私たちは繰り返している。日が昇ればやがて沈み、365日後にはふたたび春が巡ってくる。細胞は毎日破壊と生成を繰り返し、息を吸っては吐いて、お腹がすけば食事をし、排泄をする。そして右の足を踏み出したら左の足を踏み出し、また右の足を踏み出す。なにもない同じ場所で何度もつまづいたりする。自然の摂理といわんばかりに、私たちは「繰り返し」のただなかに生きている。そして「繰り返す」ことで(生きるという)「活動」が継続・更新され、その繰り返しの連続により、ある種の固有性が徐々に現れていき、多様性が生み出されていく。
本連載は「つづく考」と称して、私たちがくせのように「繰り返している」ことを取り上げながら、終わりなき思考をゆるやかに巡らせる場にしたい。第1回目は「歩く」ことについて。新たなM.E.A.R.L.編集部のメンバー紹介も兼ねて、ひとりひとりの言葉で記しておく。
(*「research」の語源は繰り返し探すこと、探求すること)
Illustration:Kanan Niisato
Edit:Moe Nishiyama
Text:M.E.A.R.L.編集部
「わからないーこうかもしれない」を往復する
私たちが歩く時、ほとんど全ての経験は欠落する。何かを見落とし、聞き逃し、嗅ぎ損なう。かけがえのないものを得たという感覚は十中八九勘違いに近い。しかし散歩はその狂気、こじつけをいつでも許容する。あるいは私の内部で生じるその強烈な結びつきを信じてみたときに、勘違いは真実の一つのありさまになるかもしれない。
「わからないーこうかもしれない」を往復する予測の連続は、歩行を目的地への手段遂行の行為から、歩みそれ自体を味わう狩人の行為へと、身体のはたらきごと組み換える。
いつか誰かが見たかもしれない風景の破片、すなわち記憶の痕跡は、外部空間という事物、あるいはその記録資料に、自ら主張することもなく何らかの形で記銘されている。それを気ままに探す旅人になりたい、もはや記銘されていない、存在すらしたかどうか定かではない記憶までも記述し、それが誰かの歩き直す道になればいい。私は歩くを思い出すことと、歩くを制作することに興味があります。
1994年宮城県仙台市生まれ。カフェ・バーなかなかの店主。Studio Cove代表。ネットプリント「月刊おもいだしたらいうわ」。慶應義塾大学SFC研究所 上席所員。
「視えないものを視る」感覚を呼び覚ます
かつての日本人には妖怪を視る能力があった。絵本や物語で語られる想像上の存在ではなく、暮らしの身近に妖怪はいた。しかし現代人は妖怪を視ることができなくなってしまった。
移動を伴わないコミュニケーションが当たり前になり、オンライン上で顔を合わせることでも「出会った」ことになる現代。本来どこかへ行くということは、歩行して身体を別の場所に移動することである。歩行によって得られるものは、周辺環境からの情報や誰かといればそこで交わされる会話など、たとえ記憶に残らなかったとしても身体が知覚する目には視えない「なにか」ではないだろうか。我々は近代化によってそうした感覚器官を忘れてしまったように思う。歩くという原始的な行動は、現代人が深いところに仕舞い込んでしまった「視えないものを視る」感覚を呼び覚ます。歩くことでしか得られないものがあるから、ぼくは歩く。
ORDINARY BOOKS代表。1987年生まれ。蔦屋書店、BACHを経て2022年独立。出版、流通、販売、選書を軸に横断領域的な本との関りを目指している。出版事業では宇平剛史(著)『Cosmos of Silence』を出版。編集/執筆を手掛けた書籍に『造本設計のプロセスからたどる 小出版レーベルのブックデザインコレクション』(グラフィック社)がある。
https://www.ordinarybooks.com/
人間の思考や街はどう拡張していくのか
海と山のある街に住んでいる。山をひとつ越えると、街に出る。そして海に辿り着く。街と街はつながっている。地図を見れば一目でわかることを再認識しながら歩く。街の境目は意識せずに越えられて、あるのは緩やかな連なり。私たちはどこまでも歩いていけるはず。そう思い、安心する。
人間にとっての移動手段。一番信頼できる“乗り物”が「歩行」だと思っている。旅をする時、インドもアラスカもモロッコも乗り物に乗るとどこに連れていかれるのか分からなかった。だから歩いた。かつての哲学者たちは「歩行」を移動手段ではなく思考手段として重視した。プラトン、アリストテレス、ルソー、ニーチェ、ソロー…彼らは歩きながら対話や熟考を重ね、問いや答えを社会に提言する。現代を生きる私たちは歩きながら大地を踏みしめ、道を観察し、何を考え、何を面白がり、どんな実験をするのか。それによって人間の思考や街はどう拡張していくのか。どこにでも行けるはず。私はそれを観てみたいと思っている。
ライター・編集者。1989年茨城県生まれ。大学では教育分野の哲学プラクティスを学ぶ。創業1年目のベンチャー企業に参画し、イベントや広告企画の進行管理を担当。その後本や言葉の領域に携わるために、奥渋谷の「SPBS」を経て、フリーランスに。価値観や思考、感情をはじめとする「無形」のものを「有形」に浮かびあがらせるための編集執筆、進行管理、ファシリテーションを行う。インディペンデントマガジン『ELEPHAS』の編集・執筆。
読むことに近いかもしれない
私はなぜ歩くのでしょうか。問われてはじめて、考えてみました。でも、わからないのです。考えた結果、歩くことに理由はないなという結論に達しました。
私が歩くとき、私の心は「今は歩かなきゃ」という気持ちを発するのです。
例えば、この文章を書いている晴れた日。春の太陽のぽかぽかとした暖かさと、肌に触れる、まだ冷たさが残った風が気持ちのいい季節です。こんな日は、普段電車に乗って移動してしまう二駅も、社会の時間の速さを無視して歩くのが吉です。
また例えば、ミニシアターで静かながらに心の奥まで突き刺さる映画を観た夕方。夜に向かう深く青い空から、しとしとと雨が降っています。まだ気持ちは映画の中にあって、都会の景色はフィクションに見えます。まだノンフィクションの世界に帰っていきたくないとき、私は物語と現実のあわいを歩きます。
こうやって書いていると、私にとって歩くことは、読むことに近いかもしれないと思いはじめました。読書も歩くのも、目的があってするときもありますが、その行為自体を楽しんでいるときはいつも、それをする時間をたゆたうように、目的なくただゆらゆらと、道や文字の線の上を進んでいるのです。そして無意識のうちに、そこで出会ったものごとは、私の中に染み込んでいるのです。
編集者。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業。2018年に301 inc.にジョインし、代々木上原〈No.〉の立ち上げなど「飲食×デザイン」の領域で企画、PM、ディレクションなどを経験。その後BRUTUS.jpを経て、フリーランスとして広義的な編集の観点から、「人と人/人とこと/人と場所」の関係性を探求している。色、香り、音など、五感(またはそれだけではない感覚)を丁寧に観察し、言葉や体験の表現にすることに興味がある。1日の平均歩数は12,000歩。