M.E.A.R.L.公開編集会議 #1「道に迷うことについて」後編

0

M.E.A.R.L.と書いて〈ミール〉と読む。それはあなたがいままさに読んでいるメディアの名前である。M.E.A.R.L.とは、「MAD City Edit And Research Lab.」の略であり、株式会社まちづクリエイティブが運営するバーティカルリサーチメディアだ。まちの最小単位である「個人」の視点から、場やメディアの概念を拡張し、思考+追求+観察+実験+活動している。新編集部が立ち上がり約1年が経とうとするいま、編集会議を「公開編集会議」と題し公の場で開いていくことにした。種が蒔かれると芽が出て根も葉も育つように、個々の興味関心や思考を放出させることで、個々の思考もゆるやかに深化・拡張する。編集部でじわりと行ってきた一連の営みを、より多様な視点や思考を交換し合う実験の場にする。本連載はその試みの記録である。迷いや寄り道があたり前に存在する終わりなき対話が巡る先に、何かがかたちになるかもしれないし、かたちにならないかもしれない。誰かに、どこかに、何かが残るかもしれない。

2024年4月19日開催の第1回公開編集会議のテーマは「道に迷うことについて」。会場は編集部伊藤がオーナーを務める東中野と中野坂上のあいだにあるカフェバー「なかなかの」にて。遠方メンバーも参加できるようオンラインでも公開。後編では、土地に限らない道の見つけ方や土地を観る身体感覚、まちの痕跡について語らう。

text:Yoko Masuda
edit:Jumpei ItoYohei SanjyoSara HosokawaMoe Nishiyama

前編はこちら

◎水脈を探す。人工と自然を分離しない微生物

西山:道を認知する能力の話に戻ると、道を認知する能力があるから都市には道が作られたし道を探すこともできるのかと。というのも明治時代以降の政府が行ってきた河川事業においては、人が歩く道だけでなく水路や水脈を見つけ出していたわけです。どう探していたのか気になっていて。山から海に向かって川が流れるという自然の摂理はありつつも、川が通る道は必ずしも決まっていない一方、正常にはたらく川のある場所には良い風が吹くなど何かしらの共通点があるはず。例えば豊かな河川を誇る避暑地として有名な那須塩原ですが、元々は広大な荒地。那須連山の裾野、箒川と那珂川の合流部にかけて広がる那須野ヶ原と呼ばれる約4万ヘクタールの広大な複合扇状地にあり、扇状地特有の礫層が厚く堆積し、地下水は深く流れ、飲料水にも事欠く状態だったそうです。要するにもともと地表に流れる「川」はなかったということですね。そこで端的にいうと地下水の水路を認知、発見し、地上に引っ張りあげて河川にしていく必要がある。この場所には地下水が走っているから、ここには川を流せると。那須野ヶ原では実際には江戸時代の用水路開削の試み、明治期の国営事業としての開墾事業を経て、最終的には昭和42年に着工された国営那須野ヶ原干拓建設事業を経て那須疏水と呼ばれる現在の姿になったそうです。

伊藤:荒川放水路も河川事業でつくられた人工的な川ですね。明治時代の地図を見ると村だった場所が川になっている。荒川という名があるくらいに、大雨が降ると川が氾濫し洪水になる。洪水が進出してこない生活エリアを確保するために、村を消滅させて川をつくったんです。荒川放水路を見て自然っていいなと思うけれど、全く自然ではなく人間の営利によるものというのも面白いですよね。

西山:自然物と人工物、自然環境と都市環境とが二項対立で語られることがありますが、人工的に作られたものが100%自然環境に悪いかと言われると、そうではないこともありますよね。田園風景など一見自然の風景に見えていながら人が手入れをしたことで生態系が多様になったという事例もあります。水の留まる場所ができたことで、流されずにすんだ虫や動物たちがそこで多様な形に分岐し進化を遂げた。そういう意味では水田もある種の生き物にとってのたまり場だなと。

先日細川さんと微生物の研究をしている微生物研究者の伊藤光平さんにお話を伺う機会があったのですが、都市の微生物の性質は人間が所有する微生物の性質とほぼ同様だそうです。つまり人間の体内にいる微生物が、体外へと出て、都市に存在する。人間の都市の生活に合わせて微生物の性質が変化していく。人と微生物も複雑に絡み合ってるんだよなと。

細川:人は1時間あたり100万個もの微生物を放出しているそうです。

西山:たとえば右手に500種類、左手に500種類の微生物がいる。握手をすると500種類ずつ微生物を交換しているというわけですね。そのため友人やパートナー、動物など共に過ごす時間が長い生き物たちは腸内細菌が似てくるそうです。以前に三條さんと県民性などと表現されるけれど、土地ごとに主に食されるものが異なることで性格が変わるのではないかという話をしていたのですが、食べるものが似ていることだけではなく長い時間を共有していたり、同じエリアにいたりすることも腸内細菌が響き合うことにつながるそうです。つまり多様な生物と関わると、自分自身の腸内細菌はより豊かになっていくということ。一方引きこもってしまい誰にも会わない状態になると、自分の腸内細菌のなかに派閥のような強い勢力ができてしまう。その強い勢力が善玉菌だったら良いのですが、ガン細胞や悪性の細菌だったりすると、体調を崩してしまう。だから外の空気を吸うことや換気は大事といわれるんですよね。さらに興味深いと感じたのは、強い熱を発しているボイラールームで、砂漠に生息する微生物とほぼ同じ種類の微生物の存在が確認されているということ。微生物にとっては室内であるか屋外であるかということは全く関係なく、環境に適応して進化をしていく。人間も細菌ほどのスピードで進化はできませんが、体内に棲まう細菌とともに、多少なりとも進化もしくは退化など変化をしてるのかもしれません。

◎麓はどこか。人間の身体感覚で土地を捉えること

細川:進化なのか退化なのかという話を地図的な視点で捉えたときに不思議に思っているのが、富士山の麓って誰がどうやって決めたのだろうということ。富士山って何度見ても言葉が出てこないくらいにその存在感に圧倒される。その富士山に登るために詣る神社として浅間神社などが麓にありますが、ここがが麓だとどう定めたのかなと。富士山の傾斜は、富士山自体が大きすぎるがゆえに歩く人間からすると坂だなくらいにしか感じ取れないはず。それなのに見事に富士山を囲むように転々と麓の神社たちがあり、そこには必ず大木が植わっている。大木が先にあったのか、ここが麓だと決めて木を植えたのか。その木が御神木としてちゃんと立派に育っているのも不思議ですし、それを身体感覚的にわかっていたとはもはや宇宙人の仕業なのではと思ってしまうくらい。私たちよりもむしろGoogle Map的な視点を感じて畏れ多いなと思うんです。

西山:麓だけではなく、山の要となる場所、例えばちょうど山の中腹でも地盤的にも安全性が高いという場所に立っている寺社もありますよね。そこより先は危険であるという戒めや警告として神社やお寺が建てられたりする。

伊藤:寺社仏閣の配置は土地に対する理解をかなり反映していますよね。この付近にも氷川神社がありますが、氷川神社は絶対に水の被害に遭ってはいけないので、地盤がしっかりしているところや台地上に建てられることが多いんです。祀られている「須佐之男命(すさのおのみこと)」が嵐・暴風雨の神さまということもあり、特に暴れ川や荒川の本支流域への分布が多くみられます。水に関する厄介が起きないようにする神社ということもあり水の被害に遭うわけにはいけない。赤坂の氷川神社も氷川坂、檜坂、転坂、南部坂など坂道に囲まれた高台にある。そしてその神社を設置する場所選びのために、たしかに知識が存在しています。おそらく川の位置や流れのパターンまで把握している、つまり土地を見る解像度が高い。氷川神社はコンビニのフランチャイズに匹敵するくらいの数、日本各所に建てられていますが、同時に展開するにあたってフォーマットのようなものがあり、土地の読み解き方にも由来しているのではないかと思います。要するにゼネコンみたいにちゃんと敷地調査し土地を理解して、ここ氷川神社いけるんじゃない?と判断し建てていたんでしょう。

また例えば東日本大震災の際、宮城県で津波の被害があった低地の仙台平野には、千年以上続く集落の存在が確認できていないというデータがあります。つまり昔は住んで良いエリアと住んではいけないエリアが明確に分かれていた。昔の地図と震災の状況がリンクしたんです。50年や100年単位のスケールで考えると近代的な知識は合理的なんですが、1000年のスケールになってしまうと昔の方が知識が優ってしまうことがあるということを示しているのではないでしょうか。東日本大震災は1000年に一度の地震でしたから。なので、富士山の神社に関しても何となくできたわけではなく、おそらく身体的な積み重ねや知識のアーカイブを引き継いだなかで発見したことなのではと。一方でいまの普通の感覚からしたらなんか神社があるなくらいの感覚ですよね。そこにはやっぱりギャップがありますよね。

山本:富士山の麓の神社は、先に富士山に登った人たちがいて、そこを守らないと例えばビルが立ったり、登ったことのないひとたちが侵食してきてしまうから、それを人為的に守ったり、噴火が起きたときにこれ以上先には何かを建てたら死ぬという場所を調べてそれを守るために生理的に神社を置いたのかなと。

三條:神社を建てようとした頃は人間の身体感覚と自然が繋がってたと思うんです。僕はその繋がりの境目は人間が妖怪を見えていた時代と見えなくなった時代にあると思っています。人間がなぜ妖怪が見えなくなったのかというと、身体感覚が自然と切り離されてしまったからではと。同様に場所の良し悪しや危険を察知できること、方位を感じ取れること、星座によって位置を把握できることなどは、自然を読み解く力にも繋がっていると思いますが、その判断が可能だったのは、ピュシス(自然)とロゴス(理性、理論など)が密接に結びついていたからではないかと思います。昔の人は事故や災害などが起きた時に、天変地異だとか、神の怒りだと言っていましたよね。おそらく呪術的なこともあったのだと思いますが、その話も妖怪が見えていた頃の話とどこかで繋がりがあるのではと。ところが車ができたり明かりがついたりして、人間と自然が徐々に切り離されてしまい繋がれなくなってしまった。

西山:たしかに。いまでも人間と自然が繋がることはできるのではないかと思うことがあります。もともと平城京や平安京など都の場所は、天文学や暦に関する書物や道具の研究をしていた陰陽師が決めてたと言います。星を読む行為はギリシャ時代以前から続いています。実際に古代遺跡から発掘された石器にも月の満ち欠けについて記されていたり、1万2000年〜4万年前に描かれたとされているフランスのラスコー洞窟の​壁画も、描かれた牛、羊、ヒョウ、サソリ、魚などが実は星座を示したものだったということが解明されています(エジンバラ大学のマーティン・スウェットマン教授とケント大学のアリスター・クームス教授が『Athens Journal of History』2018年11月に発表)。
星座然り、これだけの時代を経て学術として残っている方法なのであれば、そこに観察の視点などのヒントがあるのではないかという思いで数年前から占星術にも興味があるのですが、メジャーや定規のように秤を1つ増やすような感覚で、現代では活用されていないものを使ってみると世界はどう見えるんだろうと考えています。

細川:ホロスコープ(horoscope)のスコープ(scope)は、ラテン語で観察の意味をもつ「スコープ」なんですね。気がつきませんでした。さらにいまホロ(horo)の意味を調べたら、ラテン語の「hora(ホラ):時、季節、時間」で、hourと語源が一緒と書いてある。つまり時間を観察するって意味なんですね!

西山:そうなんです。少し話が脇道に逸れてしまいましたが、道に迷うこととは土地の話だけではないのかもと思いました。記憶の話もしかりで、明らかに時間軸も関係しているし、その場所でどういう時間を過ごすのか、それをどう記憶しているのかも、道を形成するのに重要になっている。土地を把握する上でも重要になっていくように思います。それはいまの自分にとっての時間軸もそうですが、100年単位、1000年単位でその場所を見たときに、そこにあるコンテクストや背景を紐解くことで見えてくるものがあるのかもしれません。だからね、地図を作りたいなと思うんです。地図とは物の見方だなと思っていて、その場所をどう捉えたのかが記されるものだから。

◎ゲームに反映される現代社会の価値観

細川:私は今回の公開編集会議のテーマについて話していたときに、ボードゲームを作りたいなと思ったんです。ボードゲームや人生ゲーム、すごろくもですが、これらのゲームは道に迷うし、ときには道を後戻りする。無駄な方向に行ってしまう運命がボードゲームに現れているという話をしていて面白いなと。私は幼少期にモノポリーで遊んできたんです。久しぶりにモノポリーで遊びたいなと思いAmazonで検索をしたら、正確には思い出せないのですが「土地を売買しよう!たくさん所有してお金持ちになろう!」みたいなテンションで書かれていて。このゲームで遊びながら価値観を形成されたのかと思うと危ないと思ったんです。人生ゲームも、子どもが増えることが前提で車には6人まで乗せられるようになっている。家族を作ることや稼ぐことが正しいとされる土の時代的な価値観が凝縮されているゲームだなと思って。そうではないこれからの迷いを起点にしたゲームが作れるといいなと思ったんです。迷えば迷うほど勝ち。むしろ勝ちすらあるのかどうかわからないようなゲームを作れないのかなと。なので例えばですが、真ん中からスタートしてどれだけ迷えるかをトライするなど。なかなかのにあるこの円卓、いいかたちですね!(笑)

伊藤:準備しておきます(笑)

山本:それでいうと、「ポケモン GO」は迷う練習をさせるゲームだなと思っています。いまは目的地がある場合Google Mapで検索してルートがわかるので、目的地に到着することはできますよね。むしろ例えば友人を待たせているときに迷ってしまったら「最悪だ」と思います。私はたまに今日は迷おうと決めて、あえて迷う「1人迷い歩き」をすることがあります。私はそれをやりたいと思ってやるのですが、実際迷いたいと思う人は少ない。そのようななかで、ポケモンGOはあえて知らない場所にポケモンを発生させ、その地点に向かっているうちに夢中になり、気がつくといま自分がどこにいるのかわからなくなっている。その感覚を取り戻させるためのゲームだったのかなと思っています。

増田:迷うことは迷うと決めないと迷えない時代なんですね。山本さんが今日は迷おうと決めると言っていたのが面白いなと。Google Mapもあるし、迷おうと思わないと迷えない。

伊藤:そうなんですよね。それは同時に迷っているときすらも指針があるということなんですよね。道を判断する際に、身体に蓄積されてきた膨大な経験があるため、「よし、迷うぞ!」と意気込んでもなお、身体に残っている道を発見する能力にどうしても頼っているような感覚で街を歩いてしまいます。完全に迷うことはできない。自身の経験でいうと都市で行われるツアーパフォーマンスもそうですし、山の奥地で行われていた芸術祭「MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館」 を訪れた際も指針があった。

山本:私も「MIND TRAIL」では吉野村を歩きました。

伊藤:僕は下北山村を歩きました。M.E.A.R.L.でレビューを書いているので読んでください。迷うときですら、迷おうと思うルートが存在するわけですが、全く知らない土地で用意されたルートを渡されて歩くという経験は、ルートはあるけど迷っている感覚を抱きました。その一方で知っているまちで決められたルートや自分が歩くのとは異なるリズムを与えられると、まちが知らないものに変わることもあります。例えば神輿を担ぐルートは決まっているんですが、その場所をとてもゆっくり歩くことにより、ふだん生活しているまちがふだんのそれに見えなくなっていく。最初に話したベンヤミンの言う「修練」というのは、モードを切り替えて歩く身体を手に入れるということなのかもしれないと。自分のなかでまちを変えるというか、東京を東京ではなくするような。そういう意味ではM.E.A.R.L.は世のモードを切り替える1つのツールになってると僕は勝手に思っています。もっと迷おうねと言っているわけなので。

◎まちを観察する。まちの痕跡を記すこと、まちに痕跡を残すこと

西山:先日伊藤さんに別件でなかなかの近隣を案内してもらい、みんなで掃除しながら歩いたんです。箒やモップなど掃除道具を1人1個ずつ持ちながら、色んなところを歩いたのですが、掃除道具を持っていると、手ぶらだったときには見えていなかった地面をよく観るようになる。

伊藤:そうなんですよね。まちにはいつもその全てのものが存在しているんですが、見えない。掃除道具を持つことによりゴミが急に見えるようになるんです。

細川:以前渋谷原宿辺りのゴミ拾いをするNPOに入っていたことがあり。そのときに面白いなと思ったのは、クリスマス前にはリボンが落ちていたり、地域ごとに落ちているタバコの吸い殻の種類が偏っていたりしたこと。全くゴミが落ちていない場所も逆に不自然に思って誰が掃除しているんだろうと考えてしまいました。

伊藤:まちを見る目のトレーニングですね。そういう自分の身体を切り替えるものがいくつかあるといいですよね。同じ通学路でも、道を切り替えられる。それを自分の身体に蓄積させていくみたいなこと。僕が目指しているのはそれだと思います。

細川:落とし物でいうと宇多田ヒカルがプロですよね。宇多田ヒカルのInstagramには基本的に落ちたものしか上がっていない。手袋とか絆創膏とか。

伊藤:僕がやってるのはディズニーランド以外の場所で「隠れミッキー」を見つけること。「パラノイア・オブ・エレクトリカルパレード」というプロジェクト名で、ディズニーランドじゃないのに、隠れミッキーを発見してしまったらたまにInstagramのストーリーに投稿しているんです。

三條:昔から考現学的な、古くは路上観察学会や考現学会などがありますが、そういったことの現代版のようですよね。宇多田ヒカルみたいに道に落ちているものを観察してる人は結構いますよね。人それぞれの街の歩き方や何を見ているのかが違って面白いですよね。

伊藤:僕はぬいぐるみを特に見てしまいますね。必ず写真に撮っています。拾って帰るほどの勇気はないんですが、そのぬいぐるみがここに落ちていたことは絶対に俺が忘れないよと思って絶対写真に撮るようにしました(笑)

西山:Google Map化するのはどうですか?「ここにピカチュウがいた。●月●日」とコメント付きで。

細川:編集部メンバーのGoogle MapやInstagramか、アーカイブ場所ほしいですね!私は香りのいいハーブだけをピンしていく。伊藤さんはミッキーとぬいぐるみを。

山本:私は「歩集」と名付けて、まちに置き去りになったカフェオレとか傘とか、その物の背景にちょっと物語が作れそうだなと思う物を集めるのが好きです。

細川:すでにやっている! 逆にまちに痕跡を残していくこともしたいですね。グラフィティってやっぱり格好いいじゃないですか。三木聡監督の映画「亀は意外と速く泳ぐ」がとってもシュールで好きなんです。上野樹里が主人公なんですが、彼女が長い階段で転ぶんです。転んだ先にある段差に「スパイ募集」と小さく書かれた電話番号を発見して。そこに電話をかけたらスパイになるという映画なんですけど。そういう小さな痕跡を残してみたいなと。

伊藤:シール貼るとか面白いですね。残し方でいうと、松尾芭蕉の『奥の細道』はびっくりコンテンツだなと思います。俳句を書きながら日本の東北まで徒歩で行っただけで、その言葉が景勝地のモニュメントに刻まれて、その場所を目指して後世の人々が歩き直す。行ったことがない土地について記された五七五の17文字だけを頼りにその場所を訪問し、その俳句とセットで風景を見る。その人が歩いてること自体が痕跡になる。そこにはないのに。ぬいぐるみはいつか必ず片付けられてしまうんですよ。ぬいぐるみがあった場所自体を覚えておくことで消えていってしまったことも覚えていることになる。ピングーが好きなので、ピングーのぬいぐるみが落ちていたら僕は泣いてしまうと思いますよ。

西山:消えてしまうものを地図に残しておくのは面白いかもしれません。消えてしまうんだけど、何月何日にたしかにここにあったという事実がある。Google Earthの面白いところはそれだなと思います。撮影時には建っていたコンビニや家が今はもうないけれども、写真として残っている。

細川:とても個人的な話なんですが、ここにくる時にLUUPで通った道に変なお寺のようなものがあって写真を撮ったんです。大通り沿いのくぼみがちょっとした休憩所になっていて、流木のベンチに座れるんです。私、何年か前にそのベンチで好きな人とお喋りをしたんです。ここだと思い、一気に思い出がフラッシュバックして思わず写真を撮ったんですが。この場所のハックの仕方は私たちしか知らないとか、そういう場所がそれぞれにあるんだろうなと思って。その人しか知らない使い方や視点が気になるというか。

伊藤:そういうものがテキストや写真で記されていたら面白いですね。知らない人の人生だけど、そこに空間が写ってるとよりリアルで。

細川:別れ話をしたベンチなどがピンポイントに記される。

西山:それが公になったら面白い。しかもプライベートな情報なのにマッピングされているみたいな。そこにも法則が現れそうですね!

細川:その法則性は知りたいかも。狭いところではなく広いところなのか。

伊藤:改札前などある程度の人の流れがあるところやほどよく雑音があるところとか。

細川:面白い。それで言うと私は安心して泣ける場所も結構知っています。夜の皇居は広すぎて誰もみていないので、意外と泣いていてもばれなくておすすめです。

西山萌 / Moe Nishiyama
編集者・遊歩者・粘菌
多摩美術大学卒業後、出版社を経て独立。雑誌「TOKION」のリニューアル創刊に携わるほか、本と編集の総合企業SPBSでは「SPBS THE SCHOOL」の立ち上げに参画。編集を基点にリサーチや企画立案、キュレーションや場所作り、メディアディレクションなど。アート、デザイン、音楽、ファッション、都市、街などを中心にメディアを横断し、雑誌的な編集を行う。編集を手掛けた書籍に『A DCADE TO DOWNLOAD — Internet Yami-Ichi 2012–2021』(2022)、『来るべきデザイナー現代グラフィックデザインの方法と態度』(グラフィック社、2022)、『アートプロジェクトのためのウェブサイト制作 コ・クリエイションの手引き』(Tokyo Art Research Lab、2023)『小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社、2023)など。2023年5月より「M.E.A.R.L.」の編集長に。
https://lit.link/en/moenishiyama

細川紗良 / Sara Hosokawa
編集者
武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業。2018年に301 inc.にジョインし、代々木上原〈No.〉の立ち上げなど「飲食×デザイン」の領域で企画、PM、ディレクションなどを経験。その後BRUTUS.jpを経て、フリーランスとして広義的な編集の観点から、「人と人/人とこと/人と場所」の関係性を探求している。色、香り、音など、五感(またはそれだけではない感覚)を丁寧に観察し、言葉や体験の表現にすることに興味がある。1日の平均歩数は12,000歩。

三條陽平 / Yohei Sanjo
ORDINARY BOOKS代表。1987年生まれ。蔦屋書店、BACHを経て2022年独立。出版、流通、販売、選書を軸に横断領域的な本との関りを目指している。出版事業では宇平剛史(著)『Cosmos of Silence』を出版。編集/執筆を手掛けた書籍に『造本設計のプロセスからたどる 小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社)がある。
https://www.ordinarybooks.com/

伊藤隼平 / Junpei Ito
1994年宮城県仙台市生まれ。カフェ・バーなかなかの店主。Y字路。料理愛好家。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。慶應義塾大学SFC研究所 上席所員。

増田陽子 / Yoko Masuda
1989年茨城県生まれ。新卒にてイベントの企画・制作進行等に携わった後、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)を経て、フリーランスに。現在は人物インタビューを中心に、編集・執筆・書籍制作・進行管理等に携わる。インディペンデントマガジン『ELEPHAS』の編集・執筆等。

0
この記事が気に入ったら
いいね!しよう