M.E.A.R.L.公開編集会議 #3「『居』場所誕生。場所はいかにして『居』場所になるのか」

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◎個が個として存在できること
関係が変容する場所にある生きやすさ

西山:私の場合、人との「関係性」における心地よさの条件は、個が確立されている人たちが共存可能な状態なのかなと思いました。バーのマスターとお客さんの関係もそう。無意識のうちに人と人との関係性や自分の立ち位置と役割を判断し、その場にふさわしい人物像でいなくてはならないと思ってしまうようになると、それがたとえ行きつけの場所であってもプレッシャーを感じてリラックスできません。例えばそれが「お客さん」であっても、特定の振る舞いを求められる場においては「個」(他者に規定されない己)ではいられなくなってしまう感覚を覚えます。同様にコミュニティにおいても、関係性が近づけば近づくほどに「私たち」とまとめられてしまうグループ感に、どこか居心地の悪さを感じます。一方であなたはあなただよね、あなたはどう思う?と言われるような関係性が保てる場所では、その場所にいたいなと思える。
空間的な要素で個人的に重視しているのは、身体が固定されないこと、いつでも移動可能なこと。例えば席を立ちたければいつでも立っていい。アクセス面に関していえば、周辺の交通網を把握し、いつでも移動できる状態にあること。自分は車が運転できないこともあり、車でしか辿り着けない場所は敬遠しがちですね……。
また、関係性が変容する/変容しない場所の話でいうと、役割があるから関係性が固定化されてしまうわけではないと思います。例えば家族もコミュニティも、自分の役割やその場所にいて良い理由がある上で居心地がよいと感じる。それは関係性が緩やかに変容しうる可能性を常に含んだ状態だから。逆に上下関係を定められてしまったり、自分を一方的に定義されてしまうと窮屈に感じ、この関係から解放されたいという気持ちになるのかなと。どんな関係性においてもその場で色々な種類の交換が行われ、かつ関係性も変容していける場所に私は居心地の良さを感じるのだと思います。

細川:パートナーシップにおいては無意識のなかで定義が生まれてしまうことも多いなと感じています。社会に存在している認識などによって、言葉で明確に定義されるというより、仕草などで定義されてしまうもの。それは相手から一方的に定義されるのではなく、自分が自分に対して勝手に定義することなどもあります。私の場合はパートナーが男性なのですが、男性から求められる女性的な役割を無意識のなかで自分自身が定義してしまう。簡単な例をあげると、部屋でぐうたらしていたら女性らしいと思われないんじゃないか、などと思ってしまうことがあります。

西山:社会的役割を定義するフレームがあったとしたら、そのフレームを自ら壊していく、あるいは拡張していくことが重要だなと考えています。私は自分の肩書きを「粘菌」と名乗るようにしているのですが、元々あなたは何をしている人ですかと聞かれる自己紹介が苦手だったんですね。編集者というのも、ある意味では社会で生きていくために自分で選んでいる役職名でしかなく、本来的にはもっとあらゆることをする人でいたい。研究者、物書き、夢想家、冒険家、考古学を学ぶ研究者にもなり得る存在でありたい。「粘菌」と伝えることで、良くも悪くも「定義できない」という枠に入る。もちろん名称だけで何かが変わるわけではないのですが、自らのマインドセットとして肩書きを規定しないことで、いつでもフレームを拡張できる柔軟性を持つことができるのではないかなと思います。

山本:自分を一方的に定義されることに対する嫌悪感は私も感じます。私は自分から定義できる場所じゃないと居場所と感じないかもしれません。例えば誰かにここはあなたの居場所でしょと定義されたり、居場所前提で場を提供されると気持ち悪さを感じますね。

西山:人によって様々な環境の違いがあるので一概には言えないのですが、いわゆる思春期や反抗期といわれる時分に感じる居心地の悪さは、「あなたの居るべき場所はここである」と暗黙の内に居場所が定められていることに起因しているのかもしれませんね。たとえば家に帰りたくない時期って多くの人にあるように思います。私自身も、中・高校生のときには家よりも友人といる時間や場所の方が居場所のような気がしていました。それは家にいることで「あなたは何歳の子どもである」という役割が明確に与えられ、そのフレームから抜けられないと感じてしまうから。年齢を重ねると自分が1人の人間という認識に変わり、家族関係も変化して居心地がよくなることがあると思うのですが。

細川:今『HOME』というマガジンを写真家の方と一緒に作ろうとしているんですが、日本語には「HOME」という言葉の感覚がないように感じています。日本語では「家」と訳されますが、本来は「帰する場所」という概念的な場所の意味も含まれている。ここ1年くらい、どこを「帰する場所」だと思うかについて考えているんですが、結局帰する場所って「自分」しかないのかもと。ひとりでいられることの柔軟さや束縛されない関係性に居心地のよさを感じる一方で、どこまで行っても自分しかおらず、どこまでいっても孤独と闘い続けなければいけない人生って結構辛いなとも感じる。どこまで行ってもあなたとは他人だから、いついなくなるかもわからないと心のどこかで思っていて。究極の居場所は自分しかいないのではと。

西山:今の「自分しかいない」という話を聞いて腑に落ちたことがあります。私は自分の頭の中に思考の部屋をたくさん作っている気がします。たとえば、宇宙について考える部屋、古代文明について考える部屋、言語について考える部屋など。自分自身の内面世界が一つの人格しか存在しないという状況にならないように複数の思考が共存する内的な社会をつくろうとしている気がします。

◎「場所」への固執から
個々人の経験や嗜好性で変わる居場所の概念

伊藤:自分は人より「場所」に固執しているなと思います。家が好きで、反抗期のときも親とも話さないし、姉とも喧嘩しているけれど、家にはめっちゃ帰りたいと思っていました。仙台の実家に帰省しても家にいたいから、友人に会いたくないと思う時もあります(笑)。
祖父の家が千葉県にあり。中2のときに祖父が亡くなり祖母は仙台に来たので、それ以来長らくその家には行っていなかったんですが、大学生のときに何年かぶりに行ってみたら「帰ってきたな」という感覚が残っていた。空き家なのでもぬけの殻なんですが「場所」に対する愛着をたしかに感じました。トポフィリア、場所愛ですね。

樋口:自分は出身が名古屋なんですが、進学で上京し、東中野に住んでちょうど20年。最近ようやくここがホームタウンになったなという感覚があります。それは、まちや商店街のお手伝いをしたり神輿の委員会になったりしたこと、色んなお店の常連になったりして、いつそこに行っても誰かしら知り合いがいることなどが影響していると思います。

増田:20年以上住んだ茨城の実家周辺は今でも帰ってきた感覚がありますね。利根川を渡ったあたりから感じ始めます。もし実家がなくなったとしても、そのエリアに足を踏み入れるとホームにいる感覚になると思います。上京後、東京は市ヶ谷・谷中・三鷹と引越しをして、今は神奈川の鎌倉に住んでいます。どこも好きなまちなんですが、実家付近に感じる居場所感まではいかない。それぞれ住んだ期間が2〜4年とそこまで長くないことやまちとの関わり合いの薄さも関係しているのでしょうか。今の鎌倉は4年目なんですが、住民ではない感覚がずっとつきまとっていてある種「観光客」のような気持ちが抜けないんですよね。その場所に根付き暮らしていこうとする人が住民だとすると、自分はまだ「ちょっと場所をお借りしています」という気持ちがどこかにあるのかもしれません。

細川:私は以前、2年間だけ狛江に住んでいたことがあるのですが、今まで暮らしてきた家の中で、その家が一番ホーム感があったなと。まだ鍵を開けたら開くんじゃないかなと思うし、小田急線に乗ったら狛江に行きたくなる。逆に今住んでいる実家は、全然ホーム感がないんです。それには、家族の変化が関係しているかもしれません。私が知っていた、高校生の頃までの家族とは異なり過ぎている。10年経過しているので家族も自分も歳を取っていて、性格や生活も変化しています。

伊藤:家族の変化は感じますよね。実家を出て東京に出るまではテレビを見ていた母も今ではサブスクやYoutubeを楽しんだりしています。ただそういった変化が自分の家に対する居心地の良さに全く影響しないのは、「場所」に対する固執があるからだと思います。
今は1人暮らしなんですが、今も家は好きです。引っ越しをして、住んで、物を配置したら居場所になります。「なかなかの」も借りているわけですが、ここは家ではなく店です。寝られないから。

西山:引っ越しで家を探すときに家だと認定できる条件は?

伊藤:言語化するのは難しいですが、まずは直感です。これまで横浜、東京・目黒、下北沢に住んで、今東中野に住んでいます。2軒めの家は好きだったんですが、物件的に呪われてる感じがしてちょっと嫌だったんです。でも学生だったし、安いので仕方がないと。そこから脱却したいと思い選んだ今の家は、気がついたら10年前に横浜で住んでいた家と全く同じ工法で作られた積水の家でした。床や匂い、設えやドアを開けるときのふっくら感まで同じだった。
最近感じているのは、チェーン店や規格が決まったもの、均質的・普遍的なものに対して自分はふるさとの感覚があること。日本の原風景である里山のようなものが既にほとんど存在しない状況下で地方の郊外に生まれた身としては、ショッピングモールこそが遊び場だったんです。大学に入学して商業批判や資本主義批判を勉強してショッピングモールのような場所は日本を駄目にするとか言っていたけれど、ファミレスに行けばこの場所いいなという感覚にもなる。どっちも本当の自分で。居場所の話でいうと、スモールスケールの繋がりや人と関わる場所も大事だけど、そういったものから距離を取った大きな論理の中にある商業主義的な空間にも居場所やふるさとを感じてしまう。相反する感覚に最初はジレンマもあったんですが最近はうまく距離が取れるようになってきました。仕方がないよなと思いつつ自分の正気を探していくんですが、いよいよ家を探していても規格が決まったものに惹かれるようになってしまいましたね。
時々恐ろしく感じるのは安心感を求めてチェーン店に行ったのに、経営方針や衛生管理が違うと感じる店があったとき。自分がすり込んできたチェーンという非・場所に、急に場所性が紛れ込むときに心の領域を一番侵されている感じがしますね。

◎場所を場所以上にするために。
自ら爪痕を残すこと

西山:寝られる「場所」があれば居場所になる伊藤さんの感覚に対し、増田さんの話にあった「観光客」のような感覚は私も同じです。「今どこに住んでいるんだっけ?」と聞かれても「◯◯に家を借りています」という返答しかできない。住んでいるという感じがしないというか。感覚としては、家を書斎として借りていますという感じ。住まう場所について意識し始めたのは去年からなので、帰る場所を自分で作るという感覚がそもそもなかったですし、つくった経験がないのかもしれないなと。

細川:帰る場所は、意識的に「つくる」ものなのか、もしくはいつの間にか「なる」ものなのかもしれないですね……。

増田:月日が経つと「いる」だけで「観光客」から「住民」になるのでしょうか。住民になるには市民としての意識や関わりが必要なのかもしれないなと思っていて。樋口さんがまちのお手伝いをしているように、お祭りを手伝ったり、清掃活動などに積極的に関わることで生まれていく。そういう自らが場をよりよくしようとする活動を積み重ねて居場所になっていくのかなと。

西山:マーキングするように、自分で爪痕を残せない場所は居場所にはなりえないという点において、それはまちにも言えることかもしれません。細川さんの狛江の家には、その場所にみんなで集まった記憶や何かをした記憶が重なることで、場所が場所以上のものになっている感覚があるのではと。自分でそこにアクションや変容を起こせていないと居場所という感じがしないのかもと。

細川:「なかなかの」では、お店側がお客さんにとってこの場所がただの場所以上になるような仕掛けを意識的に行っている印象があるのですが、それはどこまで意識しているんですか。

伊藤:基本はみんなが何かアイディアを持ってきて実現できる場所にしたいという思いはあります。M.E.A.R.L.の編集会議をここで公開でやってしまえばいいのではというのも同じで。ただ第2回目の公開編集会議の話と繋がりますが、その場を開き過ぎたときにこの場所を維持できなくなることに対する懸念もあります。なので少しずつやっている。
でも持ち込んでもらうアイデアを実践していく先に、お店が個が個でいられる場所というものとは少し離れてしまうのかなという気はしています。イベントや企画が行われていくと、コミュニティっぽく見えることもあると思いますし、繋がりがあるなかで生まれてきているものもあるので、排他性を作ってしまうのかなと思いつつ。でもそれを作ってしまってもいいのか、などはバランスを考えていますね。

樋口:よく言われる飲み屋の常連問題ですね。他の人が入りづらくなるという。お店側としては一見さんを断っているつもりはないけれども、盛り上がってるのを見ると扉を開けられなくなる。

細川:それこそ誰かにマーキングされている状態ですね。

伊藤:誰かの居場所なんだなと思った瞬間に、自分が発見できる場所ではなくなるというか、自分の居場所にしたくなくなるみたいなことが起きますよね。コミュニティができると店にはいいことが色々あるんです。いろんな企画ができて、熱量みたいなものも生まれるから。それと同時に、コミュニティを分解する祭り的なものもやっていくといいのかなと思いました。個が個でいられるような、再び個に戻すような、個と個を繋ぎ直すような、祭みたいな爆発は、定期的に意図的にやってもいいのかなと。

西山:地球全体における生き物の住処を観察するとヒントがありそうですね。バケツで稲を育てるとボウフラしか発生せず、蚊が大量に発生してしまう。一方で自然界で稲を育てるとそうしたことは起きていないわけです。自然界ではさまざまな生き物が共生することで淘汰されていき、一つの種だけが繁栄するということにはなっていかない。川の流れが速すぎるところには生き物の住処はないけれど、石が1つ置いてあるだけで流れに緩急がつき、水がたまる場所には生物も住み着一方で、完全に流れが封じられているわけではないので水も腐らず澄んでいる。鳥が巣を作る場所もとても考えられているんだろうなと思います。餌を取りに行ける圏内は把握しながら周りの生き物たちの生息環境から程よく距離をとり、自分たちの安全が担保されている場所を選んでいる。
また、場所を「居場所」にするための装置として、私は初めて赴く場所には自分が安心する布と香りを持っていきます。そうすることで初めての場所も安心する場所になるんです。野良猫も似たような行動を取っているなと思っていて、その環境にある特定の場所やものに自らの匂いをマーキングすることで、その場所を自分の居場所にしていく。居場所がない状態から居場所を発生させる方法については、まだまだ議論の余地がありそうです。

伊藤:ミニマルな居場所発生装置でいうと「ピクニック」が気になっています。芝を発見し、ピクニックセットをおくことでその場所をピクニック場に変容させてしまう。

増田:たしかに。ピクニックの分析はまた後日できればと思いますが、居心地のいい場所は自分なりの居心地の要件を認識することで、どこにでも発生させられる可能性を秘めているかもしれませんね。

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