映画や書籍など様々な作品を通じて得た「町」や「まちづくり」に関する着想をレビューする本企画。第5回目は、ライター・須賀原みちによる、バンド・GOING UNDER GROUNDのメジャー1stアルバム『かよわきエナジー』について。
Text:Michi SUGAWARA
Edit:Shun TAKEDA
今年20周年を迎えたロックバンド・GOING UNDER GROUND(以下、ゴーイング)は、どこにでもある街を、そんな街の中で息づくちっぽけな日常を歌ってきた。
メジャー1stアルバムとなる『かよわきエナジー』だけを見ても、ある日、忘れ物をとりに行くと、街風が唄い、汽車に乗り名も知らぬ街へ行き、思いが交わる街並みは雨で揺れてる。ただ10メートル先を抱きしめたくて、ツギハギの黒い車から鮮やかな夜明けを知り、僕には少し広すぎるこの街でいつでも笑っていようと思い、ロンドンでも香港でもどこでもない何千の夜を越えて行く。君の住む街が見えてきて、夕暮れは僕の息の根をとめる程、赤く近くもえる。きっと僕の住むこの街は夕暮れでできている。「会いたい気持ちが雨になって君の街で虹になれば」「楽しい夜よはじまれ」と祈る。
初期にまとっていた「青春」というイメージを脱ぎ捨てた今でも、その愛おしむような眼差し自体は変わっていないように思える。
街に流れる“かよわきエナジー”
夕方に電車の窓から外を望むと、連なる民家や集合住宅にはポツポツと明かりが灯っている。そのすべてに人がいて、ドアを開ければそれぞれの家庭や生活、ひいてはそこで暮らす人の数だけの人生があるという事実に圧倒されることがある。
近年では、『夫のちんぽが入らない』や『死にたい夜にかぎって』(共に扶桑社)のような私小説が話題となったり、テレビバラエティ『家、ついて行ってイイですか?』や『Youは何しに日本へ?』(共にテレビ東京)が人気を博していたりと、乱暴に言えば、「そこらへんにいる、なんでもないような人の人生を知りたい」という欲望が渦巻いているみたいだ。SNSは人々のとりとめのない写真やつぶやきであふれているし、『断片的なものの社会学』(朝日出版社)なんて本もある。僕と編集者の友人は、そういったものを暫定的に「ナノ・ドキュメンタリー」と呼んでいる。「ナノ」とは、十億分の一の単位のことだ。
その背景には、価値観やライフスタイルが多様化し、ダイバーシティ(多様性)を重視する中で、隣人だったり街ですれ違う人、ときには友人について、僕らがほとんど何も知らないことへの反動があるような気もする。
みんな、別段人に話すまでもない思い出や感情を抱え、街はそんな“かよわきエナジー”を今日も湛えている。
誰しもが抱えている、小さな物語
僕には毎年、必ずゴーイングのアルバムを聴くタイミングがある。学生時代、一緒に組んでいたバンドメンバーの墓参りへ行く時だ。バンドではゴーイングの曲も何曲かコピーしていた。メジャー2ndアルバム『ホーム』の発売日、体育祭の練習を抜け出して、まだ残暑の日差しが厳しい中、そいつと二人で街のレコードショップへ走っていったことを今でも記憶している。
当時のバンドメンバーと連れ立ってそいつの墓参りに行く時には、道中でいつもゴーイングを流す。海岸線に沿った国道を走りながら、左手には当時みんなで遊びに行ったそいつの地元の海が開ける。学生時代、俺らがどれだけバカだったかなんて思い出話をしたり、家庭を持ったり転職したりと忙しそうにしている最近の話なんかをしながら、車は走っていく。
ミニアルバム『思春期のブルース』の一曲目「RIDE ON」が流れる。ギターから始まり、ドラム、ベース、キーボードと、徐々に音が重なっていくイントロ。あの頃、そいつの結婚式の二次会でこの曲を演奏しよう! なんて盛り上がってたことを思い出す。毎年そんな同じようなことを話しているけれど、やっぱりいつも少し泣きそうになってしまう。
今年はみんなの予定がうまく合わず、まだ墓参りに行けていない。ゴーイングを聴くと、早く行かなきゃな、と思う。そんな僕のナノ・ドキュメンタリー。取るに足らない、街のいち風景。
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【編集部より】
ーー「M.E.A.R.L」では近日、GOING UNDER GROUNDのフロントマン・松本素生さんのエッセイ連載を開始予定。連載タイトルは『降りたことがないのになつかしい町』。ご期待ください。
GOING UNDER GROUND オフィシャルサイト