Text:Shun Takeda
Edit:Akira Kuroki
周縁としての西武線
昔から、中央よりもその周辺、より実際的に言えば周縁的なものに惹かれてきた。アカデミズムよりもサブカルチャー、大都会よりも路地裏、巨人よりも中日、メインの惣菜よりも小鉢……そして、山手線よりも西武線なのだ。
最後のほうはちょっと苦しいが、あの愛らしいまでのいなたさを漂わせる黄色い西武線の車体と町のことが、ぼくはずっと好きだった。ここで西武線と呼んでいるのは、つまり池袋駅を起点に吾野駅までを結ぶ西武池袋線と、西武新宿駅から本川越駅までの西武新宿線の2つの路線のことである。
好きな理由はいくつかあるが、ごくごく個人的な体験として、上京してはじめて住んだ町が西武新宿線の沼袋駅だったことが大きい。近くを走るある種のブランド路線としての中央線とは異なり、西武新宿線沿線の町には、外から遊びにくるような人が少ない。必然的に商店街には生活必需品を売るような店が多かった。部屋着とまでもはいかないにしても、着の身着のままで飲みに出るような人も目立って、町全体に心地よい地方都市感がたゆたっていた。
西武線的なるもの
そしてやっと登場させられるのが、2017年に読んだ中でもっとも自分にとって大切な作品となった滝口悠生による初の長編小説『高架線』である。西武池袋線の東長崎駅から歩いて5分ほどの場所にあった古アパート「かたばみ荘」の住人をめぐるこの物語は、地味といえば地味。だけど魅了されてしまった人ほど、その奇妙な魅力を語りたくなってしまう作品なのだ。
本作では、「かたばみ荘」の住人が順々に登場し、住んでいた頃の出来事を話しはじめる、という形で構成されている。というのもこのアパートは、なぜか大家が「紹介制」を採用しており、退去希望者は次の入居者を紹介しなければならない。そんな紹介制さながらに、元住民たちが順番に登場してくる。そこで読者は立ち止まってしまう。その登場人物たちは各パートごとに、フルネームで名乗りを上げてから物語をはじめるからだ。そこでは、口語と文語が混ざり合い、ここちよくも奇妙な混乱を与えてくれる。
武田俊です。
こんなパートの繰り返しによって書かれているわけで、他愛もなくマネをするようなものではない。しかし、ついやってしまいたくなる文体なのだった。そんな『高架線』に、心をつかまれてしまった理由について、読み終えた10月23日から考えていた。考えていた、というよりも、空いた時間がやってくると、ついそのことについて半自動的に思いを馳せてしまうような不思議な感覚だった。
演劇的だなあと思ったり、しかしでも小説だな、と当たり前のようなことを考えているのが心地よく、今日まで他人のレビューや批評を見ることをしなかった。そういう読後感はここ数年の読書傾向からは得難かったもので、かつ長年ぼくが大切にしてきた小説における読書感覚のような気がした。
近いような読後感だと感じるその他の作品の名前を、手元のノートにリストアップしながら、この小説の主人公はいったい誰なのだろうと考えた。トップバッターとしてその生活について語り始める「新井田千一」なのか。それとも作中で起こるある事件の当事者である人物なのか。もっとクールに考えて、「かたばみ荘」そのものと答えるべきなのか。後者がもっとも正しいようでいて、でもそう判断するのも安直な気がした。
東長崎という町が主人公なんじゃないかと思った。しかし、と思う。そこまで町の隅々が具体的に紹介されるわけではないし、その他の町も登場する。芯をとらえたようなしっくり感がない。そうではなく、ここで描かれているのは、「西武線的なるもの」なのではないかと考えた。メインストリームではない、やや日陰に近い側にありながらも、だからこそ独特な愛らしさを感じさせてしまうもの、風景、町、人物たち。彼らの生活の場としての、「西武線的なるもの」。
ぼくにとっての西武線は、すなわち西武新宿線だった。だからたまにわざわざ乗って降り立ってみた西武池袋線の町なみは、平行世界のそれのように感じていた。知っているのに、知らない町。西武新宿線と西武池袋線の差を思って、ふと、線路が高架化されているか否かだ、と気がついた。西武池袋線の方が早くに高架化されていって、新宿線ユーザーは少しうらやましく思ったものだった。
『高架線』というのは、とてもいいタイトルだと思った。
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