第3回公開編集会議のテーマは「『居』場所誕生。場所はいかにして『居』場所になるのか」。居場所になりうるための要素や条件、居場所という言葉にある印象や交換がもたらす関係性の平等、自分と他者とのわかりあえなさや人や場所への固執性などについてお届けする。
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text:Yoko Masuda
edit:Jumpei Ito、Sara Hosokawa、Moe Nishiyama
テーマ:「居」場所誕生。場所はいかにして「居」場所になるのか
日程:2024年6月27日15:00〜17:00
会場:東中野と中野坂上のあいだにあるカフェバー「なかなかの」
参加者:編集部メンバー4名(西山萌、細川紗良、伊藤隼平、増田陽子)、樋口トモユキ、山本幸歩、中根亜里沙
居場所になる場所にある要素とは。
匿名性・関係性・距離感から
西山萌(以下、西山):今日のテーマは「『居』場所誕生。場所はいかにして『居』場所になるのか」。元々どのような条件が揃えばこの場所は居住可能であるのか、という問いから「棲む場所」というキーワードも挙がっていたのですが、今回はもう少し根源的かつ抽象的に、物理的な条件のみならず、心理的な要素も含めて検討されるテーマとして棲む一歩手前の「居場所」という概念について。みなさんにとって「居場所」とはなにか、具体的な体験や仮説をもとに検証していけたらと思います。
西山:M.E.A.R.L.編集長。編集者・粘菌。粘菌とは樹の根っこなどを通じて、いろいろな生き物に必要な信号や栄養素を届ける役割をしている生物。さまざまな組織やコレクティブに出入りするなかで、本の編集、展示のキュレーション、場所作りなど自ら変容/移動/伝達する行為を通じて粘菌的に活動する。
伊藤隼平(以下、伊藤):カフェ・バーなかなかの店主。Y字路。料理愛好家。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。慶應義塾大学SFC研究所 上席所員。
細川紗良(以下、細川):M.E.A.R.L.編集部。編集者。コミュニケーション全般を担う。広義的な編集の観点から、「人と人/人とこと/人と場所」の関係性を探求している。
増田陽子(以下、増田):M.E.A.R.L.編集部。主にライター・編集の仕事をしている。M.E.A.R.L.では進行管理も担当。
樋口トモユキ(以下、樋口):建築や都市計画の出身。日経新聞社系列の出版社に約20年勤めた後、小さなまちづくり会社に入社。その後独立する。「なかなかの」には客として通う。東中野近辺の神輿を担いだり、「なかなかの」とイベントに出店したりしている。
山本幸歩(以下、山本):第1回目の編集会議に飛び入り参加。大学4年生。コミュニケーションデザインや社会学などを学んでいる。
中根亜里沙(以下、中根):元東中野在住。ノンアルコール飲料の会社を立ち上げている。いつかお店をやりたいと思っていたところ、編集部・細川より「なかなかの」という良い場所があると聞き参加。
増田:あるカフェが自分の「居場所」になったと感じた瞬間を覚えています。ポーンと自分の内側になにかが落ちるような、腑に落ちた感覚と近しいものだったんですが。その場所はアメリカ・シアトルのまちなかにあるカフェ。賑やかな市場の2Fにありました。薄暗くて細い階段を上っていくと、急に空間が開け、天井が高く広々としたカフェがあらわれる。そのカフェのソファに座ったときに、すぐに居心地の良さを感じたんです。その経験から、場所が居場所になるには、時間軸で考えると2パターンの可能性があるのではと思っていて。1つは同じ場所に通い続けたり、住み続けたりして「時間をかけて」居場所にしていくパターン。もう1つは、個人に紐づく居場所の条件とその場所にある要素が一致することで「瞬間的に」居場所になるパターン。シアトルで私が経験したパターンは後者だったわけですが、そこにはいくつかの要素があったように思います。まずは、英語が飛び交っていたこと。第一言語ではないので聞き取ろうと思わない限り言葉の意味が自分の内側に入り込まなかった。また適度なざわめきがあり、適度に人がいたこと。そして日本の細やかな接客とは対照的な接客で、ケアされていないことで感じる楽さがあった。これらが自分がカフェなどに居場所を感じる条件なのかなと思いました。
細川:適度に人がいるけれど、他者から自分を特定されない匿名性が担保されてる状態ってクラブに似ているなと。以前、小さなライブハウスで盆踊りのイベントを主催したことがあるんです。とても楽しかったんですが、後から振り返ると理想的な状態ではなかったように思えてその理由を考えてみると、部屋を暗くしきれなかったと、祭りほどのバイブスが箱のなかでは高まりきらなかったことなどがあるなと。日本人は特に、明るいところでは踊りにくいと感じる人が多いと思います。本来の盆踊りも暗いなか提灯が点されているくらいの明るさで行われますよね。知っている人もいるかもしれないけれど、ほとんど知らない人だと感じるくらいの匿名性がある状態。自分が何してようが、変な踊りをしていようが周囲は気にしていない。クラブなどでの暗さによる匿名性がもたらす安心感と、増田さんが言っていた、何を話しているのかわからないことによる居心地のよさは近しい気がしました。
西山:たしかに匿名性が担保されていない、むしろその場にいる全員と交流を持つことが前提となっている場は緊張しますよね。以前、ほぼ初対面の人たちの集いでありながら、参加者の名前が事前に共有された招待制の食事会に参加をしたことがあります。考えてみると合コンや街コンといった集いも似た性質があるかもしれないのですが、その食事会には参加者同士で交流を深め仲良くなりましょうという目的が設定されていて、初対面の同テーブル人たちと関係を築かなくてはという暗黙のプレッシャーのようなものがありました。もちろん、会話はとても楽しいもので交流自体はとても有意義なものなのですが、どこか気が抜けない緊張感がある。コース料理でメニューも決まっていて、時間になるとライブコンサートが始まり、ワークを行う時間まで計画されている。目的とタイムラインが明確に設定されており、自由かつ予定不調和な行動が生まれない、自分で創造できない時間を過ごしていると、どのような場所であってもその場は「居場所」という感覚からは遠のいていくのかなと感じました。
樋口:ワークショップなどもそういう感じがありますよね。自分は「なかなかの」には酒を飲みに通っているんですが、酒を飲む場所は基本的に居場所だなという気がします。
西山:逆にどんな場所でお酒を飲みたいと思いますか?また、通うお店と1回限りのお店にはどのような違いがありますか?
樋口:あまり賑やかすぎないお店かなあ……。知っている人がいるかどうかは大きな理由になりますね。通いたいお店ができたら、まずは週3ぐらいで集中的にそのお店に通ってマスターに顔を覚えてもらうんです。そこからちょくちょく通うようになる。特に似たような年代の人が通う店や色んな人が来ている店には通いますね。飲み屋でしか会わない人もいますし。
西山:通いたいと思う場所には個々が様々な感情を求めて訪れますよね。セイフティな場所を求めて足を運んでいる人もいれば、居心地の良さやリラックスした時間、マスターや店主と仲良くなりたい、人との関係を築きたいという人、放っておいてほしい、1人になれる場所がほしい人など。樋口さんは通いたいお店にはどういった感情を求めていますか?
樋口:安心と居心地の良さはマストです。放っておいてほしいかどうかはその日の気分による。それを察してマスターが話しかけてくれたり、あえて放っておいてくれたりするお店には通ってしまいますね。
伊藤:マスターによっても全然性格が違っていて、たくさん喋ってくれるマスターもいればなにも喋らないマスターもいますよね。こっちから喋りかけると喋ってくれるマスターもいれば、こっちから喋りかけても全く喋ってくれないマスターもいる。
僕も以前住んでいたまちに居場所と呼べるバーがあります。最初は何もわからずに通っていたんですが、徐々にバーの過ごし方を学び始め、バーを居場所にする自分なりの正攻法をもっています。僕の友人は極端なんですが、3日連続で行き、その3日間にめちゃくちゃお金使えば絶対に覚えられると言ってましたね(笑)。
樋口:一方で自分は東中野エリアの神輿を担いでいるんですが、店ではなくコミュニティを居場所にしていく場合には、居場所になるまでのスパンが長くなるんですよね。お祭りに関しては年に1回しか開催されないので、コミュニティ内部の力関係がようやく3年目ぐらいで見えてきて、ようやく自分の名前も認識してもらえる。今は神輿や祭りの委員になっているんですが、ここまでくるには10年かかりました。
西山:うまく説明のできない感情の転換なのですが、学生時代はカフェ巡りが好きで、店主が1人で営んでいる個人経営のカフェや喫茶店によく通っていたんです。クセの強い店主との会話から知らない価値観に触れられたり、空間からも独自の世界観が垣間見れて新鮮だと感じていたのですが、ある時からふと顔馴染みのお店からどことなく足が遠のくようになりました。特にきっかけがあったわけではないのですが、店主と他人以上の関係性が築かれた分、気楽に訪れるのが難しいという感覚が生まれてしまった。お店の人とのあいだにほどよい距離感を求めるようになったのかもしれません。以降、店主1人ではなくほかにもスタッフが何人かいて、今日はあの人に会うかもしれないけれど他の人に会うかもしれない、というくらいの距離感があるお店を選ぶことが増えました。同時にお店の広さも意識し、カウンターだけではなくある程度の広さがあり距離をはかれる空間を選んでいます。
伊藤:以前聞いたことがあるんですが、バーのカウンターに一言も喋らずに通うけど、店員さんに話しかけられてしまったらもう通わないというバー通いの人がいるらしいです。それに近いかもしれませんね。
僕は美容院が苦手で、以前は美容師さんとあんまり喋りたくないと思っていたんですよ。今通っている美容室はものすごいいい距離感で、話しかけてはくるけど嫌な感じもしないし、自分の時間も大事にしてくれる。この人だったら任せられると思って通い始めたんですが、ある時から仲良くなり、そうしたらその人めっちゃ喋ってくるんですよ(笑)
細川:どういうタイミングで仲良くなったなと感じたんですか?あるときから会話が増える?
伊藤:本質的な会話をしてしまうと仲良くなってしまいますね。世間話ではなく、仕事で何を大事にしているかなど。そうするともう友人なので、その時間は友人との楽しみ方に変わります。なので今は友人のところに通ってるみたいな感じです。美容室には「人と関わらない場所」を求めていたけど、店員さんが友人になったことによって「人と関わる場所」としてその場所を認識し直した感覚があります。
細川:「店員さんと話すか話さないか問題」でいうと、スタバに違和感を感じることがたまにあります。例えばこの前、スタバでオーダーしたとき、「シフォンケーキ、好きなんですか?」と聞かれて戸惑いました。スタバには人との関わりを求めていないときに行くのに、おそらくマニュアルなのか、いきなり「気の利いた少しの会話」が始まる。
伊藤:僕はスタバ好きなんです。スタバはどこにいっても全部スタバなので考える必要がない場所なので。特に好きなスタバが、実家から歩いて5分のショッピングモールの中にあります。その店舗は日中に行くと3組ぐらいしか客がおらず、広さもあり、道路を流れる自動車が見えて、コーヒーの匂いがしてくる。混んでいるスタバは苦手なんですが、空いているスタバは自分にとってすごく落ち着く最高の場所なんです。半年ぐらい地元に帰っていたことがあって、その頃は毎日通っていました。読書も仕事もするし、スマホを見ることもあるしぼーっとすることもあります。まさにサードプレイスです。
◎「居場所」という言葉の印象から。
居場所には役割が必要なのか
山本:先日「東京の居場所」について友人たちと3人で話をしていたんですが、東京出身か地方出身かで「居場所」という言葉の捉え方が異なっているのが面白かったんです。私は岡山出身で、友人の1人は山梨出身、もう1人は東京出身。居場所を感じる場所について、東京出身の友人はカフェなど物理的な空間を例に出していたのですが、東京以外の2人はコミュニティや前提として人がいる場所を例にあげていた。それを「拠りどころ」と「役どころ」という表現で話していたんですけど、居場所を感じるためには「役どころ」、つまり自分の存在が必要とされていたり、役に立っていたりすることが必要なのでは。一方で、飲食店のように自分がお金を払っている場所である「拠りどころ」は、居場所にまで至らず消費の段階なのではと。
また、居場所と好きな場所も違いますよね。カフェも好きだけど「居場所」というより「好きな場所」かもしれないと。それを要素分解していくと、好きな場所のなかに愛着が重なると居場所になる。愛着とはその場所に対する記憶の濃さなのかなと。その場所で何かが起きたとか、他の好きな場所よりも鮮明に思い出せるみたいな。
中根:私も三重県出身なんですが、「居場所」と聞いて「コミュニティ」のイメージがわきました。なので自分が居場所と思える条件は「役割がある」こと。会社や自宅、こういう対話の場などは居場所を感じますし、特に自宅については90%ほど居場所だと思える。それを要素分解すると、3つ考えられるかなと思っていて、まずは人と共同生活をする上で家事掃除など些細なことでも私自身の役割があること。2つめはマンションの隣の人と交流があること。とんかつの余りをいただいたり、「ドラマで作った昆布の煮物なんだけどよかったら食べる」と言って持ってきてくれたりするんです。だからといってお互いの家に入ったことはないのですが、何かしらの交流があるとコミュニティ意識が増して、そのマンションに居場所があると感じるのかなと。3つめは、自分のお気に入りのものがあることも「居場所」になる理由の1つかもしれません。パートナーは椅子が大好きなんですが、椅子を買う理由は椅子は居場所だからだと言うんです。椅子に限らずお気に入りのものに囲まれていると心地がいいし、それは好きなカフェの居心地のよさともしかしたら似ているかもしれません。これらが共存していると居場所だと感じるのかなと思います。
伊藤:僕が場所を居場所と感じる要素を分解してみると、まずはその場所の使い方がわかること。例えばその場所の椅子の座り心地がわかること。今日はあの椅子にしようと選べる。また空間において隅っこを探してしまうことってあると思うんですが、あれば居場所探しの最小行動なのかなと。自分がいるべき場所を探すアフォーダンスとも言える。店に入る前に自分の身を置くべき場所がわかるとき、居場所だと思うのかもしれないなと。特に椅子の記憶は強烈ですね。
細川:たしかに私もよくいくカフェの指定席が決まっています。中根さんの話を聞いていて、逆に私は役割がなくても自分がいていいと思える場所に居場所を感じやすいなと思いました。友人とも仕事をよくするし、役割的に繋がってる人たちが周りにも多いこともありますが、友人関係と仕事関係の間、みたいな人といる場所を私はあまり居場所だと思わないなと。私のスキルや役割、話ができるできないなどが関係なくても一緒にいられる人や集まりに安心感を覚えます。
中根:私が考える役割ってもっとライトです。存在があること自体も役割。例えば今日この机に座っていて役割を感じています。このテーブルに私が欠けていたら変じゃないですか。カフェにも人がいてこそ成り立つと思うので、その空間に自分がいることで、私はカフェになんか貢献しているなと思うことがある。
伊藤:人前にいるときの「あらわれ方」ってことですよね。パーティーに行き、あまり知り合いがおらず、少し話したことがある人はいるけれど別の人と話してるなと思い、1人でうろうろしているみたいな状態。役割がない、居場所がない、あらわれ方がない。
西山:細川さんが話していた緩んでいてOKな場所が居場所である感覚はわかるような気がします。以前、相手が気楽に話せる友人であっても、お茶を飲む時間を割いてもらっている分、その人にとって有意義な時間にしなくてはいけない、という謎のプレッシャーを抱いていることがありました。プライベートな親戚の集いや旧友とのお茶の席でも、なにかを求められているのではないかと考えを巡らし、自分に求められている役割を果たそうと身構えてしまう。元々プレッシャーを感じる場所には長居はできないと感じるのですが、親しい関係性であってもとくに役割がなくてもいてよい場所や、意図せずとも放置されている/してくれるような場所、集う人一人ひとりが自由気ままに動いている場所はとても居心地が良いですし、自分の居場所であると感じますね。
中尾:私もクセ強めな店長に「会ったことあるよね」とか言われて話しかけられることがあるんですけど、そういうお店には行かなくなってしまいますね。店長と話す人みたいな役割が付与されてしまい、店の人に気を使って料理に全然集中できなくなってしまう。
◎居場所には「対等」があるのか。
「交換」から考える居心地のバランス
樋口:ここまで話してきたカフェやバーにあるのは、第一義的にはマスター・店主と客という商品を介した前提があっての話ですよね。お店ではお店はお金払っちゃえば客だからそこにいていいわけです。一方でコミュニティ内でのボランティアの話はまた少し違いますよね。この場にいて、私は何をしたらいいのか、どんな役割があるのか。そもそもこの場所にいていいのかというところから考える。
細川:対等という感覚はどこから生まれているんでしょうか。お金を渡すと対等になりますが、ボランティアなどではそのコミュニティに対して、どういう振る舞いをして、何をしたら、その対価を返せていることになるのかがわかりにくいから戸惑うわけですよね。対等でなければいけないという感覚は、そもそも人間の本能的にあるものなんでしょうか。
伊藤:「交換」ですよね。人が物を誰かに付与した場合、それを返礼をしなければいけないという義務が生じる。貨幣はそれを制度化し、目に見えるものにしてくれるツールとして発明だと思うんですけど。
樋口:お金を介すると、交換は瞬時に終わってしまいますよね。ボランティアの場はそのタームが長く、たくさん恩を受けるとそれを返さなきゃいけないという心理的に負担にもなってくる。
伊藤:北米に住む先住民・インディアンの民族間で行われていた交換の儀式に「ポトラッチ」というものがあります。自分たちの村で一番の宝物を相手方の部族の目の前で壊す儀式です。それを見た隣の部族も、その返礼として自分たちが一番大切にしているものを壊します。さらにそのお礼として宝物を壊す。相手のために破壊をする贈与的な行為が延々と繰り返されていました。文化人類学が確立する以前は近代人が行うように貨幣を使って交換をすればいいと思われていましたが、実はポトラッチのような交換にはお互いの秩序を保つという機能があったことが発見されています。ポトラッチのおかげで族同士の戦争を免れていたという説もある。
ボランティアや金銭が発生しない領域が難しいのは、自分がやったことに対してなにが返ってくるのか、自分が何かをしてもらったときにどれぐらい返すことが対等さをつくり、人間関係を持続させられるのかというバランスの見極めです。それが自分のなかで成立していればいい。タダより高いものはないという言葉のとおり、自分がもらっているものに対して、返さなきゃいけないという義務やプレッシャーが無意識に蓄積されると疲れるなと思っています。バーでの経験なんですが、僕は21歳の頃からバーに通っていて、そうすると大抵は年齢が一番下になるので周りの大人がおごってくれるんです。でもそうなると帰りづらくなる。疲れるしものすごい帰りたいけど、帰れないというプレッシャーが生まれて、そのバーには行かなくなる。対等な交換が成立していないわけですよね。
◎わかりあえない他者であるという前提で
「交換」のバランスを保つこと
細川:結婚生活や共同生活など、仲の良い友人やパートナーといる場所は居場所と感じられる一方で、交換が成立したりしなかったりするせめぎ合いが続くのも「パートナーシップ」なのではと思います。例えば「ご飯作ってくれたから、洗い物をしたほうがいいかな……でも満腹で眠くなっちゃったな」みたいな。好きな人と損得で付き合ってるわけではないから多目に見たい、みたいなせめぎ合いを両者がしているのかなと。
私には「交換」が唯一うまくいっている友人がいます。どうしてうまくいってるのかなと考えると、阿吽の呼吸のように、相手にできないことを自分がやっているし、その逆もしかりで。お互いがそれをわかっているから毎日感謝を言い合ってるんです。例えば、私がお皿洗って置いておくと「ありがとう~~!」とちゃんと伝えてくれて。そう言ってもらえるから、逆の場合に私もちゃんとお礼を言いたくなるというか。お互いが交換をしながら過ごしていることを、日常的に証明し続けている。
伊藤:その場で交換の証明をすることも大事ですが、長い時間軸で起きている交換をきちんと読み解き分析することも大事そうですね。ここまでの5年間でさ…みたいな。
西山:私は友人やパートナーシップ、家族関係などで関係性を築こうとするときに、相手に一切期待しないこと、求めないことを心がけるようにしています。その分相手からなにかをしてもらえることがあると、嬉しい、ラッキーと捉えられる。反対に自分が相手に何かを求めていると感じると、無意識のうちにストレスが溜まっていく。人に対して不快感を覚えたり傷ついたりするときは、実はそれよりも前に自分がこれをやってほしかったなとか、共感してくれることを期待しているとき。でも実際に人と人との間で暗黙の内に分かり合えること自体が稀であり、あまり自然なことではないと思うんです。気持ちや考えを伝える努力はしますし、わかり合いたいと思うけれども、そもそもが個人と個人、仲が良かったとしても他者同士なのだから、わかってもらうことや伝わることを前提にしてはいけない。そうした感覚を持ってると、自分自身も自由でいることができ、相手との関係性も軽やかになると思います。
樋口:最初に増田さんが話していたシアトルのカフェの話に繋がりますね。周りに期待していないし、されていない。確かに外国人とだったら理解してもらうことを求め合わずにいられますが、日本人同士だと共通の価値観を持っているという幻想が生まれお互いに期待してしまうんでしょうね。
西山:たしかに言語が違うとお店の人に注文などが伝わらなくてもストレスになりませんね。逆に文化が違うこと自体を面白いと思たりする。
細川:言語や肌の色が異なる場合、わかりやすく「違う」ということが可視化されてる。一方で、パートナーシップや日本人同士だと、「わかり合えない他者である」ということが可視化されにくい。
樋口:村の暗黙の掟みたいな話と同様で「ウチ」になっちゃってしまうんでしょうね。
伊藤:まちづくりでも、知らないあいだに蓄積されている仕事を誰かがこなしてくれていると知ること、証明し合うことは大事ですよね。