粘菌は、ざっくりとご説明すると樹の根っこなどを通じて、いろいろな生き物に必要な信号や栄養素を届ける役割をしている生物なのですが、さまざまな組織やコレクティブに出入りするなかで、本の編集、展示のキュレーション、場所作りなど自ら変容/移動/伝達する行為を通じて粘菌的に生きています。とくに私自身は何か情報を一方方向で伝えることというより、何かを残していくこと、何かを記していくことに興味があって、いまの仕事をしているのだと思います。そうした活動の先で取り組めたらいいなと思っていることは、新しい言葉を作ること。言葉というと主に言語のイメージを抱くと思いますが、私自身は言語よりもより抽象的なものが言葉になると思っているんです。例えば人の動きやダンス、音や人の持っている空気、色合いなど。いまはどうしてもわかりやすいことや理解してもらうことを前提にした言葉が溢れていると思いますが、わからないことや立ち止まること、後退りすることやぶつかってしまうこと、むしろわかり合えないままに共存するための言葉のようなものを見つけていきたい。「あなたとわたしは違うけれど、それでも共有はできる」と思える言葉を模索していきたいと思い、分野を超えた取り組みをしています。
増田陽子(以下、増田):増田と申します。普段はライター・編集の仕事をしていて記事や本づくり、場づくりなどに携わっています。M.E.A.R.L.では進行管理も担当しています。主に人が考えていること、生み出したものについて聴き、書くことが多いです。なぜこの仕事をやっているのだろうと考えると哲学することが好きだからだと思います。私自身はいま考えたことをすぐに言葉にできるタイプではないのですが、取材で伺ったこと、目にしたことなどを一度持ち帰り、意図を汲み取り、文章化していくという営みが好きだなと。それが執筆の仕事が楽しいと思っている理由だと思います。また北鎌倉の自宅で夫が珈琲屋を営んでいて、私はその隣の部屋で仕事や生活をしています。働くことと暮らすことの境界線がとても曖昧ないま、すべてが人生だと思える環境が心地いいなと思っています。
三條陽平(以下、三條):三條です。よろしくお願いします。僕は株式会社ORDINARY BOOKSという会社の代表をしています。肩書きは付けないようにしているわけではありませんが、肩書き迷子で。便宜的に必要な場合にその肩書きを拒否することはないので、ブックディレクターとも編集者とも記されることなどはありますが、編集者ともブックディレクターとも、自ら名乗るのは恥ずかしく、自分で名乗ったことはありません(笑)。具体的な仕事内容は、本の編集や企業のパンフレット制作など編集の仕事をはじめ、本の選書や公共施設、図書館、企業の施設のライブラリをつくること、新しい書店の立ち上げなどをお手伝いしています。活動の目標は、いままで本がなかった場所に本を出現させること。選書やイベントなどを通して、もともと本がなかった場所に本がある風景を作ることを活動目標にして日々活動しています。
山本幸歩(以下、山本):はじめまして。山本幸歩です。「幸せに歩く」と書いて幸歩(ゆきほ)という名前です。今日は細川さんのInstagramでこの企画を知り、参加しました。いまは大学4年生でSFCに通っています。これまでは新しくプロジェクトなどを立ち上げ、運営することをやってきました。ゼロから新しいものをつくり出すことはもちろん好きなんですが、それよりもいまあるものをどう面白く味わうかのほうが好きだなと思い、社会学メディア論のゼミに所属しています。卒業プロジェクトは、場と編集について考える予定です。将来はいわゆる著者の先生と本を作るだけではない、情報や場、体験をどう編集していくのかを考える編集者になりたいと思っています。
西山:公開編集会議の第1回目では、「道に迷うこと」をテーマに話していきます。昨今、いつの間にか道に迷うことが難しくなっているのではないかと思うんです。Google Mapが当たり前のように誰のスマホにも入っていて、目的地を定めれば必ずその場所にたどり着くようにルートが示される。道に迷うことが難しくなった背景には、そもそも道に迷いたくないと潜在的に思っている人が圧倒的に多かった(ゆえに目的地までの最短距離を、コストを抑え最速でいくために最適な道筋を導ける技術が発達した)ということかもしれないのですが……。私の場合は、今日は地図のアプリに縛られず、自分の好きなところに身体の赴くままに進みたいと思い、歩くことがあります。それでなんとなく行きたい場所を想像し、この道だろうと勘を頼りに進んでいくとどうやら明らかに逆方向に向かっている。棒をパタンと倒して示された方角(行くべきと示された方向)と私は逆の道を選ぶ性質があるんですね。それって結構面白いなと。みなさん、最近道に迷いましたかということからざっくばらんに話したいのですが伊藤さんは最近なかなかので、この近辺を歩くツアーのようなことをしたんですよね。
伊藤:そうですね。東中野に店を構えて日々暮らしていく中で、面白いと思う場所が増えてきているので、紹介がてらに5人くらいでなかなかのを出発点にまちを歩きました。道に迷うことって結構難しいですよね。自分が今どこにいるのかを理解することのできる記号が多すぎる。環七があって東京タワーがあるからこの辺りにいるなと想定できてしまって、萎えるみたいなことが結構あります。ヴァルター・ベンヤミンが「ベルリンの幼年時代」というテキストのなかで「森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、修練を要する」というテキストを残しています。ここには色んな解釈があるんですが、僕なりの解釈を述べてみます。道に迷ってしまいここがどこかわからないと思っているとき、僕的には高揚するんです。ところが歩けば歩くほどその感覚にたどり着くことが難しくなる。地理に対する解像度が上がると、例えばこの道は環七だなとか、地形の高低差からこの道を進むと川があるなとわかってしまうことがあります。上京したときに東京を歩いていたような、道に迷う感覚やすべてが新しい場所に思える感覚がどんどん薄れていく。その中で本気で道に迷うためにはどうしたらいいのか。それがベンヤミンのいう「修練」なのではと。
細川:伊藤さんの出身はどこでしたっけ?
伊藤:宮城県仙台市です。
細川:そうでした。「上京」から得られる感覚って面白いと思っていて。私は横浜市出身なので、「東京に出る」という感覚がないんですよ。どちらにいても同じような感覚。それで当時横浜に住んでいたのですが、中学生や高校生の頃は学校を休んで、恵比寿や代官山などに歩きに出かけることがよくありました。今日はこんなに天気がいいんだから歩くでしょと(笑)。高校生の時は、それで地図を作っていたんですよ。
伊藤:不良の地図制作。学校サボってタバコ吸うとかじゃなくて、学校サボって地図を作る(笑)。
細川:そうなんです。そうしたら、例えば恵比寿と代官山ってこんなに近いんだ!といった発見があって、その感覚にとてもわくわくしていたんです。でも中学生のときにその感覚をすでに獲得したので、大人になってすべてが新鮮に感じる上京ってめっちゃいいなと。
増田:私も茨城出身なので上京したのですが、当時本当に忙しくてその頃の風景が記憶にないんです。引っ越し当日のことも覚えていないので、残念というか。先日ZINEフェスに出展したとき「東京に出てきたばかりなんです、僕のZINEを見てください」と出展者側の私にZINEを差し出してくれた若者がいたんです。そこには、上京して1か月目に見た風景の写真がコピー用紙に印刷されてホチキス留めされていて。その感覚を写真に残しておこうと思えるのがすごく素敵なことだと思ったんです。道に迷うことも同様ですが、その新鮮さは期間限定であるという会話をしたことを思い出しました。
山本:私は岡山県出身で、大学進学を機に上京をしました。最初は新鮮でしたね。上京当時は湘南エリアの大学付近に住んでいて、コロナ禍だったので全然外出できず。都内にも出にくい雰囲気だったので心苦しさがあったと思います。
◎わかりやすいまち、わかりにくいまち。都市で生きるとは、暗黙のルールを読み解くこと
三條:主題からはずれるかもしれないですが、冒頭で西山さんが「わかりやすさ」という言葉を使っていたじゃないですか。僕もさまざまなものごとがわかりやすさに向かう状況はいまの日本社会の最大の失態だと思っているんですけど。Google Mapのようにテクノロジーを発達させて、物事を最短距離で結ぶことが20世紀以降にあるモダニズムの手法だったと思うのですが、それをなんでもわかりやすくすることと履き違えてしまった。逆に渋谷駅はわかりづらい。行くたびに出口が変わるし。わかりにくくて困るところはよりわかりにくくブラックボックス化して、わかりにくくてもいいところをわかりやすくして物事を陳腐化させていく。真逆のことをやっているような気がするんですよね。だから社会全体が道に迷ってるような気が僕はしていて。なのでそういうものを解決するための手段として本が重要かなと思うんです。いい意味で道に迷う方法として本を選べるといいのかなと思いながら聞いていました。
細川さんの話に接続すると僕も上京組なんですが、他の都市と比べて東京ってひたすら平野ですよね。いま僕は神戸に住んでいるので例に出すと、神戸は坂が多いんです。山の傾斜に都市を形成しているので、山を迂回しないと反対側には辿り着けないという制約が出てくる。一方で、東京って多少の坂はありますが基本は平地なのでどこまでいっても平坦な道が無限に続くような気がします。東京はやはり散歩しやすいまち、道に迷いやすいまちだなと。そして個人商店などが点在しているからさらに面白い。東京は歩くのに適したまちだろうなと思いますね。
西山:なるほど。私自身は東京の練馬区生まれで、国分寺に長く住んでいました。東京といっても緑がとても多いので、いわゆる23区の都心部を指す東京に住むのとは異なる感覚で育ち、中学生になった頃から美術館に行くために中央線で新宿などに出るようになりました。当時、といってもいまもその感覚に通ずる部分があるのですが、都市に出ることは回路やルールを読み解くような感覚があります。特に私が迷ったのは電車の乗り換え。例えば、同じ「東中野駅」で検索しても大江戸線とJR総武線の入り口が少し離れたところにありますし、新宿駅にはJR東日本・京王電鉄・小田急電鉄・東京都交通局(都営地下鉄)・東京地下鉄(東京メトロ)の5社局が乗り入れ、JR山手線・JR中央本線・JR埼京線・JR湘南新宿ライン・JR総武線・京王新線・京王線・小田急小田原線・都営新宿線・都営大江戸線・東京メトロ丸ノ内線と11路線が接続しています。渋谷駅においては地下に下りていく縦軸のような階層と横軸に並ぶ階層がある。同じ駅名なのに複数の地点が実は重なっている。それらはどういう規則で進み、どう接続し、何時から何時まで走っているのかなど、こういったルールやネットワークを読み解いていく必要があり、それらを体感として知るということだけでは生活ができない。それが都市なのかもしれないなと。
三條さんが話していたわかりやすさの話に接続すると、商店街やまちの構造もある種のネットワークだなと思うんです。現在いる場所がこのエリアであると認識するとき、何の要素がどう接続して認識されるのかなと思っていて。例えば神社の参道や商店街にはどこか近しい温度感や雰囲気を感じることがあります。その場所がいまはもうなくなってしまっていたとしても、いまも「人の通り道」になっているか「車の通り道」になっているかで、文化のあるまちの道なのか、それともただ単に通りすぎるだけの回路としての道になってしまっているのかなど。そういったネットワークを人がいかに繋いできたか、あるいは分断してきたかみたいなのか、まちのわかりやすさにも繋がるのかなと考えていました。
伊藤:例えば新宿駅はどんどん敷地が拡大してルールが追加され続けているような状態ですよね。上京したばかりの頃、新宿駅西口に行きたいなと思って迷ってしまったことは衝撃的で今でも覚えています。小さな駅だったら西口とか東口にはすぐに出られるんだけど、新宿駅は大きすぎてどこが西口なのかわからない。で、気がついたら「新宿西口駅」にいたんです。ルールがわからないから「新宿西口駅」は新宿駅西口なのかどうかがわからない。これは新宿駅をはじめとした、エリア一帯が蓄積してきたルールなわけですが、ルールを知らないとこういう迷い方をするわけです。ここには既にコンテクストがあり、歴史の積み重なった状態で新しいナビゲーションを生み出していくから、上京者のように、新しく参加するとその文脈についていくことができずに迷う。
細川:小田急線には南新宿駅もあるし東京メトロの新宿御苑駅もありますね。それで言うと、中野にも、中野駅、東中野駅、中野坂上駅、中野新橋駅、新中野駅がある。
伊藤:たしかに。中野ってつく地名自体が多いですね。うちもなかなかのっていう、東中野と中野坂上のあいだにあるから「なかなかの」なんですが、名前だけ聞いたら絶対に中野にあると思い、中野駅に行ってしまう人がたくさんいて、大体40分くらい遅刻してくる人が多い。新宿西口駅状態ですね、なかなかのは。
◎迷いやすい道を活かす場所
伊藤:僕はY字路が好きで収集や鑑賞を行っていて、生きていく上で重要なモチーフとしても大事にしています。人が道に迷うときにY字路が道の迷いやすさを助長していることがあるということは卒業研究のときに発見したことです。要するに、道に迷う大きな要素の1つに「先が見通せないこと」があると。見通しが効かず、自分が勝手に想像している景色とリンクせずに位置関係がわからなくなる。十字路だと、上から見たときにその先に続く道の変化を地図的に理解することはできるのですが、Y字路だと見通しがきかないので、その先がどうなってるかわからない。先に進もうとしたときにそれがどの方角だったのか、例えば渋谷のスクランブル交差点にいるときにはわからなくなってしまうわけです。こっちだと思っていたら道玄坂の方向に進んでしまったみたいなことがある。
一方でディズニーランドなどテーマパークはそれを逆手にとって活用しているように思います。迷いやすさが歩く楽しさにも繋がっている。有名な話ですがディズニーランドには行き止まりがないそうです。ディズニーランドの通路はY字路が常に最終地点にあって必ずどちらかに進む形態になっている。吹き溜まるようにはできてないんですよ。道の奥まで見通しを獲得することができず、パーク内ですべてのエリア、施設の位置関係を把握することは難しい。ランドマークとしてシンデレラ城がありますが、各エリアを別のエリアから認知するのがとても難しくできている。それが歩く楽しさや全く異なるエリアに入り込む感覚を生み出しています。渋谷の中心部とディズニーランドの地図って構造が少し似ているんです。渋谷は歩くのが楽しい街として1970〜1980年代から開発されてきました。東急グループや西武グループなどが開発競争によって相次いで商業施設をオープンさせますが、それを可能にするかたちがもともと渋谷にはあったんですよね。ディズニーランドの地図を見たときにびっくりしましたね。渋谷の研究をしていて、1カ月間毎日渋谷の地図を見る時期があったんです。研究を終え、数年後にディズニーランドの地図を見たら、これ渋谷じゃんと(笑)。
西山:ディズニーランドの地形って渋谷など町のランドスケープから着想を得ているんでしょうか。それとも偶然なのでしょうか。
伊藤:偶然ではなく、ディズニー側の人を楽しませる体験作りの一環でそうなっているのではないでしょうか。ディズニーランドは映画の作り方を踏襲したテーマパークともいえるんです。例えば、スクリーンに映ったときにその絵が成立していれば現実の空間と対応してなくてもいいというか。遠くにあるように見える建物は、実は近い壁に貼ってある写真だが、映像に収めたときには空間がとても広く見えるという張りぼてな舞台美術だったそうです。ディズニーランドに入って最初に立ち並ぶ商店街ワールドバザールは、2〜3階建ての建物がびっしり並んでいるのですが、上の階に行くにつれて天井が低くなっていく。つまり遠近法が使われています。パッと見たときに対象物が小さくなっていれば、遠くにあるんだろうと無意識に認識してしまうので、建物が実際の高さ以上に見える。そういうことをテーマパーク全体で設計しているので、いまのかたちにたどり着いているのではと。行き止まりになってしまったら歩いていて楽しくない、みたいなことを体験設計で発見し、それを具体化するようなことが行われたのではないかと推測しています。
西山:面白いですね。あの1つのエリアにどうしてこれだけ色んな世界観が導入できるのかはすごく気になっていました。移動をしていても自然に世界が切り替わる。映画のシーンの切り替わりはかなり意図的に計算されているので急に世界が切り替わっている感覚はたしかに映像的だなと思いつつ、急にカメラワークで急にぱっと切り替わってしまう感じがしないなぁと。
伊藤:まちや風景をどう作るのかを考えるときに、そもそも「見られること」を前提に作られている風景がありますよね。ディズニーランドも近いようなことをしていて。どこから見ても写真を撮ったときに、調和がとれている配置に。そういった計算をおそらくたくさんしている。ディズニーランドでダサい写真を撮ることって逆に難しいですよね。
◎道の記憶の仕方を考える
細川:ここまでの話を聞いていて、2つ思ったことがあって。1つは迷いにくいようなつまらない道ってニューヨークや京都のような碁盤の目のような道なのかなと。私めっちゃ迷子になるんですが、私でも迷わないからあまり面白くないなと。こっちに進んでいるというのがわかるのが面白くないなと感じているんだと思う。もう1つは、迷路とは何なのかなということ。迷路とはつまり迷わせるための道。そう考えるとディズニーランドは迷路的なのかどうかと考えていて。何が成り立つと迷路になるんだろうと。
伊藤:フェイクを作るということですよね。道を選択するっていう行為に失認や誤認という要素があるとしたら、迷路としてのクオリティが高くなる。どっちかはわからない。例えばヴィレッジヴァンガードは渋谷的な作りだなと思います。ものすごい情報量で道をあえて幾何学的に交通整理していない。棚へのものの配置も渋谷的だなと思っていて。一方で紀伊國屋などの本屋は、ニューヨーク的だと言えるかもしれませんね。
西山:いまの細川さんの話でいうと、私は碁盤の目状の町で迷うことがよくあるなと。例えば銀座は何回行っても目的地になかなか辿り着けない。銀座駅の近くにある伊東屋なんかもとてもわかりやすい場所にあるはずなのに、毎回全然違うところに行ってしまって辿り着かない。そこでみなさんどうやって場所を記憶しているのかを聞いてみたいなと。私の場合はボーッと気ままに歩いてしまっているから、歩いた距離や疲れなどの身体感覚で場所を認識してるところがある。同じくらいの道だと同じくらい歩くとか、さっき右だったから、もう1回右みたいな。俯瞰で捉えずに視点がシンプルに前だけを見ている。この方向にまっすぐ進んで、ここで曲がったのになぜ到着しないのだと。だからめちゃくちゃ碁盤の目が苦手で京都も迷う。
伊藤:僕も碁盤の目のまちで迷うことがあります。それはその場所にたどり着いた成功体験を構成してる景色のパターンがめっちゃ同じだからではないかと思っていて。渋谷のように、単純に視覚的にカモフラージュされてわからないというパターンと、碁盤の目のように、記憶違い、つまり自分が勝手に決め付けてしまうパターンがある。碁盤の目で角を曲がろうとすると、グリッド状だから似たような道も多くなるわけですよ。だから、自分を過信してるわけですね。ここを曲がればたどり着くだろうと。だから僕はGoogle Mapなど地図を見て歩くほうが迷うことがあります。地図にここだと記されているからこの方向だと思いこむ。最初の結びつけを間違えていると、永遠に間違った方向に進みます。
細川:今日私がここにくるまでに迷ったのはまさにそれでした。この方向だと確認して進んでいたんですが、スタート時点ですでに間違えていた(笑)。
伊藤:演繹法と帰納法のように最初に歩くルートを決めてから進む場合と景色を見ながら経験的に判断していくときの両方のパターンが、ルートを歩くという行為のなかにはある。どちらの間違いのパターンもありえるのでそれは色々な街で同時に起こりうることだと思うんですけど、渋谷のまちの間違え方は経験的なものからの判断を間違える。碁盤の目で間違えるときは最初の思い込みで間違える、ようなことがある気がしますね。
西山:最初に増田さんが場所の記憶がない時期があると場所と記憶の関係について話されていたと思うのですが、私は基本的に道が覚えられないんです。身体に動きをなじませないと道を覚えられなくて。どうして覚えられないのかは不思議なのですが。学生時代、高校の通学路をいくら歩いても覚えられず、毎回迷っていたんですが、一発で道を覚えていた友人に覚え方を教えてほしいとお願いしたいことがあるんです。駅から畦道を通り畑の脇や住宅街を歩いていくルートだったんですが。ちょっと壁の一部が欠けている家があると。この欠けている家を右に曲がったら、次はブルーの屋根の家が出てくる。このブルーの屋根の家が出てきたら左に曲がると。原始的かつ特徴を絶対に忘れないようにして頑張って覚えたんです。目印が出てくるまでとにかく探すという手法ですね。
伊藤:目印がなくなったら、ヘンゼルとグレーテルの目印で落としたはずのパンを鳥が食べてしまって落ちてない……みたいな感じになりそう。
西山:そこから必死になって「欠けている家、欠けている家」と思いながら道を覚えて歩くという状態が一時期続いていました。だからみなさんははどうやって道を記憶しているのか聞きたいなと。
細川:覚えようと思わないと覚えられない気がする。私は新宿も銀座も頑張って道を覚えたから、覚えているという感覚がたしかにあるなと。
伊藤:努力型のシティガールですね。僕は電車で判断することが多いです。山手線がこの方向に走っているということは大体この向きかなと。判断ポイントを2点以上つくり、進む方向を決める。そうやって歩くのは本当は嫌なんです(笑)。でも中央線が走っているともう高円寺や吉祥寺が見えてしまうような感覚になる。
細川:かなり俯瞰していますね。私も電車で判断することをするんですが、それが間違っていることがよくあるんです。
伊藤:最初の判断を間違えると道に迷いますよね。自分を過信してしまうんです。
細川:飯田橋辺りの総武線沿いをLUUPで走るのが好きなんです。総武線沿いをLUUPでひたすらお散歩して、そろそろ帰るため東京駅に向かおうと「あっちにこれがあったからこの方向が東京駅だ」と勘違いし、気がつくと総武線の中野駅側にだいぶ進んでしまっていた。自分では俯瞰しているつもりなのに、できていないことがある。
◎地図の読み方、土地の読み方
細川:男性の方が地図が読めるみたいな話がよくあるじゃないですか。なんでだろうと思っていて。私の男友達はみんなGoogle Mapが航空写真なんですよ。私は航空写真で地図を見ても全然わからない。伊藤さんと三條さんは航空写真派ですか?
伊藤:航空写真です。
三條:僕は航空写真じゃないです(笑)。僕は航空写真では全くわからない。一連の話を聴きながら思ったのは、やっぱり身体感覚が欠如しているというか、デバイスなどに頼り過ぎていて、身体感覚が徐々に衰えてきているのではと思うんですよ。例えば古代の人だったら、太陽が昇る位置で東西南北がわかるし、日が暮れたら北斗七星の位置と傾き具合で時間と方角がわかる。それで進む方向を決めることができたと思うのですが、現代人にはそういった感覚はほぼないですよね。
特に東京にいると東西南北が非常にわかりづらく迷いやすいんじゃないですかね。京都はたしかに碁盤の目ですが、山がある方向が北なんです。その圧倒的な目標が1つあるだけで、なんとなくこの方角は北だろうなと目星がつけやすい。東京だとそれができないから、Google Mapに頼っていても東西南北がわからず、道を大幅に間違える気がしますね。
細川:神戸はたしかにわかりやすいですよね。山側、海側みたいな。
西山:川などがあると、一気に把握能力が上がるかもしれません。この方角に流れていて何川って書いてあるから、今はここだと。
伊藤:まっすぐな川だったらいいんですが、たまに蛇行する川がありますよね。「あれ、また神田川だ」ってなることがあります。
細川:「また神田川」、よくありますよね。私の大好きなYouTuberで天竜川ナコンさんという方がいます。彼は「エクストリーム散歩」や「縛り旅」などをやっている街歩きの大先輩なんですが、「京都から海が見えるまで歩く」という企画をやっていて。川を辿れば海に着くはずだからと、地図を使わずに身体感覚だけで川を見つけて何日かかけて海に辿り着いたんです。彼が進んだ道をGoogle Mapで調べてその足跡を辿ってみたら、危ういところだったことに気がついて……。もし支流に進んでしまったら奈良に行ってしまっていたんです。そしたらもう海に辿り着くことはできずもう地獄だったはず。
西山:その人に話を聞いてみたいですね。ツアーをやってもらうとか、散歩についていくなど。
伊藤:天竜川ナコンさん「雲を見つけて追いかけてみた」とかやっていますよね。いま一番会いたい人です。2分の動画で人生について大事なことを教えてくれるんですよ。
道をどうやって判断しているかでいうと、身体感覚には修練やトレーニングが必要で、特化していくと道を発見する能力が上がる。M・R・オコナー著『WAYFINDING 道を見つける力』という本の話のなかで、イヌイットの話が書かれていて。イヌイットは犬ぞりやスノーモービルで長距離の移動をするんですが、一面雪のなかで地図を使わないらしいんですよ。1年に1回しか行かないところでも、その場所をしっかり覚えている。山の傾斜などから判断しているらしいんですが、おそらく記号を発見する能力やそれを定着させておく能力が備わっている。細川さんが話していた自分のなかの仮説が命と密接に結びついていると、道の認識能力が熟達していく。
増田:昔サハラ砂漠を歩いていたときに、ラクダの背中に乗って移動していたんですが。ラクダが途中でへばるくらい長距離を歩いたんです。どうして道に迷わないのかとベルベル人のガイドに聞いたら、道はあるじゃんと言い返されたんです。360度砂漠で道路はもちろんないですし、山もまちも見えないような場所。私の目には道という道はまったく映らず、すごく不思議だったんです。私には道は見えないが、彼らには道が見えている。それは伊藤さんや三條さんのいう身体感覚の違いかもしれませんね。空にも道があると言いますよね。
細川:空の道は私も不思議に思っていました。
山本:パイロットには光線が見えているそうです。例えば飛行機が東京から名古屋に飛ぶ場合、機体が通る光線が飛行機の画面で見えている。
西山:海の道でいうと昔は時計が回路を示すために必要だったと言いますよね。時計の発祥は大航海時代のイギリスという説があります。時を刻むという行為が自分が今どこにいるかを示すためのものだったので、当時は懐中時計がある種方位磁石よりも大事だったと言います。つまりその当時は時間と場所が切り離されておらず、時間を知ることは、場所を知る行為だった。以前の私は時計が嫌いだったし、どうして地図も時間を置いていきぼりにして記されるのかと思っていたけれど、本来は自分の場所を知るためのものだと知って、時計を持った方がいいなと思って高価な懐中時計を買ったことがあります。
(後編に続く)
編集者・遊歩者・粘菌
多摩美術大学卒業後、出版社を経て独立。雑誌「TOKION」のリニューアル創刊に携わるほか、本と編集の総合企業SPBSでは「SPBS THE SCHOOL」の立ち上げに参画。編集を基点にリサーチや企画立案、キュレーションや場所作り、メディアディレクションなど。アート、デザイン、音楽、ファッション、都市、街などを中心にメディアを横断し、雑誌的な編集を行う。編集を手掛けた書籍に『A DCADE TO DOWNLOAD — Internet Yami-Ichi 2012–2021』(2022)、『来るべきデザイナー現代グラフィックデザインの方法と態度』(グラフィック社、2022)、『アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き』(Tokyo Art Research Lab、2023)『小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社、2023)など。2023年5月より「M.E.A.R.L.」の編集長に。
https://lit.link/en/moenishiyama
細川紗良 / Sara Hosokawa
編集者
武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業。2018年に301 inc.にジョインし、代々木上原〈No.〉の立ち上げなど「飲食×デザイン」の領域で企画、PM、ディレクションなどを経験。その後BRUTUS.jpを経て、フリーランスとして広義的な編集の観点から、「人と人/人とこと/人と場所」の関係性を探求している。色、香り、音など、五感(またはそれだけではない感覚)を丁寧に観察し、言葉や体験の表現にすることに興味がある。1日の平均歩数は12,000歩。
三條陽平 / Yohei Sanjo
ORDINARY BOOKS代表。1987年生まれ。蔦屋書店、BACHを経て2022年独立。出版、流通、販売、選書を軸に横断領域的な本との関りを目指している。出版事業では宇平剛史(著)『Cosmos of Silence』を出版。編集/執筆を手掛けた書籍に『造本設計のプロセスからたどる 小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社)がある。
https://www.ordinarybooks.com/
伊藤隼平 / Junpei Ito
1994年宮城県仙台市生まれ。カフェ・バーなかなかの店主。Y字路。料理愛好家。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。慶應義塾大学SFC研究所 上席所員。
増田陽子 / Yoko Masuda
1989年茨城県生まれ。新卒にてイベントの企画・制作進行等に携わった後、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)を経て、フリーランスに。現在は人物インタビューを中心に、編集・執筆・書籍制作・進行管理等に携わる。インディペンデントマガジン『ELEPHAS』の編集・執筆等。